【古代】平原遺跡出土の日本最大の銅鏡 複製品を制作者遺族が糸島市に寄贈 福岡

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001ごまカンパチ ★2018/06/07(木) 22:32:28.94ID:CAP_USER9
https://mainichi.jp/articles/20180604/ddl/k40/040/201000c
 糸島市にあった伊都国の王墓と考えられる、弥生時代終末期の遺跡「平原(ひらばる)遺跡」から出土した国内最大の銅鏡
「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」(直径46・5センチ)の実物大複製品が3日、制作者の故上田富雄さんの遺族から市に寄贈された。
同市井原の市立伊都国歴史博物館に展示公開される。

 実物大だが約2キロ重い10キロで、台座を入れた高さは96センチ。制作者の上田さんは大阪で銅合金鋳造業を営んでいた。
1996年に島根県の加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸(どうたく)を見て古代人の技術の高さに驚き、複製作りを始めた。

 内行花文鏡は平原遺跡の発掘調査をした考古学者、故原田大六さんの遺族の依頼で制作。
上田さんは2015年に78歳で亡くなる前に「いつか複製の銅鏡を糸島に返したい」と話していたといい、その遺志により寄贈された。

 伊都国歴史博物館での受贈式には遺族の上田恵美さんや月形祐二市長らが出席。恵美さんは
「銅鏡を糸島に返すことができ、亡くなった義父も義母も喜んでいると思う」と語った。

0041名無しさん@1周年2018/06/09(土) 14:13:18.33ID:U4Nzi7yQ0
>>40
まあ金属はどれも貴重だった時代ですから

0042通りすがりの一言主2018/06/09(土) 14:30:33.22ID:feAPOUZ10
あれ、今本屋にいるけど、海部、尾張氏系図に9代に日女命、11代に日女命(別名 小止与命)がいて
9代目が卑弥呼、11代目が台与じゃないか?と書いてる本があるな。

0043名無しさん@1周年2018/06/09(土) 14:36:17.03ID:MCiRwdVq0
>>42
福岡には海部って土地があるからそこから全国に散っていったのかね
渥美半島の名も安曇族からだというし

0044名無しさん@1周年2018/06/09(土) 14:50:11.50ID:g3ImojB10
複製品なんていらんだろ
数年後に廃棄したとかで揉めそう

0045名無しさん@1周年2018/06/09(土) 14:55:33.86ID:sA8k6ZoX0
写真無いやん

0046名無しさん@1周年2018/06/09(土) 15:39:27.88ID:AsvlrGqv0
装飾品からして卑弥呼だろうな。
鏡は50枚くらいだっけ。
他は近畿勢力に盗まれた複製されたんだろ

0047名無しさん@1周年2018/06/09(土) 15:43:58.54ID:sA8k6ZoX0
(お、来た来た)

0048名無しさん@1周年2018/06/10(日) 15:06:08.49ID:dp+mx9/i0
.
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。

0049名無しさん@1周年2018/06/10(日) 23:15:21.18ID:zybfFX850
>>48
せめて根拠を書けや

0050◆HKZsYRUkck 2018/06/10(日) 23:26:22.94ID:ikE/KNd90
>>49
バルと言えば西洋の飲み屋。
根拠ではないが、隠居になったら通いたい。

0051名無しさん@1周年2018/06/11(月) 00:20:50.12ID:ZdVXAuCa0
邪馬台国山形説

0052名無しさん@1周年2018/06/11(月) 00:24:48.34ID:Thj0G8Uq0
>>11
壇ノ浦で安徳帝と一緒に海の中だからな

0053名無しさん@1周年2018/06/11(月) 00:28:28.20ID:Thj0G8Uq0
>>39
今の皇室は四国から機内
九州は単なる通過点

0054名無しさん@1周年2018/06/11(月) 00:39:26.09ID:GtbiRTvN0
毎度のことながら田舎モン必死w

0055名無しさん@1周年2018/06/11(月) 00:59:39.28ID:RZguRpd60
>>53
記紀にも旧唐書にも九州(委奴国)て書いてあるのに
どうしてその結論になるんだよw

0056名無しさん@1周年2018/06/11(月) 01:19:16.04ID:6rZZQ2Nr0
すげーな伊都国

0057名無しさん@1周年2018/06/11(月) 01:22:04.30ID:YJRqe0H80
ゴットハンドの作品展かよ

0058名無しさん@1周年2018/06/11(月) 03:16:22.08ID:4coBpKMs0
考古学というのは主観と偏見に支配されてる虚しい学問だな

0059名無しさん@1周年2018/06/11(月) 07:29:05.77ID:zHA5ioHX0
>>36
やはり平原は卑弥呼の墓だったか

0060名無しさん@1周年2018/06/11(月) 07:31:54.34ID:yJCrs6K60
まあこれが卑弥呼の鏡なんだろうな

0061名無しさん@1周年2018/06/11(月) 07:38:41.41ID:8f40khQQ0
>>51
出倭の国か

0062名無しさん@1周年2018/06/12(火) 14:17:23.28ID:AV5sWbxE0
出土した破砕品の銅鏡をきちんとくっつけて修復しているから複製品は無くても
良いとは思う。普通の銅鏡と比較したら桁違いに大きいから実物見たら驚くぞ。

0063名無しさん@1周年2018/06/12(火) 14:25:47.08ID:uCJg6A7N0
これだけの大型の?製鏡は平原が今のところ最初で、後の時代の古墳にもこの方式が継承されてる
平原の勢力と後の畿内勢力に何らかの繋がりがあると考えるのは自然だろうな

ただ大型?製鏡以外の面では非平原的要素が大部分を占めているので、多くの構成要素の一部分程度として解釈するのが無難だろう

0064名無しさん@1周年2018/06/12(火) 14:53:00.46ID:AV5sWbxE0
倭人伝には邪馬台国の東には海があると書かれているから卑弥呼のいた邪馬台国は
九州東海岸であって伊都国では無い、倭人伝を読んでも伊都国に卑弥呼が居たとは
一言も書かれてはいないから平原遺跡は卑弥呼以外の伊都国女王もしくは
伊都国王の妃の墓だろう。

0065名無しさん@1周年2018/06/12(火) 15:00:28.57ID:uCJg6A7N0
記紀や風土記等を見ると九州の豪族が降伏する際に鏡を差し出している記事が見える
大型?製鏡を同盟や降伏の証として譲り渡して畿内がそれを使っていると言うことかもしれないな

0066名無しさん@1周年2018/06/12(火) 15:07:57.88ID:KuXw/a9J0
(´・ω・`)・・・原田大六さんも泉下で喜んでいるだろうな

0067名無しさん@1周年2018/06/12(火) 16:22:11.98ID:8VTvdPOSO
>>64
卑弥呼は連合国の女王だから地元に葬られたとは限らないよ
中国との関係重視で窓口だった伊都国に埋葬した可能性は十分にある
上で言われているように小国だった伊都国の女王にしては副葬品が豪華過ぎるし

0068名無しさん@1周年2018/06/12(火) 16:40:31.86ID:AV5sWbxE0
>>67
自分の住んだ事が無い地に埋葬されるはずが無い、お前は常識の欠片も無い
考古学を学ぶ才は無いから考古学に首を突っ込むのはやめた方が良い

0069名無しさん@1周年2018/06/12(火) 16:44:28.43ID:pUsh5B6F0
伊都国の墓は卑弥呼の親族説もあるし、卑弥呼とは言い切れないけどいずれにせよ他に例がない貴重な墓と埋葬物なのは間違いないやろ

0070名無しさん@1周年2018/06/12(火) 16:47:27.74ID:lMtd3BOM0
チョンに盗まれないように本物の方は厳重に管理しろ

0071名無しさん@1周年2018/06/12(火) 17:01:46.70ID:uCJg6A7N0
平原の周辺との孤立と影響力の無さを見るとここに倭の中心点があったとは考えにくい
邪馬台国前の九州の倭王の所在地だろう

0072名無しさん@1周年2018/06/12(火) 19:31:14.68ID:Evs6x74U0
レス少ないけど、罵り合いのない邪馬壹国スレいいな
俺は九州説で、今まで畿内説を煽りまくっていたけど反省した

0073名無しさん@1周年2018/06/12(火) 20:23:03.74ID:U+UCTtJ20
>>68
論理的に反論できず罵詈雑言を並べるだけの君に学問を語る資格は無いよ

0074名無しさん@1周年2018/06/12(火) 20:45:16.54ID:Evs6x74U0
畿内説カルトだっせぇぇwww
平原に恐れをなしてだんまりかよwwww

0075名無しさん@1周年2018/06/12(火) 20:50:07.38ID:uCJg6A7N0
平原のシンボルともいえる超大型内行花文鏡は、ここのオリジナル的な鏡で大陸とも畿内とも異なっている
それよりも少し小さい大型内行花文鏡は大陸や畿内の鏡と同系統の物となってる

超大型は伊都国専用で、一般的な形の大型内行花文鏡は畿内に広がっていると言う図式になっている
また畿内等で見つかる大型内行花文鏡などの大型?製鏡は、平原の超大型よりも小さい物しかない

しかし単純に平原を上位と見てるかと言えば、この当時の平原の勢力を見るにそんな実力があるとも思えない
この判断は難しいところ

0076名無しさん@1周年2018/06/12(火) 20:50:48.96ID:AV5sWbxE0
>>68
卑弥呼の墓の可能性が高い宇佐神宮の亀山古墳が未調査なのでそちらの方が
卑弥呼の墓の可能性が高い。平原古墳の出土品は大したものだがそれはそれ
倭人伝の記述とは大きく違っているから卑弥呼の墓と断定するのは無理。

0077名無しさん@1周年2018/06/12(火) 20:53:29.16ID:FXNieRRO0
>>11
陛下ですら見るのを許されないって知ったときはさすがに驚いた
本当にあるのかね?

0078名無しさん@1周年2018/06/12(火) 20:57:50.96ID:Zyxyi8wh0
>>4
あほや関東人

0079名無しさん@1周年2018/06/12(火) 21:01:31.03ID:uCJg6A7N0
>>77
この前三個全部そろって移動してた
箱に入れて持って歩いてたから一応実在はしてるらしい
数少ないが目撃例の記録もある
剣はカツオの骨みたいな形、鏡は神話にある傷もついてるとか、玉は拳くらいあったとかなんとか

固定資産税もかかるそうだw

0080名無しさん@1周年2018/06/12(火) 21:08:12.82ID:uCJg6A7N0
>>79自己レス
固定資産税じゃなくて贈与税だった
生前退位だと掛かると掛からないとかの話になって特別法で無しにしたと言う話

0081名無しさん@1周年2018/06/12(火) 21:08:52.83ID:AV5sWbxE0
宇佐の亀山古墳は大正と昭和の宇佐神宮大改修の時に古墳の入り口まで見えたそうだが
その時の作業員は神社の神職から見た事を口外するなと口止めされている
要するに皇室の暮稜と同じような扱いをしている。
伊勢神宮と宇佐神宮を2所宗廟と呼ぶのも理解出来る。

0082名無しさん@1周年2018/06/12(火) 21:26:46.92ID:FXNieRRO0
>>79
特に剣と鏡の保存状態が気になるけど神器ってものはサビ落ちて原型とどめなくなってもいいのかもな
そういう意味ではだれも実体を見れない現状の運用は正しくすら思える
このまま1000年経っても何も変わらない唯一の手段かも

0083名無しさん@1周年2018/06/12(火) 21:27:33.84ID:ciCx6nEw0

0084名無しさん@1周年2018/06/12(火) 21:29:51.16ID:uCJg6A7N0
銅で出来てるなら鉄と違って酸化しにくいから封印してたらかなり維持できるだろう

0085名無しさん@1周年2018/06/12(火) 21:30:19.16ID:AV5sWbxE0
三種の神器とは剣、鏡、勾玉の事を指し
.弥生時代後期に副葬品として三種の神器が全部揃って出土した古墳は総て北部九州で
吉武高木遺跡(福岡市西区)三雲南小路遺跡(糸島市)井原遺跡(糸島市)
須玖岡本遺跡(春日市)平原遺跡(糸島市)の五カ所のみ。
古墳時代になったら奈良の遺跡でもようやく三種の神器が出土するようになった。

0086名無しさん@1周年2018/06/12(火) 21:39:00.91ID:uCJg6A7N0
弥生時代に九州が他地域に先行して多くの鏡や鉄を出土させている事
畿内はそれに比べて鏡や鉄に関してはほとんどゼロに等しい状況のはどの説であろうが変りはない
九州には後漢と交流のあった奴国が存在していたこともほぼ疑いの余地もない

問題は肝心の邪馬台国の時代を境に「それまで何もなかった」畿内が鉄、鏡を急激に出土させる点にある

「何もなかった」は「突然増えだした」と言う状況をより強調する点になる事にこそ留意すべき
弥生時代を通じて多い、先行的だったと言う点に大した意味はない

0087名無しさん@1周年2018/06/12(火) 21:45:34.44ID:uCJg6A7N0
そもそも九州は肝心の邪馬台国前夜の弥生時代後期後半になると鏡の出土量が激減する

中国鏡はほぼなくなり、小型?製鏡、破鏡が中心となり、かつてのような大量副葬墓も平原を最後に無くなる
その平原も中国鏡はほとんど存在せず?製鏡が主体となっている
出てきているとされている鏡も殆どすべて4〜5世紀の古墳出土鏡だと言うことも踏まえて資料を考えるべきだろう

そうなると鏡の量と言う点に関していえば邪馬台国の時期を境に九州は減り、畿内が増えるという図式が見えてくるのが分かる

0088名無しさん@1周年2018/06/12(火) 21:45:55.77ID:U+UCTtJ20
>>79
八咫鏡は伊勢内宮の火災でオリジナルは焼失して今あるのはレプリカと思われる
八咫鏡は樋代という器に収められているが、この樋代のサイズがかつては平原と同型の超大型鏡が
ぴったり入る大きさだったのがある時から突然小さくなっている
現在の樋代のサイズでは八咫(=直径約46センチ)の鏡は到底入らない
http://yamatai.cside.com/katudou/image/330-02_2.gif

0089名無しさん@1周年2018/06/12(火) 21:55:25.06ID:uCJg6A7N0
>>98
焼けた焼けないの話も資料が錯綜してるね
正直分からないね

あと「八咫鏡」ってのは伊勢の鏡だけを指す言葉じゃない点も重要
意外とみんな知らないけど風土記等の史書にも割と当たり前の単語として現れる
八咫鏡「数枚を」神にささげたとか言う記事も出てくる
単に「大きい」「立派な」と言う意味でも使われる

だから八咫鏡と言う言葉が出てきたからと言ってあまり早合点しない方が良い

0090名無しさん@1周年2018/06/12(火) 21:58:19.27ID:U+UCTtJ20
>>87
>そもそも九州は肝心の邪馬台国前夜の弥生時代後期後半になると鏡の出土量が激減する
それは中国で鏡の生産が減ったせいだよ
中国の銅鏡研究の第一人者である王仲殊氏によると後漢末以降は戦乱により中原の鏡生産は衰退していたとのこと

http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page029.html
> 13.後漢の末年に大規模な戦乱が勃発したために、中原一帯の人口は激減し経済は疲弊した。考古学的に見ると、
> この時期に黄河流域で出土する銅鏡は数も少なく、その種類も、後漢中期様式のものに限定される。
> 14.また、洛陽などでは、当時作られていた新様式の鏡が多数出土するが、その種類は、いわゆる「位至三公鏡」に限られ、
> 形式や文様は双頭龍鳳文鏡を受けてはいるが、大きさは小さく作りも粗雑である。これは銅鏡製造業の凋落を物語る。
> 18.しかし、西晋の滅亡にともなって、黄河流域の銅鏡鋳造業も衰亡へと向かい、行き詰まりの状態になった。

補足すると中国の銅山は三国時代には呉の領域に集中していて、魏は深刻な銅不足に陥っていたんだよね
だから洛陽の銅鏡生産は衰退したってわけ

0091名無しさん@1周年2018/06/12(火) 22:03:48.92ID:U+UCTtJ20
>>89
>風土記等の史書にも割と当たり前の単語として現れる
当たり前?聞いたこと無いな
例えばどの史書に出てくるの?当たり前なら3つくらいは挙げられるよね?

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています