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Wikipedia脳のバカの為の若干の認識論哲学の説明:

ミーゼスは合理主義哲学者により伝統的に公式化されていた制限を踏まえて経済学的命題は二つの必要条件を満たさなければならないと言及する。
第一に、それはそれらが観察に基づいた証拠から引き出されるのではないと論証する事が可能でなければならない、
なぜなら観察に基づいた証拠はそれらが偶然そうである事を明らかにする事が出来るだけだからである、
つまり、なぜ物事がそれらが現存する方法でなければならないのかを示す事はその中に何も存在しないからである。
その代わりに経済学的命題は必ず内省的な認識に、対象を知っているものとしての我々自身に関する我々の理解に基づいていると示されなければならない。
第二に、この内省的な理解は自明の本質的な公理として若干の命題を生み出さなければならない、
これはこのような公理が心理的な意味で自明でなければならないと言う意味ではない、
つまり人はそれらに関して直接的に感じていなければならないと言う意味やそれらの真理性が心理的な確信の感覚に依存すると言う意味ではない。
反対に、彼の前のカントと同じ様に、ミーゼスは例えば木の葉っぱは緑であるとか私は6フィート2インチである等の若干の観察に基づいた真実を発見する事よりも
このような公理を発見する事は通常より多く骨が折れると言う事実を強調する。
むしろ、それらを自明の本質的な公理にする事は、それらを否定する事を試みる際に、人は既にそれらの正当性を前提としていると言う理由で、
誰も自己矛盾に陥る事無しにそれらの正当性を否定する事は出来ないと言う事実である。

Hans-Hermann Hoppe,The Economics and Ethics of Private Property.
Hans-Hermann Hoppeはアメリカ合衆国を代表する自然法哲学者、経済学者、社会学者の一人である。
彼はドイツでユルゲン・ハーバーマスに師事し、その後にアメリカ合衆国でマレー・ロスバードに師事した。

立論は浮遊する命題から成るのではなく希少な資源の使用を必要とする行動の形式であると言う事に、
そして更にある人が命題の交換に従事する事により選好を証明するその資源は
私有財産のそれらであると言う事に注意しなければならない。
何しろ、もし自分の物理的な身体の排他的な使用を行う権利が既に前もって推定されていなかったならば、
誰も何も提案する事は出来ない、そして誰も論争的な手段により何らかの命題から説得される事は出来ない。
人は言われている事について異議を唱えるかも知れない一方で、少なくとも意見の相違が存在する事に関してはまだ同意する事が可能であると言う
命題の交換の代表的な特徴を説明するのはこの自分自身の身体に対するお互いの相互に排他的な支配の認識である。
そして同様に、このような自分自身の身体に対する所有権は先験的に正当化されると言われなければならないのは明白である。
どんな内容であれ何らかの規範を正当化する事を試みる人は誰でも単に"私はこれこれしかじかを提案する"と述べる為に
既に彼の身体に対する排他的な支配の権利を前提としなければならない。
そしてそれ故に、このような権利に異議を唱える人は誰でも、そう主張する人は既に彼が異議を唱えている
その規範自体を暗黙の内に受け入れていると言う理由で、実践的な不一致に陥る事になるだろう。

更に、もし自分の身体の他に開拓行為を通して、言い換えると、その他の誰かがそうする前にそれらを使用する事により
その他の希少資源を自分の物にする事を許されていなかったら、そしてもしこのような資源、
そしてそれらに関する排他的支配の権利が客観的で物理的な条件で定義されていなかったら、
少しの間でも立論を維持する事も自分の主張の命題の力を当てにする事も等しく不可能であるだろう。
もし誰も彼自身の身体を除いて、全く何も支配する権利を持たないとしたら、
その時は我々は皆死ぬので規範を正当化すると言う問題は単純に存在しないだろう。
なので、生きていると言う事実の為に、その他の物に対する所有権は妥当である事が前提とされなければならない。
さもなければ生きている誰も主張する事は出来ない。

Hans-Hermann Hoppe、The Ultimate Justification of the Private Property Ethic.
Hans-Hermann Hoppeはアメリカ合衆国を代表する自然法哲学者、経済学者、社会学者の一人である。
彼はドイツでユルゲン・ハーバーマスに師事し、その後にアメリカ合衆国でマレー・ロスバードに師事した。 31165487