【岩手】蝦夷のリーダー“アテルイ” 「大墓公」姓、朝廷が授与 「大墓公という姓は、地元のランドマークだった角塚古墳から取られた」

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1樽悶 ★2018/08/07(火) 18:32:37.67ID:CAP_USER9
墳丘上から杉の木が伸びる角塚古墳。古代から「胆沢地域のランドマーク」だった可能性がある(奥州市で)
https://www.yomiuri.co.jp/photo/20180807/20180807-OYTNI50012-L.jpg
角塚古墳周辺の主要な遺跡
https://www.yomiuri.co.jp/photo/20180807/20180807-OYTNI50011-L.jpg

由来「古墳」「田茂山」からか

 平安時代初期、胆沢(現奥州市)を拠点に朝廷軍と対立した蝦夷(えみし)のリーダー、アテルイ。今も歴史小説やドラマ、舞台の主人公として人気だが、文献上の記述は少なく、その生涯には謎も多い。近年、遺跡の発掘成果などを基にした新たな研究で、意外な人物像も浮かび上がってきた。その一端を紹介する。

 世界遺産候補になった大阪府堺市の大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)で知られる前方後円墳。円形と台形の墳丘を合わせた堂々たる造りで、大和王権の権力のシンボルとも言える有力者の墓だが、奥州市胆沢には国内最北の前方後円墳がある。

 角塚古墳は全長約45メートル。高さ約4・5メートルの円形の墳丘から立派な杉の木が伸び、地元では「一本杉」の愛称で親しまれている国の史跡だ。築造は5世紀後半とされ、同じ胆沢で8世紀後半に活躍したアテルイとは約300年の開きがある。近年、二つの時代をつなぐ発掘成果が相次いでいる。

                 ◇

 角塚古墳周辺の繁栄の様子が分かるのは、約2キロ北にある5世紀代の中半入(なかはんにゅう)遺跡(奥州市水沢)だ。大阪府産の須恵器や宮城県産の黒曜石、久慈の琥珀(こはく)などが出土しており、近畿地方の古墳文化の影響を受けつつ、北東北の文物も受け入れている。

 石包丁などもあり、胆沢周辺ではコメ作りが盛んだったことがわかる。より北の地域では弥生時代に稲作が流入したが、寒冷のため根付かなかったとされる。胆沢は農業文化圏と非農業文化圏の交接点で、角塚古墳に埋葬された人物は、両地域の物資の流通を通じて力を蓄えた有力者の可能性がある。

 その後の遺跡として注目されるのが、5世紀後半〜6世紀前半の墓がまとまって見つかった沢田遺跡(奥州市胆沢)だ。角塚古墳の築造に関わった勢力の末裔(まつえい)による遺跡と解釈されているが、前方後円墳ではないため角塚古墳の被葬者より格下とみられる。

 当時は大和王権の力がより強固になり、東北でも徐々に地域の有力者の力がそがれていったとされる。墓の形の変遷は、中央と地方の力関係の変化を示しているのかもしれない。

                 ◇

 沢田遺跡に隣接する石田I・2遺跡でも大規模な集落跡が見つかっており、特に7世紀後半〜8世紀前半には竪穴住居が急増した様子が見てとれる。水田が広がり、南北の交易地として繁栄した胆沢でアテルイは生まれ育った。

 姓の「大墓公」は朝廷から与えられたものだ。この時代の文献では前方後円墳を「大墓」と称する例がみられる。地元の歴史研究団体「アテルイを顕彰する会」事務局長の朝倉授(さずく)さん(68)は「大墓公という姓は、地元のランドマークだった角塚古墳から取られた」と解説する。大墓を「たも」と読み、奥州市内の地名の「田茂山」が由来とする説も根強い。田茂山はアテルイが朝廷軍と戦った場所で、この説を有力視する研究者も多い。

 いずれにしても朝廷から姓を授けられたという事実は、アテルイ一族が朝廷と良好な関係を深めていた証しだ。アテルイはどのような心境の変化から“反逆者”になったのだろうか。

アテルイ

 本名は大墓公阿弖流為(おおはかのきみ・あてるい)。8世紀後半〜9世紀初頭、現在の奥州市を拠点に、朝廷に属さない蝦夷を率いた。延暦8年(789年)に朝廷軍を破ったが、同21年(802年)に征夷大将軍の坂上田村麻呂に降伏し、河内国(現大阪府)で処刑された。

読売新聞 2018年08月07日
https://www.yomiuri.co.jp/local/iwate/news/20180807-OYTNT50058.html

806名無しさん@1周年2018/08/12(日) 09:57:15.00ID:YKtd8faW0
陰険だなぁ…

807名無しさん@1周年2018/08/12(日) 10:05:41.08ID:NjctwLPv0
国立総合研究院大学の宝来聰博士は、
1万2千年前の縄文人の人骨からmtDNAを採取し、北海道に住むアイヌ人のmtDNAと比較。
するとすべての遺伝子配列が一致する人が見つかり、アイヌ人のルーツは縄文人であると結論づけた。
https://blog.goo.ne.jp/jintai-117/e/b8ee047447bd1688d0e5418f44d87aa2

縄文人=アイヌ 
これはミトコンドリアDNAで証明されている。

つまり、エミシも大和民族も渡来人。
だからこそ、各地にアイヌの地名が残っているが、特に東北は多い。
なぜなら、エミシは「アイヌ系言語」を使っていたからだ。


蝦夷の一部が倭人と異なる言葉を話したことは、古代の文献資料からも裏付けられる。
日本語と区別して「夷語」とされ、しかも、平安時代の鎮守府には通訳が置かれていた。
https://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/201602270000/

808名無しさん@1周年2018/08/12(日) 10:06:02.06ID:eHpk2JHO0
>>205
安倍ルイってことかな?

809名無しさん@1周年2018/08/12(日) 11:36:14.88ID:v2NVbnVV0
>>791
国交省も承知の上で書いてるんだろうけど蝦夷が関東にいた時代に利根と呼ばれてた川にそんな名前つけるだろうか。
今の利根川下流部(利根大堰より下流)ならそういう(2)の印象も分かるけどあれは江戸時代以降のもので、
以前は鬼怒川水系の内湾だった所でしょ。
現在の中川水系などになってる旧下流部についてはどうやら本来の呼称はかなり上流まで隅田川だったようだし、
本来利根と呼ばれてた群馬県内上流部も巨大な谷じゃなくて小規模な谷がたくさんあるのが利根と呼ばれてる川で、
大きな谷があるのは支流ばっかりじゃない。

810名無しさん@1周年2018/08/12(日) 12:33:44.49ID:ghI8nBkQ0
ヤチ、ニタ、ベツとかアイヌ語(=縄文語)由来の地名だし、被差別部落のことが多い。

例)ヤチ中→ヤス中

811名無しさん@1周年2018/08/12(日) 12:58:01.78ID:kDUk542r0
>>805
ツングースから文化を取り入れた日本固有のD系統(縄文人)が
アイヌ・エミシなのではないかな

812名無しさん@1周年2018/08/12(日) 13:31:53.46ID:kDUk542r0
エミシの馬文化はいかなる由来か定かではないが
田村麻呂と激戦した8世紀後半には騎馬戦の名手であったのは確かなようだ
日本への馬の伝来は4世紀ごろと言われている
これは当時大陸で高句麗と激戦する中で、大陸の戦術を日本にも持ち込む必要があったのだろう
5世紀になると東国(特に群馬栃木など)は馬の名産地になる
これがいかなる経路で東北エミシに伝来したかだな

813名無しさん@1周年2018/08/12(日) 13:42:03.16ID:kEsAjEym0
尾駮の牧
下北半島の付け根は馬産地
ポニーみたいな馬が主流の時代に野生の大型馬を捕らえ手なづけ献上していた。

814名無しさん@1周年2018/08/12(日) 13:59:36.10ID:kDUk542r0
>>813
エミシの馬は体高が高く優美であったと言われるね

815名無しさん@1周年2018/08/12(日) 14:16:00.44ID:D7Bfym9A0
大陸の戦術なんか使ってない

逆だね
日本固有の戦術に特化した

剣は直刀から、湾曲した日本刀に進化
騎射も日本固有のロングボウ

816名無しさん@1周年2018/08/12(日) 14:33:43.83ID:+rD6gkys0
このスレ、長寿過ぎ

817名無しさん@1周年2018/08/12(日) 15:15:05.79ID:l9E9gSmM0
なにげに良スレ

818名無しさん@1周年2018/08/12(日) 15:45:02.95ID:v2NVbnVV0
>>813
野生状態の馬がいたってことはさらに前の時代にその地域に馬を持ち込んで放し飼いにしてた人が既にいたってことだよね。
騎馬民族征服説なんてとなえた人がかつていたけど、反朝廷勢力にも早い時期に馬は伝わっていたんだね。

819名無しさん@1周年2018/08/12(日) 16:23:35.49ID:9uAMJeRN0
>>8
尾駮の牧は良いとして、ポニー云々は某氏の宣伝過多かと。

普通ポニーと言ったら、日本人ならドワーフポニーを想像するが、ポニーの本当の定義は範囲が広く殆どのアラブ種以外の馬は
ポニーに入ってしまう。アラブ種は確かに大きくて足が速いが、ご存じの通り骨折しやすく、戦闘では使えない。あくまで競走馬だ。

モンゴルもポニーでユーラシア大陸を制覇したし、日本のサムライが乗っていたのもポニーだ。

820名無しさん@1周年2018/08/12(日) 16:24:55.16ID:9uAMJeRN0
ちなみに、南部藩はアラブ種を江戸時代から輸入して飼っていたから、尾駮の牧にアラブ種が
いたのは江戸時代からか?

821名無しさん@1周年2018/08/12(日) 16:31:44.36ID:Z4riQ0lc0
エミシは元々ヤマト政権にいた人々、それも王クラスの人々と地元民の混血だと思うけどね

822名無しさん@1周年2018/08/12(日) 16:39:57.17ID:StAdtWOH0
モンゴル馬とロシア馬の雑種だろ。江戸期じゃなく室町。それ以前はモンゴル馬だろ。

823名無しさん@1周年2018/08/12(日) 16:40:12.77ID:MT7rZu6e0
>>41
それは「アイヌ文化の成立時期」と「アイヌの成立」を混同した暴論

アテルイはエミシであり、エミシはアイヌと同系統の言語、すなわち
東北各地に残る「アイヌ語地名」と呼ばれるものの元になる言語を話していた

824名無しさん@1周年2018/08/12(日) 16:46:01.15ID:ghI8nBkQ0
体高1mくらいなんだから、ポニーと言ってよいよ。江戸時代までの馬はそんなもん。

825名無しさん@1周年2018/08/12(日) 16:47:15.58ID:9uAMJeRN0
>>823
アイヌ文化を近世のアイヌが作っている様なムックリとかイヨマンテとか木製品に求めるとそうなるという話だよな。

それ以前にも、人種としてのアイヌ人は居ただろうし、言語や血のつながりはあったと思う。

826名無しさん@1周年2018/08/12(日) 16:54:44.09ID:6wghxkjH0
人種としてのアイヌ人って、縄文人なんだけど。

827名無しさん@1周年2018/08/12(日) 16:56:09.19ID:StAdtWOH0
長脛→三ノ輪山→虫、蛇→近畿の王
阿彦?安日彦?→越→まっかつ

828名無しさん@1周年2018/08/12(日) 16:57:48.00ID:ittSkMqY0
なお朝廷に反抗する模様

829名無しさん@1周年2018/08/12(日) 16:59:05.00ID:5T8qAKgC0
アテルイとモレ

830名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:00:39.30ID:StAdtWOH0
三内丸山がアイヌ、エヴェン、近畿原住民を総て受け入れた。
蝦夷とは言わない。
原日本人。

831名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:02:05.33ID:PzSZEOun0
日本人は朝鮮弥生人だぞ。

832名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:05:19.28ID:PKzgTblWO
>>678
長岡京は日向市じゃなく向日市ね

833名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:05:23.46ID:5T8qAKgC0
>>831
なぜか弥生=朝鮮にしたがるやつらがいるよねw

834名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:07:14.86ID:WqJXK1rJ0
地下大墓公阿印頭

835名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:09:13.21ID:kDUk542r0
>>821
大和政権あるいは大和政権と敵対した国津神が東北に移住してエミシの王となったのかもなあ
エミシ自身はD系統の濃い縄文人みたいな気はするが

836名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:10:32.16ID:4P6gi/Fi0
>>831
朝鮮だとしてもそれは箕子の事を言ってる可能性

837名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:14:01.55ID:vj6ISLqa0
>>819
あの赤兎馬もポニーだったらしいからなあw

838名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:14:29.72ID:6tABqb9d0
歴史オタクがハッスルするスレ

839名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:15:04.89ID:wfT5ERPc0
>>833
米は中国南部から渡来したので、南洋経由で漢人が流入して混血したと見るのが妥当だよね。

840名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:15:26.31ID:MT7rZu6e0
>>830
ツングースでしかもエヴェン族限定とかますますイミフ

841名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:18:59.41ID:D7Bfym9A0
つーか、平地で速度を早くするために作られたサラブレッドがでかいんですけどね
で、そんなの昔はいない

842名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:20:48.39ID:gEUnOXtG0
>>831
732名無しさん@1周年2018/08/09(木) 00:54:16.09ID:iDAey4Ei0

新羅本紀

14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍利音に反撃させた。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
408年 春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。
倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。
ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。

843名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:20:57.08ID:NX4NSO2x0
北日本の縄文人は「悪魔の門の洞窟人」と近いらしいから、ツングース系の人もいたのかもねぇ。(´・ω・`)

844名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:21:13.63ID:gEUnOXtG0
765名無しさん@1周年2018/08/09(木) 01:56:49.20ID:lzgG6LDg0
>>732
倭人の代表的存在である邪馬台国の卑弥呼以前にも
倭人達は統一した活発な海外行動をとってたんだ知らなかった

26日本@名無史さん2018/08/11(土) 23:38:29.31
>>25
「 新羅と百済は、どちらも倭は大国で貴重な物が多いと考え
 
 倭人達を新羅人や百済人は敬い見上げている。」

中国王朝二十四史書 『 隋書倭国伝 』より抜粋

倭人たちより古代から格下民族だったことを朝鮮民族は自ら自覚してたのを
中国人の客観的史書でも明らかにしてる

845名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:26:54.90ID:StAdtWOH0
阿彦をまずググれカス

ニギハヤヒ、長脛彦、先住民はエミシ。

846名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:31:01.67ID:zyA1iWiLO
>>839
呉の太伯伝説もあるんだしねぇ…
古代日本側の自称だから丸々そのままでないにしろ、その辺の流民が来た事実はあったかもしれない

847◆HKZsYRUkck 2018/08/12(日) 17:40:37.83ID:0OQOgWki0
>>804
たしかに木簡の恩恵は素晴らしいが、そこはそれ。
天皇記も国記も蘇我稲目さんといっしょに燃えちゃったもんね。
その点は口承の強みで、みんなが知ってるから、常にバックアップがあるのだ。

>>818
北方から入って来た馬とかいるのかしらん。
たちえば樺太でもいいし十三湊でもいいけど。

848名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:47:06.87ID:NX4NSO2x0
女王国の使者が「呉の太伯の後」を自称したってだけの話ズラ。(´・ω・`)

849名無しさん@1周年2018/08/12(日) 17:52:10.14ID:MT7rZu6e0
>>846
太伯は周の初期の人で、呉の開祖とされる
それは中原から遠く離れた辺境の呉の国が
野蛮人の血統ではないことを示すために持ち出した
500年も前に行方不明になっていた周の人物名

呉がそう名乗った時点で姫姓の周、中原の漢民族と無理筋ながら名乗っているので
日本人は「呉の末裔」を名乗った時点で無理をさらに重ねて「太伯を通じて周の血統」だと言っていることになる
よく「呉の太伯の末裔」と言うんだけど、呉自体は辺境でほぼ蛮族だからあんまり意味はない

850名無しさん@1周年2018/08/12(日) 18:03:31.98ID:Z4riQ0lc0
東海〜東北にかけて、オシラサマや天白信仰が分布しているかだよな
どうみても渡来人のことだし

でも西日本にはほとんどないんだよね

851名無しさん@1周年2018/08/12(日) 18:05:25.91ID:kDUk542r0
しかし戦国七雄のひとつである呉の子孫を自称するとは
それなりに倭人には自信があったと言えよう
最近のDNA解析でも江南から来てるのはほぼ確実なんじゃね
この場合江南とは山東半島から福建まで広大に分布していた百越のことだろうね(呉も百越)

852名無しさん@1周年2018/08/12(日) 18:08:13.67ID:x5ikxABQ0
なんか凄く失礼な名前
中華が倭とか夷とか付けるのを真似した感じ?

853名無しさん@1周年2018/08/12(日) 18:17:27.28ID:NX4NSO2x0
日本人はすべての漢語を本来の意味で使っている訳ではないズラ。(´・ω・`)

854名無しさん@1周年2018/08/12(日) 18:19:09.15ID:4P6gi/Fi0
ギリシャのアテネ ふごう

855名無しさん@1周年2018/08/12(日) 18:22:30.79ID:eDZ4a2d20
馬より速いカウンタック

856名無しさん@1周年2018/08/12(日) 18:26:18.47ID:NX4NSO2x0
蝦夷は人肉食べる?(´・ω・`)

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