【歴史】徳川三代将軍、家光の駕籠が福井県の寺で発見される。専門家「大変な驚き。近世交通史の貴重な資料」
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https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180731-00000025-mai-soci
徳川将軍家の駕籠(かご)が福井県小浜市の曹洞宗「発心寺(ほっしんじ)」で見つかった。
31日発表した県によると、3代将軍家光(1604〜51年)の駕籠で、側近の小浜藩主、酒井忠勝
(1587〜1662年)が初めて若狭国入りした際に贈ったとされる。初代家康を除き将軍用の駕籠は現存せず、
専門家は「大変な驚きで、近世交通史の貴重な資料だ」と話している。
駕籠は箱状の座席に担ぎ棒を渡した乗り物で、明治期に人力車が普及するまでは広く利用された。
家光が贈ったとされる駕籠は、廃藩前の明治初期に小浜城から買い受けた商人が発心寺に寄贈した。
寺の老朽化に伴う解体工事で昨年12月に見つかり、県立若狭歴史博物館などが調査していた。
見つかった駕籠は、座席部分が長さ118センチ、幅86センチ、高さ102センチ。竹やヒノキの薄板を編み込む
「網代(あじろ)」の手法を施す外観は質素だが、内側は焦げ茶のビロードが貼られ、格子部分をスライドして
開閉できる夢想窓が細工されている。両端の金具に徳川家の三つ葉葵(あおい)紋がある黒漆塗りの担ぎ棒は
現存する最長の497センチで、上部が丸みを帯びる。
酒井忠勝は家光からの信任が厚く、晩年は大老に就いて将軍家を支えた。1634年に若狭国入りした際には
家光から馬も受けたとされ、駕籠からは主従の強い結びつきがうかがえる。将軍家の駕籠は家康の3丁が残るだけで、
東京都江戸東京博物館の斎藤慎一学芸員(中世史)は「内外装の仕様は武家社会での身分を示しており、
階層性を示す貴重な資料だ」と話している。
駕籠は幕末期の1860年、当時の小浜藩主だった酒井忠義(1813〜73年)が京都御所を訪問する際にも利用しており、
県立若狭歴史博物館は開催中の「幕末明治福井150年博」で8月1日から特別公開する。 >>1
■米中貿易戦争の裏でドイツと中国が調印した「巨額経済協定」の中身
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56531
・中国とドイツの親密度・
7月7日、ドイツの大手一流紙「フランクフルター・アルゲマイネ」に、中国の李克強首相が寄稿した。
文章の中身は、「中国は国際貿易において、自由と公平を重視し、多国間協力体制の強化を支持していること」、「EUの繁栄を望んでいること」。だから、「ドイツ企業は不安を持たず、ドイツやヨーロッパに進出する中国企業に対して、公正でオープンな環境、および、安定した制度上の枠組みを整備して欲しいこと」。中国は「WTO(世界貿易機関)の原則をいつもちゃんと守ってきた」のである。
実は、中国のこういう望みに、ドイツはこれまでも十分に答えてきた。独中関係は、小さな例外はあっても、すでにここ100年以上、概ね良好だ。
先日、中国に行った人から聞いたが、北京の国際空港のパスポート審査のところには、「中国人」「外国人」というどの空港にでもある区別以外に、「Air China Easy Way Beijing-Frankfurt」という窓口があるそうだ。そればかりか、北京〜フランクフルト間を移動する人専用のチェックインカウンター、荷物のターンテーブルなども整備されているという。中国とドイツの親密度を考えると、さもありなんとも思える。
>>近世交通史の貴重な資料
は?どんな籠が出てこようと「交通」とは無関係だろ
単なる「風俗史」でしかない 家光と言われると映画のパケ写真のせいで松方弘樹の顔が浮かぶ ドイツはロシアと同じとは言わないが、イギリスに比べたら信用度は低い。 駕籠なんて
さぞかし不快な乗り物だっただろうな
揺れるし暑いし寒いし 歩くのも辛かろうが、こんなものに何時間も乗り続けるのも苦行 いつも思うがよく駕籠なんかに乗るよな
窮屈だし景色も見えんし暗いし襲われたら逃げられんし
歩く方がよっぽどいい N●K「いや今やってる大河、幕末物なんで…なんつーか、ねぇ」 >>14
将軍が乗って移動してた駕籠は、あんな「えっほえっほ」の早駕籠ではないだろうよ。 駕籠なんて文化が存在する事自体が科学力の低さを物語ってるな
日本刀とかも過大評価だろ >>22
その昔の多くの街道は獣道に毛が生えたような道しかなかったからじゃない。 >>14
正座して乗るように設計されてるしな。
人力車が普及すると一部の山道の難所を除いて瞬く間に駆逐されて無くなっただけのことはある。 駕籠>>>>>(越えられない壁)>>>>>朝鮮一輪車 「なんで徳とか光がついたら朝鮮人認定なんだよ!」
「いやオマエの場合は顔とか葬式の泣き女みたいに泣き叫ぶしw」
「だったら徳川家光は朝鮮人なのかよぉおオオオ!!」
そこまで言って大学時代の徳光はほんとうに朝鮮の職業葬式泣き女のように
池袋の居酒屋で泣き叫んだ 駕籠なんてあんなデカイものが簡単に埋もれる寺といふもの ちなみに重量はどれほどなのかと
何人で担ぐのかと
教えてエロい人! >>34
牛車が人力車に成るまでかなりの時間を要したのは何故なんだろ?
馬車とかさ 牛車より駕籠のほうが馬を常備しなくて済む分手軽だし下からの振動をじかに受けずに済むのは良いのかもね
まだサスペンションだのゴムだの衝撃を吸収できるような素材も道具もないだろうし 平安に牛車があったのに、その方向で移動手段が発達しなかったのはやはり道の問題かねぇ >>39
人が引くより牛馬に引かせたほうが人は楽でしょう >>42
ああそれだ。他国に攻め込まれるから道を整備したがらなかったよね >>42
ちゃうよ
江戸幕府が禁止したから
馬車禁止
大八車は江戸と駿府以外禁止 平安時代は牛車があったのに、なんで人間が担ぐ駕籠になったんだろう? ワダチができて道路補修が必要だから、江戸市中は大八車も禁止だよ。 >>23
あまり豪華だと刺客にココデスヨ!って解るから外観は質素なのかな? >>32
思わなかったんだろう
この国は外圧がなければ縄文時代に回帰するようになってる
この国の駄目さを象徴する遺物
奴隷根性が発達した日本に文明って根付かないんだよ
都会からちょっと離れると土人ばかりでウンザリする >>49
禁止以前に江戸時代までの間、室町時代や戦国時代にも発達していなかったのは何故なのか疑問なんではないか?
雅な文化が育った室町時代になら牛車が進化しても良さそうなものだけどね >>42
牛車ってある程度幅があって道もほぼ平坦な京内のさらに一部だけでさらに階級の高い貴族のための移動手段でしょ? 道の問題はでかいな山道多い日本は馬車のような乗り物が発展しなかった
あと駕籠がシンプルなのは重くしないためだろ >>26
ヨーロッパとかもだいたいそんなもんだよ。
識字率とかで言ったら日本のほうが断然上だったし。 謎の女子高生の正体は? 45年前に撮影されたモノクロ写真がカッコよすぎる
http://zwould.mahoc0de.com/20.html
あんなデカい物が400年も人目につかず
しまったままってどんだけ無責任な坊主どもだよ。 >>49
ほー
禁止と言うとそれ以前の時代はどうだったんだろう
戦国時代とかなら禁止だろうがなんだろうがメリットがあれば導入しそうだけど 駕籠は乗り心地悪いよ
揺れるし狭いしで酔う
徳川も車輪普及阻止のためとは言え
ようやるわ ずっと中腰かつ両手で吊り紐を握ってなきゃいけないんだろ?辛いわ。 大げさかと思ったが現存してなかったのか
てかどうやって本物と認定したのん? >>55
室町以降から治安が悪く街道筋の物流なんて発達どころかニーズがないからですな
治安安定して物流のニーズがでた江戸期に禁止 大名の移動から罪人の移動まで全て駕籠だったしなあ。 >>42
牛車はたぶん京都かその周辺だけの移動だろ。
いまでこそ道路が発達してるからそういう感覚になるけど日本は山岳地帯だし、平地でも起伏がある。
(東京の九段坂は明治まで傾斜がきつくて坂の下には押し屋がいたくらい)
踏み固めても雨がふれば泥の道になってぬかるみにはまる。 >>1
>初代家康を除き将軍用の駕籠は現存せず
慶喜くらいはありそうにも思うけど
そうでもないのか >>7
その家光から贈られた籠は、自分の藩の家宝として以後、使わず残して置いたんだろ… >>27
当時ドイツ人が来て街道の広さに驚いてたんだが… 福井まで行って正座しんどいし帰りは馬にするわって話かと思ったら贈り物だったか >>50
道幅狭いしデコボコだったからじゃない
そして、牛は気ままに歩くから、牛車って超ゆっくりだったんでしょ >>64
舗装されてなければ、車輪だと当時はサスペンションもないんだし突き上げとかで>>64
乗り心地は人が担ぐよりもっとひどいと思うぞ 酒井忠勝というと仕事中に伊達政宗から相撲挑まれた人か。 カゴかつぎはゆれないよう、傾かない様に訓練に励んだ >>55
物流は船で運んだほうが早いから
大阪など都市には運河網が張り巡らされていた 殿様のトイレ用の駕籠とかもあったんだろ
そんなの担ぐの絶対イヤだわ 駕籠ww
ヨーロッパで数頭立ての馬車が走り回っていた時代に人力の駕籠とかww 徳川家も京都の二条城で征夷大将軍の祝賀をやって始まって
二条城で大政奉還を向かえ滅んだからな 馬車が普及しなかったから今の道路もめちゃくちゃなんだろうな >>88
近年、あの慶喜の前に大名が平伏しているあのシーンは
事実でなかったことが証明されている。 >>71
江戸時代、今では考えられ無い様な、いろんな職業が有ったのは知ってるが、押しやとは初めて聞きました。ホントあなた物知りだね… >>14
身分ある人はガキの頃から駕籠だからある程度は慣れで
克服していたんだろうな
けど参勤交代なんかで長距離移動中は籠から出て歩いて
移動した人もいるらしい >>59
家光の時代に西欧では、辻馬車が誕生している >>69
なるほど、確かに治安悪くなってニーズないね
>>84
大阪の運河はもう少し後の時代に発達したのではなかったか 家康公もよく江戸から関ケ原まで行ったよな。当時としては高齢なのに。
ムーソライトながらで行くのもめんどいw
俺なら光成を適当に丸め込んで和睦に持ち込むわ。 いちばん遠い藩の参勤交代では移動期間を短縮しようと船で行った話もある。薩摩など移動だけで約1ヶ月。 >>22
@道が悪くて凸凹
A道が狭くすれ違うのが困難な場所が多数
B馬の体格が貧弱で馬車を引かすのが難しい
Cそして一番の理由がサスペンションが作れず車軸にかかったショックがそのままダイレクトに伝わったため乗り心地が実用に耐えないほど悪くなった。
事実道がある程度整備されていた平安時代の平安京では貴族たちは牛車に乗っていた。サスペンションの代わりに人間の柔らかい足腰を使った籠はまさに日本らしい乗り物と言える。 >>95
まぁ石畳の街道とかどこまでも続く平地とか条件が全く違うからな。 こういうお宝は山ほど眠ってると思うな
ほとんど手付かずでしょ 仏像を調べたら中に巻物入ってるとかもあったし >>26
日本刀は武器としては過大評価されていると思う。
日本は全般に温暖だったので極端にさむいと途端に折れやすくなるらしい。 >>77
日本は山がちな地形でアップダウンが激しく小川も多い
一方ヨーロッパはフランス筆頭にほぼ平坦な地形
市街地ならともかく馬車は基本的に不向き立ったのでは >>101
日本は石が少ないうえに奴隷文化がなかったから舗装道路が
なかったんだよね。 >>20
N●K「あんなつまらなくて視聴率低くなるなら違う時代のやってりゃよかった・・・」 >>59
寺子屋普及以前の識字率の高さって根拠あんの? >>104
そもそも極端に寒いところで刀なんてつかわんだろ >>106
下人だったか日本も奴隷文化あったろ。合戦で奴隷にかっさらったり、それを売買
してたり。 >>94
1万石の小大名なんかは金の節約の為江戸入府とかの目立つ場所は口入屋から臨時で要員を雇って行列を編成したがあとは少数の護衛の家臣と馬に乗った殿様がお忍びみたいな形で移動した例も多々あった。 >>1
伊賀が勝ったから将軍に成れた事を忘れ無いで下さい! 折れない刀なんて古刀くらいなんでないの
室町以降はポキンポキン折れとるやろう >>97
実際には三成に通じていた上杉軍を征伐する名目で一旦小山まで行ってる。
ところが佐竹が全く動かなかった。(家康側につくべきの義宣に対し三成側につくべきの
父義重が対立して何もできず、これが家康の疑惑を買われて久保田[秋田]に追い出される要因に)
三成が動いたの報を受けて後に福井に移る秀康を押さえに留め置いて一旦江戸に戻り軍備を整え関ヶ原へ。
ところが家康主力部隊を秀忠に回した上に川止めや上田で真田軍にフルボッコされたりで関ヶ原に間に合わず家康が激怒。
家康は井伊 本多 4男の定信しかいなかった。 >>3
将軍の最大の仕事である世継ぎはちゃんと残してる
バイだから生産性は有った 江戸時代に馬車が無かったのは幕府が禁止していたからだぞ。 >>104
日本刀は日中戦争とかで大活躍したろが。下士官が刀ふりかざして、突撃命令すんの。
相手にはピカピカ光るのが見えるから、突撃があるのがすぐ分かるw なんだかなぁ・・徳川・江戸時代って
元和、寛永、元禄の昔のころから
天保、元治、慶応まで
人々の服装や髪形、しゃべり方や文章の書き方
全く変化が無かったんだよなぁ
赤穂浪士だって、幕末の人たちから見たら
160年も昔の人たちなのに・・ まったく同じ生活だし。。
ヨーロッパじゃ17世紀初頭と19世紀半ばじゃ偉く諸々違うのに・・
非常に奇妙だわw >>1
>>駕籠は箱状の座席に担ぎ棒を渡した乗り物で、明治期に人力車が普及するまでは広く利用された。
今はこんな解説入れないと理解できない時代なんか? 根本的に陸地での人の往来は脅威である程度の制限をしていて。物資は船を使った方が便利と捉えていたんだから陸移動が発達しないのは当然っちゃ当然。 >>109
満州では真冬は氷点下二十度以下に下がるのは普通なので軍刀がポキポキ折れた。
それで満鉄が特殊合金製で折れにくいという触れ込みで興亜一心というブランドを掲げて日本刀のような刀を工場で製造した。
日本刀モドキといっても複数の性質の違う鋼材を圧延して作ったハイテク刀で本物より高性能だった。 >>119
失業者が増えるとかで松平定信が馬車の採用に反対したんだっけか? >>122
板葺から瓦葺きになったり多少は進歩してるってw ただ江戸時代を通じて人口が一定ってのは
悲惨な状況を表しているね。 この先西暦が恐竜なみに2億年とか続いた場合、徳川の治世の駕籠にどの程度の価値があるのか 荷台に御者は?
武士に上から目線の高い位置からなどいかん! 実は江戸時代に馬車の利用が提言されたこともあったけど、
社会構造が変わると困る幕府によって禁止された。道も痛みやすいしね。
だから馬車は明治以降の一時だけ製造・利用されたんだけど、利用期間や職人数が少なくて
もう馬車を作れる職人がいないから、皇室では当時の馬車を修繕して使ってるとか。 >>124
いまは希少性から昭和刀(日本刀を参考に工場生産されたモドキ)の方が高いよ。
昭和刀に正規の登録証がついてるのは少ないから。 >>136
馬より人間の労働力の方が安く買えたから人力車が多用されたせいだと思う。
アメリカ南部でも奴隷に人力で車を引かせるようなことはしなかった。
奴隷はとても高価で貴重な財産なので物として大切に扱われた。 >>122
家光の時代は安土桃山時代と大差無いよ
喧嘩、衆道、辻斬りと戦国の荒くれた気風が色濃く残っていた時代だ 江戸の町まで運河がひかれて
船とかリヤカーとか
人力でこまやかな仕事してる感じ
時代劇ではお侍さんは馬に乗ってるよね >>57
人一人通るのがやっとの道に馬車なんか通れないな >>1嘘つくな
福井県民です。
NHKテレビで 昔から 御寺に 徳川葵の籠有るって 出てたぞ!
初めてじゃ無いばか。 >>141
人力車が出回った状況で馬車を導入すると、人力車引いてた連中は失職しちゃうから、
身分固定制の幕府としては困っちゃうのさ。
しかしアメリカ北部の会社での労働の方が非人間的な扱い、っていうのはギャグだよなぁ。 >>129
人口が減少しそれを止める目処も立っていない現在
よりはマシだったんじゃね? >>6
そういう人達がいるから楽しい事も面白い事もあるけどな
キミに言っても無駄かな 姥捨山なら現在だって事実上存在するし
現在の租税公課負担率は江戸時代の年貢と同程度 >>147
南部で奴隷が大切に扱われたのはあくまでも物としてだよ。
人としてではない。
畜産農家が牛を大切にするのと変わらない。
辞める自由のある北部での工場労働のほうが人間としてはあるかにましだろ。 >>14
空気入りタイヤが発明される前の
車輪つき乗り物より案外尻は無事かもよ >>12
俺は三田村邦彦だな
くそぅ、チャンバラ時代劇が見たいぜ >>151
その割に江戸時代と比べると上の連中の責任が軽すぎやしませんかねぇ。
不正やらかしたら連座で一族郎党磔獄門晒し首、ってのも引き継がないと。
>>152
風と共に去りぬ、辺りを読んでるとそうとは思えんが。
>>153
人力車も明治からだっけ。
駕籠や輿を担ぐ連中が失職しちゃうからアカン、ってやつね。
彼らは特に荒くれ者だから確実にヤバかった。 >>97
家康は豊臣秀吉の時代から殆ど京都に居て
江戸のほうが高齢なのによく行くなという形だぞ
歴史を語るとき東京中心に考えるのはよせ >>1
つまり若狭まで旅をしたのは、
光國ではなくて家光だったと >>162
トンチンカンなレスはよせ
家康は、関ヶ原には江戸から出立しているだろ。
会津攻めを中止して一旦江戸城に滞在した後で関ヶ原に向かっただろ。 福井だと本山ある曹洞宗なんだ。
殿様仏教の方じゃないんだね 中国では紀元前から、エジプトや中東では3000年前には馬車があったようだが
日本人はかたくなに使わなかったということになるね >>170
日本の馬は現在ではポニーにあたり、馬車を引けるほど力が強くない。 馬車なんて平らな道以外使えないからな
明治まで登場しなかった >>161
牛車はもっと昔からあったよ
車を仕立てて移動する身分の人は急いで動かないから牛で良い >>124
満州のやつだっけ、あれが古刀の作り方に一番近くて丈夫だってのは居合いの偉い人が言ってたね こんなので東京から福井まで行ったら死にそうなんだけど /''⌒ヽ | ウリナラ最強の戦車ニダ!!
ノ7ヽ`∀´> \ __________
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<ヽ`∀´> [===L||:|」 < `∀´ >
〜 (つエニニニニニニニニOエ )エ
, ヽ Y || , ヽ Y
レ〈_フ ,,◎ レ〈_フ
コロコロ〜 >>149
内乱も大戦も疫病も無いのに人口が減少しているって
政治の失敗だもんね この時代の欧州の人たちに教えてやりたいよ日本人の原始人ぶりを。 >>172
嘘乙。
日本馬はパワーがあって荷物運ぶのが得意。 >>172
農耕馬は力はあるよ
問題は地形
馬車は平地を走るときは効率がいいけど、自転車と同じで上り下りは苦手
日本場合、ちょっと遠くに脚を伸ばすと必ず山を越える峠道が出現し、平坦な道は極めて少ない >>175
牛車は平安貴族が牛の貸し借りやってた記録もあるしね。
さらに身分が上がれば輿だけど。 よくこの手の、発見されるってどういう状態なの?
誰も存在を知らななくて倉の片隅や建物の床下とか天井裏とかから見つかるのかのか、知ってても価値や由来がわからなかったのか? 道路整備したら反乱されるから
だから幕府はわざと整備しなかった >>87みたいな
日本の道路事情も知らない馬鹿チョンが湧いてくるなと思ってたわ >>188
そもそもの話し民衆がんなことやりたがらなかったんだよね。
村々で自給自足してたから。
本来なら強力な権力持ってる中央の王朝が有無を言わさず街道整備するんだ歴代幕府も
やりたがらなかった。 >>179
福井ならまだマシ
津軽の殿様も薩摩の殿様もずっと籠で江戸―領国を移動 地元民が見てないところでは歩いてた殿様もいるんじゃないか こういうの研究してる学者は馬鹿。無意味
そもそも将軍なんかより俺の方が偉いし
今だと政治家みたいなもん?
でも選挙で決まったわけでもないしなぁ >>92
因縁つけるわけじゃないが、どう「否定された」の? >>197
歴史は観光資源になるんだぞ
末長く外貨を稼げるから無意味な研究じゃないよ >>199
そいつにそんな価値なんか分かるわけない。 これ駕籠じゃなくて‘乗物’だろ。駕籠って、出入り口のカバーが簾になってるやつのこと。
比較的低俗。今回みたいに横にずらす扉みたいのがついている高級なのは乗物。 日本に来た西洋人が肉食いてえと言うまで
日本では馬も牛も田を耕したり荷物運ぶ為の動物だったからね
日本の馬は西洋の様な足長さんじゃ無かったし >>197
凄まじい低知能臭を撒き散らしてるよ
お前の書き込み(笑) は?文系の学者が無意味な仕事をしてるのは本人も分かってる
自分の金やってるならいいが、税金でやってるわけだからな
もっと意味のある事をやらないといけない
>>205
馬鹿は死ね >>203
実は日本でも肉食ってたんだけどね
あの赤穂浪士の大石内蔵助は牛肉の味噌漬けが大好物だったw 「14世紀のハンガリーでは、紐や鎖で座席を吊り下げた懸架式の馬車が登場し、17世紀にはバネによるサスペンションを備えた馬車が登場した。」
乗り心地を良くするために不断の努力を重ねたんだな、やっぱ大したもんだ
で、駕籠は何か改良を加えたのwww? 明治維新になって駕籠から一気に鉄道にシフトしたんだよな・・・w
日本の鉄道がぶっ飛んでる理由はこれ。 なんで今まで分からなかったんだろう?
寺が隠してたわけでもないだろうし。
今まで調査されてなかったのか。 何か江戸時代までの日本の乗り物は駕籠しかなかったとか思ってる凄まじい馬鹿が湧いてるが
日本にも馬車や牛車があったのも知らん低知能低学歴のゴミなんかね?(笑) おまえはザ庶民なのに将軍の話なんかして何の意味があるんだって
庶民だからこそ、そういう上に憧れてるのかねぇ・・・ >>207
君がニンジャやサムライより外貨を稼いだ商品の開発者なら謝るよ >>216
でも歴史の素養も無い奴でまともな知能持ってるのも見た事無えわ
だいたい教養人はみな歴史に造詣が深い >>165
建前上は石高に応じた軍役義務があってそれ相応の部隊編成で入府する必要はあったけど小藩ではそうも言っておれず真ん中は端折ってた。
国から出発するときと江戸入府の時だけ面目ないがあるから隊列を組んでいた。
そして専門に大名行列要員を石高に応じて用意する口入れ屋もあった。 >>39
個人的にその辺の事を調べているものです。
理由は色々あるけど、
・当時は、人の往来よりも兎に角荷物の往来の方がグンバツに多く、荷物>>>人という時代だった。
・馬は武士が乗るもの、農民が乗るなんて恐れ多い時代だった。
・当時の馬は、激しい気性の馬が好まれたので、手なづけるんpは至難の技だった。
など、っぽいです。 >>224
まんが日本昔話だと農民も馬使ってたよ
だいたいアオって名前 >>91
これ、素直に後1つでも車輪つけた方が、まだ安定するだろ。
何なんだ?この罰ゲームはw >>228
衆道は基本成人したら攻め側に回るものなのだが、家光さんは受け側が大好きであった。女装癖もあったしな。 >>182
水道トイレなど明らかに江戸の方が進んでるわけだがw >>209
駕籠かきの強靭な足腰だろ。
大名の駕籠かきって2交代もしくは3交代制だからな。
交代要員が同行して並歩する。
定期的に交代して無駄に疲れないようにしている。 >>230
男性は自分で勝ち取るべきものが何も無かったら、そういう
期待に背く道選んでバランスとるのかしらん。 >>72
慶喜は当時目新しかった自転車で移動してたんだよ >>224
日本人は動物の去勢をしないからね。
オス馬は凶暴なままだ。 >>229
人夫が4人で乗るのが一人ならカーブとか考えてこれが良いのでは?
まあ安定性はゼロだけどね。 >>229
凸凹の不整地では、複数の接地点があると不安定になる
一本脚なら、どんな不整地でも直立できるけど、二本脚だと二本の脚が接地している面の高さが違うと傾いてしまう。
三本脚だと三本の脚が同じ高さでないと傾く。
工事現場で物を運搬するのに一輪車が活躍するのと同じ。
カメラで撮影するときに不整地に三脚を立てると傾くから、不整地では一脚を使うのと同じ。
つまり、朝鮮では首都の道も凸凹だったということがうかがえる。 >>241
同時代に四天王の酒井忠次系の酒井忠勝もいるしな。
こっちは雅楽頭家正親系だが。
忠勝の忠は、秀忠の忠の拝領じゃろう。 >>1
徳川家光ってコロッケのイメージしかない(´・ω・`) >>223
馬車は昔からあったよ。
行軍で荷物を運ぶ荷駄は馬車だよ。
でも、荷駄は上り坂になると、何人もの人手で押必要があるし、下り坂では転げ落ちないように縄で引っ張る必要があって、
坂道の運搬は大変
重い荷物の運搬ではなく、人間だけの移動で、坂道があるとわかっているなら、歩いた方が楽 >>247
戦国時代は、牛馬の背中に荷物をくくりつけて物資を輸送していました
馬車なんて有りません >>72
慶喜は乗馬が得意。
幕末の駕籠なら、篤姫のが現存している。徳川に近衛に意匠がキラキラし放題で普通乗り仕様ではない。嫁入り用だね。 >>1
>先日、中国に行った人から聞いたが、北京の国際空港のパスポート審査のところには、
「中国人」「外国人」というどの空港にでもある区別以外に、
「Air China Easy Way Beijing-Frankfurt」という窓口があるそうだ。
そればかりか、北京〜フランクフルト間を移動する人専用のチェックインカウンター、
荷物のターンテーブルなども整備されているという。
中国とドイツの親密度を考えると、さもありなんとも思える。
>「北京の国際空港のパスポート審査のところには」
当たり前やがこういうのがあるのは北京空港だけで
ドイツには中国人に便宜を図る施設などどこにもない
つまり そういうこった (´・ω・`) けっこうな大きさななのに今まで見つからなかったのか 皇女和宮もカゴに乗ったが、中仙道の難関の鳥居峠だったかは、歩いたらしいね >>248
あるよ。
リヤカーのような車を牛馬で引いていた 大八車は江戸時代からあるよね。
時代劇にもよく出てくる。
驚くのは荷台の幅の狭さ。
細く路地でも通れるように後のリヤカーなどよりはるかに狭い。
軸受なんでベアリングもない時代だからさぞかし摩耗しただろう。 駕籠は駕籠かきによって前後左右に揺れるから乗ってるやつも
その動きに合わせて揺れてやらないと駕籠かきが疲れてしまう
だから上からさがったひもにぶら下った中腰にならないといかん
疲れて時々、歩くのも双方のため 韓国ドラマ見てたら朝鮮国王の籠って10人以上で四方八方から担いでたな
あれだけの人数で担げばあまり揺れずに快適だったろうと思う 大八車が消えたのは重心が高かったという理由もある。
両輪の間の軸の上に板を敷いたから。
リヤカーでは鉄パイプと両輪をつないで、鉄パイプを地面近くまで下ろして板を敷く。 >>256
近況用だと、車輪なしで荷台の片側を引きずる方式もあったみたいだな お宝発見みたいな番組で、結構、色んなところで見たような気がするけど
勘違いかな? >>188
東海道は牛車対応で一部区間敷石舗装されてましたが? >>254
街道と言うと現在の国道の様な舗装されては無くても少なくとも開けた道がずっと繋がってるんだろう
と現代の人間はイメージするが
江戸時代の幕府が整備した五街道のひとつである甲州街道の旧道をちょっと歩いてみた事があるんだけど(小仏峠あたり)
細くて険しい登山道みたいな道が途中で普通にあるんだよなw
峠越えなんてそんなとこばっか
だだっ広い平原がどこまでも続いてる様なヨーロッパと違って日本の道は馬車なんかでずっと移動できるような地形じゃなかったんだよね しょぼい
将軍用なんだからもっと金銀や漆をあしらった豪華なものかとおもった >>265
水戸徳川家初代の徳川頼房だった説がある。 レベルが低いのは陸だけじゃないよな
航海術もお粗末で、常に陸を見ながらの地乗り航法、逆風でも吹きゃその辺の島影に逃げ込みやり過ごす有様 >>1
鑑定したのか?用途は?近場用なのか、遠乗り用か? >>269
大航海できる大型船の建造をわざと禁止してたのも知らん低学歴のゴミ(笑) >>269
そりゃ徳川幕府が遠洋航海を禁止したからな
おまけに大型船の保有も禁止されてしまったし >>262
身分の高い人の駕籠である乗り物(引戸がついていて部屋のようになっているタイプ)は金持ちの商人だからといって勝手に作って乗るわけにはいかなかった。
侍でもある程度高い身分でないと乗ることができない特権階級の乗り物であった。 >>245
関ヶ原で徳川四天王の内井伊直政と本多忠勝は家康本隊にいて井伊直政は家康4男忠信と共謀して
福島正則に先陣を切らせないよう福島軍の前面に鉄砲隊を置いて対峙する宇喜多軍をゲリラ銃撃して
戦いの戦端を切ったが、酒井忠次 榊原康政は徳川主力部隊の秀忠軍3万8000にいた上に川止めと上田で真田軍に
ボコられて間に合わず。無論家康は顔も合わさんと言った位に激怒!。
ちなみに秀忠は大坂冬ではあわてて来るなを無視して10万を東海道経由でほぼ休まず行軍して二条城に
来たことにまたも家康に激怒されてる。 船舶の規模や遠洋航海術なら戦国時代後期と安土桃山時代の方が江戸時代より優れてただろうね
江戸時代は徳川家への反乱に利用されるのを恐れわざと禁止してた
馬鹿は日本の技術が劣ってたから、とでも思ってる様だが(笑) 外人から見たら籠はどう思うんだろうか
やっぱり車輪が無いから遅れてると思うのかな >>273
鎖国している200年の間に航海術は失われてしまった。
もっとも大きな実用船である千石船の船頭達でも稚拙な磁石を頼りに陸地を見ながら若しくは島伝いの航海が基本だった。
天測航法も知らず海図も無く経験則だけの航海なので一度流されるとお手上げで外国船に救助されるか島に流れ着くしか生き延びる道はなかった。
一番流された千石船でシアトル沖で救助された例がある。 高校を卒業した学生の語学能力が、これほど貧弱で物の役に
立たないのは何故なのか。抜群の語学力を誇り、東大文学
部長までつとめた筆者が、外国にいる若者が外国語を習得する
困難さを正面から取り上げ、正則(期待されるような)
語学教育の重要性を指摘する、英語教育のための基本書。
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夜の月の中にさえその善さを見るとすれば
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cuu >>277
外国人は正座ができないので乗れなくて困ったらしい。
椅子タイプも外人向けに少数作られ横浜などで使われた。 >>269
戦国時代にすでに西洋並みの複帆船作れたけど、
幕府が単帆だけの規制を敷いた。
何石船、とかいわれるように排水量まで厳しく規制して大型船と遠洋航行を封じ込め。
おかげで不安定な単帆船のおかげで、たくさんの人が海難に遭ったな、
愚かだと思うわ。 >>277
そこはどう考えるかで変わって来るな、密集地帯で人をひかないように考えるなら
人が担ぐ籠の方が安全だし、権力や富の誇示なら人を使役する意味でも有効 こんなのに何時間も座ってられるんだもんな
昔の人は凄いね せめて複数の帆を利用した航法だけでも残しておけば、
向かい風でも操舵できるから、海難は激減していただろうにな。 >>284
海運が未発達だったからこそ、あえてリスクを冒した紀伊国屋のみかん船は大成功したわけで 車だと玄関までしか入れないから、貴人も玄関まで赴く必要があるけど、
駕籠なら座敷まで上がれるからな
江戸城大奥では、正室や側室が外出するときには、駕籠が座敷まで入っていた 日本民法の父、穂積陳重の『法窓夜話』を現代語に完全改訳
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cgz >>284
実は江戸中期に工楽松右衛門が専用の丈夫な木綿帆布を開発して帆の下桁をなくしヨットのセールのように帆の下を窄めることで単帆和船でも向かい風に向かってジグザグ航法で進めたのよ。
それより和船独特の箱型の舟底形状が逆走の妨げになって浅い角度でしか逆走出来ず効率は悪かったということ。 >>281
伊達政宗が支倉常長をスペインに送った時の船は当時としてはかなり大きな帆船だったよね。
大砲も数門積んだっていうし。
出島のみになった時のオランダ船も比較的大型船だった。 >>42
信長が日本を統一してりゃ北から西まで車が走り易い道造ってたかもね 駕籠の中でSEXってあのシチュエーション可能なのかねえ >>225
それについても。
この辺りは、まだ調べ上げてないので憶測ですが、
私は、馬というものは今でいう外車クラスの高級品だったのではないかと思っています。
例えば、同じまんが日本昔ばなしの「潮吹きうす」という
話では、主人公が石臼を使って米→塩鮭の次に馬を出して、
その次に家を出しています。このことから見て、馬は庶民の憧れなんじゃないかなぁと思います。
又、その他の昔話を見ていると馬方は、馬を使って荷物を運んだり、代掻きを手伝ったり、して駄賃を貰って生活をしていますが、これも結構広範囲に借り出されたりしているので、やっぱり村に馬方が1人いるかいないかの状況での高級品だったんじゃあないかな?と考えます。
亀レス、乱文すみません。 >>188
道中奉行はどんな仕事をしてたの?
街道の石畳は自然にできたの? >>14
駕籠はある意味義務だったからな
公務での外出では身分によって鋏持ちや草履取り、家来の数も決まりがあったから >>94あんな中で長時間いるぐらいなら自分も歩いた方が楽だよな。 福沢諭吉は欧米で馬車を見て、その発想は無かったとか言ってたな >>297
その通り。籠一つ止めると、籠担ぎで代々食ってる一族郎党は一挙に職を失う。
これが封建社会の本質。故に物事を動かすのがほんとに大変。 日本人は関東大震災まで、交通や都市計画の重要さを知らなかったからね >>302
公家じゃないと乗れないんじゃなかったかな? 現存してる江戸時代の駕籠を見ると、当時の日本人がいかに小さかったかよくわかる >>304
東京にしろ大阪にしろ本格的な都市計画で変わったのは戦争後の話
東京も大阪も運河が多くて運河で物を運んでた
空襲の後の残土の処理もあったが、運河を埋め立てて道路を作って
整理したのが現在の東京と大阪
名古屋福岡も中心部が廃墟になったおかげで都市計画を一から立てられた >>305
今川義元が輿に乗ってたのは、乘れる身分を誇示するためだったらしいな >>306
当時の日本人って160を越えるのはほとんどいなかったらしいからな
その前の平安鎌倉時代と比べても低い >>304
江戸は大火でなんども焼けて
その度に少しずつ都市計画的なことをしてるよ
延焼防止のエリアを作ったり >>308
輿に乗って指揮したと言えば関ヶ原の大谷吉継も病で顔に面を被って輿に乗りながら藤堂高虎軍と激戦。 エコノミー症候群になりそう。(´・ω・`)
img.news.goo.ne.jp/picture/jiji/m_jiji-0027824121.jpg >駕籠は箱状の座席に担ぎ棒を渡した乗り物で、明治期に人力車が普及するまでは広く利用された。
時代劇が殆ど無くなったから、こうやって説明しないといけないんだな。 >>312
狭いとかきついとか暑いとか苦しいとか「甘え」で片づけられてしまう超絶ブラック時代やぞ。 >>3
四代、五代将軍は家光の子供、六代将軍は家光の孫で七代は曾孫
七代が幼少で夭逝したため、ここで直系が絶え八代が紀州家の吉宗となった >>315
9代 10代は吉宗の子供(9代は病気持ち)で、10代で吉宗の子も途絶えてあらかじめ吉宗が作っておいた
御三卿の一橋家の家斉が11代になり、大量に子を作ったために12代 13代と家斉系が続いた。
さらにそのせいで12代家治が家斉がずっと大御所にいたために50歳近くまで実権握れなかった。
14代は紀州 15代は一橋家。 ID:7sREWHFYO
スレタイ読めないひとかな? >>308
戦場における輿は身分は関係ない
馬に乗れないご老体などは輿で参戦することも珍しくなかった
馬なら視線が高いから戦場を見渡せるが、駕籠だと低いから戦場が見渡せない
馬と同じ視野を確保するなら輿に乗ることになる >>29
平安時代は牛車に乗ってたんだがな
まぁ京都は広大な平地だったが >>299
読書にしろ、手習いにしろ、茶の湯にしろ、公式行事にしろ、何時間も正座で過ごすなんて
幼少期から当たり前として育っているから、駕籠の中で正座するなんて大して辛くもないんじゃないの? こんなの交通手段じゃないよたいした資料じゃないよ。交通資料と言うんなら牛車や馬車のほうが理にかなってる。 >>317
15代は一橋だけど水戸家の血筋じゃん
>>304
江戸の街並が何故土蔵造りになったのか知らないの? いくら歩かんでもエエ言うても、真夏は暑いし真冬は寒いがな >>326
江戸時代は寒冷期で江戸の最高気温は30度を超えたか怪しい所 >>328
28℃くらいだとしても、炎天下にあの箱の中に入っているのは
かなり暑いんじゃないか? >>329
8月いっぱい(旧暦だからそれに相当する期間)は乗らなければいいんじゃね?
バブルの頃の関東って、7月下旬までは梅雨寒で8月に入ってようやく暑くなり9月にはすぐに涼しくなってた
寒冷気候だった江戸時代だったらなおさらで一番暑い時期は20日もなかったと思う >>323
ドラマだと正座だけど実際には男も女も胡座が多かったんじゃね? しかしこんな駕籠かきのような人権侵害・ブラック労働の塊が江戸時代だったんだな
これらを打破した明治の 御一新は畏れ乍らありがたいです 福井県て言うから徳川一門の越前松平家かと思ったら、若狭の酒井か
譜代大名だが徳川四天王だから格高そう 日本は奈良時代までは世界水準の交通レベルだったが
足利・徳川という左翼独裁政権時代に世界最低水準の交通レベルにさせられて
現在に至る >>229
思うに車輪製作は手前だからでは?
熱を要する。 >>68
こんなデカいものが今更発見されたってどういうこと?
どんだけデカい蔵やねん >>333
四天王は酒井左衛門尉家、こっちの酒井は酒井雅樂頭家。 >>306
山岡鉄舟は188センチ105キロで西郷どんは180センチ130キロ大久保どんは178センチ
むしろ今のマッチョ青年よりガタイが良いよな
だから駕籠は乗せる人は超ブラックなのは当たり前だが
乗る人も箱根越えなんてなると難行苦行体中ボコボコになるだろう >>332
飛脚の話だが江戸〜京都へ三日で手紙を届ける三日飛脚は料金が今の金額で140万相当だったらしいから
駕籠掻き人足の手間もそう悪くはなかったと思われる
ちな距離が長くなると昼夜を問わず進める駕籠の方が馬より早かったそうだ >>334
平安時代中頃からの藤原氏による摂関政治から、中央集権はグダグダ
続く平氏・源氏政権も街道の改良なんてカネのかかる土木工事はやりゃしない
徳川政権は東海道整備したり沿道に一里塚作ったり、まだ仕事した方 >>339
ベアトが幕末に写した駕籠かきの写真はいずれも上品げな女性を乗せているが
駕籠かきはTバック褌だけで全裸に近い。いまだともちろんこれでは刑務所いきだが
あまりにも超重労働だから着物ももひき(今でいうスキニーパンツ)なんて着たら
体がもたなかったのだろう >>338
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(※基本的に受注生産です) >>308
昔は義元が太り過ぎて馬に乗れなかったからと言われてたのにね
今では名門今川家の権威を利用した制圧用精神攻撃兵器。 >>49
禁制しくのって気分いいんだろうね
5chでもすきあらば禁則作るやついるもん
主人になった気分なのかな >>27
石が道を作るほどなかったからだろ
江戸城だってせいぜい砂利を敷ければ御の字で
ほとんど土w >>343
全身に刺青入れて半裸で疾走してたらしい
刺青入れないと籠かき仲間から小馬鹿にされたとか >>330
>8月いっぱい(旧暦だからそれに相当する期間)は乗らなければいいんじゃね?
お殿様とはいえ、そんなわがままはできないのよ。
特に江戸在府中は、大名といえども公方様の一家来だから、決まった日には登城しないといけないし、
何より幕府からいろんな仕事を押し付けられる。
江戸城の石垣の修築をしろだとか、堀の泥をさらえとか、両国橋を架け替えろとか、水道管が劣化したから更新しろだとか。
それに、ご先祖様の年季法要があれば菩提寺に赴かなきゃいけないし、大名同士の付き合いも多い。
江戸も末期になると、各大名家とも江戸時代初期から数えても10代を超えているので、年季法要も頻繁にある。
自分の家の法要だけならまだしも、分家の大名ともなれば、本家の法要にも赴かないといけない。
お殿様はかなり多忙を極めていた。だから、嫡男が元服を済ませたらとっとと隠居したがる大名が多かった。
国許にいればトップだから比較的自由がきくけど、江戸在府中は中間管理職なので真夏だから駕籠に乗りたくないなんて
わがままは許されない。 >>336
駕籠は分解可能だから、バラバラに分解されていて駕籠だとは気づかなかったんじゃね? >>353
誰も書かないけど、五輪を猛暑にさせるのも、日本の金力財政圧迫する手段だと思うけどね。
脅威は取りのぞけ、という思考にひれ伏した歴史なのに
他国の兵法として全然考えないんだな。 >>343
現代でもマラソンランナーのシャツやパンツは極限まで軽くしてあって、面積も小さいし生地もスケスケ
生地が厚いと汗を吸って重くなって、長時間走ってると乳首とか襟元とか、袖口とかがスレて血だらけになったりする
江戸時代にはそんな汗を吸わない軽い素材なんてないから、裸じゃないとダメかもしれん。 >>357
大工の技術が半端ないことに気づかないなんて気の毒な朝鮮人w >>93
駅のラッシュのときのバイトの押し込みだって日本くらいだろwww >>359
だろうね。
私、早いからね。
トランプは「アメリカは被害者だー」言い立ててるよ。
これはここでよく見るやり口と思考回路。
自分以外は防備を弱らせるために叩くのが常套手段だよ。 寺の人はそんな大事なものを今まで黙ってたんだ。
逮捕だ! >>87
始皇帝は部屋みたいな馬車で巡幸したて話だけど
どういうつくりだったのだろうなw >>365
>>129の「江戸時代は人口が一定」というのが大嘘だから
江戸時代が始まった1600年当時の人口は1800万人程度
幕末期の人口は3200万人程度
どこが一定なんやら >>364
チャリオットに天蓋を付けたような物だろうね
始皇帝陵兵馬俑坑からミニチュアが出土しているよ 平安貴族も牛車使ったのは洛中だけで洛外に出る時は輿を使ったみたいね
機能性より権威付けのためだったらしい >>181
安倍政権と同じだな
セルフ経済制裁してる >>369
ツタンカーメンのチャリオットの軸受ってどんな構造なんだろ?
時代考えて鉄は無いから青銅製なんだろうけど耐久性とか興味あるわ。 >>135
目黒のさんまは、徳川将軍でなくてどこかの大名 >>347
太り過ぎて馬に乗れなかったのは
龍造寺隆信だろ。
輿担いでいた下人がみんな逃げて
最後逃げ遅れて島津に首をチャンパされたw >>366
徳川幕府支配のため
他国を攻めて領土を広げることが
できないから新田開発が江戸時代初期さかんだったらしいな
だから公式の石高より実高が高い大名もいた。毛利とかな。 江戸時代は百姓一揆が3000件くらいあったんだっけ?
俺たち民草はお上からそうとう搾取されてきたのな。 >>376
今川義元と大谷吉継は知ってたがもう一人輿に乗りながら指揮したのがいたの知らなかった。
大相撲の白鵬並みの体格だったらしいね。
沖田畷は深追いしすぎて迷路になってるようなところに入り込んだところを島津軍の伏兵が襲撃。
輿を担いだ兵は逃げて首ちょんぱされちゃった。 >>379
主君でも信望のないのは見捨てられるな
井伊直弼も供回りがほとんど無傷で逃げている。
まああとで斬首お家取り潰しだけどよw
大谷吉継は首のありかを知っている徳川方の武将が口を閉ざすほどなんだけどな
(ありかを言えば褒美で大名にもなれたかもしれないのになw) >>379
九州なら雷神ことベッキーが輿に乗って指揮していた。 >>378
それが薩摩藩だけは、ほぼ一揆がなかった
理由は薩摩武士が怖すぎて、百姓も一揆やってもムダだと諦めてたから
薩摩藩はイロイロと異質 >>311
竜造寺隆信w
太ってて重かったから輿に乗ってたけど、家臣から嫌われてたので最期は輿を捨てて兵士が逃げて首取られたっていうアレが好きw 薩摩は他より武士の割合が高くて年貢も厳しく富農がほとんどいなかったと司馬さんが書いてたよ 博物館なんかで見た駕籠はとても小さく感じたけど
アレに本当に乗れたのかなって思うくらい >>383
薩摩って息がつまるような所だったんだろうな。 >>387
馬の仕事を人にやらせてる! とかかな
幕末に来日した西洋人に評判が悪いのは既婚女性の眉剃りと鉄漿だね
不気味 と書き残してる >>388
逆に、幕末の写真で見る駕籠は、かなり大きい
人物と映ってる対比で見ても >>387
長崎のオランダ商館長一行も江戸参府の道中は、駕籠に乗ったり馬に乗ったりだったらしい そう言えばチョンってこう言う歴史的遺物とが残ってるんかね
例の猫車とかw 福井は県庁の近くの神社に三つ葉葵がついた神社があるよね。 去年だったか納屋で発見されたフェラーリ並みに凄いこと >>394
福井藩祖の結城秀康祭った神社だと思う
お城の近くには藩主祭った神社が明治以降によく建てられた 小浜城跡(天守台跡しか残ってない)の隣だったか、酒井家祭る神社あった >>7
君だって乗ってきた自転車をスーパーに忘れて帰ってしまうことがあっただろう? >>400
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 宿場事に専用の人員が待機していて名うての担ぎ手がリレーして運ぶ早駕籠は
馬で移動するよりも遙かに早く移動できてたで(どう考えても酔うと思うが)
実際馬で移動したら途中で何度も休憩が必要だし
早足以上を続けてたら潰してしまうし
人間なら組合でダイヤグラムのような往復運用もできるし、
必要なメンテは自分でするし、遙かに現実的で費用対効果も高いわな
平地で石畳がしけるとかなら馬車もありえたかもしれんけど基本峠ばっか
結果として当時の庶民はお伊勢参りとか大山参りとか徒歩で行くのが当たり前に
宿場と街道があるからそれで困らないんだけどさ >>403
赤穂事件の時に江戸から赤穂の国元に事件の発生を伝えたのも早駕籠リレーだしな。 >>7
ディーラーに新しい駕籠を発注してあった
または現地で新車が献上されたとか
ってボケてたら、股肱の臣を移封する際に贈ったものなのね
貿易港を含む商業地の治政(特に対外貿易)を掌握させたかったんかな カゴをプレゼントしたとしてカゴを持つ人間はどうしたんだろ?帰ったの?
>>400
スーパーからカゴを持って帰ってしまうこともある 孝明天皇が乗って加護が京都のお寺でみたが
金ピカで驚いた >>404
忠臣蔵を見ると早駕籠のシーンはなぜか海岸を駕籠で走るんだよな
距離を稼げてなおかつ電線やビルが移らないアングルだからなんだろうが 将軍や殿様って行列の中で籠で移動するけど、
「狭いの飽きた、俺は馬に乗りたい」とか「やっぱりしばらく歩くわ」とかは
逆に身分のある人はだめって言われるんかな >>23
長いけど2人じゃなくて4人とかで担いでたのかな? >>294
毎晩やってるから、そんな想定はしてないw >>14
大八車っていつごろできたんやろ
ちうか道がわるいのか >>244
この画面からして草ぼうぼうなのがわかるし
>>345
ID:56lbRHO30は昔利根川がどこに流れてたかなんて知らなそう >>372
チャリオットが壊れて放り出され
それが死因になった説があるぐらい >>404
詳細は不明だけど、内匠頭が殿中で刃傷沙汰を起こしたこと自体は
早駕籠より1日前に商人筋から赤穂に伝わっていたらしい
商人は多分早飛脚を使って江戸から情報をゲットしたのだろう >>412
例えば、東海道。
箱根峠や大井川を馬車で超えるとか難儀。意図的に江戸時代は陸地での移動を制限していたし。
江戸時代以前は、治安が悪いので馬車なんて使ったら逃げられないのでかっこうの獲物でしかないし。
京の都の中で牛車に徒歩の護衛をつけて短距離を移動する程度は可能だったが。 >>424
戦前、国内道路の舗装が進まなかったのは「馬の蹄が傷む」と陸軍が反対したからだよなww >>412
将軍くらい馬車が使えてもいいと思うが、単に馬車が通れるほど道が広くなくてアップダウン激しい道が多くて実用的じゃなかったのだろうな
人力ならよほどのところ以外は行けるし。 房総半島で東京から遠い方が 上総 なのは、奈良や京都から国司が海路で来たからと聞いたわ >>341
鎌倉以降街道整備をしなかった最大の理由は安全保障 >>343
昔のガテン系は、刺青が衣服の代わりみたいなもん、と幕末来日したシュリーマンが書いてる(来日旅行記) >>229
周りの連中がアホみたいだから持ち上げるのが嫌なんだろうねw まず、物資の大量輸送は水運が中心
国土が細長く、河川が多い日本では水運が便利
必然的に陸運で物資を大量輸送するニーズは低くなる
次に国土が山がち
隣村に行くにも、山村から城下に行くにも、隣国に行くにも急峻な峠越えが必要になる
馬車は急峻な坂道は上りも下りも苦手だから、必然的に馬車は使わなくなる
ヨーロッパやアメリカのような大平原の国とは事情が違う
中近東だって、砂漠地帯は馬車は廃れていっただろ 初めまして。徳川家光の生まれ変わりです。
悪いけど駕籠返せや。 >>409
本当はちゃんと街道を走ってるよ。
早駕籠のあまりにもの必死の勢いに街道筋の寺で大工仕事してた大工がなにか大事件でもあったのか?噂したぐらいの勢いで駆け抜けたらしい。 >>427
つーか昭和30年代前半まで日本ではトラックなんてもんは自衛隊や軍の一部部隊とか米軍しか持ってなくて殆ど馬が引く馬力が担ってただろ。
川西航空機から完成した紫電改を飛行場まで夜間に牛車で運んでたらしいし。
なんたるハイテクとローテクの組み合わせかと思う。
陸軍だけのせいでは無いと思うよ。 >>436
ドーモ、イエミツ=サン、忠勝デス
駕籠は返さん 日本で江戸時代以前に馬車文化なかったのは去勢技術がなかったからだとか 日本には広くて平坦な計画℃道路は古代にはあったがそれ以降は廃れた
とてもじゃないけど馬車とか走らせられれうわけがない
こんな状態が明治維新までずっと続いた >>442
日本国全体を中央政府管理するという思想が無いもんな。
小さな多数の独立国を一番力がある徳川家が束ねてるって形だから道路なんて整備されるわけがない。
ドイツ帝国成立前のドイツに似ているけどね。 >>443
だから、五街道は整備されただろ
山がちな日本国土では馬車は役に立たないし、海に面して細長い国土では、
大量貨物輸送は水運が中心だったから、馬車のための道の必要性は低かっただけ
中世ヨーロッパよりはるかに進歩していた、アラビアでも馬車は主流の輸送手段ではなかったのと同じ >>444
整備って言っても橋もかけないし(わざとだけど)物流って面では全くダメだよな。
江戸時代は新しいことを導入すると利権持ちの権利を侵害するって理由で妨害される世の中だから仕方がないけどさ。 >>445
橋がなかったのは大井川だけだろ
一つのことを、すべてのように言うのは間違っている 東映の柳生一族の陰謀と激突で腹黒い悪役の人の印象が強い >>446
馬入川、酒匂川、富士川、安倍川、天竜川なども橋がなかった
渡船か人足による渡しのどちらか
防衛上の理由だけでなく、技術的に無理だったんだろう >>412
とにかく道がひどかった
朝廷が事実上統治能力を喪失した平安末期から明治維新までの日本は領邦国家の様な状態で、
統一日本として大規模なインフラ整備をするという発想に乏しかった
あとは思考様式の問題で、車が通れなければ通れる道にしよう、ではなく、車が通れなければ歩け、という方向性に行ってしまった 担いでて落としたりせんかったんやろか
デブとかやったら大変やな 中世までの江戸湾一帯の道はどこも酷いぬかるみだったらしいね 外人から見たら
車輪があった古代と車輪がマイナーになった鎌倉から近世の日本についてどう思うのか気になる 古い寺行ったら江戸時代の駕籠が結構置いてある。
坊主も偉くなるとあまり歩かなかったんだろうね。 殿はわがままが許されるから籠に乗ったり馬に乗ったり歩いたり走ったり
自由だろう。
何しろ家臣の生殺与奪権を持ってるからね。
殿それは成りません
打ち首じゃ
だし。 解体工事があるまで気づかなかったのは生くら坊主しかいかいからかw 昔の人健脚すぎ。AMAZONで「春日局」見ながらおもってたわ。 >>314
さすがに殿が言えば配慮あるんじゃないの? 家光ってものすごくチンコが小さかったんだろ?裏ビデオの将軍家光で確認したんだから間違いない >>449
雨が降れば草履をやめて下駄を履く。
雨が降って川が氾濫すれば水量が減るまで旅籠で足止め。
道端が狭いので大八車の積載量を犠牲にして道に合わせて設計。
技術力を使って自然を変えていくことを避けて人間側が合わせていくといういかにも日本的な発想。 意外と質素だな
てか、将軍家拝領とかそういういわれの引継ぎはなしかよ >>455
少なくとも、参勤の道中や、江戸府内においては、大名といえども自由ではない。
江戸藩邸から登城するときなども、一行の人数も、乗り物も、幕府から決められていた
特に許しを得ない限り大名は駕籠で登城することになっていた
一行の人数、道順、乗り物などが相違していたら処罰の対象になる 馬車はメンテ、コストがかかる
他領で人跳ねちゃったら大問題
人足が安い、安全だからそっちでいい >>464
駕籠に跳ねられる事故って聞いたことないし時代劇でも無いよな。
荷車に跳ねられて死亡とかのシュチュエーションは見た記憶がある。 >>463
つまり「殿はわがままが許されるから籠に乗ったり馬に乗ったり歩いたり走ったり
自由だろう。」というのはウソだということ。 >>467
経済学なんて学問はない時代だから緊縮財政で民需が冷え切ってもヘーキだからな。
それでも江戸時代はインフレ対策で改鋳につぐ改鋳を行って政府発行通貨の信頼がゼロになった平安時代の政治よりは遥かにマシと言えるが。 >>458
殿様が家臣に下手に注文を出すと家臣の責任問題に発展して面倒なことに
なるので我慢していた。 >>470
自分が決めた決まりならまだしも、ご先祖様が決めた制度や慣習は、大名でも、というか大名だからこそなかなか変更は難しい
今では想像ができないほどご先祖様がリスペクトされていた
何せ世襲だから、自分が大名の身分でいられるのは自分の力でもなんでもなく、
すべてがご先祖様のお陰なんだから、ご先祖様が続けてきたしきたりは、余程の理由がなければ許されない
大名ともあろうものが、ご先祖様への尊崇が足りないということは「不行状」として幕府からの叱責も覚悟しなきゃならない >>438
中島飛行機の地元だけど本社工場から隣接する飛行場までの道路が近辺の何処よりも早く舗装されたってじーちゃんが言ってた
珍しくて皆が見に行ったんだって道路を >>457
そのかわり、ぶっ壊れるのも早かった
関節は鍛えられないのでそこからやられる
飛脚みたいなランナーは心臓もやられた >>462
どこの本陣に泊まり他藩とかち合わないように調整し所要日数と到着日時刻限まで
キッチリとスケジュールを幕府に報告しなければならなかった。
そのため参勤交代の里程表まで考案され使用したがそれは今日のダイヤグラム
と実によく似ているものだった。 >>469
幕府や大名の台所が不如意だから、武家が質素倹約するところまではわかるが、
町人や百姓にまで質素倹約を強制するというのは理解不能というか本末転倒だよな >>473
早死にしたり足腰悪くして辛い老後(40代後半?)を送った人も多かったと思う。 >>475
お金が生き物みたいなもんでグルグル回って世間を動かしてるって事が幕府の偉い人には理解できなかったんだろうね。 >>477
理解していた人もいるにはいるんだが、理解していない連中から袋叩きにあって
歴史的には悪者扱いされてるね
尾張宗春とか田沼意次とか
経済以前の人としての道徳として、質素倹約=正義、奢侈淫逸=不正義という観念があるからな >>478
上杉鷹山とか兄の秋月種茂みたいに財政建て直ししつつも、殖産興業と教育に力をいれてバランスとるのに成功した藩主もいるにはいるんだよな
当時としては画期的な子ども手当やったらしいし >>478
田沼意次って悪者扱いされすぎだよね。
低い身分から身を起こしてあそこまでなったんだからすごく有能な人だと思う。
無能な譜代共のやっかみがすごい。 >>464
日本は動力機関が明治まで無かった国だよな >>481
ヨーロッパにおいても、明治の半世紀まで動力機関なんてなかった >>478
秀吉の時代は貨幣経済の市場経済が理解されてたようなのに
なんで江戸幕府の途中からは米本位制に戻ったの? >>484
年俸の呼び名が石高なだけで実際には現物支給は半分以下だったんじゃ?
米本位制に戻ったってタイミングがいつなのか判らないけど >>484
信長も秀吉も重商主義だな
堺や博多の大切さをわかっていた
徳川は中世以来の伝統的な重農主義
商業は生産しないのに金をかすめ取る賤しい職業という基本的思想が江戸時代を通じてあった >>484
日本全国から税を取り立てる、
各大名・藩の力関係を明確にするにはまだ米のほうが実用的だったんやな
近畿地方主体と中央集権をしつつ日本全土の統治を行うだと視点が変わるかも、だ >>448
防衛と宿場利権、支配継続のためですな
それぞれ難所でない街道沿いなら本来橋の建造補修程度は難なく出来るで
日本は都市国家じゃない上に地方や国単位での統治が長かったから
人の移動は本来好ましくなかったんやな
戦も難所や狭隘な部分で野戦なり、出城・砦なりを築いて防ぐ感じやし >>445
千石船による沿海航路は発達してた
酒や醤油、蜜柑まで上方から江戸に海運で輸送してた >>489
酒の輸送は毎年レースするほど。
北前船のおかげで日本海は名実ともに日本海だったしな。
水運に関してはかなり考えられている。
でないと100万人都市江戸の需要支えるのは無理ゲー。 >>485
俸禄の支給には
現米支給と知行地を与えるの2パターンがあった。
現米支給の場合額面通りの石高の米が与えられそれを自分らが食べる分を除いて札差に持ち込んで現金に換えた。
これらは多くても数百石までの旗本御家人の場合が多かった。
知行地を与えられた場合それが数百石であってもその領地を支配する殿様であり現米支給よりも高いステータスが在るものとみなされていた。
ただし石高はその領地から採れる米の量なので100石の知行地を与えられた旗本で五公五民の税率をかけたとして実実収入は50石になる。
そしてその領地を支配するために代官を置いて治安維持や徴税も自ら行わなければならない。
家来も養わなければいけないし結構大変なので現米支給のほうがはるかに楽だった。 >>491
幕臣の場合は四公六民だから、100石取りの旗本の場合は100石の40%である100俵が旗本の取り分じゃないのか? 491の続き
そして幕末になると天領や旗本領の治安は行き届かなくなりヤクザ者や浪人が跋扈しとても乱れた状態になった。
天領(幕府直轄地。ここから取れた米が現米支給の旗本御家人の俸禄米になった)や旗本領は関八州に多かったのでヤクザの本場が上州と言われるのもこの治安悪化が関係している。 先祖代々俸禄は変わらないのに物価だけ上がるから、構造的に武士は貧しくなる運命だった、
と武士の家計簿で磯田が書いてたな >>494
米価が家康時代から比べると、吉宗の時代で1/2以下、家斉の時代では1/3くらいに下落したから、
米を支給されるお武家さんは苦しかったろうな。
その上、多くの藩では、半知借り上げで知行の半分以上を藩が召し上げてたから、
同じ石高でも、江戸時代初期の1/4〜1/6の収入になってた。
酷い貧困だな。
そりゃクーデターを起こしたくもなる。 >>492
知行取りの100石は現米支給の100俵取りとほぼ同じだと思う。
1石は10斗で一俵が4斗だからね。
ただ現米支給の旗本御家人でも俸禄の表示が石表示と俵表示があったから同じ石高表示なら現米支給のほうが見入りは多い。
ただ知行地があると石高が少なくても殿様気分が味わえるし領民を無理のない範囲で労働動員できたから気分は良かっただろうと思う。ね >>316
サスペンションかゴムタイヤが付いてないと乗りこごち悪そうだもんな >>490
千石船の運行に必要な人員が10数人らしいからな
馬に背負わせると1000頭強、人間だと3000~4000人は必要になる
これじゃ陸路でものを運ぶって発送は進化しないわな >>497
馬車用のサスが入ってきて、、明治に爆発的に人力車が普及してるからね
やはりサスペンションの問題が大きかったっぽい >>498
運ぶ先の大阪や江戸は水路が張り巡らされていたから水運を使わない手はないよな >>499
いや、江戸幕府が規制かけましたやん?? >>499
明治5年にはもう駕籠は殆ど見られなかったらしいからな。
5年で道が改善されたとは思えないのでサスペンションが導入されて人力車の乗り心地が実用段階に達したんだろうね。 そうそう江戸の主な運搬は海運。
ゆえに、たった四隻のペリーの黒船には驚愕したわけよ。
江戸湾封鎖されたら、その瞬間に江戸は飢餓に陥る。
同時に、江戸から出る大量の糞尿も海運で農村などの外に出してた。
江戸湾封鎖されると文字通り糞詰まりになったのだよ。 >>505
下肥は水運なんか使わないよ
江戸近郊のお百姓さんが天秤棒や大八車に桶を乗せて汲み取りに来てた >>448
技術的に無理??
防衛としてわざとだぞ。
あのデカい出雲大社作ってた国に技術がない
わけがなかろうが。
>>498
古代から琵琶湖が日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の
ターミナルだったらしいね。
北陸〜「琵琶湖」〜淀川〜京都、大阪〜瀬戸内海
って、琵琶湖を起点にしてたらしい。 100石取り
1俵=4万 100俵=400万=安い給料
家来+家族=計8人で 400万辛い! >>505
驚愕??
物見遊山の見物人が出過ぎて、幕府が規制かけたんだけどな。 江戸時代ってからくり人形とか趣味的な技術はあったけど
実用的な技術はあんま発達しなかったね >>508
琵琶湖を押さえるのが織田信長の安土城だったんだが、明智のせいで灰燼に帰したのは残念 安土城は今でも十分に立派
戦国時代の城なんて大抵あんなんだし >>512
織田信長があと20年生きてくれたら、ポルトガルなどともっと貿易が盛んで
ポルトガル語の中には日本語由来の言語がもっと入りこんでただろうな
欧州の政治にも日本が関与してたらもっと面白い事になってたと思う >>514
そんなの今の日本と全く違うようになってるだろうし信長は死ぬべき時に死んだと思う。 >>511
和算もかなり高度に発展してたけど、芸事とされて科学技術の発展につながらなかった、
と言われてるな >>508
増水のたびに流される木造の橋なんか、維持にカネがかかりすぎて使い物にならないだろ
数年前に大井川の蓬莱橋が流された >>516
体系的な学問にならなかった。これは宗教の違いも関係してくるね。
さらに科学技術が産業革命に結びつかなかったのは、人を扱き使う方が安くついたので、
そのインセンティブもなかった。 時代劇の駕籠とか桜田門外みたいに襲撃されて終わる悪いイメージしかないわ >>517
どうせ流されるからかけないで渡し人足に任しときゃいいわ、人足の元締めから運上金も入るしw
ってことになったんだもんな。 >>518
イギリスの産業革命の場合始めは山の木を切り倒して炭を作ってたのが切りすぎて木がなくなり当時発見された石炭を使い出した。
石炭鉱山を掘り進むと水が湧いてきてその汲み出しに体の小さい少年労働者を使っていたのが危険すぎてバタバタ死んでいったのをどうにかできないかと言うことで蒸気機関が発明された。
日本の金鉱山でも水の汲み出しは囚人にさせていたが囚人の命は軽かったので機械にさせるなど考える日本人はだれもいなかった... >>508
江戸時代、東海道五十三次で人口が最大の宿は駿府でも宮(名古屋)でもなく大津だったんだよな。 大津は京の外港だからな。
今の大阪に対する神戸、東京に対する横浜みたいな立ち位置。
瀬戸内から淀川を遡ってくる船と、日本海側の敦賀から
短距離の陸路を経て琵琶湖を南下してくる物資が集積したのが大津で
この水運が京1000年の繁栄を支えていた 三代将軍ってまるで二代将軍がいるような表現だな。
まぁいいけど。 >>524
良くも悪くも、安全保障の観点から内向的政策進めたのは秀忠というのが近年の歴史研究のトレンド。 >>484
林大学頭を始めとする堅物儒者のせいかなぁ 昼夜の区別なく担ぎ手のニンジャ肺活量とニンジャ僧帽筋をもって跳ぶように斜面を駆け上り、飛ぶがごとく崖を降る
駕籠とは時の権力者にとって最も安全で最速の交通手段であった 家光が使っていたとか立証できてるの?
作って贈っただけかも知れんし
嘘くさい >>522
京へは今の新幹線や東海道線らがトンネルでぶち抜いてる2つの山越えもあったしな。
宮(名古屋)の場合熱田から七里の渡しで伊勢湾越えて桑名まで行ってしまうので見過ごされていた。 >>523
京の外港は淀じゃね?
大津で荷揚して山越えして京に入るより、そのまま瀬田を下って淀で荷揚するだろ。
淀からなら鴨川や桂川を上って洛中に入ることができるし
大津からの山越えの陸運は大変で、なんとかショートカットの水運ルートができないものかというのが
京の人々の昔からの悲願だったから、明示になってから琵琶湖疏水が作られた 3倍のスピードで動ける家光専用駕籠
酒井忠勝「車輪がない…気に入らんなぁ」
整備士「車輪なんて、あんなの飾りです!エロい人には…」 >>334
だって殺しにくる敵が近くだからしょうがない >>532
でも、実際には徳川時代には殺しにくる敵なんていなかったでしょ。
とはいえ、女だけで500kmもの行程の旅ができる交通インフラを維持したんだから、
実効的な交通レベルとしては世界最高水準だけどな。
少なくとも17世紀、18世紀においては。 「○○小学校で南海地震を想定した津波からの避難訓練が行われました。どの生徒も本番さながらの真剣な面持ちで訓練に参加していました」
生徒のインタビュー「東日本大震災の津波を見て、日頃の訓練の大切さを実感しました」
ローカル番組なんてこんな話題ばっかだもん >>533
結果いなかったと我々が知っていただけで一族・譜代ですら遠ざけた時代やぞ。 >>486
といっても貨幣制度を全国規模で整えて、
貨幣の発行権もがちで掌握したのは、
徳川なんだけどね。
ちゃんと海外貿易もしてるし。
ただ、金だて、銀だて、銭が変動するから
いろいろ面倒なんだけど。 >>32
中国が馬車、戦車を使ってるから、
早い時期に入ってきてるけれど、
日本ではなぜか流行らなかった。
貴族は牛車を使ってたけどね。
あまり大きな平野もないし、細い山道とかばかりなので、
徒歩と騎馬で問題なかったようだ。
馬車と椅子、テーブルは日本人、嫌いなのよww 紀元前2000年〜3000年のシュメール人が戦車を使ってたのに、
3600年以上未来の江戸時代で馬車が無かったって凄く馬鹿げてるね。 >>537
通貨の発行権といっても、各藩では藩札を発行してたし、
銅銭は幕府成立前から流通していた永楽銭も流通していたし。
それほど幕府ががっちりと通貨を支配している印象はない
大阪は銀貨、江戸は金貨という面倒な通貨制度だったし、
信長や秀吉ならもう少しシンプルな通貨制度を成立させたかも
面倒な通貨制度があったから比較的近代的な金融制度が成立したんだけどな 駕籠が交通機関とかどんだけ遅れているんだ。
江戸から福井まで駕籠で行くなんて寿命を縮めるだけ。徒歩の方がマシ。 >>539
全然馬鹿げてないよ
戦車なんて、中世にはヨーロッパでも中近東でも廃れている
支那でも南北朝時代には戦車なんて完全に廃れていた
ヨーロッパでも中近東でもアジアでも騎馬と歩兵が主流になった
(インドや東南アジアでは象も使われたけど)
現代でも、この30年くらいで近代化し始めた新興国や発展途上国は、固定電話のインフラは整わないままで、
携帯電話が主流になっているのと同じで、遅れて文明を取り入れる時に、わざわざ時代遅れになったものを取り入れることはない >>541
現代でも、自動車ばかり使って、歩かない人は生活習慣病で寿命が縮まるのと同じ >>540
銭の国内大量発行は、家光の代で、
中国の古銭をこれで廃止して切り替えてる。
銀は上方もそうだけど、海外貿易が銀だてメインな分も
あったんだろうね。
最終的には銀(匁)はあまり使われなくなっていけどね。 >>540
大久保長安事件で幕府の貨幣政策にブレーキが掛かった説。 隆慶一郎の柳生モノの小説でホモのイメージだけど史実でもそうなの? >>543
江戸時代は生活習慣病のみならず脚気(かっけ)も死の病だった。今まで玄米食だったのが精米された
白米が主食になって急増したと言われている。脚気で亡くなった将軍もいたくらい。 >>542
元は偽札ばかりだからすぐにキャッシュレス受け入れ。
一方信用性高い日本銀行券はかわらんと。 >>548
ホモというよりは権力の行使
経験するとわかるけど男だろうが女だろうが性欲でなく征服欲って最高なんだわ >>540
徳川幕府が庶民の通貨・寛永通宝を発行したのは大きい
平氏・源氏・足利・織豊は、宋銭や明銭を輸入して流通させるだけで日本独自の銅貨を発行しなかった
徳川幕府は、通貨を鋳造管理する独立国としての最低限の仕事はやったと思う >>540
藩札は藩内だけの地域限定通貨
幕府発行の金銀銅貨は日本全国で流通する >>549
地方の若者が江戸に働きに行くと発病したので江戸患いと呼ばれた
地元の村ではアワ、キビなどの雑穀や良くて玄米食べてたのが、江戸で流通してる白米ばかり食べて脚気になった それもあるけど、白米ばっかでおかずは漬物と汁くらいで超貧弱だったからな
まともなおかずがあればビタミン不足で発病したりしない >>554
藩札は藩外でも通用したが発行藩以外では割り引かれて使われていた。
一般にその藩から離れた場所になるほど割引率が大きくなった。
隣藩からなどでは2割引とかで通用していた。 >>554
そうでもない。
少なくとも、江戸や大阪でも各藩の藩札は通用していた
藩札以外にも藩発行の米切手なども通用していた
地域によって割引は発生する場合があるけど
要は藩札だろうと、米切手だろうと有価証券として通用する
各藩が江戸、京、大阪などの両替商から多額の借金をしたお陰で、
大手の両替商が全国ネット化していった
全国ネットの両替商が誕生したお陰で藩札や米切手が全国的に流通するようになった
逆に幕府が発行した貨幣だって、藩内での流通を制限していた藩もあったし 古代日本→背伸びして独自通貨作って見るも、信用されず失敗
平安時代頃→とりあえず貴重品で軽く、なおかつ必需品の布類を通貨として代用
平安末期〜→平清盛が宋銭を大量輸入。大陸で流通してる通貨って事で信用が担保されある程度成功
室町〜戦国→大陸で銅銭が枯渇するくらい大量に輸入して銭が流通。しかし粗悪な偽造銭も大量に出回り取引に徐々に問題をきたす
安土桃山→信長時代は良銭と鐚銭の交換比率を定めるなどなんとか騙し騙し使ってたが限界に達し
中国側で既に銭の価値がなくなってる情報の入ってくる西日本側から銭の信用崩壊が進行する
秀吉時代、ついに銭本位の経済政策が破棄され、米と銀を基軸とした現物経済に回帰する
独自通貨の発行も試みられたようだが、豊臣政権の瓦解で失敗に終わる
江戸時代→豊臣政権の現物経済を継承するが、利便性の問題から早い段階で独自通貨の発行が行われる
江戸幕府は過去に例のない安定した政権であり、日本で初めて国産通貨が信用力を獲得する
ただし、西日本では銀、東日本では金、そして米を基軸とした現物経済も厳然として維持され
国内で事実上4つの通貨が入り乱れ、それらが変動相場制で取引されるという世界でも類を見ないシステムへと展開して行く
簡単にまとめようとしたけど終盤になるに従いどんどお長文化しちまった、、、、 >>539
それは足利徳川という左翼テロリスト(フランス国家公安委員会に相当)の
右翼国民による兵器開発への恐怖からだろうな。
薩長が戦車など兵器を開発したら、彼奴らは自分らを殺すもんだと決めつけ
ヒャッハーと狂って片っ端から愛国国民を殺戮・投獄したんだ
そしてシナ(今のアメリカに相当)にははいつくばって利益をちゅーちゅーすすっていた >>559
そういや太閤検地で貫高制から石高制に変わっているな >>556
俠客の一宿一飯の義理でも飯だけは食い放題だったらしいからな。
あくまでも米の飯だけな。
おかずは魚の干物とかたくあんのみ。
汁がつけば良いほうだった。 ただ、日本文化に車輪が無いのは、
車輪文化の究極である新幹線を日本人は未練なく捨てて
車輪のない超音速リニア・モーター・カーにずんずん進んでいることには、
役に立っているんだと思う。 一般的に三代目はクズが多い中、家光は例外中の例外だよな >>565
最近は家臣が優秀だったイメージが強い。
三代目で一番出来る子は北条泰時。
もっと評価されて良い歴史上の人物。 写真見るとめっちゃ保存状態いいみたいなんだが
何で誰も知らなかったんだw >>567
江戸時代の遺物とか駕籠とかはあっちこっち残ってて
街の小さな博物館とか復元した城の中とかに適当に展示されてたり
寺とか旧家の倉庫で眠ってたりするのが多いからね
全部をちゃんと調べるには研究者も史料も圧倒的に足りない
だからちょっとづつ調べる過程で時々大発見がある >>1
ダンボール以下のゴミ
原始人の工作ワロタwwwwwwww >>565
足利義満は?
鎌倉幕府三代目執権北条泰時は? ん? ジャップがなんで馬車を持たなかったって話?
まあジャップの馬が非力だとかジャップの工芸技術が未熟とか
いろいろ理由はあるけれど、ひとつはあれだ
誰が御者やるんですかって話な。
馬っていうのは持つのは農民でももてたけど(農耕馬)
乗るのは士分、それも一定格式以上じゃなきゃだめぽだったからね
そして車夫馬丁なんて言葉があるけど、馬を操作するものなんて賤民扱いだからね
まさか武士がハイドーハイドーできるわけもなくw
明治維新の四民平等の時代まで誰も馬車が仕えない、運用できないなんて当然なんだよ
ジャップは身分制に拘る馬鹿、はっきりわかんだね それとネトウヨとかいう自称愛国者の病身を啓蒙してやると
平安貴族なんか牛車があれど馬車がない(厳密に言えばあったらしい)ってのはさ
単純な理由で馬ってね、信用できないんだよwww
畜産学は詳しくないんだけど、当時の日本の馬の調教技術だとね
貴族さまに道中絶対に粗相なく無事に安全に移動してもらえると保証はなかったんだってさ
対して牛はね、まあ馬に比べれば情緒が安定しているし粘り強く移動してくれるからいいんだってね。
まあ農耕牛なんてのもいるからね、力強いよな牛さんは。
ただでも牛だって所詮は畜生だからw
皇族とか貴人が行くときは人力、すなわち輿だったというねwww >>563
車輪はあるんだ。
牛車や大八車等々に使われてるだろう。
馬車が使われなかっただけな。
車輪文化がないのはインカ帝国じゃなかったか? >>570
室町幕府は3代義満よりも息子の4代義持のが良かったっていう話もあるね。
南北朝を休戦させたのは義満だけど最終的に終わらせたのは義持になってからだし。
終わらせたとは言っても南朝残党がまだ暴れていたからね。
また義満は守護や地頭の内紛には強大になって幕府に盾つかせないよう徹底的に武力介入で摘み取っていた。 >>383
薩摩藩士は戊辰戦争かなんかと時、敵の肝臓を取り出して食べていたんだよな
人食い薩摩とか言われていたらしいけど。 >>577
薩摩藩エピソードは耳を疑うような内容が多いよなぁ。 倒した敵将の肝を食うという習慣は鎌倉時代から戦国時代には日本全国で行われていたことなんだが、
薩摩は隔絶された土地だから長く残ったんだろうな 武家者の訓練の為に、罪人の生肝を奪い合うひえもん取りやってたくらいだからなぁ。 >>575
山が多く道が険しく雨が降りぬかるみができやすい日本で
馬車はムリだよ、車輪が埋まってどうにもならない
東南アジアでも馬やろばに荷を括り付けての運送が主流でしょ
牛車もごく一部の平坦な都会だけの運用 >>581
道が険しいのは大きな理由だけど、ぬかるむことは理由ではないよ
因果関係が逆
車が盛んに使われていれば舗装をしている
舗装が行われなかったのは車の往来が少ないから 将軍の上洛や和宮の降嫁は中山道を使ってるけど、
東海道は川が多いからなんかな じゃあなんで舗装しなかったんだろうね
海運が発達していたから運送目的で主要幹線舗装する必要はないだろうけど
大都市内部から衛星都市への道は馬車が活躍しただろうにね 馬車があろうがなかろうが荷物の運搬は水路のあるところは船で
そこから先は大八車で運ばれていたはずだが >>584
>じゃあなんで舗装しなかったんだろうね
車を使わないなら舗装する必要性は低いからだろ
なぜ車が使われなかったか?
それは坂道が多いから そこでなぜ大八車なのかと言えば人の手で動かせる程度の重さで
車輪が埋まらず非舗装道路でも運用できたわけじゃない
なぜ舗装して馬車で運用しなかったんだろうね >>587
関東平野や濃尾平野内での運用ならできそうでしょ
なぜしなかったんだろうか >>589
必要がなかったからでしょ?今の価値観で当時を理解するのは難しいと思うぞ。 >>572
侍でも徒士なら馬乗れないもんな。
馬の体格や技術力、道路の悪さより文化的なもんだな。
決して道は良くないアメリカ南部でも黒人奴隷が御者してたことを考えるとな。 >>589
関東平野は太田道灌や徳川家が本気出すまではずっと湿地帯だったろ? >>595
特に下総はね
だから南から安房・上総・下総
陸路なんかより海路の方が近い房総半島という名の通り >>589
少なくとも江戸府内に関していうと、山手と下町という言葉が示すように、
江戸城の外堀の西側が30mくらい高くなっている
市ヶ谷や赤坂あたりは自転車で登るのは無理なくらい急峻な坂になってるから、馬車は役に立たない
大阪も江戸時代に商業の中心であった上本町台地は急坂になってる >>596
海路だと安房のどこが玄関口だったんだろう? そんな便利な港は現存していないが… >>583
東海道は道が平坦だけど、川止めがある。
中山道は山道だけど、日数が読めて便利なの >>584
まあ、江戸近郊ならほとんど川舟で済むようだよ。
大阪、京あたりもそれで済むんじゃない?
名古屋なんぞ知らん。
まあ、もともと日本の平野は低湿地の場合が多いので、
河川工事前は、氾濫して水浸しだし、足場も悪いよね。 >>598
どこなんだろう
なんだかんだと館山か鴨川近辺泣きがしなくもないけど
濱でも構わないと言えば構わないんだよね
個人的に気になってるのは「夷隅」という字が当てられたのはどういう経緯なのかもある
合併に失敗したから「いすみ米」のブランド作るの難しいだろうなあ旨いのに >>599
関ヶ原の秀忠ww 決戦日不明だったとは言え、やはりグズ >>601
東海道(行政区分&街道)でいえば、相模から安房と続く感じだったはず。
東京湾出口あたりを横断じゃね。 >>603
波が高い外房は論外だし、昔の東海道は相模からまず船で上総に入って、そこから安房方面と下総方面に分岐していたのだろう。 >>595
本気出したせいで一大ガス田が・・・・・ >>604
とはいえ五畿七道以前に記紀万葉だと
太平洋に平気で出てるし外房の知名も出てくるしだ(例えば上の夷隅の元な)
実際どうやってたかは分からんのだ
最短経路だと>>603説をさらに突っ込んで浦賀水道を上総上陸になるけど
時代が下って頼朝の逃走経路なんかは非常だからこそ逃走経路とも言えるけども
船使えば陸路よりは速いわな(伊豆から相模に入ってすぐ海路で安房突貫) つても上総・下総と分かれる前は当然「総(ふさ)の国」なのだが
「房」もそこから当ててるだろう
要は阿波でもあったその地に四国のそれとまんまではと安房の字を当てて独立した 房総の南側は徳川家が利根川東遷なんて荒業で迂回したせいで物凄い難所ってイメージついてるね
実際はどうなんか知らんけど >>49
まじで?
体制維持のためとはいえものすごい発展妨げてるな >>611
1度幕府が馬車の導入を検討したら、沿線宿場の運輸業者が大反対して潰された
馬一頭で運べる荷物が増えたら、その分失業するって理論で
業者と政府の癒着による規制緩和の阻害は今に始まった事やない なんで小浜にあるのかと思ったら
下馬将軍の領地だったか
納得 >>299
俺だったら馬の乗り方覚えて馬にするわ
どうしても駕籠じゃなきゃいけないときは
家臣とすり替わるw >>584
陸上交通を不便にしとくのは東照大権現様の遺訓なので覆すのは難しい
最後まで大井川や富士川に橋作らんかったし >>612
為政者が信長じゃなくて良かったな。
普通にジェノサイドされてる(´・ω・`) >>609
利根運河もそもそもそういう目的だったよね。印旛沼は単なる農業用で運河じゃないけどね。 >>609
上総以南は基本丘陵地帯なんで難所もあるけど基本交通の便が良くないかな
といっても海だけでなく下総と比べて圧倒的に農作物も豊富なんで(特に米スゴい)
旅行に行くと安い旅館でも飯が旨いよね 将門の時代は千葉と茨城のあたりに香取海があって、東京湾と同じくらいの広さだったらしいね >>617
石山本願寺は10年戦って引き分けに持ち込んだけどな……あいつらパねえ
っつかあの要塞鉄壁過ぎ。そりゃだまし討ちで内堀も埋めたなるわ。 >>609
まあ、銚子からのほうが房総半島ぐるっと回るより、
速いっちゃあ速いんだわ。
北海道いくフェリーでも東京湾からよりも
大洗から乗ったのほうが速いみたいなもんでw 奈良時代、すなわち唐と戦争をするために立てた律令国家では、
当初、朝鮮半島へ向けて軍勢を送るための軍船が大量に必要と
されていた。同時に、大宰府から朝廷への連絡網として、瀬戸内
各地に狼煙台の設置、駅家制を整え各駅に馬と人を貼り付けて
防衛に備えた。これが古代の官道、山陽道の整備だった。
平安時代に入る頃、道鏡事件で流罪になった和気清麻呂、広虫
姉弟は、配流先へ船で流されている。当時、官用の交通には理由が
なければ船を使うよう通達が出されていたからだそうだ。当時の木
造船は10年持てば良しとされるほど寿命の短いもので、その維持費
用は相当嵩む。馬の維持費用もだが船はそれ以上かかりそうだ。
余程の覚悟で船の利用度を高め、練度を上げようとしたのだろう。
その後、平安時代後期になって平清盛が安芸国司に任じられ
宮島で船を祭るわ、大船団は率いるわ、音戸の瀬戸は開削するわ、と
船を盛大に活用したのを見れば分かるとおり、駅家制は廃れ、
やがて消滅した。もちろん、天候に左右されにくい、早いなど良い点も
あるが、陸上運輸はウマの費用負担の重さ、効率の悪さ、使う機会が
なくなったことから、日本では発達しなかったのだ。 江戸時代の参勤交代も、もともと大名にカネを使わせて
疲弊させるのが目的、とか言ってるが、実のところ、
参勤交代のために五街道を整備したわけじゃなく、
五街道の維持管理のために参勤交代させようと思いついたわけで。
なんか、目的と手段が分かりにくい。 >>517
日本の場合、わざと上部は流されてしまう
橋も有るんだけどな >>615
馬に乗って長距離を移動するのって滅茶苦茶疲れるよ
腿の筋肉使うし、坂の上り下りもあるし、尻は擦れるし、仮眠も取れないし
行列の中だと前後に終始神経はりっぱなし(人数から徒歩の方がメインだからね)
>>624
外様ほど領地支配を困難にする、立場を明確にさせる、人質を得る
経費を浪費させる、借金や関連雑務で中央に依存させる、という目的と
民に対しては物・場所の用意や維持で仕事を生む …とかかいなぁ
軍事行動を起こす余裕を奪って、大名自身の野心を萎えさせ、
領主不在・困窮する国元で変事を起きやすくする(領地没収の火種となる)
一律義務化することで異を唱えることもできないし 誰が考えついたのか興味があるねぇ 平安の頃すでに牛車という車があったのに何でやめたんだろ木のタイヤで揺れまくったからかな >>628
やめてないだろ
京では貴族が幕末まで乗ってた >>628
明治期に文字通り一瞬で駕籠が人力車に入れ替わってるからインフラの問題じゃないな
インフラの問題ならもう少し駕籠の寿命は伸びていたはず
サスペンションなどの技術の問題か規制なんだろうな
そこら辺の問題がクリアであれば、人力車がもっと早い時期から存在して不思議ではない >>628
ウィキを見ると応仁の乱であたりで廃れたけど、
秀吉が聚楽第へ行くのに復活!!と書いてあった。
真偽は知らんw >>630
それ考えると車幅統一して同じ轍で物資も軍隊も輸送できるようにした始皇帝すげえよな
サスなんてもんない時代だからこそなのだが
始皇帝つくづく偉大すぎる
こき下ろしまくった儒家はマジクソ儒教は邪悪すぎ >>632
儒教流行らなかったら、中国でレールを思いつく奴がいたかねぇ 江戸時代は馬の背に荷物を積む荷駄だったからね
峠あり川ありの日本の地形では、強力な中央政権がないと馬車の利用は不可能
人力に頼る大八車が都市部で利用されたていど
幕府が直に管理していない街道なんて、山間部になると人もすれ違えない道幅しかない所もある
比較的自由に使えた海運が想像以上に盛んだった理由
車輪だってリム、スポーク、ハブの三点がちゃんとしてないと役には立たない
リムとスポークを木製にすると強度の関係で大きな径の車輪を作る事は不可能
安価に使え、製造も容易な鉄製にしないと、陸運に使用するには無理が出る
製鉄業の発達度合いが関係してくるってことだね .
●悠然と、かつ執拗に、【日本の犬猫ナチス政策・総本山の地位を堅持し続ける環境省】に、【一切の例外なき犬猫セーフティ・ネットの拡大と拡充】を、強大なる人類の差別なき社会的的使命という観点から、これを厳重に要望する
我々は、皇太子殿下に、本件に纏わる交通学術的な観点からのインターネット講義が配信されることを、忌憚なく宮内庁に全力で強く要望する本心を率直に否定しません
●奄美大島・猫ナチス(※注射)政策に断固として反対の立場を貫く!!
【一匹でも犬・ねこを救う会 http://inuneko-sukuukai.com/share-cat/6160/】
【上田市・所轄警察署の薄情で全く腰が退けた、ヤル気皆無で、社会正義の実現に挑戦状を叩き付ける態度は、この世の地獄か!!】
【ホームレス猫】を野良ネコだの野ネコだのと蔑視し、残虐な猫ナチス行為を正当化する、部落差別社会推進の風潮を厳しく断罪する!!!!
●悠然と、かつ執拗に、【日本の犬猫ナチス政策・総本山の地位を堅持し続ける環境省】に、【一切の例外なき犬猫セーフティ・ネットの拡大と拡充】を、強大なる人類の差別なき社会的的使命という観点から、これを厳重に要望する
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【ネコは言っている】
【ここで死ぬ】
【定めではないと】
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>634
明治初期にあっという間に人力車が大量生産できたのはなんでやろ
最初は大八車に座布団付けたくらいのもんじゃなかったのかな? >>636
自転車が輸入されてそれを参考にして大八車の車軸関係を作っていた鍛冶屋によって人力車が作られたんだよ。
鍛冶屋が見よう見まねで作った明治時代のオーディナリーを見たけどまあ重くてできの悪い代物だったわ。 >>638
馬車式のサスペンションがついてるから馬車ベースやね?
自転車はかなり精巧な機会製品だからハードル高そう >>629
維持費出せなかったんじゃないか?
姉小路公知も暗殺された時徒歩だったぞ >>632
ローマ帝国もほぼ同時期に似たようなことをしていた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています