※続きです

■「やらせろという連帯」から「やってしまわないための連帯」へ

日本含む各国では、小児性愛・動物性愛・死体性愛・加虐性愛・日本語で痴漢と呼ばれるものを含む性暴力加害その他、実行に移せば他者の権利の侵害となる欲望を持つ人が、その行為に合意を示せない小児・動物・死体や、その行為に合意を示していない対象に手を出してしまうことのないよう、似たような欲望を持つ人同士で話し合う自助団体が存在します。
つまり、「やってしまわないための連帯」があるのです。

しかしながら、LGBTにPZNを加えようという人の一部は、LGBT社会運動を「大っぴらな変態性欲」「やらせろという運動」などと矮小化し、「LGBTだけじゃなく自分たちにもやらせろという連帯」を求めているように思えます。
本人がどんな人であろうが……異性愛者であろうが、同性愛者であろうが、シスジェンダーであろうが、トランスジェンダーであろうが、男性であろうが、女性であろうが、こうした二元論におさまらない人であろうが、オムツフェチであろうが、ロリコンであろうがとにかく、性別・性自認・性表現・性的指向・性的嗜好その他一切関係なく、同意していない相手を性的な行為に巻き込むことは性暴力です。
そして小児・動物・死体は、行為時点での同意を、客観的に確認可能な形では示すことができません。

また、LGBT、非LGBT(と便宜的に表記します)、そしてPZNは、別個に存在するわけではありません。
端的に言えば、同性愛の小児性愛者もいるし、異性愛の死体性愛者もいます。
そして「やってしまわないための連帯」は、全ての人に可能なはずです。

■「異常ではなく正常です」のロジックを問い直す、LGBTPZN

英語圏で始まったLGBT社会運動は、何に興奮するかを「性的嗜好(sexual preference)」、どの性別の人を恋愛/性愛のパートナーとしたいか(もしくは、したくないか)を「性的指向(sexual orientation)」として切り分けました。
そして「性的指向は性的嗜好と違い、生まれつきで、変更不可能だ」と、生得性および変更不可能性を盾に、「異常ではなく正常だ」と訴えてきた歴史があります。

このロジックは、当時のアメリカでは非常に有効なものでした。例えば、同性愛治療と称した拷問行為を止めるために。
例えば、「女のくせに男装するなんて男を騙る詐欺罪だ」と不当逮捕される人を救うために。

ですが、これで良かったのでしょうか。

生まれつきでない同性愛者は差別されて良いのでしょうか。
やめられるけれど趣味で始めた女装は差別されて良いのでしょうか。
異常ではなく正常です、と言えない人たちは、差別されて良いのでしょうか。

LGBTPZNは、性的指向を生得性と変更不可能性の二点から性的嗜好より上位に置く価値観を問い直し、「やってしまわないための連帯」の可能性を開拓しうる概念であると筆者は考えます。
「LGBTとPZNを一緒にするな!」と吠える姿こそ、炎上狙いの人々が見たかったLGBTの姿なのでしょう。

が、一緒だと思います。
本来、みんな一緒の人間だと思います。

「○○界隈」とか「○○派」とか「アンチ○○」とか、もう疲れたのです。
ポーランドはおろか日本での経緯も知らないまま3行しか読まずに叩く、ネット上での「どっちが弱者でしょう合戦」には、もう、心底、疲れたのです。
ただ、人として、全ての人が「やってしまわないための連帯」をして行ける社会を望みます。

全ての人には、性のあり方にかかわらず、
1.好きなものを好きでいる自由がある。ただし、性暴力は他者の自由の侵害である。
2.嫌いなものを嫌いでいる自由がある。ただし、侮辱・蔑視・攻撃は他者の自由の侵害である。

大事なことなので、3回言いました。

※おわり〆      .