【歴史】青函連絡船廃止から30年 最後の出港時刻に汽笛
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3月13日 20時05分
本州と北海道を結んでいた青函連絡船が廃止されてから13日で30年になります。青森港ではかつて青函連絡船として使われ、今は観光施設となっている「八甲田丸」の汽笛が、当時、最後の航海に向けて出港した時刻にあわせて鳴らされました。
青函連絡船は青函トンネルが開通したことで30年前の13日、本州の青森港と北海道の函館港を結ぶその役割を終えて廃止されました。
13日は当時、函館に向かう最後の青函連絡船として使われ、今は青森港に係留されて観光施設となっている「八甲田丸」で記念行事が行われました。
この中では、操だ室で出港を告げるどらが鳴らされたあと、当時、最後の航海に向けて出港した午後5時14分にあわせて汽笛が鳴らされました。
また、当時の出港時と同じように船内に「蛍の光」の音楽が流され訪れていた人たちは懐かしそうな様子で聴いたり、行事の様子を写真に収めたりしていました。
八甲田丸の元機関長で、最後の航海に乗り組んだ葛西鎌司さん(73)は「もう30年がたったのかという思いです。出港の様子が再現されているのを見て、当時の緊張感を思い出しました」と話していました。
連絡船の活躍 語り継ぐ活動も
青函連絡船の元乗組員などでつくる団体「青函連絡船史料研究会」は、年に数回、首都圏で講演会を開くなどして、連絡船が果たした役割や当時の活躍ぶりを語り継いでいます。
今月10日には、団体のメンバーの元乗組員などが東京・品川区の「船の科学館」に集まりました。
メンバーは今月17日に科学館で開く講演会に向けて、模型などの展示物を確認する作業を行い、最終便に掲げられた乗組員お手製の横断幕も広げていました。
連絡船の元船長、西沢弘二さん(78)は「もう30年がたったかという思いです。連絡船は私の人生そのものでした」と話し、団体の事務局を務める大神隆さんは「若い人たちにも興味を持ってもらい、連絡船の魅力を後世に伝えたい」と話していました。
17日の講演会では、最終便の乗客にも参加してもらい、思い出を語り合うということです。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180313/K10011363561_1803131955_1803131959_01_02.jpg 青函トンネル開通後も夏くらいまで連絡船は運行してなかったっけ? 石川さゆり「やべぇ今年の紅白は天城越えの年なのに」 てことは俺が修学旅行で北海道を脱出した年が最後だったのか
全然知らんかったわw 平成入ってちょっとして廃止になったと思ってた
最後の年だったのに他の学校は殆ど飛行機だったのはちょっと切ないな
でも往復二泊分浮くからやっぱ飛行機だわな >>2
定期運航は青函トンネル開通と同時に休止して、夏のは暫定運航だったんだってさ >>2
青函連絡船はJRだからダイヤ改正と同時に廃止
そんな中途半端なことはしない もうそんなになるのか
友達のお父さんが船長してたわ 新幹線全力で走らせる為に復活だなと思ったけどトンネルの老朽化が酷い見たいね。 青函連絡線というのは国鉄が鉄道の代わりに運行していた船舶の事 >>10
船という点において共通部分はあるけど、
鉄道連絡船は鉄道車両(主に貨車)を積載して運航していたのと、前後の国鉄(JR)運賃が通算できた点において民間フェリーと異なる。 >>5
このおばさん和田アキ子と変わらねーだろ。それなのに毎年出て不公平だろ
和田アキ子の方が3曲ヒット曲あるのに >>13
フェリー内に線路が敷いてあるのはある意味衝撃的
かつては稚泊連絡船なんてのもあったんだよなあ >>18
ナッチャンReraとナッチャンworldを運航してたのは東日本フェリー→津軽海峡フェリーという民間航路 >>8
>>7が正しい。当時の雑誌にも載っていた。あのときのJRは今と違って夢があった。 人生初の船が青函連絡船だったな
修学旅行で函館へ
青森の小学校の修学旅行は青函連絡船で函館だったんだよ当時は今は知らないけど >>23
何気にうらやま
この前、津軽海峡フェリーってのに乗ったけど
石川さゆりの「津軽海峡冬景色」はこの船では味わえなかった。
自分は西日本に住んでたから青函連絡船に乗る機会無かったんだけど
乗りたかったな。 連絡船の廃止と青函トンネル開業、しばし後のエアドゥ開業の流れで空路が身近な価格に落ちてきた気がする >>23
下北郡生まれですが、私の場合は青森→弘前→奥羽線→青函連絡船→函館→大間行きの東日本フェリーの道程だった。 >>6
ていうか当時の飛行機は航空運賃が自由化される前で高かったし >>29
いや、札幌なんだけど飛行機を使わんかったのはうちの高校含めて数校くらいだったんだよ
なので飛行機の方が料金高かった当時でも移動時間短縮=あちこち回れるメリットを取った学校が多かったって話
札幌〜東京から新幹線で京都〜奈良で26時間。帰りは大阪から札幌まで28時間車中・船中がどれだけ無駄か 夏休み期間の復活運航はなかったことにされているのか? >>24
これっぽっちの情緒も無いのでOKE
フェリーや航空機は風景が愉しい
トンネルったら地下鉄だもん( ̄Д ̄ )/ 函館市が(当時)運輸省と国鉄・JR北海道とやりあって、1988年6月3日から9月18日まで一日2往復運航
使ったのは、「羊蹄丸」・「十和田丸」(ともに二代目) それは「やりあって」ではなく「かけあって」ではないのか? >>35
やりあってのほうが正しい
分割民営化時の弊害で船舶要員が不足し、退職者(多くは定年退職者)を再雇用して穴埋めするしかない状況だった(JR直前にはそれが現実化してしまった)
あと自動車で言う車検期限があり、運航日数に制限があった
なので、(当時)運輸省と国鉄・JR北海道は拒絶したものの、造船不況が直撃していた函館市はもう後がない状態で交渉して、どうにか暫定運航を「勝ち取った」
ちなみに函館側の記念博会場(パンダでない方)は函館ドック内に作られた >>7
>>8
>>34
青函トンネル開通当日も連絡船は運航していて、自分は津軽海峡線初乗りし吉岡海底駅を見学してから
連絡船(十和田丸)最終便に乗って青森に戻ってきた。
更に、その十和田丸で船中泊が出来て、翌日の函館への回送便にも乗せてもらった。 貨物は連絡船を新造復活させて 青函トンネルは旅客輸送に使えば良い と言う意見も地元ではある。お金の問題とかあるんだろうけど夢があっていいな おまえたち本囚人は滅多にフェリーとか乗らんやろから可哀想や(´・ω・`) フェリーってうどん食べる為に乗るもんじゃないのか??(鹿児島感) >>42-43
今は無きB寝台とホットメニュー、あと長距離だと大浴場だな。 性感連絡線が廃止になってからそんなになるのか
ついこの前みたいに思ってたけど。 >>38
十和田丸は最終便の一つ前の便じゃなかったっけ
最終便は羊蹄丸だと思った
この日はグリーン自由席はグリーン券が不要だったので、
十和田丸のグリーン自由席に乗って、青森から夜行で東京に帰ってきたわ >>29
逆だよ。
北海道の路線は航空運賃自由化で大きく値上がりした。
自由化前の水準が特割価格。 在来旅客と貨物用に青函航路復活させて
トンネルは新幹線用に特化させた方が効率的だと思うの うしおととらの場面で青函トンネル出てたから
もう30年近く経ったのか >>51
彼女と乗りに行ったんだけど、ドン引きしてたわ 「レッコー!ショアライン!!!」
「長声一発!」
ヴォォァァァッー もうすぐトンネルが劣化で使えなくなるから
連絡船復活するよ! >>55
関門連絡船はいつ復活するの?(´・ω・`) 出航するたびに桟橋と船のデッキを繋ぐように紙テープがびっしりとあって綺麗だったな 新幹線開業後も寝台特急ゆうづる→八甲田丸→急行ニセコでばあちゃん家行ってたわ 函館-大間、函館-青森のフェリー路線は結構人気あるよね。 トンネル老朽化の流れから、狭義の鉄道連絡船、鉄道車両航送を行う連絡船の話だろ。 京都から、急行きたぐに→青函連絡船→函館と行った事はある
急行きたぐには凄く時間がかかった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています