【古代】狗奴国から邪馬台国に迫る 飯塚で古代史連続講座 「九州北部が邪馬台国、南部に狗奴国があったと考えられる」
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https://www.nishinippon.co.jp/item/n/545350/
古学者の高島忠平氏が監修とコメンテーターを務める古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く〜遠賀川の古代文化と邪馬台国」の
第3回フォーラムが22日、飯塚市のイイヅカコミュニティセンターで開かれた。
邪馬台国と敵対していたとされる狗奴(くな)国に関する近年の研究などについて、肥後考古学会と熊本歴史学研究会に所属する島津義昭氏と、
NPO法人古代邇波(にわ)の里・文化遺産ネットワーク理事長の赤塚次郎氏、高島氏が意見を交わした。
島津氏は、九州にある遺跡の出土品などを紹介。
弥生時代後期から古墳時代初期にかけてのかめ形土器は形が大きく二分され、「熊本を境に九州南部で出土するかめ形土器には足が付いている」と指摘。
「政治的区分の可能性があり、九州北部が邪馬台国、南部に狗奴国があったと考えられる」と述べた。
赤塚氏は「東日本最大の遺跡とされる朝日遺跡(愛知県)が気候変動や巨大地震で滅びた」と説明。
その上で「邪馬台国時代に入って社会を立て直そうと、東海地域の部族は移動し、東と西のまとまりができた。狗奴国と邪馬台国の争いが247年とすると、
初期の倭王権誕生に東海地域の部族社会が大きく関与したと思われる」と話した。 >>1
知ってるよんなことはw
税金に寄生してんじゃねーぞ >>1
フライングオーバーイタリア4K: チンクエテッレコーストバイドローン+ライトアンビエントミュージック&オーシャン/ネイチャーサウンド
https://www.youtube.com/watch?v=Xf5QTs2NLRc >>5
ところがこういうことを言う人達がいましてねw
【徳島】「第1回卑弥呼フェス」開催 山口敏太郎さん「邪馬台国は阿波だったと、やっと徳島の人たちが立ち上がってくれた」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1569229133/ 大阪歴博の考古学者たちが偽書記紀の呪縛から解かれたのを機に
ようやく色々と見直されはじめているな
偽書記紀信奉の自称学者研究者教育者どもの終わりの始まりを目にすることができるとは
長生きするもんだ >>1
いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述されている。古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていた。漢方薬や漆器に施す朱漆や赤色の墨である朱墨の原料としても用いられ、古くは伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られた。 九州は炭素14年代測定すらせず謎の編年で結論を出すバカが多すぎる
まあ宮内庁とか東大京大あたりの意を忖度した
バカなテロル教授が仕切っているのだろうが いつも筑豊でイベントやってない?
別にいいんだけど >>10
炭素年代測定の結果畿内の古墳は4世紀以降だとはっきりしちゃったから残念でしたねw
最古のはずのホケノ山が4世紀だもんね
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku277.htm
> 『調査概報』の年代を見た近畿説の考古学者は、ホケノ山古墳の年代をさまざまな理屈を付けて古く持っていき、
> これが卑弥呼の年代と重なると述べるようになった。
>
> しかし、今回の2008年の研究報告書では、ホケノ山古墳についてかなり新しい年代が報告された。
> 今回の報告書は、樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
> これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。
>
> 小枝からとった試料No.1の2σ暦年代範囲は250〜400calAD(95.4%)、 試料No.2の2σ暦年代範囲は320〜420calAD(81.5%)と
> 250〜300AD(13.9%)である。
(中略)
> この結果は、ホケノ山古墳の年代が卑弥呼の時代の3世紀中頃よりも、かなり新しく4世紀後半であることを示している。
> 『調査概報』のデータを見て、ホケノ山古墳の年代を卑弥呼の時代まで遡らせる主張をしてきた考古学者たちは、はしごを外された恰好になった。 ヤマト(邪馬台国)は日本の総称だろ
日本のどこにあったかなんてのは愚問 倭国では養蚕やってるって魏志に書かれてるのに畿内で絹が出ないのは決定的だな
畿内信者は九州が産地だっただけとか意味不明な言い訳をするけど、都のはずの奈良に製品が運ばれないわけ無いじゃん
庶民さえ絹を着られた九州の勢力からは相手にもされてなかったってことだわな
弥生の庶民は絹を着た
http://inoues.net/nyumon/amagi_kuriyama.jpg まあ暗黒神話が描かれたころもそんな認識だったでしょ だから、北九州は奴国であって邪馬台国ではないって魏志倭人伝に書いてあるえしょ。
頭悪いの? 素直な解釈:
・九州北部が邪馬台国、南部に狗奴国があった
捻くれ解釈:
・奈良に邪馬台国
もともと奈良にはナガスネヒコ(青銅文化)が支配していた(記紀にも記載)
策略(姦計)により神武天皇に制圧された経緯(記紀に記載)
もし魏の使者が数か月も掛けて北九州から出かけるはずもなし
現代人は高速道路を利用して移動する感覚にあるが当時は葦草が邪魔して
歩行に困難を極め途中の飲料水食料の調達を考慮したら生半可な移動ではなかったはず
道理整備宿泊施設がある程度よくなった江戸時代でさえ江戸京都間は三週間かかった
奈良邪馬台国論者はきれいごとな発想によって導かれたものにすぎない 九州で決まりだろ?
あとはいつ近畿派が認めるかどうかだけだわ 狗奴国が南(魏志)にも東(後漢書)にもあったことと、
国譲りをうけてなぜか天孫が南九州に降り立ったことと、なんかリンクしてる気がするんだよな >>9
残念でした
真珠や青玉が『出:価値の高い特産品』と表現されているのに対し、
丹は『有:価値の判断をせず、そこにあるという存在を示すだけ』の表現
これほど価値が無視される丹はベンガラでしかありません
793 :名無しさん@1周年 :2018/11/20(火) 01:02:43.71 ID:iWOIC1AW0
>>784
で、該当の部分について、魏志倭人伝の原文はこうなっている
「出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香 其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷不知以為滋味 有獮猴黒雉」
お前はこの文章を倭国の貴重品についての文だと捏造するが、其山有丹の後に続くのは倭国に生えている木の種類や竹の種類、
食用植物に動物の記録だ
単に倭国に存在するものを事務的に並べただけで、別に宝物についての記録ではない
文字表現についても、真珠青玉が「出」すなわち産出するという表現であるのに対し、其山有丹は「有」、つまり存在するよ、としか言っていない
この「有」は後ろの其木有枏杼橡樟・・・以降と同じ表現であり、「こんなものが有りましたよ」という軽い表現でしかなく、価値は認めていない
この一文の中で特別扱いを受けているのは真珠青玉のみである
木や動物と同程度の扱いを受ける丹がベンガラなのは明白だ
858 :日本@名無史さん :2018/12/10(月) 03:18:53.04
三国志烏丸鮮卑東夷傳から物品に対する用例を見ると、出は各国の名産品で、有は価値の判断をせず、そこにあるという存在を示すだけ
という使い分けのようだな
「出名馬。赤玉、貂狖、美珠。珠大者如酸棗。」(夫餘条)
「出好弓、所謂貊弓、是也。」(高句麗条)
「出赤玉、好貂。今所謂挹婁貂、是也。」(挹婁条)
「樂浪檀弓、出其地。其海、出班魚皮。土地饒文豹。又出果下馬、漢桓時獻之。」(濊条)
「出大栗、大如梨。又出細尾雞、其尾皆長五尺餘。」(韓条)
「國出鐵。韓、濊、倭皆從取之。」(弁辰条)
有の例
「有宮室、倉庫、牢獄。」(夫餘条)
「夫餘庫有玉璧、珪、瓚。數代之物、傳世以爲寶。」(夫餘条)
「有五穀、牛、馬、麻布。」(挹婁条)
「有麻布、蠶桑作緜。」(濊条)
「有瑟、其形似筑、彈之亦有音曲」(弁辰条) 1世紀には普通に倭人は韓国と頻繁に往来してたし、
北九州から山陰から北陸は普通に交易してたし、
そもそも倭人は後漢時代から洛陽まで使者を何回も行ったり来たりさせてたんだよね
「3世紀に九州と奈良は遠過ぎて情報も往来も無かった」ってのは何なん? 邪馬台国は北九州だと思う。
魏の使者が伊都国あたりに到来した際、応対したのは伊都国の役人であったと思われる。
伊都国は当時邪馬台国連合の外交を担っていたから。
魏の使者があなたたちの首都はどこか?と聞かれた場合素直に答えるだろうか?
もしかして大陸から軍勢が攻めてくる事前の下調べと疑ったかも。
そこで嘘をついた。
@ この伊都国に上陸するのではなく、さらに南東へ2日航海して上陸する
A そこで船を置いて10日間陸行する
B さらに船を用いて長い航海をする
これでは魏の軍隊は邪馬台国に攻め入ることはできないとなる
逆に言えば伊都国から陸行されてしまえばすぐに到達する場所に邪馬台国はあった。
妄想だけど。 「やまと(邪馬台)」は、「みなと」と対を成す名前だな。
やまと(山・戸) = 山手の木戸 = 山手のクニ
みなと(水・戸) = 水辺の木戸 = 水辺のクニ
戸とは、集落・クニの入り口を守る木戸のことだな。
そこから転じて、集落・クニを差す言葉だな。
なお、後世、木戸がなまってカド(門) >>1
普通に考えたらそう
畿内の発展は九州より遅い >>28
建築物とかもそうらしいね
たとえば7〜8世紀あたりの近畿の建築物は九州に比べると技術的に稚拙
ただし法隆寺その他数例のみが九州に比肩しうるという謎 >>25
韓国じゃない。そこは倭人=弥生人の本拠地で、日本語地域。
漢人からは倭人と呼ばれていた。
海幸彦・山幸彦の神話、天照とスサノオの誓約の神話を見れば、
内陸のやまと(邪馬台)勢力が、海を渡り半島倭人や漢の出先と通じ、
鉄利権と朝貢を握り、みなと勢力から覇権を奪ったことが理解できる。
これらを握ったことで、九州の邪馬台は、地域覇権国にとどまらず、
列島の覇権国となる。 普通に、邪馬台国は大和国で、狗奴国は今の熊野(ゆや(湯谷))だよ、常識過ぎる >>26
各時代の東夷伝読むと
九州北部になる。
入れ墨をや朱がでてくるのは
記紀でいう鬼とか蜘蛛、大蛇とかのたとえ? 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし
上記により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる
有明海から矢部川を遡上して筑後の山門が邪馬台国 >>34を踏まえて魏志倭人伝をよく読むと、倭人伝は行程を放射読みにする箇所はちゃんと他とは書き方を変えていることに気付く
記述法を書き分けてあるということはそこは他とは違う読み方をしなければならないということ
連続読みの行程部分は全て動詞が至や到よりも前に書かれているが、
放射読みの箇所は動詞が至より後ろにあるか動詞そのものが無い
・從郡至倭 循海岸水【行】 歴韓国 乍南乍東 七千餘里┃到 其北岸 狗邪韓國 ・・・・・・・・【動詞は前】
・始【度】一海 千餘里┃至 對海國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又南【渡】一海 千餘里・瀚海┃至 一大國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又【渡】一海 千餘里┃至 末盧國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南 陸【行】五百里┃到 伊都國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南┃至 奴國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞なし】
・東【行】┃至 不彌國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・南┃至 投馬國 水【行】二十日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞は後ろ】
・南┃至 邪馬壹國 女王之所都 水【行】十日陸【行】一月 ・・・・・【★動詞は後ろ】
動詞が後ろまたは無い三箇所は距離と方位の起点が前段から移動しない
つまり並列の箇条書き文章であり、地図上では前段から放射読みとなる
上の行程文に照らすと放射読みの起点は全て伊都国である
まとめると
帯方郡 → 狗邪韓國 → 對海國 → 一大國 → 末盧國 → 伊都國
. . . . . . . . . . . . . . . . . . ┃
ルート分岐@ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┣→ 奴國 → 不彌國
ルート分岐A ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┣→ 投馬國
ルート分岐B ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・┗→ 邪馬壹國
という構造
これらを総合的に考えた結果の各国配置はこうなる
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg 免田式土器が邪馬台国と思われる領域だけでなく
九州最北端にまで到達しているので邪馬台国は狗奴国との戦いに敗れて滅ぼされたとみるのが自然
さらに大和王朝には豊、玉、耳という倭人伝の登場人物の名前が付いた名前が多いので
そのときに一部が大和に移動したと考えるものまた自然 308 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 07:29:57.35 ID:nfEZxMc70
伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/f012.gif
また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>86の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
狗奴国との国境は菊池川だろう
鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの >>34,35,37
これだけ文献学と考古学が一致してるんじゃもう九州で決まりだな
他の地域の方はご愁傷さまでした >>34
こんな資料よく見つけたね
水行と陸行が並立なこともさることながら
水行が川にも使われるというのはわりと大きい >>42
もう長くは続かんよ
10年くらいあとには中高の歴史教科書もガラッと変わる >>43
日本の急流で船で進めるわけないでしょ。船で進むには浚渫工事が必要。 >>44
10年くらいは持つんじゃないか
九州説が教科書から完全に消えるには20年くらいかかるだろう >>46
いや九州説が主流になるって意味だろ
>>34-35とか見れば確実 >>40
ホントだよな
これだけの一致があって他の場所だと思ってるやつはちょっと頭が弱いんじゃないか 倭人とか邪馬台国 とか 狗奴国 とか 中国が卑字で記述してるのを見て
ネトウヨはあんまり反応しないのかな。 たしかに強大な先進国だったろうけれども。 >>34-35,37が圧倒的過ぎて畿内説ダンマリw
涙目で下を向きながらそっ閉じwww もう長くなく明らかになるだろうって聞くけどなぜかな? >>51
インターネットの普及で畿内説のウソが全部バレてしまったからじゃね?
多分第二のゴッドハンド事件として記録されるだろう もともとこの頃のシナ史書では日本列島についてまともに記述があるのは九州ぐらい
それを畿内だと言い張ったのは畿内ナショナリストと半島が倭国統治下だと認めたくない在日だけ マジで畿内派がお通夜状態だなw
もう諦めちゃったのか? >>51
これまでの定説に無理がありすぎたってことだろう
それがネットの普及とかでゴリ押しできなくなった
これから記紀の信憑性も含めて大いに議論されることになる 畿内から九州北部までが邪馬台国連合という意味ならその可能性はある 九州北部が邪馬台国、南部に狗奴国があった
投馬国は朝鮮半島南岸になるな
倭種の国が山口県付近で関西方面に黒歯国や裸国があった
神武東征は5世紀頃で邪馬台国の中心地の日向峠付近から出発してるな。 >>55
反論してもいいんやで?
あ、出来ないからそうやってボヤくだけなのか
ごめんごめん、弱者への配慮が足りなかったよw https://special.sankei.com/a/life/article/20190902/0001.html
免田式土器の分布イメージ図。作成した松田度氏は、邪馬台国と抗争した狗奴国の勢力を反映していると推察する(松田氏提供)
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
免田式土器の分布を見ると熊本平野南部と人吉盆地が中心なので狗奴国系の土器なのは間違いないだろう
邪馬台国サイドなのが確実の伊都国でもわずかに出土があるので完全な没交渉ではなかった模様
熊本平野北部の菊池川を超えると出土数が急減している
そこが邪馬台国と狗奴国の勢力境界だろうな 個人的に狗奴国の王の卑弥弓呼とかいう人物が何者か気になる まぁ、邪馬台国は九州って園児でも知ってるからね。
今時、畿内とか言ってるのは池沼ぐらいでしょう。 この頃の日本は統一国家じゃなくて各地に王がいた昔のインドのような状態
魏と密接に交流していた半島及び九州が後に編纂された史書に残ったに過ぎない
日本文化を見れば明らかに呉つまりシナ大陸南部とも関わりがあるのに史書には残らなかった
文字の記録しか読まずに歴史を語るのは素人だよ >>63
その文字の記録すらろくに検討していないかもしれん
都合の悪い記録が書かれた木簡の削りかすとか隠蔽されている疑いがある しかし、ネットでどこ行っても畿内説者が最近おとなしい気がする。ことごとく九州に論破されてる。繰り出した技は桃の種。 >>33
鬼は多分こんな感じの人だったと思う
【都怒我阿羅斯等】頭に「悪魔の角」を持つ男性、除去手術が無事成功 これまでは近所の理髪店で時々カットしてもらっていた インド
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1568905006/ >>66
その桃の種も「西暦135〜230年」を導き出すために
炭素年代測定のデータを恣意的に取捨選択している疑いがあるらしいな
それやっちゃおしまいでしょ、ていう 3世紀の日本列島の殆どの地域には未だ縄文系弥生人が暮らしており
渡来系弥生人は北部九州地域を中心とした地域にしか居なかった
この北部九州地域の渡来系弥生人の国が邪馬台国と考えられる。 >>54
歴史は一つしかないんだよ。ねつ造で北九州にしてもただのインチキでしかないからね。
歴史は畿内一択。 >>60
なるほど狗奴国側からの類推か
確かに>>35の地図や>>37の資料でも菊池川あたりが境界線っぽいね >>69
九州説の被害妄想はいらない。真実を直視しなよ。 九州説論者はケンカに負けてちゃぶ台をひっくり返すジジイみたいなもの 具体的反論が何も出来ないもんだから誹謗中傷に走るだけの畿内説w
落ちぶれたもんですなぁ >>74
まあまだ疑惑の段階だけどな
情報公開請求で生データ出させてネチネチ検証してるやつがいるぞ
そのうちさらっと撤回されるかもな、桃の種w 九州説は考古学と文献学に基づいているから強い
どちらも無視して強弁するだけの畿内説が敗れ去ったのも無理はない >>2
頑張って国内統一戦争に勤しんでました
結果、五王朝のうちヤマト王権が勝って連合王権のトップとして神権政治を司りました
これが天皇です。
おはり >>34
おお、こんな史料あったんか
これは畿内説にとっては致命傷だな 九州説の方がドラマティックで面白いがな。「神武東遷」なんて
ワクワクするドラマだ。 3週連続バックトゥザフューチャー1&2&3
今日は3
BS NHKプレミアムでこの後夜9時. >>43
グーグル先生が見つけてくれたw
本当に便利な世の中になったもんだ
>>82
畿内派は投馬国が出雲だとか言ってたからね
出雲から畿内には水行十日じゃどう頑張っても着けない
畿内説はこれが見つかったことで完全に潰えた てか、誰も言わないんだけどさ
魏志倭人伝に「邪馬台国には雪が降らない。みんな裸足である。魚が獲れるようにと体に刺青入れてる」
これ見て奈良とか京都付近は無理だよな、どうしても。
山地だし 邪馬台国が国家連合であることに異論は無いのに、
そこから唯一王の権威の下、一つの国家になるまでの経緯について
推論もしないのはおかしいよ。
神武東征仮説も邪馬台国仮説と別個のままだし。
現状では、邪馬台国が国連みたいな
調整機関的な組織だったという可能性も排除不可能でしょう。 古代日本は現在の中国地方までが韓国の勢力下にあった。
韓国の一部であった九州地方に邪馬台国などあり得ない。
近畿地方が正しい歴史認識。 入院が必要な怪我なため現行犯逮捕しなかった チノパンの様に多くの人に顔が知れ渡ってれば逃亡は難しいと判断される 入院中から聴取に応じていた 以上の理由から退院後即逮捕ではなく出頭するよう命じられた 飯塚は自分で出頭したため逮捕の必要なしと判断されたc DNAの研究が進んで来てるから北部九州説の正しさが時期に明らかになるさw >>93
いや>>35の動詞の位置云々は日本史板で見かけたレスから
俺は倭人伝記事と照らし合わせてまとめただけ
下の地図は俺が作ったけどね >>34,35
うーん凄い
個人レベルでここまでやれるのに未だに畿内とか言ってる学者とか存在意義あんの? >>61
卑弥呼 = ひめこ = 日・女子 = お日様の娘
・・・誰もが女王と認識する名前だな
卑弥弓呼 = ひめkこ = ひめ(こ)ヶ子
・・・誰もが「女王から位を継いだ息子(男王)」と認識する名だな。
※「ひめこ」が省略されて「ひめ」
・・・後世「姫」の字を当て高貴な方の娘を示す語に。
一方、○○ヒコは、お日様の子供 = 王とわかる名だな。 >>83
多分恐ろしいドラマだわ。
4世紀?に九州やまと(邪馬台)を滅ぼした畿内による権威簒奪に
正統性を持たせる為の虚構の神話だと思う。
ただ、その内容が極めて具体的なので、おそらく、畿内に入植した
弥生人の古い記憶か、或いは、邪馬台がまだ覇権国だった頃に
畿内まで遠征し屈服させた際の古い記憶を合わせてるんだと思う。 >>86
>出雲から畿内には水行十日じゃどう頑張っても着けない 畿内説はこれが見つかったことで完全に潰えた
ああ、それで負け確になった畿内説がおとなしいのかw
ようやく>>34のヤバさが理解できたわ 邪馬台国なんてなくて、中国で戰になるたびに日本に援軍求めていたのが三國志時代 ここで、少し考えを整理してみましょう、とにかく、はっきりしている事は、邪馬台国が大陸と交流
していたという事と、この時代には畿内より東には巨大な都市の痕跡が見当たらないという事と、
最終的には畿内の大和朝廷が生き残ったって事の三点ですよね、まず第一に、大陸と交流していた
という事は少なくとも九州北部は邪馬台国の勢力範囲だったという事になります、そして、もしも
邪馬台国が畿内にあったのであれば、邪馬台国とは九州から畿内にわたる巨大な大国だった
という事になります、当然、それほどの大国であれば強大な軍事力を持っていたはずです、
しかし、そうすると、その邪馬台国と争っていたという狗奴国とは当然、邪馬台国に匹敵するほどの
大国でなければならなくなります、つまり、邪馬台国と対立していた狗奴国は九州南部の一部を
治める小国だったとすると、そんな小国が大国だった邪馬台国と対立できたとは思えません、
という事は、狗奴国は畿内よりももっと東の方にあったという事になります、しかし、このころの時代で
畿内より東に巨大な大国が存在した形跡は見当たりません、したがって、邪馬台国が九州から畿内
にわたる巨大な大国であったとする仮説は成り立たなくなるので、邪馬台国は畿内ではなく九州に
あったという結論が導き出されるのです。 もう完全に九州説一色になってきたな
桃の種とか言ってたのは何だったんだ? 邪馬台国は大和で狗奴国は毛野国という輩がいるが、一体どこで両者は戦ったのだろう?
不破関辺り? 蛙の骨、桃の種、木製の鞘
これだけの物的証拠が出たので、邪馬台国は奈良だと断言できる
考古学は物的証拠が全てなのだよ
勝負あり(´・ω・`)
悔しいなら、九州説の学者たちよ、柿の種を探すんだ! (`・ω・´) 邪馬台国の邪の字が侮蔑的だと言われるが、伊邪那美、伊邪那岐にも使われてる
伊都国、邪馬台国、那国、宇美国、壱岐国と関連有るかな 畿内説が完全に沈黙しててワロタw
やっぱり九州だって畿内説論者も内心では分かってたってことだなw まあそもそも桃の種が出たから畿内だーとか意味不明過ぎたしな
無理のある説はそのうち破綻するさ >>1 >>2 >>100
パンスト朝鮮顔を整形しまくったネトエラ(ネット工作の在日朝鮮人)がわきまくってるしな。
日本に密入国してきて図々しく居つき、
生活保護を受給しながら凶悪レイプ性犯罪を繰り返し
日本人になりすましネット工作を続ける在日朝鮮人。
チョンポップの 人気偽装を繰り返してるのもこいつら在日 朝鮮人・帰化人。
在日朝鮮人はスパイそのもの。
帰化人を含めて朝鮮人全員をいったん強制送還するしかない。
●●● ネトウヨ連呼厨(ネトエラ)の正体 ●●●
http://karutosouka2.tripod.com/uyokusyoutai.htm
. >>110
関西の人でも個人的に話すと自分は九州と思うと言うね。 福岡平野にあった奴国が二万戸、福岡平野よりも狭い宇佐平野に七万戸の家がある訳が無い
邪馬台国は筑後川の南側の筑後平野で投馬国は筑後川の北側の地域と言う事だ。 卑弥呼は朝鮮渡来人である
「邪馬台国」は「呪術国家」であり、「卑弥呼」は「シャーマン(巫女)」
であったという。「卑弥呼」は「シャーマン(巫女)」として祭祀を司り、
政治は男子がとっていたと言われている。これは、「古代朝鮮の各国の王の
筆頭ブレインの中に女性のシャーマンがいた」のと似ている。シャーマンは
「預言者(祈祷師)として政治の中心人物に含まれ極めて重要なポスト」にあった。
古代朝鮮の各国は、シャーマニズムをもつ北方民族(騎馬民族)の覇権争いによって形成され、
シャーマンが政治の場に重く位置していた。
朱蒙王の高句麗建国の際にも、「女性シャーマンが王によりそい、政治の
予言(占い)を行って王へのアドバイス」をしていた。「王はわからぬことがあるとシャーマンを呼び相談していた」のである。
従って、古代朝鮮のシャーマンには相当な勢力をもつ者がおり、配下にはかなりの数の人材がいたと推察される。
* 朝鮮では祈祷が盛んで、その影響があってか、日本でも戦後しばらく
祈祷が盛んであった。小さな田舎町(村)には決まったように祈祷をする老婆がいた。
40〜50年前ごろまで、日本でも霊媒師なる者がおり、
困ったことがあると霊媒師をたずねる者がいた。現在でも、神社、お寺での祈祷によって合格祈願、結婚祈願をし、
災難、病などを逃れようとする人の数は恐るべき量に達する。このような祈祷による暮らしが生活に密着している国は、
先進国では、恐らく韓国・日本において最も顕著であるだろう。
北方種族によって形成された朝鮮文化(シャーマニズム)を、弥生時代以降の倭国へ持ち込んだのは渡来人である。 弥生時代 「邪馬台国」なる「国?」を作り、「卑弥呼」なる女王をもうけたのは、朝鮮からの渡来人であったと推測される。
縄文時代以前から存在した倭人は、弥生時代でもって終焉に等しくなり、奈良時代に新天地として倭国へ渡来した人々は、
倭国を「日本」として独立・建国させたのである。「魏志倭人伝」に記録されている「邪馬台国」の軌跡は、
日本の歴史の流れが朝鮮半島を泉源としていることを明らかにする証明書に等しい。
倭国の原住民から「卑弥呼」なる「預言者(祈祷師)」が生まれたとすれば、彼女を取り巻き支える倭人は
全て渡来人であったということと矛盾する。
第一、縄文人の90%が東北部に在住し、西部には一万人もいなかったであろうと言われているのに、
弥生時代に「邪馬台国」を支える原住民がいたとは考えられない。「卑弥呼」なる「預言者(祈祷師)」が
縄文人の子孫から生まれたとするだけの素地が無いのである。
なぜ「須恵器」が弥生時代に生産され始めたのか、水稲がなぜ弥生時代に盛んになったのか、
古墳時代の古墳はなぜ朝鮮の古墳と「うり二つ」であるのか、「高松塚古墳」とそっくりな古墳がなぜ朝鮮にあるのか。
「荒神谷の銅剣」はなぜ出雲で発掘されたのか、出雲弁はなぜ韓国語に似ているのか。
あげれば数え切れないほどの古代朝鮮の文化の流れがある。このような時代背景の中で、
「邪馬台国」は何を生み出したのか。「邪馬台国」は3世紀に生まれたとされているが、3世紀と言えば、
弥生時代の末期である。稲作が日本中に広がっている時代に、
わけのわからぬ「邪馬台国」がどのような存在のものであったのか、単なるある規模の大きな集落であったかもしれない。 弥生時代末期 朝鮮からの渡来人が増えたので、日本の原住民(縄文人の子孫)は10人の内1人もいなかったという。
「消えた縄文人」なる書籍まで目にするが、縄文人は弥生時代でもって終焉に近い存在となり、
倭国の住民の90%以上が渡来人によって占められたと言える。従って、「邪馬台国」なるものは、朝鮮渡来人によって作られたとしか考えられない。
「邪馬台国」についてわかりやすく言えば、アメリカの原住民のアパッチ族を拡大・高度化したような集落・集団であったかもしれない。
縄文晩期の人口が十万人にもならなかったということは、その人口を全国に散在させれば、
各集落にはスズメの涙ほどしか人が住んでいなかったことになる。殊に、縄文人は東北部に主として暮らしており、
西部には1万人も居なかったという。従って、当時の九州や近畿地方に、日本原住民からなる「○○国」があったなどと言うのは、
「魏志倭人伝」に書かれているということで「邪馬台国」を過大評価し、真実の姿を誤解しているのである。
「邪馬台国」は「呪術国家」であったと言われている。酋長(王)なる人は部下をたずさえて渡来したシャーマンであった可能性がある。
「邪馬台国」は日本国の出発点というようなものではなく、渡来人による大集落であったと推測される。
倭国に当時の文献が一つもないということは、「邪馬台国」が国家などと言われる様相をなしていたかどうか疑問である。
「魏志倭人伝」が書かれてから「記紀」「万葉」が書かれるまでの約400年の間に、倭国に関するまとまった文献が一つもない。
「日本」という国号が作られたのは、奈良時代に渡来した百済の上層階級によるものである。
このことは、現在の日本人が想像しているような国を「邪馬台国」に期待するのは思い過ごしではないだろうか。
日本国の出発点としてではなく、文字を書けない者からなる大集落であり、しいて言えば、
アメリカのアパッチ族に類するものではなかったかと推測される。
まして、酋長なる「卑弥呼」の存在を考えるとき、彼女が「霊媒師」であったことは、
当時の社会風潮からすれば、当然貴重なる存在者として崇められていたと言える。
「霊媒師」としての能力をどこで覚え、配下に部下をもつほどの指導力を携えるようになったかは、
その文化的素地を養ってくれた朝鮮にしかありえないだろう。「卑弥呼」がどのような人であったかを推測するとき、
弥生時代という時代背景を考えなければ、とんでもない推測をしてしまうことになるだろう。「魏志倭人伝」なる漢字で書かれた文献に惑わされて、
何か偉大なものが倭国にあったかのような錯覚に陥っていると言える。「魏志倭人伝」は漢字で書かれているので、
解釈において多面的な意味が生じるので、一層始末が悪く、あれやこれやと色々な解釈をあげつろって混迷に陥り、
わが説こそ正論であるかのような論文が出回っているのである。 >>102
自分たちが滅ぼした王朝の国史からコピペ&改竄したと考えるのが自然だろうな
そういえば山田SAで潰されるはずだった長田大塚古墳を「宮内庁が」守ったのはなぜだろう >>34
だからその資料が里程で魏志倭人伝のほうが日数なのが気になる。 俺も卑弥呼は朝鮮系の渡来人だったと考えている、卑弥呼の血統が天皇家に繋がっている たしか桃の種に匹敵する大発見が蛙の食いかけじゃなかった?w
畿内スゲーよな。畿内説で決まりの大発見。 > 赤塚氏は「東日本最大の遺跡とされる朝日遺跡(愛知県)が気候変動や巨大地震で滅びた」と説明。
朝日遺跡、インターチェンジの下敷きになった遺跡か。
ああいう事をするから愛知県は文化不毛の地だと言われてしまうんだ。
今度は東海地方最大級の断夫山古墳を発掘調査するそうじゃないか。
断夫山古墳は尾張氏ゆかりの古墳。尾張氏の子孫は健在なのに墓を暴いていいのか? 宮崎の 前ヤマト政権は 大分から 移動してきた
邪馬台国は筑紫山門郡に位置して 対立関係にあった
高天原の話は 大分時代の話 邪馬台国の南に狗奴国があります。
=邪馬台国は狗奴国の北側にあります。 >>123
少なくとも鏡や剣の祭祀は当時の中国の最新技術みたいなものなんだよな
後の仏教伝来と同じく、最新の祭祀として迎え入れられた可能性はある 紀元前の話なら九州説でもおかしくないけど
時代的に邪馬臺国はもう奈良確定だよ。
畿内説でも無く、もう奈良一択だよ。 40万を超える署名で、九州に邪馬台国が有った、で決着 >>132
だから邪馬台国じゃなく邪馬臺国って書けよ?
PCだから簡単だろ?
魏志倭人伝じたい書き写しを何回繰り返したかわからないんだし、臺を書き間違えてた写してたが正解だろ。 九州説を言ってる奴はマジで馬鹿だと思う。
それも縄文土器や弥生時代の農耕を基に話をしてる時点で時代錯誤もいいところだろ。
邪馬臺国が2〜3世紀の話だと全く理解してないよな。古代文明の話じゃないからな。 本居宣長ですらちゃんと「ヤマトノクニ」と読み仮名ふってるくらいなのにな >>135
神武東征が史実であると確定してる以上、
紀元前少し前には
奈良に九州から移動した政権があったのはもう事実だからな。 朝鮮と違って精神的権威者と権力者の二重支配は倭の伝統 >>137
確定してるよ。
神武の時代は古事記、日本書紀の時代とも大阪湾の形が違うからな。
そんなこと当時の人間が知るわけないからな。 邪馬台国って名前の通り台湾のことだろ。
狗奴国はどう見ても台湾南部のフィリピン系部族。
どちらも日本の話ではない。 >>139
確定ってのは学会の有力説とか
そういう意味? >>11
筑豊は古くから稲作もやってたし古墳も結構ある >>14
倭国=邪馬台国ではない。
倭国>邪馬台国だから >>31
熊野は土地が狭すぎて邪馬台国を脅かすほどの国力はなかったと思うよ >>128
90度方向を間違えてるなら、邪馬台国の東が狗奴国だよ
だから近畿説では尾張が狗奴国と目されてる >>146
だから魏志倭人伝自体が手写しで誤字、書き間違いがあるもんなんだから
場所とか距離とか正確な数値とか位置関係なわけないだろ。 卑弥呼の記述も「日巫女」として「アマテラス伝説」を聴いただけかもしれないしな。 東に海があるって書いているのに邪馬台国畿内説を主張している奴はマジでバカ
もっと素直になりなさい
一大卒が九州北なのに、邪馬台国がそんなに遠い畿内にあるわけもない
畿内説はキチガイレベルの妄想ww >>150
だから魏志倭人伝自体が手写しで誤字、書き間違いがあるもんなんだから
場所とか距離とか正確な数値とか位置関係なわけないだろ。 ※防犯協力を要請された方、何か御存知の方は、公明党・創価学会との繋がりのない野党系の政党か、同国会議員の方に情報提供願います。
やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci(リンク切れ) i.imgur.com/Kr48zmK.png(同記事スクショ)
記事要約
・「子供110番の家」「子供老人パトロール隊」等の民間防犯団体員に対して県警警部補が「尾行の仕方」「ごまかし方」まで教えている
・防犯パトロールでは一般市民である人物が見える形で尾行や監視行為をし、対象個人へ”身辺への「圧力」”を感じさせている
・端的にストーカー行為と同じで、それが集団で行なわれている
・対象個人が店舗に入ると、店員に防犯パトロールの要員が警戒するように「密告」
・信じた店員は対象人物をあたかも「万引き犯罪者」の如く秘かに、あるいはあからさまに尾行
・防犯パトロールへの警戒対象人物への情報は、警察サイドからのもので検証されていない
※やりすぎ防パトを嫌がらせに利用する為、対象人物情報に、創価学会が不正に嫌がらせしたい人物をねじ込んでいるとの学会員の証言あり
・警察の生活安全課が地元の企業と「防犯協力覚え書」という形の協定書を取り付け回っている
・例えば、病院などは、警察と病院の覚え書によって、病院という場所を監視の場所に変える
・防犯パトロールの要員が、患者へのボランティアという偽装の形で病院に入り込むだけではない
・病院職員自身、看護師が入院病室の対象人物のそばで付きっきりで、会話の立ち聞きをするのは日常茶飯事
・この活動に、ある特定の政治的団体が関与して容易に入り込み、権力化する流れも疑われている。
※ある特定の政治的団体とは創価学会の事である
■やりすぎ防パト問題 実際に行われている事 ※NG規制の為、修正版を掲載(19年8月19日現在)。
NO.2742732 2013/07/28 16:27 コンビニ店員だけど、警察官に変な依頼された。
baku●sai.com/thr_res/acode=8/ctgid=104/bid=119/tid=2742732/tp=1/rw=1/
■スレ主のレス 投稿日時 2013年7月28日午後4時から午後5時にかけて
これから帰宅という時に、急に店長から「警察から仕事の依頼が来たから手伝え」と言われた。内容を聞いたら、女性の顔写真を見せられた。
(あっ、この人……。常連さんで、話したことがあるけど、気さくな人だったな)と考えていたら、
店長が「レジ前に来たら、俺と一緒にその女性の前でニヤニヤするぞ」と言った。馬鹿げた内容に「本当に警察の依頼なのか?」と聞くと、
店長が「いいから黙ってあの人の指示に黙って従え」と店外を指差した。高級車に一人乗ってる中年男がが警察官らしい。
少し経つと、例の女性が本当に入店してきた。会計の時、店長は「よし、やるぞ」って指示通りニヤニヤした。俺はやらなかった。
女性はすごい不快そうだった。女性が店から出た後、警察官が店に入ってきて、「お疲れ様です」と声をかけてきて、店長と笑顔で会話し始めた。
店長が「何でやらなかったんだ?」と俺に聞いてきたから「馬鹿馬鹿しいからです」と答えた。すると「お前明日から来るな」と言われた。
頭にきたので説教を無視して帰宅しようとしたら中年警官が「これは安心安全の為なんです」言い出した。それも無視して帰った。
■4 投稿日時 2013年7月28日午後5時台
店の客の中にもマークするように指示を受けて入店してくる人がいる。カモフラージュの為に買い物もする。
■20 投稿日時 2013年7月28日午後7時台
防犯活動だろ。非行に走らないように見守るので協力して下さいと依頼された事ならある。
あるご近所が外出したら連絡するので、ご近所が通過するのを確認したら思いっきりドアを閉めて下さいって。
■21 投稿日時 2013年7月28日午後7時台
4です。その客を装ったパトロールの人が、警察官に、ある人が入店したら、店内で、大きな声で読売ジャイアンツの話をしてと
依頼された事があったと話してた。指示通りに話すと、その客がびっくりしたらしい。
■27 投稿日時 2013年7月28日午後9時台
学生ボランティアやってた。深夜担当時、コンビニで待機し、ある人が来たら、入口を塞ぐよう警部補に頼まれた。
その日同じ担当の人と「こんなの防犯じゃなくてただの嫌がらせだろ」とやってて情けなくなった。
■45 投稿日時 2013年7月29日午前0時台
警察官に「地域防犯活動に協力して下さい」と写真を見せられて「写真の人間がこれから近くを通過するので演技で構いませんので、
わざとらしいクシャミをして下さい」と頼まれた事がある。af ウィキにも出てるよな?
現存する『三国志(魏志倭人伝)』の版本では、「邪馬壹國」、「邪馬一國」。5世紀の『後漢書(倭伝)』では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書(倭伝)』では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』には魏志(魏志倭人伝)のいう「邪馬臺」(都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也)とある
「邪馬壹國」を邪馬台国って言うのは辞めるべきじゃない? 最初の記述は「ヤマタイコク」ですらなかったわけだよな。 >>150
畿内説?
ああ、あれはボケた老害学者の虚言だからw
とにかく何でも畿内に関連付けてファンタジーワールドを作って、それに合わせて史書を曲解するという朝鮮式思考回路だからw
どこまで行っても自分の想像を現実だと言い張る人達だから討論にならない。
今の韓国に対する日本政府の気持ちがよく分かるよw >>150
遠いから使者が行かなかったんじゃない。
九州に有れば邪馬台国まで行ってたでしょ 伊都国まで来てすぐ近くの邪馬台国に行かなかった方が不自然
よ う こ そ 邪 馬 台 国 へ
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。
又南、至る邪馬嘉(臺)国。
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている
>>137
古代史の常識もわきまえてはいないのか?話にならんな 「日本における遺伝子の多様性は、テンノー制度(それすら捏造の歴史だがwww)が始まる前からある」
ということにしておかないと、
テンノー制度が破綻するからだろwww。
つまり、単一民族じゃなくなると、テンノー制度は破綻するからだろwww
テンノー制度こそが宗教原理主義のキ〇ガイ宗教だろ。
何千年前の影響よりも最近の影響のほうが大きいだろ。
日本は多民族で、テンノーとは違う民族がたくさんいるんだ。
韓国やら朝鮮やら中国を悪用してまで、
テンノー教団とか言うわけのわからない新興宗教をのさばらせるな。
ジャップは頭がおかしい。 あ、>>1の人については俺は何も言ってないぞ。俺が訴えられても困るからな。
そもそも読んでないし、誰だか知らない。 >>145
それもう>>14に論破されてんじゃんw
畿内説論者ってのは文字も読めないのかよ
>畿内信者は九州が産地だっただけとか意味不明な言い訳をするけど、都のはずの奈良に製品が運ばれないわけ無いじゃん
奈良には養蚕の形跡だけじゃなくて絹製品が無いんだよ
九州じゃ庶民でも着られた絹が無いの
それは倭国の都なんかじゃなかったって証明なの
わかった? 邪馬台国が韓国南部にあったことは未来の常識なんですけどね >>163
別に絹しか着るものがないわけでない。
他に着るものくらいある >>166
絹にしろ鉄にしろ、九州には当たり前にあった貴重品を畿内は手に入れられなかったって話だろ
それは当時の畿内が倭国の都なんかじゃなかったという何よりの証拠
畿内説の妄想は終了 >>123
その時代に明確な朝鮮人という人種は存在しない
大陸系すなわち中国系の人種というだけ すごく大きな国が九州と近畿の2カ所にあって、中国側はそれをひっくるめて邪馬台国と言っていた可能性もある? >>167
首都と言うのはいつも僻地につくるんだよ
人が住んでるのを追い出すわけにいかないだろ
江戸でもなんでもそうだろ >>2
九州倭国と近畿日本の勢力が逆転する時代で
中国側も倭国の代表をどっちと考えるか迷っていた時代。
>>137
史実でない、作り話しだと確定している。
ウソつきがただ事実をひっくり返して言ってるだけ。 3世紀になって、今まで鉄もなかった所がいきなり九州に迫ろうというほどになる。
つまりそこに首都ができたからでしょ >>110
そうだよ。
近畿パーの目的は議論を誤魔化しケムに巻くこと。
近畿パー自体、実は畿内説なんて本当はどうでも良い。
その証拠に、議論で勝てないと分かると「邪馬台国なんてどうでもいい」と
キチガイみたいなことほざき始める。 当時の倭は朝鮮半島南岸から北部九州にかけての地域で
朝鮮半島南岸に投馬国、北部九州に邪馬台国があったんだ
南部九州は狗奴国
卑弥呼は伊都国に居た。 >>176
奈良に都が置かれたのは8世紀
5世紀頃に神武が東征し畿内に植民したんだ。 3世紀の魏志では狗奴国は邪馬臺国の南
5世紀の後漢書では拘奴国は邪馬臺国の東
方向は間違えることはあり得ないらしいから、
狗奴国と拘奴国は別の国か、後漢から魏にかけて同じ国が移動したのか
九州倭国と近畿日本は無関係な別の王朝。
東征も東遷も無い。考古学的に否定済み。
卑弥呼の墓は九州御井の祇園山古墳。
この三つは確定事項。最早動くことは無い。
>>180
そんな古田的な妄想をかたられても困るし 近畿パーは将棋をやって詰んだら
「オレは詰んだことを認めて無いから詰んで無い」
とか言ってるただのバカ。 >>107
毛野国の前方後円墳から魏の年号の書かれた銅鏡が出土してるんだよね。
群馬県高崎市柴崎町蟹沢の蟹沢古墳から正始元年(240年)の鏡が出ている。
蟹沢古墳は4世紀頃の古墳らしい。
http://www.emuseum.jp/detail/100568?word=&d_lang=ja&s_lang=&class_id=&title=null&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=1&mode= >>170
>首都と言うのはいつも僻地につくるんだよ
>人が住んでるのを追い出すわけにいかないだろ
?
人がいるから首都になるわけだが
僻地に作るのは墓だよ
特にでかい古墳とかw 九州最古の前方後円墳は3世紀に作られた赤塚古墳で、
近くには古墳の上に作られた宇佐神宮がある。 >>176
三世紀の時点で大阪湾岸や山城あたりまで北部九州の海人族が進出してる
それが奈良盆地内まで征服したのが3世紀末から4世紀初頭
830 :日本@名無史さん :2019/09/14(土) 13:46:47.04
>>829
三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない一方で、北部九州には鉄器が豊富
この頃の本州の鉄鍛冶工房は北部九州の海人族の進出地のみ
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
そして四世紀になると奈良盆地内にも鉄器が増えてくる
このことは三世紀までは北部九州の勢力と畿内勢力が別勢力であったことを意味している
そして地理的条件により、畿内の勢力が北部九州を経由せずに魏とやりとりすることは不可能
ゆえに三世紀の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州以外にあり得ない
神武東征が卑弥呼より前ならば、畿内は当初から北部九州から鉄材も鉄鍛冶職人も入手可能なはずで
四世紀まで鉄器が普及しなかった理由を説明できない
証明終わり 面白いのは九州は北と南で文化が違うことだな
古代に有明海側の平地がどれだけあったかはわからないが山を挟んで
福岡県と熊本県の県境辺り八女市と菊池市で別れるんじゃないのかな?
九州北部でも大分県はちょっと特殊だが
九州だからって丸ごと似た文化圏じゃないんだよな
一番違うのは方言だな >>135
本居宣長って何時の時代の人物か判っているの?
歴史感覚で言えば現代人なんだが・・・ もうめんどくせーから誰かタイムマシンに乗って見てきてよ。
九州倭国と近畿日本は無関係な別の王朝。
東征も東遷も無い。考古学的に否定済み。
卑弥呼の墓は九州御井の祇園山古墳。
この三つは確定事項。最早動くことは無い。
>>193
>>60に狗奴国系の免田式土器の分布図がある
菊池川を境に数が急減するからそこらへんが邪馬台国と狗奴国の境界線だろうね 飯塚辺りは奴国かな
魏志倭人伝当時住吉さんはどうしていたんやろな
畿内説は否定証明完了済み。
九州倭国と近畿日本は無関係な別の王朝。
東征も東遷も無い。考古学的に否定済み。
卑弥呼の墓は九州御井の祇園山古墳。
この四つは確定事項。最早動くことは無い。
>>3
辛いラーメンって、あの半島の辛ラーメンか? +でもスレが立ったが、ゲノム解析の結果、
日本人のDNAの80%以上が朝鮮人のDNAだと判明した。
縄文人のDNAは20%未満だ。
縄文人の特徴は顔の彫りが深く髭が濃い。沖縄人やアイヌ人がそうだ。
有名人なら阿部寛だ。
日本人=朝鮮人の特徴は顔の彫りが浅く髭が薄い。皇族を初めとする大半の日本人がそうだ。
ネトウヨは朝鮮人を嫌うが実は日本人は朝鮮人であった事が科学の力によって完全証明された。
ネトウヨの西尾幹二が「日本人は朝鮮人じゃない。縄文人だ。土の中から証拠が出てきた」と、
大嘘をついた考古学者に熱狂して騙されて赤っ恥をかいた事があった。
その考古学者は自分で埋めていた事が判明した。
これもネトウヨの頭の悪さを示す一例であろう。
朝鮮人そっくりの、のっぺり顔した水島総や西尾幹二が朝鮮人ではないと叫ぶ姿は滑稽である
阿部寛や安室奈美恵のような縄文顔が言うなら分かるのだがw >>206
秀吉に関東に転封されてそうせざるを得なかっただけ
しかも関ヶ原の頃にはもう二百五十万石の大国に様変わりしていた
都になったのはその後 邪馬台国の畿内説はない
畿内にあったのはヤマト王権の前身のクニ >>1
普通に考えたらそうなる
もし畿内だったとしても狗奴国に比定出来る場所がない
つーか当時の考古遺物の量等を見ると畿内は田舎で九州が都会
シナの皇帝が田舎に親魏倭王の位をあげる訳がない 結局どの説も肯定もできないし否定もできない
それをやるからおかしくなるんじゃない? >>211
よそものがやって来て、勝手に俺ここに住むとか言ったら、元いたやつはちょまてよってなるだろ
アメノヒボコみたいにわがままな奴もいるかもしれんけど 卑弥呼は倭奴国の後裔
投馬国も邪馬台国も博多湾岸からの南方面の侵略拠点
だから管轄が広く人工把握が大きくなる
本拠奴国を離れたから代々統属してきた伊都国が湾岸を守る
卑弥呼の代で九州中部攻略に成功したから南部に天孫が降臨した
シンプルだがこれが一番しっくりくる 近畿パーは将棋をやって詰んだら
「オレは詰んだことを認めて無いから詰んで無い」
とか言ってるただのバカ。 >>214
学問的には畿内説が有力視されてて
「九州説」なるものは郷土史家(笑)がそれぞれ適当な事を言ってるだけの
まとまりも無くとっちらかった何かでしかない
国立歴史民俗博物館 よくあるご質問
https://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
大多数の考古学者は大和説です。 >>1
人吉盆地だろ。
大国に囲まれても攻め落とされないのはあそこしかない。 >>220
それは考古学の話だろ?
考古学ってのは文献を都合良く捻じ曲げても許される学問なんだよ。
文献学と考古学の両方を追究すれば畿内はあり得ない。 >>182
3世紀後半から大和政権も朝鮮と交易し始めたから、
中国でもいろいろ情報が錯綜し始めたんやろな・ >>190
それ日清の「北極」とかも入ってる可能性 誤爆したのでこっちにも
AとBという国がある。A国の人がB国に移り住み、やがてB国の支配者まで
成り上がる。最近ではヒットラーがやったのと似たようなことを狗奴国の
神武=崇神(とそれより前のニギハヤヒ)がやったと。 >>223
考古学とか関係ないよ。
近畿パーはただの普通のウソつき。
この歴博の教授だからあの有名な「近畿では鉄が溶けやすいんです!」は。
学会で言ったんだぞ。 >>227
考古学だろ?って言ってんのに考古学のソースを持ち出す馬鹿がいる。 近畿パーはその場でウソついて誤魔化しときゃオケとかガチで思ってるただのクズ。ただのウソつき野郎。 >>210
大物主というよりはむしろ事代主じゃないかなと思うかな。
事代主の命で大物主が大和にやって来たんじゃないかと。 >>232
もうこういう中身の無い話しして誤魔化すとかそんなの。
誤魔化してケムに巻く。
それが近畿パーの目的。 文献史学は「素人」でもできる邪馬台国論争に加わりたがらない
考古学は掘ってなんぼだから関東の学者は積極的に語る「物」がない
あとは関西と九州の大学の力関係で、九大は京大の傘下だから分が悪い >>230
考古学のソース?
一般的な前提知識として畿内説優勢と語られてるんだが
馬鹿には
「考古学の分野では」邪馬台国の最有力候補地とされる
「考古学の分野では」畿内説が優勢とされる
みたいな存在しない文言が見えるのかな? >>232
事代主は葛城土着の神で、大国主は三輪あたりの神。そこへ神武=崇神の狗奴国系の
神の大物主が入り込んできて乗っ取り、大国主は出雲や熊野へ流されたというのは
どうか。大国主と大物主が同一視されてるのもそれが理由。 ちなみにその後邪馬台国系の応神=仁徳天皇(多分九州の豪族)が大和王権を
簒奪したんだけど、その神がアマテラスでつまり卑弥呼はやっぱりアマテラスで
あり神功皇后であるわけ。さらには神武=崇神系も物部氏として続いていたんだ
けど、後年になって蘇我氏に滅ぼされてしまうのね。
けっこう上手くできてると思うんだけどなあ。 >>234
結局そういう話だよな
この論争は学閥闘争になってるw
倭人伝読むとどう考えても近畿には行ってない 近畿パーは将棋をやって詰んだら
「オレは詰んだことを認めて無いから詰んで無い」
とか言ってるただのバカ。 >>240
学閥闘争なんてあるのか?
昔はあっただろうけど
昔九州説を唱えていた東大が今では畿内説なのはどう説明する? >>220
郷土史家(笑)はウィキペディアン(笑)みたいなものだからな >>243
東大の考古学者3人のうち、弥生時代・古墳時代を専門に研究してる設楽氏は畿内説
ちなみに、文献史学でも学者数人いて、古代史は大津氏だが、
自分には邪馬台国の場合を解明する能力がないとあらかじめ言った上で、畿内説寄りの見解 >>238
僕は大国主と大物主が同一視されてる理由は、
大物主が大国主の伝説が残る地域から派遣されてきたからじゃないかと考えてるかな。 >>245
>自分には邪馬台国の場合を解明する能力がないとあらかじめ言った上で、畿内説寄りの見解
信仰ですってかw 飯塚ときたらプリウスをセットで連想するようになってもうた・・・ 畿内説は否定証明完了済み。
反論不能な状態で「畿内説だと信じてます」なんて言うのは
つまり私は学者としては失格ですって言う告白ですな。 そんなアホ女がホストに入れあげてるみたいな状態で
学問が出来ると思うのはただただ片腹痛い。
失笑。
そんなもん自分らが学者として如何に無能か以外のもの何も証明出来てない。 九州で魏の時代の王朝が使っていたような高級な鏡が発見されたのに
大和派はこれは大和から派遣された役人が九州に持ち込んだ鏡だとか
ファンタジーなこと言ってるからな 新聞の広告欄に邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!って題名の本が載ってたな
紹介文を読むと畿内説をこき下ろしてる模様w 知るにはもっと掘るしかないよ、現状限界。倭五王だって誰だか判んないんだから、ほんと天皇の中に居たのかよって有り様だし。 ビッグコミックオリジナルで卑弥呼の漫画やってるけど、登場人物が多すぎるし、顔がどれも似てるから、もうわけわかめ。初期の頃は面白かったんだけど >>234
学閥とか力関係がどうとかより、研究が進んでいろいろ分かってきたから
専門家で九州説を支持する人いなくなったんだろうに
歴博も関東、東大も関東
素人は専門知識がないから、先入観とイメージで九州と思い込む人が多い
ネット上のガセネタを信用してしまうこともある
知識があるかないかが一番大きな要素だろ 流石に畿内説はもう旗色悪いな
九州説の方が文献とも矛盾が少なく物証も分かりやすく感じる
なんか学問だなあって感じ >>261
九州だよ。いまやってるのは、九州内で国が複数に分かれていて、それぞれが戦争を仕掛けようとしているとこ >>262
何故かネット上だけで元気な九州説論者が厄介なのは、平気で嘘を書く上にひたすら相手を罵倒するところだな 邪馬台国が九州でも近畿でもいいんだけどさ、
なんで九州ってその後ずーっとパッとしない地域になったん? 久しぶりに邪馬台国スレ来たけど、九州確定間違いなしって感じだな
2.3年くらい前は近畿のが優勢っぽかったのに
これで長年の謎が一つ解けてすっきりしたわ >>265
そう
九州説を正当化するときに嘘データ、インチキデータ使ったりするだけでなく
畿内説を批判するときも嘘データや架空の根拠をでっち上げていちゃもん
紀元前まで遡っての鉄データや桃の種の年代測定とかがいい例 >>267
現代日本を支配しているのが福岡
財務 国家財政トップ(財務大臣) 麻生(福岡) 自民党副総裁兼務
金融 国家金融トップ(日銀総裁) 黒田(福岡) 前総裁 白川も福岡
経済 企業・経済のトップ(経団連名誉会長) 御手洗(福岡)
政治 政治・行政のトップ(総裁・総理)安倍(準福岡) 山口県下関市 ← 福岡県下関市でも違和感ないほど、限りなく福岡!
民間金融トップ 三菱UFJファイナンシャルグループ 代表執行役会長 園(福岡) みずほフィナンシャルグループ 会長 前田(福岡)
不動産トップ 三菱地所 社長 吉田(福岡)
保険トップ 日本生命 代表取締役会長 宇野(福岡)
ブラウザトップ GoogleJapan 社長・名誉会長 村上・辻野(福岡)
極道トップ 山口組 6代目組長 司忍(福岡)
ついでに、日本医師会 会長 横倉(福岡) ← 2018年から世界医師会 会長に就任!(日本人としては異例)
2016年ノーベル生理学・医学賞 大隅良典(福岡)
2017年ノーベル文学賞 カズオ・イシグロ(長崎) ← 福岡県でも違和感ないほど、限りなく福岡! >>270
>現代日本を支配しているのが福岡
古代日本を支配していたのが倭国(阿波)。 わははははは @阿波 あと九州説がよくやることで、学者の論文も専門書も読んだことないくせに、学者をバカ扱い >>270
そりゃ人であって、地域じゃない。
この手のズレたレスする人ってなんなん? 古矢聡(ふるやさとし)
いじめ加担者・淫行前科アリ・英語中学教師
神奈川県横須賀市不入斗(イリヤマズ )中学校へ逃げた
一斉に全国に送信し続けてます
私達教職員全員で。 大国主も事代主も出雲
一言主は葛城
大物主は? 出雲か丹後か? >>277
大国主も事代主も倭国(阿波)。
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。 この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。 @阿波
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR >>272
実際学者はバカばかりだから仕方がない。
まともな学者は1%も居ない。
典型的なバカ学者はたいていサプリや考古学に手を出す。 >>282
考古学と記紀の整合性はすごいよ
記紀の内容をつぎつぎ考古学が証明していってるから >>281
全国唯一の「辰砂採掘遺跡」もあるよ。 わははははは
全国唯一の式内社「八鉾神社」。 大国主も事代主も倭国(阿波)。 @阿波 >>283
その通り。 倭国(阿波)でね。 @阿波 畿内説も九州説もどっちも弱点あるのに
なぜか一歩も譲らん姿勢の奴が多いな
東遷説や並存論のほうがしっくりくる >>286
そりゃ、明治時代からだからwww 如何ともしがたい。 @阿波 邪馬台国は韓大陸の覇権国家
当時倭列島は韓国の支配下だったから矛盾しない 大和の大神神社は、倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元である。
徳島市国府町府中の式内社 「大御和神社」は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されている。
(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)
このことから、文武天皇の御宇に、倭国(阿波)から奈良大和へ遷都したことが分かる。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
http://www.genbu.net/data/awa2/oomiwa_title.htm >>282
そうやって九州説は自ら学問を否定してるんだから
今後は漫画でもムーでもフィクション本でも好きなのを選べばいいんじゃね >>287
九州説論者は別に九州だけで完結しているわけじゃ無いじゃん。
邪馬台国は九州にあったが神武天皇が東遷して畿内にいた抵抗勢力を
何とか平定や婚姻して大和王権を作ったみたいに考えているんじゃね。
最初から畿内で邪馬台国があって、大和王権になったなんて無理な説である
畿内説は説得力ゼロ。
まあ九州、出雲、播州丹波、畿内と有力豪族はいて戦国時代を勝ち抜いたのは
九州(邪馬台国)主体の連合軍だっただけ。 >>292
お爺ちゃん、せっかく泡スレが建ってるんだから泡スレに書きなよ >>294
>九州(邪馬台国)主体の連合軍だっただけ。
それも、妄想! @阿波 「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証なのである。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
阿波国国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354 >>294
九州説の内、3世紀後半以後東遷論者はほんの一部やと思うけどな。 >>296
阿波で魏志倭人伝に書かれているように海に潜って魚貝類が取れるか?
みんな鳴門の渦に巻き込まれちゃうだろwww
もう、それだけで阿波は邪馬台国候補から外れる。 >>299
そりゃそうだろう。 山に閉ざされた、ジメジメの奈良盆地へなんぞ、引っ越す理由がないからね。 わははははは @阿波 このスレには神武=崇神(とニギハヤヒ)が狗奴国出身だという説を
信じる人のみが集いなさい。 >>300
>阿波で魏志倭人伝に書かれているように海に潜って魚貝類が取れるか?
めくら蛇を恐れず。 初心者、倭国(阿波)を恐れず。 わははははは @阿波 >>293
ていうか、このスレだけでも畿内説がろくに自説を展開してないのが
まるわかりじゃん。 >>304
九州説も畿内説も、倭国(阿波)の格好の餌食だよ。 @阿波 >>299
え、そうなの。
九州説って邪馬台国が九州にあるって事と記紀の神武天皇が日向から畿内を征服した
大和王権創建がセットになっていると思っていたが。
じゃないと卑弥呼が天照大神に比定されて大和王権の最高神になった事との整合性が取れないじゃん。 >>305
自説を展開しているのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>304 >>307
他人のことは良く知らんが、僕は古墳時代2王朝説やな。 >>307
整合性???
記紀では3世紀には奈良に天皇がいることになってるんだけど
九州説に合うように、記紀を改竄して物語を作ってるだけでしょ >>310
記紀はミクロなレベルでの時間はおかしい
何百年も生きてることになったりな 神武東征の参謀役となった速吸の門(鳴門海峡)の大人・宇志比古尊が全国で唯一、式内社「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
何の縁も所縁も無ければ、こんなところに 、「宇志比古尊」を祀るはずがない。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 畿内や九州などの「前方後円墳」は、阿波人のお墓。
畿内地域の古墳の石材調査が進むにつれて、倭国(阿波)の結晶片岩を石室や葺石に用いた前期古墳の事例が増加してきた。
大阪府の「闘鶏山古墳」、「将軍山古墳」、「鍋塚古墳」、「牧野車塚古墳」、神戸市の「西求女塚古墳」などが典型例だ。
そして、そうした結晶片岩を使う事例が、畿内北部の淀川流域から瀬戸内北岸にかけての一帯に多い傾向もより明瞭になってきた。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/061018awaitano.htm >>307
古墳時代初期に崇神の御代があり、
神武東征等に関しては基本記紀に示された通りだと思ってる。 >>315
徳島県鳴門市大麻町萩原の「萩原2号墓」で、板材でつくった墓室・木槨(もっかく)を積石(つみいし)で囲んだ三重構造の埋葬施設が確認された。
県教委と県埋蔵文化財センターによると、築造は弥生時代終末期の2世紀末〜3世紀初頭で、邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。
石で木槨を囲う例は、他には弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、同古墳の構造に影響を与えたのは確実。
前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料となる。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>254
それは後漢の鏡。魏の時代の鏡ではない。曹操は魏を作った人で後漢時代の鏡を自分の墓に
副葬したわけ。 >>316
大和政権で造られた古墳は基本銅鐸圏各地の技術を使ってるってことやろね。 >>319
だからどこも決着なんかしてねーんだよ
どいつもこいつも同じこと言いやがるな >>318
畿内や九州などの「前方後円墳」は、阿波人のお墓。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>321
当時四国に橋はない
だが、ヤマト政権は阿波に拠点を置いてない 畿内説とアポロの月面着陸を信じてる奴は人として信用できない >>322
ヤマト政権は倭(「邪馬臺)政権。
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>305
畿内説はとっくに通説になってるんだから、こんな掲示板で力説する必要がどこにある?
学者によって細かい点では違いがあるが、大筋ではだいたい同じ
独自の畿内説なんかを披露する必要がない
九州説のやつらがやたらカキコミしてるのは、自分が作った珍説奇説を認めてもらいたいとか、
通説をひっくり返したいからだろ?
ついでに言っとくが、最新の高校生向け日本史教科書には、畿内説が有力と書かれていて、
短くであるが論拠が書かれている
山川の教科書に準拠した参考書には、1ページ使って畿内説の解説も載ってる >>325
>山川の教科書に準拠した参考書には、1ページ使って畿内説の解説も載ってる
「教科書に書いてあることを信じないこと 常に疑いを持って自分の目でものを見ること」
ノーベル医学・生理学賞受賞 本庶佑(京都大学特別教授)
わははははは @阿波 >>325
>山川の教科書に準拠した参考書には、1ページ使って畿内説の解説も載ってる
「教科書に書いてあることを信じないこと 常に疑いを持って自分の目でものを見ること」
ノーベル医学・生理学賞受賞 本庶佑(京都大学特別教授)
わははははは @阿波 >>329
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着くんだよ。 わははははは @阿波 「天岩戸別神社」は徳島県名東郡佐那河内村上字牛木屋に鎮座し、「手力男神」が祀られている。
この神(「手力男神」)は「古事記」に天岩戸を開けた神として書かれ、「佐那那縣(さなながた)に座す」と書かれている。
佐那河内村は、古く「佐那県(さなのあがた)」と称されたと「村史」に書かれ「古事記」と一致する。
その上、西に山を越えると天岩戸立岩神社があり、徳島市には式内社の天石門別矢倉比賣神社と天岩戸別豊玉比賣神社が鎮座することは、
天孫降臨の地が、阿波であると言わざるを得ない。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>330
鉄器は僕が見た資料では大したことない四国の中でも一番少なかったで。
魏との交流でも、四国の阿波って、何あるの? >>333
めくら蛇に恐れず。 初心者、倭国(阿波)に恐れず。
女性の人骨出土 犬山天神山古墳(徳島市)https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/52348696.html?__ysp=5aWz5oCn44Gu5Lq66aqo5Ye65ZyfIOeKrOWxseWkqeelnuWxseWPpOWis%2B%2B8iOW%2Bs%2BWztuW4gu%2B8iQ%3D%3D
石棺からは、ヒスイ製勾玉(まがたま)1点、青銅製の鏡1枚、水晶製勾玉1点、直刀1振り、
鉄鏃(てつぞく)35点、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)8点なども出土。
「倭国(阿波)は鉄器王国」
倭国(阿波)では遺跡発掘が少ないにも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地7か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」 @阿波 >>333
めくら蛇に恐れず。 初心者、倭国(阿波)に恐れず。
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡
この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。
「カネガ谷遺跡」
出土した弥生土器・石器から、弥生時代後期初頭の集落であることが分かった。
特に、注目される遺物として朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧が出土した。
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%CC%C4%CC%E7%BB%D4%2F%A5%AB%A5%CD%A5%AC%C3%AB%B0%E4%C0%D7 庄・蔵本遺跡とは
庄・蔵本遺跡は、阿波徳島のランドマーク、眉山の北側山麓に広がる遺跡です。
蔵本キャンパスでは、1982 年に体育館器具庫地点の発掘調査を嚆矢とし、これまで30次にわたる発掘調査が実施されています。
その結果、縄文時代晩期から近代までの幅広い時代にわたる、数多くの貴重な文化財が発見されています。
その中でも、弥生時代前期のそれは極めて豊富で、初期の農耕集落遺跡として、学界で注目されています。
弥生時代の始まりには、2重の大溝が居住地の周りを巡り、その周辺に墓地や畑・水田が広がっていたようです。
そのほか、弥生時代中期の方形周溝墓群、後期の中国鏡、銅鐸片を発見するなどの学術的価値の高い成果をあげています。
旧河道や溝などからは、土器・石器などの道具に加え、木製品・炭化種実といった有機質資料も豊富かつ良好な状態で出土しており、
弥生人の生活誌の復元にも大きく貢献しています。 @阿波
http://tokudaimaibun.jp/s_rist.html >>1
考古学的に三世紀は圧倒的に九州優位だからなぁ
鉄を分けてもらえなかった畿内が都とか寝言は寝て言えってレベル
830 :日本@名無史さん :2019/09/14(土) 13:46:47.04
>>829
三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない一方で、北部九州には鉄器が豊富
この頃の本州の鉄鍛冶工房は北部九州の海人族の進出地のみ
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
そして四世紀になると奈良盆地内にも鉄器が増えてくる
このことは三世紀までは北部九州の勢力と畿内勢力が別勢力であったことを意味している
そして地理的条件により、畿内の勢力が北部九州を経由せずに魏とやりとりすることは不可能
ゆえに三世紀の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州以外にあり得ない
神武東征が卑弥呼より前ならば、畿内は当初から北部九州から鉄材も鉄鍛冶職人も入手可能なはずで
四世紀まで鉄器が普及しなかった理由を説明できない
証明終わり >>334
大和同様鉄器貧弱県でないことを示す他県と比較した資料を示せないの? >>335
そういや、其山有丹の一点突破みたいな説だったんだよね。
ごめん、度忘れしてた。
でも、銅鏡はあちこちから出てるからそれほど有力な証拠とは言い難いんじゃないの? >>338
バイアスのかかった資料に騙された口だね。 そんなインチキ資料に騙されるより、鍛冶炉遺構でも見つけ給え。 わははははは @阿波 >>339
>そういや、其山有丹の一点突破みたいな説だったんだよね。
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波
ごめん、度忘れしてた。
でも、銅鏡はあちこちから出てるからそれほど有力な証拠とは言い難いんじゃないの? >>339
>でも、銅鏡はあちこちから出てるからそれほど有力な証拠とは言い難いんじゃないの?
鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡とは、雲泥の差。 @阿波 >>339
>そういや、其山有丹の一点突破みたいな説だったんだよね。
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波 >>3
千葉県民なんか死んでも差し支えないけどな。笑笑 >>345
バイアスのかかった資料中毒かね? そんなインチキ資料に騙されるより、鍛冶炉遺構でも見つけ給え。 わははははは @阿波
>>337
結局、考古学も文献学も九州であることを示してるんだよね >>349
読まないほうがいいよ。 戦意喪失してしまうから。 わははははは @阿波 九州説の奴らは、もう引っ込みがつかないんだよ。
自分が定年退職するか死ぬまで九州説が残ってれば、それでいいって考え。 >>>351
畿内説も「同じ穴の狢」だよ。 五十歩百歩。 @阿波 >>351
畿内説の自己紹介ですね分かります
>>14,34,35,37,60,192みたいな九州説の確実な証拠を次々に突きつけられて
もう大声を張り上げることしかできなくなったのが今の畿内説だもんなw >>340
>バイアスのかかった資料に騙された口だね。 そんなインチキ資料
結論は違うが、鉄に関してこの部分は同意
日本列島は鉄貧乏だった畿内により統一されたのが、現実の歴史
弥生時代の九州には、広域国家を形成するだけの鉄もなかったし、その程度の鉄の量では国力とも無関係
それなのに、九州説信者はなぜか九州の鉄を過大評価し、九州説の決定的な証拠だと誇示する
現実の歴史の前には、無意味な虚勢でしかない
日本列島で鉄が増えてくるのは古墳時代になってからで、それに比べたら弥生時代の鉄など微々たる量に過ぎない
しかも、邪馬台国が魏と外交をやってた頃には、自慢の鉄も九州の優位性はなくなってるし ただし、ほとんどの九州説信者は、日本の古代史を否定して、オリジナル古代史を作ってしまってるから
勝手にやってくださいとしか言いようがないけど >>334
阿波はおそらく出雲族では?千葉の安房は阿波人が移住してつけられた名前。鴨川とか
出雲族と関連ある地名が多い。ちなみに、加茂族は出雲族の一派。 ID:WRm2TF1z0
この人すごいな
九州説で確定だな
で東征して筑後の地名を近畿にあてはめて
近畿の原住民に古墳作らせて力を削ったわけか >>357
単発で「素晴らしい!九州説確定!」
ってやるとお金もらえるの?
俺もやりたいから紹介して欲しいんだけど ×南
〇東
邪馬台=大和
の東なので愛知か群馬と言われている >>358
は?アホの子?
説得力ある材料持ってきて言え
おれは利害関係ねーよ 九州説の有力な史料が出てきてしまったから畿内説はイチャモンつけて荒らすだけになってるな
完全に負け犬根性w どこにあったにせよ、邪馬台国はヤマト王権の元になった国であるのは間違いない >>337
鉄器の普及は最近のDNAの研究成果による北部九州から渡来系弥生人(現代日本人)の日本列島拡散とも一致しているね。 >>361
この人たまに喋るぞw
というか相変わらず九州説が嘘、自演、罵倒を繰り返してるのか 邪馬台国連合は佐賀福岡大分で狗奴国は熊本だね。
狗奴国は熊襲や隼人で熊本宮崎鹿児島にも勢力を持つ大国という説もあるけどそれは否定的。
熊本は弥生末期でも鉄器が多く、平安初期の統計でもコメの生産力が多くて豊かな国。
鹿児島や宮崎はそれが両方とも低い。だから狗奴国は熊本で鹿児島宮崎は別文化圏と思う。
鹿児島宮崎と言えば天皇家の祖先のニニギから神武あたりと所縁ある地とされる。
天皇家は邪馬台国系でも狗奴国系でもない九州の第三勢力出身? >>365
そうか?
倭人伝に描写される邪馬台国のシステムと大和朝廷のそれは政治的にも文化的にも差が大きいのだが。
邪馬台国畿内説の論者も明確な違いを認めているのに
変化した理由については根拠が弱くうまく説明できてないんだよなぁ。 >>337
神武東征(九州勢力の畿内侵攻による文化の変動)は嘘じゃないんだよなあ。 AIに情報放り込んで検討させたらどうよ
近畿だったら狗奴国はどこになんの?
くこちひくが菊池一族になるってのが普通の発想 >>371
前半部分は同意見かな
熊本に大きな勢力があって南は別勢力って言うのは同じ
南の勢力は琉球方面との交流や貿易のある比較的友好関係の良い勢力だったと思う
大和政権の創始者が高千穂出身なのは邪馬台国崩壊後に高千穂出身で邪馬台国の残党を引き連れた人が荒れた九州から
畿内に入って畿内の勢力をまとめて作ったのが大和政権だと思ってる
この人物は出身地が高千穂だから宮崎経由で鹿児島方面の勢力ともつながりがあったかもしれない まだ畿内説に抵抗してるのか
みっともないな九州土人は >>375
つまり邪馬台国崩壊後にその残党が高千穂に逃げ延びたのが天孫降臨というわけか。
アマテラスは卑弥呼がモデル説は根強いけど
かつての偉大な女王の話は彼らが持ち込んだってことだね。 >>373
神武東征の時期が記紀にあるような2600年前ではなく邪馬台国より後の時代1700〜1500年くらい前なんだ。 >>378
敏達天皇以降の即位年を正しいとすると相関係数のかなり高い近似曲線ができるらしいが、それをもとに神武まで遡ると神武が280年頃に即位したことになるらしい
つまり卑弥呼は神武以前に存在したことになるわけで、そういう理屈からも卑弥呼=アマテラス説が主張されている >>375
戦乱続く九州から出て東征した勢力が大和政権というのは納得行く話だな
発掘の事実をもとにすると、鉄器が近畿で使われるのは3世紀に入ってから
倭国大乱を治めた邪馬台国の卑弥呼が大和にあったなら、倭国大乱年代で鉄器がより多く発見されるはず
倭国大乱は九州の戦乱で、九州から大和に逃れた勢力がヤマト王権をたてたと
このヤマト王権と邪馬台国は別ということか >>380
橿原にある遺跡を徹底的に調べて、神武280年頃即位に真実味があるのか、
無ければ記紀ガン無視することになるので矛盾が生じることになるかな。 >>381
基本的なことだけど倭人伝で少なくとも北九州の倭人は鉄製の鏃を使うと
明記されてるのにその時期の奈良は鉄鏃は出ないもんな。邪馬台国は北九州で確定。
畿内の鉄器の話からしたら東征は邪馬台国後の3世紀末から4世紀初旬っぽいんだよな。
倭国大乱は九州とその周辺だね。
中国人の日本列島認識は九州が島なのは分かってて対岸の先に四国や本州があるのも認識しているがその先まではわからない、だから。 >>383
崇神の御代に朝鮮との外交が始まったことが記されており、
鉄器の増大はそれで説明がつくが、東遷の事は全く記されてない。
記紀の内容がなぜそうなったのか、その辺を十分に説明する必要はあるだろうな。 いったいいつまで邪馬台国がどこにあったか引っ張るつもりだ。
そろそろ考古学的に、結論を出せよ。 >>372
このレスたまに見かけるが、抽象的すぎてみんなポカーンだろ
政治的に文化的に差が大きいとか、違いがあるとか、個人の主観でしかない
違いがあるとさえ言えば、中身空っぽでも、畿内説を否定できると思ってるんだろう >>386
政治的な違いは良く知らんが、文化的違いが大きいのは古代史ファンにとっては常識じゃね? 伊勢遺跡の後継が纏向ではないかというのが最近の学説だな
東海式の前方後方墳があるのを見ても解るとおり、桜井近辺に諸国の豪族オールスターが集結していたという >>388
ブルーカラーは来てたとは思うが、
権力者が来てたかどうかについては何か根拠があるの? まあ、大物主が出雲の有力者の一人だろうとは僕も思ってるけど。 魏志倭人伝には邪馬台国の方角は南と書いてあるが、それは奈良の事である。
東の海を渡った先にある詳細不明の倭種の国は東海地方の事であり、理由は分からないが邪馬台国候補地である纏向遺跡では東海産の土器が多数発見された。
北部九州のコントロール本部が纏向であるが、九州産の土器など交流を示すものは出土していないし、弥生特有の鉄器文化も見られない。
箸墓古墳が魏志倭人伝の記述に適合するのは大きさのみであり、墓形式は異なり殉葬100人の痕跡も無い。
畿内説とは、冒頭の根拠不明な仮説の上に組み立てられたさらなる仮説であり、それを基軸にしている以上は何を言っても想像論にしかならない。
想像論文が査読を通過してしまう日本の考古学会はかなり腐敗が進んでいるものと思われる。
こうした事例を根拠として中国や韓国は日本の歴史観を否定している。 >>386
文化的な違いは大和を伊勢や四国なんかも含めて考えると途端に九州独自の特徴は何もなくなる 神武より先にニギハヤヒが東征してる
巻向作ったのはこの人たちだろう >>394
銅鐸圏民族を意味してるなら、当時まばらにしか縄文人が存在してなかったろうから、
空き地で縄文人と協力しながら農耕を始めただけで
東征というようなもんじゃなかったと思うけどな。
ブルーカラーとして働いたのは彼らの可能性が高いかもな。 >>393
前方後円墳の構造には九州型と畿内型がある。
九州型は4世紀頃から南九州へと広がり、畿内型は6世紀頃に現れる。 >>390
色々論文はあるから、興味があればciniiとかj-stageでも探してみて
倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス
ttps://ci.nii.ac.jp/naid/120005689971 >>383
鉄鏃が奈良で2世紀に出土しないことがいったい何の問題がある?
倭国大乱が倭国の都周辺で起きていたとはどこにも書かれていない
そもそも、2世紀後半の殺傷人骨が見つかったのは、日本中で青谷上寺地遺跡のみ
高地性集落も瀬戸内から畿内に多い
これを倭国大乱の痕跡とみなす見解もある
倭国大乱の後、卑弥呼が共立されたと魏志倭人伝に書かれているが、纒向の造営も同じ時期
偶然と思えないような一致 >>392
デタラメ畿内説を自分で作って、それを自分で批判してるだけ
自作自演の論破ごっこと同じ >>393
邪馬台国は九州にはなかったから当たり前
九州は畿内の影響を一方的に受ける側
九州は、王権の象徴だった中国鏡を畿内に独占されてしまい、生活土器から祭祀土器まで畿内様式に変わり、
前方後円墳体制に飲み込まれ、三角縁神獣鏡を下賜される
この動きは3世紀前半に始まり、3世紀中頃には博多湾沿岸地域、3世紀後半には他の北部九州が畿内文化に飲み込まれる
祭政一致の時代にこういう状況なんだから、九州王朝なるものはただの妄想だとわかる それ程大きくはない古墳が広く支配者層のために造られる地域がある一方で
一部の地域の古墳は巨大だが寡頭的。そこは強い権力、「神」に支配された国。
倭人伝によれば倭国九州は人が支配していた。
一方、畿内は九州から来た神の子孫に支配されたと自称する。
16世紀の新大陸がそうであったように本国から遠い属国は統治原理が異なる別の国である。
「白い神」ならぬ「黥面の神」。南の海洋人の魔除けが神に見えて面を作り崇めたのだろう。 >>400
想像に想像を重ねるだけで畿内説の出来上がりか?w >>398
畿内(ヤマト政権)が倭国では無かった可能性は非常に高い。
漢委倭奴国の金印は福岡で発見された。
後漢書「倭奴国は倭の南極界である」
旧唐書「倭国はかつての倭奴国である」
<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
■倭國条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭國者,古倭奴國也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年〜 (ヤマト政権時代)
「日本國者,倭國之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小國,併倭國之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
※日本の使者が、倭国と日本国が別物だという認識を持っていた事がわかる言葉だ。 >>402
>想像に想像を重ねるだけで畿内説の出来上がりか?w
九州説も「同じ穴の狢」 五十歩百歩 @阿波 「韓国の考古学者の申敬K氏によれば3世紀末〜4世紀中葉に、伽耶には
突然騎馬民族的集団が現れ、それ以前の墓を壊して大きな墳墓をこしらえた。」
これ、4世紀末の奈良盆地に入植してオンドル住居を造ってた連中だな。
無駄にデカいものを造りたがる民族性は半島人そのもの。
産経新聞(2018.11.28)
「最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
↑証拠隠滅? 九州すげーね
偉大なる九州のコピペ貼っちゃおーかな 偉大なる九州
・鏡は5〜6期の古い鏡を打ち割った破鏡か欠損鏡、小型仿製鏡が殆ど。古墳出土鏡を待つまで完形鏡がほぼ出ない
(西日本各地では完形鏡が出土するので既に九州に中心地など存在しない)
・平原の鏡も古い鏡を鋳つぶして作った仿製鏡だらけ
・絹は中期の13遺跡から激減の1遺跡。しかも麻布よりも粗悪な糸くず片が一かけら出るのみ
・祭祀遺跡は柱を2本立てただけの小さなものくらいしかない
・当時採掘されていた丹山は存在しない
・宮殿など影も形もない
・全域が畿内の土器に塗り替えられ在地土器が変容(一方的に畿内の影響が入り込み九州から広まる様子はない)
・大型墳墓の歴史が無い状況で突然この時期に大型墳墓が持ち込まれる 阿波はオオゲツヒメのはずだが
べつにそれほど大したことない神だが 「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[「上一ノ宮大粟神社」の御祀神は「オオゲツヒメ」という神様だが、
オオゲツヒメ=御食津神=豊受大神
豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様だが、じつは外宮の神官「度会氏」は「忌部氏」の末裔。
元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だった。
大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 スレチかも知れませんが
大陸とのやり取りは邪馬台国まではありましたが
邪馬台国が無くなってから大和政権が誕生するまでなにか国同士のやり取りみたいなのがあったのでしょうか
また大和政権になってから最初に大陸とやり取りがあったのはいつなのでしょうか
文献とかに残ってるのでしょうか あ雄略天皇が安東代将軍の称号をくれと中国に申請してるわごめん >>414
>邪馬台国が無くなってから大和政権が誕生するまで・・・
邪馬台国は、無くなった訳ではない。 記紀で、「粟国」と表記している。
大和政権(大和朝廷)が誕生するのは、8世紀に倭国(阿波)から奈良大和へ遷都してからのこと。 @阿波 >>415
>スサノヲに切り殺されたじゃん
『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。 @阿波 倭の五王は大和じゃなくて九州系(倭国)だよな
>>403 >>418
>邪馬台国は、無くなった訳ではない。 記紀で、「粟国」と表記している。
ちなみに、狗奴国は、記紀で、「長国」と表記している。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>420
稲荷山鉄剣があるのになんで九州になるんだよ
大和だよ >>422
埼玉県稲荷山古墳は、勾玉や鉄器などの副葬品や、
埋葬構造(礫槨・粘土槨)から、関東へ進出した関東忌部のお墓だと分かる。 @阿波 >>1
当時は九州が一番発展してた事は鉄製品の出土数からも明らか
畿内が発展するのはこの後なんだよな >>424
>当時は九州が一番発展してた・・・
碌な鍛冶炉遺構遺跡や資源の無い九州が、一番発展していた訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>422
稲荷山鉄剣は地方豪族の鉄剣で大和とは関係ない。 >>426
大彦とかワカタケル王とか記紀に書いてある事書いてあるのに 倭の五王の時代はすでに全国政権だろ
卑弥呼の時代までは九州出雲吉備が中心ではないか 一万二千里は短里で測量したとか
倭の五王は全て九州王朝?でヤマト王権と関係無いとか
九州説はこういうトンデモを駆逐しないとメジャーにはなれ無いと思う しかし九州勢力が東征したとなると纏向遺跡から九州系土器が出ないってのは納得できないんだよな
まあ、纒向遺跡というのは人が住んだ痕跡も少なくかなり特殊な集落のようだが 九州勢力の痕跡なら、
九州に多い、朱丹や剣、玉、鏡が
出るところだろうね。
全部の遺物があるわけではないが
桜井茶臼山古墳とかホケノ山古墳は
比較的九州の古墳の副葬品と似ている。 東征があったとしたら九州から一気にいくわけじゃなく、先に軍門に下った勢力を使うでしょうよ
具体的には吉備ですね >>430
それに加えてもう一つ
考古学や物証を否定してる限り、九州説は永遠にエンタメコンテンツでしかないだろう もう一つあった
安本のサイトから情報やデータを引用する限り、インチキ説とみなされる 魏志倭人伝の元となった魏略には
「女王之南又有狗奴国」と記録されている。
ということは狗奴国の北が邪馬台国ということですね。
さて狗奴国はどこ?
そして邪馬台国は? 弥生時代の九州ではすでに日本刀の歴史が始まっていたのだな。
富の原遺跡(とみのはらいせき)@長崎県大村市
『〜刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる
「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された』 >>434
畿内説の考古学的物証とは
もものたねw >>428
だから記紀は大和政権の物語や歴史だから、当然大和の稲荷山鉄剣にその登場人物がしるされてるんだから大和の話でしょ。 >>431
東征と言うより王とその家来数人が婿入りして入植しただけだと思うよ。 >>424
>当時は九州が一番発展してた事は鉄製品の出土数からも明らか
これが大きな勘違い
100点満点で、10点と1点を比べて、10点のオレ様凄いだろうと自慢してるようなもの
100点の人から見れば、10点も1点も同じようなもので、両方とも少ない
つまり、九州の鉄自慢は、実は大したことなかった
鉄貧乏だった畿内勢力に、北部九州があっという間に飲み込まれてしまった現実の歴史が証明している
弥生時代の九州の鉄の量では広域国家は形成できないし、畿内勢力の物量作戦の前には無力
日本列島で鉄が増えてくるのは古墳時代になってからだ
https://i.imgur.com/63f11W7.jpg >>437
方向か距離かどちらかが信用できない以上そんなこといくら言っても無駄 >>427
稲荷山鉄剣の銘文をワカタケルと読むには無理がある
漢音と呉音が混じっているし欠字もある
仮にワカタケルと読めたとしても若大将のような意味で
個人名ではない。 >>441
一度は撃退されて迂回して侵入に成功してるから
婿入り入植ではないよ。 >>445
饒速日が迎えたんだよ。同族だから
高倉字も八咫烏も皆協力してる。同族だからだ
同族に迎え入れられたんだよ
いう事聞かない勢力を饒速日が粛清している。 >>440
>だから記紀は大和政権の物語や歴史だから
だから、大和朝廷は8世紀の奈良遷都から だと、何度言えばw @阿波 卑弥呼の時代までは九州が有力
3世紀後半以降ヤマトの勢力が一気に拡大し、全国支配したということだろうな
神武東征は単なる神話ではなく、九州勢力の大和東征で、その東征を警戒した瀬戸内勢力が高所性集落を多く作ったと
出雲伝承の徐福が饒速日であるという説は眉唾だが、邪馬台国日向説は案外検討の余地があるのかもな >>440
どうだかね
記紀なんて年代も人物も勢力図も全部いい加減なもんでしょ
大和王権の正当性をでっち上げるための壮大なテキストだから
主客の転倒や我田引水だらけでしょあれ
どういう出来事を取り込んでいったかとか大まかな民族史や歴史観は分かると思うけど
ぐちゃぐちゃにかき混ぜた料理から元の材料を推定するような、そんな風にしか役に立たないでしょ >>443
東海が狗奴国だとしたら纏向遺跡の東海色のつよさは矛盾している。
今のところ狗奴国候補と言えるのは熊本だけ。 >>441
>東征と言うより王とその家来数人が婿入りして・・・
わざわざ、山に囲まれてジメジメした辺境の奈良盆地へ行かんでもwww 気の毒な王と家来たち、とほほ・・・ @阿波 >>451
>今のところ狗奴国候補と言えるのは熊本だけ。
碌な集落遺跡や資源の無い熊本に、狗奴国など在る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 九州説が致命的なのは、3世紀になると中国鏡を入手できなくなること
鉄は主に朝鮮半島南部との取引なので、魏との外交には関係しない
中国鏡は楽浪郡や帯方郡との取引なので、魏との外交と密接に関係してる
九州が中国鏡を入手できなくなっていることは、九州は魏や帯方郡に相手にされなかったことを意味する
それなのに、「九州は帯方郡を通じて、魏と外交をやっていたんだ!」という言い分が通用するはずない
矛盾している
https://i.imgur.com/AAfvUdH.jpg どこでもいいニダ。
邪馬台国は南極にあったニダ。でもOKニダよ。 >>454
もちろん、中国鏡を入手していたのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 3世紀時点で鉄が流通していなかった奈良盆地は倭国圏外です。
■魏志韓伝より
國出鐵韓穢倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡
(国には鉄が出て、韓、穢、倭がみな、従って
これを取っている。 諸の市買ではみな、中国が
銭を用いるように、鉄を用いる。 また、楽浪、
帯方の二郡にも供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を利用されていた。
・この時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓分布図
http://imgur.com/OK8GwzA.jpg
■推測されること
・畿内は取りに行ってない
・畿内は九州に鉄を分けてもらえなかった
・畿内説によると北部九州に一大率を置いていたと言うが、
鉄が畿内まで流通していなかったという事実。←矛盾
■結論
・北部九州と畿内の関係は希薄だった。
・一大率や大倭は畿内政権とは無関係だった。
・畿内は鉄が不足していたので海外と交易できなかった。
■結論を裏付ける考古学的事実
纏向遺跡では九州や半島産の土器が出土しておらず
交流は希薄だったと思われる。
<纏向遺跡出土の土器の産地>
1.伊勢・東海系:49%
2.北陸・山陰系:17%
3.河内系:10%
4.吉備系:7%
5.近江系:5%
6.関東系:5%
7.播磨系:3%
8.西部瀬戸内海系:3%
9.紀伊系:1% ・九州は魏や帯方郡に相手にされなかった現実がある
・でも、九州は帯方郡を通じて、魏と外交をやっていたはずだ
九州説の人、この矛盾どうすんの?
こんな矛盾した話をごり押しして誰が納得する? 天皇即位年をプロットすると17代履中天皇以前は明らかにおかしい
履中天皇以前の天皇の人数は正しいとすると、神武は西暦250年あたりになる
この時代色々と熱すぎるだろ
https://i.imgur.com/rRw3NRA.png >>459
>>458
魏は倭人が韓国に鉄を掘りに来ているのを記録している。
その鉄で買い物をしていた事も記録している。
そして北部九州にはその鉄を生活で利用していた痕跡もある。 東海から北九州の緩やかな連合が女王国だとしたら、
狗奴国は南九州でも矛盾は無いかな >>448
だからそんな妄想を何度言われても納得する奴はいないよ >>1
何を今更、魏志倭人伝を読めば誰でもそう考えるわ。
それに記紀の天孫降臨を読めば、日向の反対側に高天の原が有った事は自明だし。 >>451
神武が大和にきて後は関係は良かったんだろうけど、その後吉備も尾張も敵対関係になったことは記紀にも書いてある
四道将軍やヤマトタケルを派遣しているわけだから。 >>462
>東海から北九州の緩やかな連合が女王国だとしたら、
今のEUでも無理なのにw なにを考えているんだかw @阿波 >>465
神武だの記紀だのって、それスレ違いだろ。
占いを信じていたような当時の人たちの口伝をベースに歴史を検証できると思うのか? >>463
少なくとも、畿内説より納得されているよ。 わははははは @阿波 記紀が史実なら東征は紀元前600年だから邪馬臺国と無関係
記紀が嘘ならそもそも邪馬臺国論争におとぎ話しの記紀を持ち込む必要なし
どっちみち記紀の東征と邪馬臺国論争は関係ない >>466
ほんとそれw
日本が正味統一国家になったのも明治維新以降だw >>458
>この時代の畿内からは鉄が出土していない。
>鉄が畿内まで流通していなかったという事実。←矛盾
はいはい、いつもの嘘コピペ
古いデータを意図的に使って騙そうとしてるが、3世紀前半に畿内勢力が北部九州に
進出した直後から畿内でも大量に出ている
邪馬台国が魏と外交をやってた3世紀中頃には、九州の優位性はない
ホケノ山古墳(3世紀中頃)
素環頭大刀 1口、鉄製刀剣類 10口、鉄鏃 約60本、鉄製農工具
黒塚古墳(3世紀後半)
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札600点、U字形鉄製品
椿井大塚山古墳(3世紀後半)
武器:鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、鉄製甲冑1領、
工具農具:鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上
漁具:鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
鉄が多いというのはこういうことを言うんだよ
https://i.imgur.com/aNlfjez.jpg
>纏向遺跡では九州や半島産の土器が出土しておらず
>交流は希薄だったと思われる。
逆方向の流れは太いよな
なんで意図的に隠して騙そうとするの?www
北部九州には畿内系土器が出土しており、その地域には直後に前方後円墳が築造される
北部九州は畿内との交流が希薄ではなく、畿内政権の傘下に入ってしまったんだよ! >>473
それ、阿波人のものなんだがwww @阿波 >>473
辺境の奈良盆地に文化が興る訳がないだろ? @阿波 >>473
3世紀後半では畿内政権が有力なのは異論無いんだよな >>476
辺境の奈良盆地に文化が興る訳がないだろ? @阿波 >>472
それはお前だろ
オンリーイン四国教育なんかだれも受けてないから 倭国大乱は北九州出雲吉備中心の戦乱で、これを治めた邪馬台国は九州にあったが、卑弥呼をたてるにあたって纏向に祭祀用の人工都市を作ったのかもしれんな >>476
・鉄も3世紀中頃には、九州の優位性はなくなっている
・魏との外交を考える上で、鉄よりはるかに重要な中国鏡は、3世紀の初頭から九州は入手できなくなっている
つまり、九州は魏に相手にされなかったことを表している
九州はどうやって魏と外交をやったんですか??? 神武以降欠史八代くらいは吉備尾張伊勢あたりから皇后をもらっている。
しかし崇神以降近場から皇后をもらう。
継体あたりから蘇我時代になってようやくまた尾張や吉備、伊勢の皇后や妃が出てくる。
つまり一時的に敵対していた期間があるとうかがわれる。 >>479
>倭国大乱は北九州出雲吉備中心の戦乱で
妄想も大概にしたまえ! @阿波 >>478
なんで四国なんだよw
もしかして小卒か? >>482
いや鉄の分布って図を見るとまんざらでもないないぞ。
まだ九州〜山陰あたりまでしか開拓が進んでなかったとして、狗奴国は東から進出してきた畿内政権や瀬戸内と考えるのも有り。 >>484
妄想好きなことはよくわかったが、大概にしておきたまえ。 @阿波 ・九州は魏や帯方郡に相手にされなかった現実がある
・でも、九州説信者は九州が帯方郡を通じて、魏と外交をやっていたと言い張る
どうやったら、こんな矛盾したことができるのか、誰か答えて >>480
倭国大乱を契機に九州から畿内に移ったということだろうな
倭国大乱の戦乱地から遠い、文化的にも遅れている畿内勢力が倭国大乱を治めたとは思えず、九州にあった勢力が卑弥呼を立てて治めて、その後大和に移った説が納得行くかも >>483
古田厨の方か
どっちにしろ日本の教育に古田なんぞ出てこないんだよ >>488
時系列が滅茶苦茶
それに、その言い分を裏付ける物証がない
それどころか、物証はまったく逆で、畿内から北部九州に人が動いてる
そもそも、倭国大乱も北部九州だと決めつけてるが、その時期に北部九州に戦乱の痕跡はない
何がなんでも九州にしたいために、矛盾だらけの空想話を作ったとしか言えない >>488
九州説はどうしてもこういうトンデモに行きつくしかないのかな
これではなかなか難しいね >>491
畿内から北部九州に人が動いてるのっていつから
古墳時代以降だと当然なんだよな
すでに畿内に中心が移ってるから >>492
別に九州説に立っているわけではないが、倭国大乱を治めたのが畿内勢力という根拠に乏しいと思う
畿内勢力だという根拠は? 「自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳
・・・次有奴國、此女王境界所盡」
阿波説さんの見解だと、
遠すぎてわからないという北の21カ国
女王国の境界はどのあたりなのかな
筑紫平野説でも、ここの説明が不明 >>491
弥生時代における鉄鏃の出土は主に九州から
その次に中国地方
九州中国中心の戦乱だろうな >>493
確実な証拠だと2世紀末から
ただし、この時点では単なる交易目的だろう
北部九州で畿内系土器が出土する場所は大陸貿易の拠点の場所だったりする
本格的に進出したのは3世紀前半からで、このときは大陸貿易だけでなく政治連携も目的と考えられている
奴国の王様がいたド真ん中の集落に進出しているから >>497
ソース貼って
そのソースから原典できるだけ見るから
日本列島における中国鏡の分配システムの変革と研究師から見た弥生時代の鉄器文化は面白かった >>496
九州に鉄鏃が多いというのが大間違い
九州説をごり押しするために、鉄鏃が多いと言い張ってるだけ >>499
古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究 >>500
鉄の古代史―弥生時代というデータが出典のようだがこれを否定するソースは >>454
これは九州経由で近畿に持ち込まれた可能性はないの?
一世紀に九州から一度大和に枝分かれした。
後の倭の大乱時にさらに近畿に多くが渡っていったとか
で最終的に大和が倭国を併合した
これは文献にもあるし >>501
古墳時代前後の話なら俺も同意する話だが >>502
鉄貧乏だった畿内に北部九州は飲み込まれてしまったんだから
弥生時代の九州にあった鉄の量では無意味だったという結論以外にないだろう >>503
おまえのものはおれのものという発想ね
九州王朝説の人はどんな証拠を提示しても納得しないので、そういう人納得しなくていいよ
ただし、九州が一旦入手していたなら、2世紀末の平原遺跡が国産鏡ばっかりになることは矛盾するので、
その辺もどう反論するか考えておいた方がいい >>505
意味がわからない
倭国大乱の地域を鉄鏃の出土数や刀傷のある人骨などの出土から九州中国中心と考えているが、その話と>>505の話になんの関係があるのか
そもそもソースも無い話はどうでもいい >>504
その中に、どの年代の土器かも詳しく載ってる
古いのは2世紀末から >>507
2世紀後半の殺傷人骨は北部九州にはない
それにソースは貼ってあるだろ
寺沢氏の分布図と佐々木論文 >>509
寺沢市の分布図はどれで、佐々木論文の何ページにあるわけ >>506
倭国が近畿から九州までを従えた大勢力だとするなら
これと争ってた狗奴国をどうとらえるの?
和歌山だと話にならないし、尾張平野でも対抗馬として釣り合わなくない?
それ考えると大和、倭国並存説が一番しっくり来る >>510
寺沢氏の分布図は>>442
北部九州が初期ヤマト王権の傘下に入ったことを示す図
佐々木論文のページはわからん
北部九州への進出が「政治連携」を目的としてることが書かれている >>511
>倭国が近畿から九州までを従えた大勢力
そんなこと誰も言ってないwww
魏志倭人伝に書かれている通り、別々の国だよ
そもそも、こんなの畿内説の主張でさえない
日本古代史の通説なんだよ >>512
佐々木論文は古墳の伝播と同時期に土器が移動したと書いてるところしかわからんな
まあ後でじっくり読むけど、結局お前の話しは2世紀の話のソースが無いんだよな >>509
例えば吉野ヶ里の刀傷のある人骨は弥生後期の土器とともに出土している
無いと言い切る根拠は >>515
そんなこと書かれてない
最初から、曲解する気満々だな
こりゃダメだ >>517
ではどこに書いてあるか指摘しろよ
60ページある論文をいちいち短時間でちゃんと読めるか >>516
大雑把に言うと、玄界灘沿岸地域は中期、内陸部で中期後半から後期前半
吉野ヶ里が後期後半なんて聞いたことないが
2世紀後半の殺傷人骨が見つかったのは、日本中で青谷上寺地遺跡のみ >>518
もういい
ソースくれと言うからわざわざ出してやったのに、自分で読む気もないやつはどうでもいい >>520
では終了で良いな
こっちもめんどくさいわ >>521
終了でいい
・九州は魏や帯方郡に相手にされなかった現実がある
・でも、九州が帯方郡を通じて、魏と外交をやっていたと言い張る
誰も理解できない論理で言い張ってればいいよ 2世紀の情勢が問題だって言ってんのに、延々3世紀について語るアホ
話にならんな 2世紀中頃、倭国大乱、治めたのが畿内勢力という根拠は乏しい
2世紀末、卑弥呼擁立し大乱収束
3世紀中頃、卑弥呼死に内乱発生
3世紀後半、九州、畿内勢力の前方後円墳体制に飲み込まれる
進んで受けれた体制でないと、簡単には移行しなさそうではある 壹與を近畿勢力が押し立て確保したとする
女王壹與のいる国は邪馬台国と言えるか
名は無理でも倭国の中心とは言えるな 九州勢からすれば、なんの力もないお飾りの王
近畿へ追放することで、自分たちに勝手自由が手に入る
近畿勢からすれば、利用価値大あり
盛大に盛り上げることで、東海などを従わせることに使える
勢力拡大の基礎なり、結果としてヤマトの誕生
天皇と関係なくもいいでしょ、嫁にすればそのまま使えるし
宗教的立場に祭り上げれば、より自由により効果的に
壹與近畿移動説、なにか問題でも >>473
はいはいいつものウソ乙
一番古いホケノ山でさえ4世紀ですよっと
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku277.htm
> 『調査概報』の年代を見た近畿説の考古学者は、ホケノ山古墳の年代をさまざまな理屈を付けて古く持っていき、
> これが卑弥呼の年代と重なると述べるようになった。
>
> しかし、今回の2008年の研究報告書では、ホケノ山古墳についてかなり新しい年代が報告された。
> 今回の報告書は、樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
> これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。
>
> 小枝からとった試料No.1の2σ暦年代範囲は250〜400calAD(95.4%)、 試料No.2の2σ暦年代範囲は320〜420calAD(81.5%)と
> 250〜300AD(13.9%)である。
(中略)
> この結果は、ホケノ山古墳の年代が卑弥呼の時代の3世紀中頃よりも、かなり新しく4世紀後半であることを示している。
> 『調査概報』のデータを見て、ホケノ山古墳の年代を卑弥呼の時代まで遡らせる主張をしてきた考古学者たちは、はしごを外された恰好になった。 >>494
おそらく記紀の崇神記に疫病で国が乱れた。祟りを鎮めるためにトヨスキイリヒメに託して鏡を別のところに離させた。
と記述されている。トヨスキイリヒメはほぼ卑弥呼の役割その物なので、それが根拠なんだと思う。 そして倭姫世紀ではトヨスキイリヒメとヤマトヒメが各地の豪族を周って平定したっぽいことが書いてある。 >>495
>遠すぎてわからないという北の21カ国
21カ国は、女王国(粟国=大吉野川流域)の国々の説明 「其戸數道里可略載」が21カ国のこと。
「其餘旁國遠絶不可得詳」は、阿讃山脈を越えた瀬戸内海地域の国々(吉備など)。 @阿波 >>495
>遠すぎてわからないという北の21カ国
21カ国は、女王国(粟国=大吉野川流域)の国々の説明 「其戸數道里可略載」が21カ国のこと。
「其餘旁國遠絶不可得詳」は、阿讃山脈を越えた瀬戸内海地域の国々(吉備など)。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>529
崇神天皇の年代って350年頃だろうから卑弥呼とは合わないんだよな 17代履中天皇以降の即位年はおそらくおおよそ正しい
江戸あたりから天皇の寿命も伸びつつあるが、それ以前は履中天皇までほぼ100年で10代
履中天皇以前は10代で600年遡ることになり、明らかに異常
16代仁徳天皇でさえ90年在位で異常
16代以前も100年10代で考慮すると、応神天皇は380年あたり
4世紀後半の朝鮮半島進出は史実として立証されており、神功皇后の三韓征伐もこの時代だろう そして面白いのが、この方法で神武まで遡ると西暦250年あたりということ
卑弥呼、邪馬台国、神武天皇、神武東征などが西暦250年頃に集中してるとしたらいろいろ見えてくるわな >>528
畿内は希望を絶たれたな
やはり三世紀までは九州で、三世紀末か四世紀初めに東征があったと考えるのが自然だ 朝貢してた勢力が大和王権の起源だと都合悪いから記紀では消したんだろうな
卑弥呼の邪馬台国はもともとは九州あたりにあって、卑弥呼を共立するにあたって、おそらく倭国大乱の主戦場であった九州出雲吉備などの勢力下ではないヤマトに卑弥呼のための計画都市を造ったのでは
それが纒向遺跡で、卑弥呼、とよの終わりと共に消えたと >>533
その年代だともろ神功皇后だよ
三韓征伐とかの時代だから >>535
おまえバカか
250年から350年の
たった100年にどうやって13人も天皇詰め込むんだよ
10歳で子供産んで10歳で即位して20歳で死ぬんかよ
常識的に考えろ >>528
はいはい、いつものインチキ安本>>436
C14年代測定は100以上の試料を測定し、他の遺跡との整合性を見て判定している
ホケノ山の年代を異常値の出た2つに合わせてしまい、整合性のある残り98個以上の測定結果を切り捨てるのは不合理
また、他の試料の測定結果はそのまま使い、ホケノ山だけ年代を4世紀にすると、
庄内が布留より新しいことになってしまい、これも不合理
また安本の言い分だと、3世紀中頃という土器編年での推定年代とも不一致になる
さらに、北部九州の年代とも不一致になる
安本の言い分は、不合理と不一致の3連発
ただの難癖でしたw >>539
横からだけど、まさに今の代のように兄弟で継承することもあるんやで? >>535
確かに応神=仁徳あたりが一番怪しいんだよね。
で、欠史八代説であれば崇神からが実在することになるんだけど、
それも個人的には景公あたりから応神=仁徳までまた怪しくなって
くるんだよ。 あら、途中で送っちゃった。
ということで、記紀のある程度信頼できる記述はやっぱり履中天皇からだと
思えるんだよね。
で、問題の景公〜応神=仁徳の代の特徴は九州に行ってる(九州から戻って
きてる)ことなんだよね。
あとはわかるな? 天皇の在位期間を勝手に変えたり、親子継承と書かれてるのに、兄弟継承に変えたり
根拠が一つもない
自分のストーリーに合うように記紀を改竄してるのと同じ >>539
そうはいっても事実として100年で10人ほど天皇が変わっているからな
まあわかりやすく100年10代といったけど、正確には100代辺りまでは1代12年だな
これで考慮すると神武は西暦200年辺り、崇神天皇は310年辺り、応神は380年辺り >>544
履中天皇以前の天皇の即位年は100%でたらめ
天皇の数は意外と信用できるのではないか
履中天皇以降の平均在位12年を当てはめると神武が200年前後になり、ヤマト王権成立時期とかぶることになる >>541
説明自体はそれで合ってるんだけど、理系ならそこに環境影響を受ける確率なども加味する必要がある。
そうすると正常なサンプルの存在確率は非常に低くなる。
単純に多く存在するもので平均を取れば正常な結果を得られるとは限らない。
つまり異常値こそが正常値であるケースもあるという事。 九州の倭国 漢委奴国王
九州の倭国王帥升(漢委奴国王)
↓
倭国大乱(九州)
A)委奴国王が居なくなったので大乱が起こった
B)大乱で敗北したので委奴国王は奈良まで逃亡した
↓
卑弥呼 親魏倭王(九州〜中国)
卑弥呼死亡(男王を立てるも国中が服さず互いに殺しあい千余人が死んだ)
↓
ここで九州倭国連合の解体再編が起こり、九州から中国、近畿、中部まで含む近畿ヤマト連合が発足する
奈良の漢委奴国王が後見となって、卑彌呼の宗女「壹與」をでっちあげて国中が遂に鎮定した
恭順した九州北部の国々は筑紫国となり、服属しなかった邪馬台国は土蜘蛛として討伐された
↓
近畿ヤマト連合の讃、珍、済、興、武が周辺地域を武力統一(西に六十六国、東に五十五国、海を渡り九十五国)
↓
倭王武 遣使が上表して曰く
「封国は残念ながら遠く、藩を外に作り、昔より祖先は自ら甲冑を着け、山川を跋渉し、安らかに暮らす暇なし。
東に毛人を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国、(海を)渡り海北を平定すること九十五国。 北部九州の邪馬台国が4〜5世紀に、
どのようにして大和政権に吸収されて行ったかが考古学的に重要なのに、
キンキーのアホのせいで既に3世紀中期には大和政権に完全に支配されてる事になってるんだから、
空白の150年になる。 安本って調べてみたら>>547のような分析をより詳しくやってるんだな
朝倉と大和の地名の類似にしてもめちゃくちゃおもろいやんけ
邪馬台国東遷説になるわ >>537
>朝貢してた勢力が大和王権の起源だと都合悪いから記紀では消したんだろうな
俺はヤマト王権と邪馬台国は全く別系統だと思っている
だからこそ記紀では消されたのではないかな
と言っても魏志倭人伝を無視は出来ないから卑弥呼を神功皇后に擬することによってそれとなく辻褄合わせをしたってのが真相ではないかと 旧唐書を読むと、大和王権は邪馬台国の事をよく知らなかったんじゃないかなと感じる。
日本国として朝貢した使者が倭国を他国と認識しているし、朝貢の礼儀も知らないし邪馬台国の末裔とは考えにくい。
もしかすると唐に邪馬台国の事を教えてもらって知ったのかもしれない。
お叱りの国書を返されて、天武は歴史を文書で残すことの重要性に気づいて記紀の編纂を指示したのではないかな。 最近読んだアマチュア史家の本で面白かったのは
記紀の編纂が完了間際になった時点でスタッフの誰かが魏志倭人伝の記述に気が付いてしまったって説かな
今から全部書き直す訳には行かないし、魏志の方を禁書にしたりこの世から消す事も不可能、かと言って無視することも出来ない
大混乱の末にどうしたかと言うと
神功皇后を卑弥呼とも取れるように神がかり的なエピソード盛り盛りにでっち上げて挿入し、魏志倭人伝の記述は固有名詞を省いて最小限に引用し、邪馬台国がどこであったか分からぬように地名改竄や遺跡の破壊を段階的に推し進めていった、という説
記紀に書かれていないだけでなく場所を特定されないように意図的に破壊工作されてるんだから確定されなくて当たり前ってね >>556
有り得るね。
記紀の発行が遅れたのはそういう事かもね。 九州説の人はほんと旧唐書が好きだな
3世紀のことを解明するには、10世紀に書かれた史書では限界がある
旧唐書は重視するが、300年も前に書かれた隋書や北史は無視
そこには魏志の邪馬台国は大和だと書かれてるから触れたくないわな 光武帝の金印とか、魏の銅鏡鉗文とか、
中華王朝にとってこの辺の歴史は倭国ではランクが高い訳。
唐に遣唐使を派遣して、唐の政治システムを吸収しようとした際に、
先ずここに取り入る時に倭国と大和の関係は間違いなく問われただろう。
そこで、大和が倭国を制圧したでは都合が悪いから、
九州の倭国が大和に東征したっていうストーリーで、
唐に倭国の正統な継承者である事を納得させる為に作られた物語が古事記や日本書紀だった。 >>558
大和はいにしえの邪馬台国だ、とは書かれてない。
邪摩堆はいわゆる魏の言う邪馬台だ、と書かれている。
国とは書かれていないし、邪馬台というのは国の事では無く祭祀場のことだろう。
そして新唐書で改めて遷都された旨が書かれる。
だから本当に有力といえるのは東遷説なんだよ。 大彦の名前が記された5世紀の鉄剣が出てきた以上、欠史八代も5世紀の時点で実在と考えられていたわけで、記紀の捏造ではない事が証明されたわけだが 何氏は5代天皇の後裔氏族とか、何氏は8代天皇の後裔氏族とか記されてるのを捏造したとなると、その辺の氏族が確実に文句言うと思われるのでなかなか捏造は難しいんでないだろうか? >>551
邪馬台国の一部の勢力が4〜5世紀に東征したんだよ。 あんな雑な記述の文献だけで何かが断定できるわけがない。
畿内だろうが九州だろうが他のどこかだろうが、
はっきりさせたきゃ、グダグダ言ってないでもっと地面を掘って証拠を探せよ。
それができなきゃ、「証拠不足により不明」ってしとけ。
はい解散解散。 >>565
>はっきりさせたきゃ、グダグダ言ってないでもっと地面を掘って証拠を探せよ。
「其山有丹」で、決着ずみ だと、何度言えばw @阿波 普通に東遷とか東征だったら、兄弟全員が行くわけない。
地元にも基盤を残してすたれさせることはないはずだ。今の京都のように地元も繁栄したままにすると思う。
全員が大和に行くとなるとほぼ追い出されたのか地元と敵対したのかなんじゃなかろうか? そもそも、山に囲まれたジメジメした湿地帯の奈良盆地へ東遷とか東征とか、妄想すること自体が狂っている。 @阿波 阿波には前方後円墳の祖型があるから大和政権の成立に関わったのは確かだけど
邪馬台国そのものではないだろう
せいぜい、邪馬台国を構成する国ってところだろうな >>569
>邪馬台国そのものではないだろう
そう、思いたいだけだろう? わははははは
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。 @阿波 >>570
ところで、お爺ちゃんは卑弥呼フェスに行ったん? >>569
>せいぜい、邪馬台国を構成する国ってところだろうな
「邪馬臺国」は、大吉野川流域および鮎喰川流域連合国家。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>569
>せいぜい、邪馬台国を構成する国ってところだろうな
ちなみに、「狗奴国」は、勝浦川流域・那賀川流域・海部川流域連合国家。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>573
だからスケールが小さすぎるんだよ
大陸とかと交易してるような時代だっていうのに >>574
>だからスケールが小さすぎるんだよ
碌な集落遺跡や資源の無いくせに、倭国(阿波)に対して不遜である。 無礼者! なにを考えているんだか。 @阿波 >>574
>大陸とかと交易してるような時代だっていうのに
大陸と交易しているのは、倭国(阿波)のみ! 頭が高い! @阿波 >>573
東武ワールドスクウェアみたいなのが弥生時代の阿波にあったのかもな 阿波は酒も肴もラーメン美味いし観光にはいいところだな 狗奴國って熊襲ってことになるんかな?
実際の音はKunuじゃなくてKumuとか?
クムソ?クムサ?何か合う言葉あるかなぁ?クム衆? >>578
そのうち、「邪馬臺国」ツアーや古事記ツアーが始まるから。 おたのしみに! @阿波 >>197
大阪は民博だった気がする
新しいの出来たのかな? >>541
はいはいまたウソ乙
ホケノ山からは布留式土器が出てますよっと
一番古いホケノ山が4世紀なので他はそれより後ですw
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/hokenoyama.htm
> ■ ホケノ山古墳の年代
>
> 石野博信氏はホケノ山古墳について安本先生と討論を行った際、ホケノ山古墳から4世紀後半の小型丸底土器が
> 出土したことを述べている。
> 小型丸底土器は庄内式土器末期から出現し、布留式土器の重要構成要素となっている器種である。
>
> ホケノ山古墳からは庄内式土器も出ているが、それよりも新しい布留T式土器が出土したことになるので、
> 考古学の常識で判断すれば、古墳の年代は布留T式の時代と言うことになる。
> 石野博信氏は「ショックだった」と感想を述べている。
>
> 報告書を記述した橿原考古学研究所の研究部長は、小型丸底土器は、発掘時に墓の上の方から落ちてきたのではないかと、
> 苦し紛れに書いている。
>
> これについて橿原考古学研究所の関川尚好氏に問い合わせたら「そんな馬鹿なことは絶対にありません。」ということであった。
>
> また、石野氏はホケノ山古墳から箟被(のかつぎ)のついた銅鏃が出土したことも述べている。
> このタイプの銅鏃は比較的新しい時代の物で、前期古墳の後半で布留T式以降と考えられている。
>
> 箟被(のかつぎ)つきの銅鏃が発見されたことにより、発掘当初から、ホケノ山古墳は新しいのではないかと見る専門家もいて
> 問題になっていた。 >>541
はいこれも毎回論破されているお決まりの逃げ口上
それらはただの古木効果に過ぎません
Old Wood Effect(古木効果)を理解する
https://www.radiocarbon.com/jp/old-wood-effect.htm
>芯材(内側)と辺材(外側)の放射性炭素年代は異なり、芯材の方が辺材より年代が大幅に古くなります。
>炭化物や木の炭素年代測定を行う場合は、年代は特定できますが、サンプルが短命な植物や小枝がサンプルでない場合は、
>木の成長過程のどの部分をサンプリングするかによって数百年の誤差が生じる可能性があります。
>
>また、放射性炭素年代測定は試料がいつ使われたのかではなく、試料となった有機物がいつ生きていたのかを教えてくれるものです。
>測定試料と史実をリンクさせる場合は間違った結論に導かないように“古木の問題”を考慮しなくければなりません。
>伐採年とは違う年における木材の使用、木材の再利用も年代測定という観点からすると“古木の問題”となります。
>木材はいわゆる“寝かせ”の期間があります。 建築材の中には後世の建築に再利用されるものもあります。
小枝試料は古木効果が入らない理想的なサンプルで最も精度の高い測定が可能です
その結果が>>528のとおり4世紀後半w >>584
小型丸底土器((「東阿波型土器」)は、畿内第X弥生土器期に出現! 小林編年。 @阿波 現代日本では辺境に落ちぶれたもんだから、超古代の栄華への憧れがハンパないなあ ちなみにホケノ山古墳は一部が隣の堂ノ後古墳の一部を削っていて堂ノ後古墳の方が古いことになるが
堂ノ後古墳は5世紀後半であることが後に判明しているw
でもホケノ山が堂ノ後古墳の上に作られたことに変わりはないw
ホケノ山を4世紀というのはむしろ実態より古く出ている可能性すらあるwwww
歴史研究会が大発見! 日本最古といわれるホケノ山古墳よりさらに古い古墳を発見!
http://www.tenri-u.ac.jp/topics/dv457k0000002nmf.html
>堂ノ後古墳とホケノ山古墳の濠は、重なり合っており、ホケノ山古墳の濠が堂ノ後古墳の濠を切っていることが、レーダー探査などでわかった。
http://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20091221000171
>国内最古級の前方後円墳とされる奈良県桜井市のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)に隣接し、レーダー探査でより古い可能性が指摘されていた
>堂ノ後古墳が、実際には5世紀後半の築造だったことが同市教育委員会の発掘調査で21日までに分かった。 >>589関連
http://www2.odn.ne.jp/kofun/dounousiro.htm
>レーダー探査から推定した濠の跡
>http://www2.odn.ne.jp/kofun/OSK200511040047.jpg
>同大歴史研究会の学生十数人が今年1〜2月、遺跡のレーダー探査に詳しい同大文学部の置田雅昭教授(考古学)の指導で調べた。
>データを詳しく解析したところ、土質の違う部分が見つかったことなどから、堂ノ後の周濠(しゅうごう)の一部が埋められたり
>墳丘が崩されたりした後でホケノ山の周濠が造成されたと結論づけた。 そうそう、ホケノが最古だと思ってたら更に古いのが次々に出てくる。
それが意味するのは、ホケノは思ったより新しいということだ。
畿内説をゴリ押ししてると、そのうち古墳時代が縄文時代にめり込むんじゃないかなw 久しぶりに来たら何が何やら状態だw
てなわけでどうでもいい話だが…、
>>543
諸星大二郎といえば、やっぱり「海神記」。
神功皇后と応神帝の話だが、自分が勉強すればするほど
面白くなる不思議なマンガなのだ。 北九州の遺跡からは後漢の鏡が出てくる。魏の鏡は畿内をはじめ山陰、北関東から出てくる。
これは、後漢と魏の時代間に日本での権力の地殻変動があったことを意味する。
つまり、魏の時代には北九州は通過地点になっていて魏の遺物は全国へ拡散していた。 結局畿内の鏡が埋められた古墳で古いのは久渡古墳しかない感じか?
しかも方墳だから物部系かもしれない。 邪馬台国とヤマト王権を同一視するからおかしなことになるんだよな
ヤマト王権が畿内なのは間違いない
でも邪馬台国とヤマト王権は同時代に存在した別の文化圏と見るのが妥当 狗奴国の狗古智卑狗(くこちひく)は後のクマソで菊地彦
菊地一族の後裔が大神家、阿蘇家、緒形家、日野家 >>590
DNAの研究成果とも一致するね
やはり4〜5世紀に北部九州から日本列島全体に倭人が拡散したんだ
神武の東征もこの流れの一つだな。 皇帝の前で倭国の使者同士が「我等が正当な倭国の使者だ」と言い争ったというエピソードと合致するね
2つに別れたのだろうな >>597
ただ卑弥呼が鏡と密接に結びつけられるので、どうしても鏡の分配が邪馬台国と結びついてしまう。 卑弥呼が鏡をもらった後辺りからそれまで鏡を埋めなかった近畿で鏡が埋葬されはじめるんでそうなんじゃないかとなる。 >>602
後漢時代は北九州まででとどまっていた中国鏡の分布が魏の時代から畿内中心に変わる。
前方後円墳も畿内から広まった。 >>603
>前方後円墳も畿内から広まった。
倭国(阿波)からだよ。 @阿波 ■纏向遺跡の発掘結果を見てみよう。
・出土品:土木用具多数、食い散らかした魚の骨、大型建物と炊き出し用の土器
・取り巻く環境:大型古墳多数、住居跡はほとんど無し
■現時点で結論付けてみよう。
・畿内教信者:大集落の中にある祭司場であり大きな宮殿があったと思われ、これは間違いなく卑弥呼の居た邪馬台国である。
・世間:古墳造営基地局ですね。 この小人の国「侏儒国」は種子島の広田遺跡が最有力候補です。
「又有侏儒國、在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。」
女王国を去ること南に4千余里でまた侏儒国があり、人の背丈は3、4尺である。 >>584
はいはい、また安本かよw
何十年前の情報で文句つけてるんだよ
小型丸底土器なんか庄内式の最初からある
纒向新編年で修正されている
箟被のついた銅鏃も弥生時代からすでにある
>但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)など
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1569472836/62
で、おまえが貼り付けたのは、安本の「作文」だ
石野さんの評価を下げるために、安本が悪意を持って創作した文章だろ
石野さんが発掘に携わってたのは何十年も前だし、時系列をいじくって書いてるようにしか見えない
爺さんがふるーーーい情報でトンチンカンな難癖つけてるだけでしたw >>607
小林行雄氏による弥生土器の編年
@ 弥生土器X様式期に小形丸底鉢(東阿波型土器)の登場
A その後、庄内式大和形甕の登場 @阿波 >>585
小枝みたいな小さな試料だと、試料汚染がありえるだろ
実際、木材や土器付着物以外に様々な種子の年代を測定したが、ホケノ山の小枝だけ極端に新しい年代が出ている
だから、100個ある試料の測定結果を総合的に見なければならない
たった2つの測定結果だけで判断するのは不適切 >>589>>590
堂ノ後古墳は地中レーダー探査で周濠を切られている可能性を指摘されて
ホケノ山古墳より古いかもしれないと期待されたが
発掘調査したところ、鶏形埴輪や須恵器が見つかり、5世紀後半頃の築造と推定された
ホケノ山古墳は、前方後円墳が定型化される前の纒向型前方後円墳で、
埋葬施設も前期古墳に多い竪穴式石室の原形であり、庄内式土器が出土しているので、
堂ノ後古墳とは時代が全然違う
結局、地中レーダー探査の結果の判断で、学生さんたちの勇み足だったということ
https://www.city.sakurai.lg.jp/bunkazai/houkoku/1392712128095.html >>610
>堂ノ後古墳は先行研究によると、
>後円部径約50メートル、前方部長10メートル以上、
>全長62メートル以上の東南方向に前方部を持った
>前方後円墳の復元案が提示され
これに引っ張られたのね、この大きさのはずだと 卑弥呼が連合作る前も作った後も盛んに戦闘はあったのだから村は環濠集落で
辺りには戦闘の痕跡や戦闘で死んだ骨が出たりするはずだよね
九州には戦闘の痕跡があるけど畿内にはどのくらいあるのかな?
鍬とか農耕器具は鉄であっても証拠にはならないし
場合によっては精錬所のあとも邪馬台国の場所とは関係無いよね
精錬所は産地であって邪馬台国のあった場所ではないもんね 畿内は戦闘の痕跡が上書きされてるからなぁ
過疎地域の方が残りやすい傾向はある
ではなぜ奈良京都に人が集まるようになったか
なんだろね、南海トラフ津波対策とかあるかな
特に1世紀前後のやつは、弥生以降最大級 >>614
奈良は水銀中毒でアボーンしただろうw
京都は水運と交通の要衝にあったのがよかったんだろうね 一つの派以外「神の舌」を持ってるか全員「神の舌」を持ってるかだから、
テキトーに理屈をつけつつ「おまえホントかよ?」言うのが確率の良い攻略法 >>522
横からすまん、ポジションがあるわけやないんやけど、
当時の移動技術や伝達技術を踏まえて考えるに地理的に北部九州が相手にされないということはありえないんじゃないか?
ところで狗奴国はどこ? >>552
自分も地名の類似に惹かれる
偶然とか考えられないよね
九州→近畿以外の考え方ある? >>537
計画都市をつくったときに地名を九州の地名に嵌めたということか 俺の先祖は、スコットランドのハイランドから渡って来た。 >>606
フローレス島のホモ・フローレシエンシスじゃないの?
成人で身長1m 九州説ってすごいな
何の証拠もない
どこにあったかもわからない
でも九州のどこかにあった
この理屈理解できません 棺に使われたコウヤマキは
成長が遅い樹木で
樹齢600年で周長4.5m(直径1.5m程度か?)
程度の成長速度です。
炭素年代を計測するための試料採取では
最大600年の誤差を見込む必要があります。 >>624
阿波説にやり込められているよ。 @阿波 >>622
卑弥呼は伊都国に居た
邪馬台国は北部九州の小国の連合体
投馬国は朝鮮半島南岸
狗奴国は南部九州
魏志倭人伝にちゃんと書かれています。 >>626
[道里]ってなに? そんな表現、見たことも聞いたこともないんだがwww @阿波 >>622
な? 畿内説って自説もなにも言わないよな >>627
自女王國以北 其戸數道里可得略載
計其道里 當在會稽東冶之東 阿波説?え?阿波説?
正月のトンデモ番組かなにかっすか?
視聴者を馬鹿にするのも大概にしとけや >>495
>遠すぎてわからないという北の21カ国
21カ国は、女王国(粟国=大吉野川流域)の国々の説明 「其戸數道里可略載」が21カ国のこと。
「其餘旁國遠絶不可得詳」は、阿讃山脈を越えた瀬戸内海地域の国々(吉備など)。 @阿波 >>539
大和朝廷って各地の豪族の連合政権じゃないかね。
少なくとも九州、畿内(三輪河内)、継体天皇の近江は天皇を産んでいる。
同時並行的に天皇(というか大君、豪族の頭)が存在した時代もあっただろう。
記紀には万世一系のフィクションを補強し、その天皇を全部一直線に並べたから
2700年前に神武天皇即位なんてdでも歴史観になった。
130年で10人の天皇が(同時に併存していた時代も含めて)いてもおかしくはない。 >>631
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。 @阿波 当事すでに勢力を持っていた吉備、出雲になんの言及がない以上近畿説はないは。 >>634
阿波説は魏志倭人伝の倭人は海に潜って魚貝を捕るという記述に矛盾する。
阿波にそんな穏やかな海は無い。みんな鳴門の渦に巻き込まれてアボーンw
論破終了。 >>634
反論もなにも魏志でしか行程考察出来ないのに
どうやって四国に持っていくんだよ
奈良京都より捏造せんとたどり着かんぞ >>622
箸墓古墳も纒向遺跡も発見時は邪馬壹国ではないかと騒がれたが
専門家の調査の結果邪馬壹国ではないと結果が出た、新聞でも報道された
地元も落胆したが町おこしのために邪馬壹国のゆかりの地アピールを続けている
何も変わっていないんだよ何も
邪馬壹国はここだと結論ありきで語るのは学問を見誤る >>632
>女王国(粟国=大吉野川流域)
自女王國以北の国は? >>636
>阿波説は魏志倭人伝の倭人は海に潜って魚貝を捕るという記述に矛盾する。
呆れるほど、無知・無能なんだね。 九州説などのトンデモなんて、お呼びじゃないよ。 @阿波
延喜式(巻7、神祇7)[践祚大嘗祭式]の「由加物」条に記載された内容。
・由加物―大嘗祭に諸国から貢進される品物、即ち神に供える聖なる品のこと。「雑贄」とも呼ばれた。
・由加物の貢進―阿波・淡路・紀伊の三国のみと定められた。
・聖なる由加物―これら阿波・淡路・紀伊の三国の由加物が通る国々の路地は道を掃き清められ、国司・郡領らがこれを送迎したとあり、由加物とは清浄を期した聖なる産品であった。 阿波国から貢進される由加物のうち、海部(那賀郡に住む海女)が作るもの(県南部)
・鰒四五編―加工したアワビ45編
・鰒鮨十五坩―アワビのスシ15壺
・細螺―シタタミ(小さな巻貝)
・棘甲?、石花等併せて廿坩―ウニ、「セ」と呼ばれた節足動物のカメノテやフジツボの類を加工して土器に入れ献上していた。それは、現代風にいえば瓶詰めであったとされる。
「阿波国所献麁布一端 木綿六斤 年魚十五缶 蒜英根合漬 各六尺 倭文六尺 木綿麻各二斤 葉薦一枚 作具钁 斧小斧各四具 鎌四張。鑿十二具。刀子四枚。鉈二枚。火鑚三枚。並令忌部及潜女等量程造備
凡紀伊 淡路 阿波三国造由加物使向京之日 路次之国掃道路祗承」 >>637
もしかして、君も初心者かね?
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 >>639
>自女王國以北の国は?
「21か国」と「遠すぎてわからないという国々」だよ。 ちゃんとそう書いてあるじゃんよ。 @阿波 倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。 @阿波 >>642
伊都国(直方)あたりから距離的にちょっと怪しい気もするな >>632
對海國から投馬國までの戸数、道里は略載されている
その他の国は詳しくわからない、となっているのだから
略載されて「いない」21カ国が「其戸數道里可略載」のこと
というのは無理
「今使譯所通三十國」と合わせて見れば
直接交流可能な国で狗奴国以外は女王國の範囲の認識
交流がない地域は、国として扱われていない >>647
いや、まあその説はそもそも末盧国が定説の松浦半島ではなく宗像だってところが
キモだからさ >>644
自女王國以北 其戸數道里可得略載
ですよ?自女王國以北の国に付いては其戸數道里が略載出来たと書いてありますけど? >>647
奴国は福岡市周辺で間違いないでしょうね。
>>649
末盧国は呼子から糸島市の二丈付近にかけての国ですね。 吉備や出雲が帶方と交流があったのなら、女王国の範囲
なかったのなら国の扱いされず、当然女王国とは無関係 >>649
「末盧国が定説の松浦半島」も、もうそろそろ九州説も見直す時期じゃないの? @阿波 >>650
>略載出来たと書いてありますけど?
違う!
比較的近いから「略載出来る」と書いている。 @阿波 >>653
ちなみに宗像(神湊)上陸説は40年も前に推理作家の高木彬光が
小説に書いてるんだよ。ちなみにその作中の結論は邪馬台国宇佐説ね。 >>18
奈良の邪馬台国が魏に使者を送るのだから交通の要である九州とは友好であったはず
すると下関をくぐってすいすいと舟を漕げれば奈良まで行けたと思われます >>642
あとさー、築上町から宿毛までが水行20日なら、宿毛から阿波までも
20日以上かかりそうなんだけど >>655
で、高木彬光氏は宗像(神湊)上陸説をとった理由はなんだったの?
私とおなじ、対馬海流説? @阿波 >657
>築上町から宿毛までが水行20日なら、
豊後水道は、潮流の影響をうけるからね。 瀬戸内海ほどではないにせよ。
>宿毛から阿波までも 20日以上かかりそうなんだけど
太平洋に出ると、黒潮の端っこに乗っていくから早く着く訳。 黒潮のど真ん中の乗るわけじゃないよ! そうやって、千葉まで行ってるから。 @阿波 >>654
「可略載」を可能だが略載していない、と読むわけね
その前段で略載されている事柄は無視と
で、今使譯所通三十國はどうする >>603
僕は中国鏡の多くが中古品説で、
日本列島に入ってくるのは製造から半世紀くらい遅れてると思ってるからな。
古墳に埋葬される頃には製造から1世紀くらい経ってそうとも思ってる。 >>641
海部って高知県の室戸岬に近い徳島でも田舎のほうだろ。
そんな地方の海産物を倭人の代表として取り上げるのは無理があるぞw
阿波説は邪馬台国吉野川沿いってことじゃないのか。
海部なんて山と海しかないような場所が邪馬台国であるわけない。
阿波吉野川で採れるのは川の巻貝と年魚(正体不明だが鮎とかの川魚かイワシの類?)では。
阿波からの献上品は鉈や釜など工業生産品とか布が多いな。
まあ淡路島はなにやら >>656
だからそういうのが、近畿が結論ありきの妄想はやめなさいと言われるわけ >>660
>「可略載」を可能だが略載していない、と読むわけね
違う!
ちゃんと21か国の国名だけは記して、略載している。 @阿波 >>660
>で、今使譯所通三十國はどうする
その21か国と讃岐・南淡路の国々。 @阿波 >>664
其戸數道里可略載だよ
戸數道里はどこへいった >>642
高知県には目立つような古墳は一切存在していないけど。
なんで宿毛から阿波まで空白地帯なんだよ。
それなら畿内説の方がまだ説得力ある。上陸地点の九州から
瀬戸内海沿岸には古代王権のあったらしい痕跡があるからな。 >>603
てか、漢鏡が出た古墳って、4世紀5世紀の築造モノだろ??
岡村秀典著『三角縁神獣鏡の時代』。1999年発行って、
まだ三角縁神獣鏡が中国産だと思われてた時代の著書だしなwww >>662
>海部なんて山と海しかないような場所が邪馬台国であるわけない。
県南部(海部)は狗奴国(長国)。 邪馬台国は粟国(大吉野川流域・鮎喰川流域)。
その狗奴国も邪馬台国に勝るとも劣らない強大国だよ。 その源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。 @阿波 >>665
北九州はどこへいった
出雲も交流していなかったとは考えづらい
倭国の王と認めるからには、交流ある倭国各国の了解が前提
そうでなければ王の称号を与える理由がない >>645
これも聞いてみるかな阿波説さん。
隋書倭国伝には「有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭」とある。
書き下すと「(倭国には)阿蘇山がある。その石は理由もなく火がおこり天にとどく。人々はわけのわからないことだとして、祈って祭る。」
阿波に噴火する阿蘇山なんて山がありますか?
わざわざ特記するからには倭国は阿蘇山が名物なんでしょうな。
九州には阿蘇山があるけどね。九州説にしちゃう? 北部九州の古墳って中の模様あったりで種類が豊富なんよね。 >>669
辰砂の鉱床ならば南九州にもあるけどね。
徳島って海産物の県というイメージは無いな。名物がサバの押し寿司だろ。
こういう保存食って内陸部の地域の特徴だな。
吉野川沿いに古墳群があることは認めるが淡路や吉備王権に繋がる小国乱立地域だったんじゃね。
淡路島って国産みでも最初に生まれた大和王権の何か重要な地点だし、日本最古の銅鐸が発見されたのも
淡路島だ。徳島は淡路のしっぽだろ。 >>617
北部九州は対外交渉の窓口だね
郡使が往来するとき常に駐する所でもある
北部九州といっても、中継地の対馬と壱岐を除くと、伊都国と奴国だけ
この時代、末盧国でさえ交流痕跡がないから、それ以外の北部九州なんて完全無視だろう
狗奴国は東海地方かな
具体的には、前方後方墳の分布地域 >>675
>辰砂の鉱床ならば南九州にもあるけどね。
中央構造線沿いにはいくらでもおるよ。
>名物がサバの押し寿司だろ。 こういう保存食って内陸部の地域の特徴だな。
徳島の中西部の特徴だな。
>徳島は淡路のしっぽだろ。
淡路島は徳島の数ある島のひとつ だと、何度言えばw @阿波 >>676
>具体的には、前方後方墳の分布地域
前方後方墳の分布地域は、「忌部はん」 の進出・拓殖分布地域 だと、何度言えばw @阿波 >>618
地名はどっちが先か分からない
一般論としては、中央→地方の順になるだろう
とくに朝倉は斉明天皇の宮が置かれた場所だから、奈良から移住してきた人も多かったはず
そういう人たちが故郷を懐かしんで、奈良の地名をつけたと推測することもできる
九州→近畿はどういう状況がありえるか、正直わからない
少なくとも、東遷説は時系列が逆になるから100%ない
時計の針が逆回転するのはフィクション映画の話であって、現実世界では絶対にない >>228
それが笑い話で無視されずにいるのは理由があるんだよ。
鉄が普及すると石器が減る。まあ当然だな。
ヤマトは、石器がそのころに石器が減っている。
そこで、「鉄が発掘されないから存在しない」ことになると、あの土木工事をどうやって
やったのか意味不明になる。素手でやったと主張するしかないが、そんなことはありえない。 >>674
漢委奴國王の印とか邪馬台国の証拠だと思うんだがな
この印は卑弥呼が魏に入朝する際には必要だったはずだ。 「鉄は九州が圧倒的」っていうのは、「弥生時代全体」での話。
邪馬台国時代が、その前夜がどうだったかを九州説を主張するやつは一切触れない。
都合が悪いからな。 >>679
>地名はどっちが先か分からない
地名も言葉も倭国(阿波)からの模倣・伝播。 奈良弁や京都弁も阿波弁が元。 @阿波 >>668
だから何?
岡村編年は細かい修正はあるが、大きなトレンドは変わらない
九州は3世紀になると、中国鏡を入手できない悲惨な状況であったことには変わりはないだろ? 邪馬台国の勢力範囲が、九州北部だけでなく、中国・四国地方や近畿、東海あたりまで及んでいた場合
狗奴国は量的な面で劣勢だったろうから、相当戦争が強かったことになる >>685
そりゃ、狗奴国は薩摩隼人のご先祖様だもの
戦争には強いよ やまと(山戸→邪馬台)は、みなと(水戸→港)とセットの言葉。
その昔、内陸(邪馬台)と沿岸(博多港奴国・支配者宗像)の攻防があったわけ。
これは神話にも描かれている。(山幸彦(弟)vs海幸彦(兄)、天照vsスサノヲ)
内陸勢力が勝利し、港を支配。朝貢と貿易を握り列島の覇権国になった。 >>687つづき
さて、やまとの起こりの地はどこか? 地政学を考えると、
小国分立の中で勝つのは、天然の要害に守られた盆地のクニ。
@飯塚・田川の盆地、A日田盆地 の二つが候補だな。
広大な筑紫平野を支配したことが、沿岸勢力に勝てる
力の源泉になったと考えると、水運に有利な A日田 かな。
@飯塚・田川だと、筑紫平野の富を宗像に邪魔されずに
自分のところに水運で運べない。 >>682
僕が見た資料は1世紀当りの鉄器量は九州北部でその頃がピークに見えたけどな。 3世紀頃までは北部九州が鉄を独占してたんだから邪馬台国は北部九州以外にあり得ない。 >>690
碌な鍛冶炉遺構遺跡や資源の無い北部九州に、「邪馬臺国」など在る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 普通に考えると邪馬台国は九州で
畿内は畿内で別の都市があったとしか思えないな
ヤマト王権の祖がどっちかはまた別の問題になるけどね 加賀百万石の金沢も邪馬台国をベースにしているはずだ。 >>693
でもそれだとなんで九州のヤマトと奈良のヤマトが同じヤマトなの?って話になるじゃない
同じ地名があったとは思えないし >>685
勢力範囲というよりは友好国の範囲だろうな。
友好国に戦に援助してもらう上で、親魏倭王の爵位と報酬が必要だったと考えるかな。
長門、周防、安芸、伊予辺りまでは古くから交易があった感じだと推測するかな。
出雲とは国譲り以後関係が冷え込んでたんじゃないかとも推測するし。
狗奴国との戦を機会に畿内勢力(・吉備)辺りが九州北部と関係を持ち始め、
大和が朝鮮半島への足掛かりを築いたと推測するかな。 「倭国」が特定の1地域だと思いこんでるバカがまだいるね。 飯塚と言えば池袋で母子を轢き殺した上級国民は書類送検位された? >>684
落ち着きなさい。
後期の漢鏡が弥生時代の遺跡から出てきているのなら、
九州は3世紀になると、中国鏡を入手できない状況と言えるかもしれないが、
100年200年後の4世紀5世紀の墓から出てきている訳で、
後期の漢鏡をその時代に畿内の豪族が入手するという行為がそこで既に成り立っていないのだよ。 >>700
古墳に埋葬された人が生前に入手した物だろうから、
200年後の古墳に埋葬されてるなら複数の人に使用された後に入手した物だろうし、
新品ならコピーだろうしって意味じゃないの? >>695
地名もいっしょに九州から奈良へ移動した(移動した人が新しく
地名をつけた)という説もあるのね と、中韓パヨクが申しております
つまり日本は昔から俺たちのものだと
さっさと返せと >>695
近畿の国がいつからヤマトを名乗りだしたか分かってないしなぁ >>701
編年も確定してる舶載鏡の話をしてるときに、
「新品ならコピー」などと書いてるのは、何の話か理解してないと思われる >>700
4世紀5世紀の古墳には当然4世紀5世紀の豪族が眠っている。
その方が入手した鏡の入手時期は当然4世紀5世紀である訳で、
4世紀5世紀の人間が1世紀2世紀の鏡を入手しました、
その間の100年200年の経路はとてつもない時間であって、
後期漢鏡の存在が、1世紀2世紀に近畿が漢と
直接交流をしていた事を示すものではない事は火を見るよりも明らかである。 >>693
同意です
私は畿内の大和政権の創始者が高千穂出身者か集団で
畿内に入って畿内の人と一緒に作ったのが大和政権だと思ってる
卑弥呼が死んで荒れた九州は豪族の連合もズタズタになって
創始者が技術者を連れて畿内の入ったんだと思う
自分が卑弥呼だったら自分の勢力下の秘密の場所で管理して
そこでしか鉄などの武器は作らせないし
他で作ってないかスパイも全国に送って管理すると思う
もし見つけたら村ごと皆殺しか傘下にして奴隷にする
邪馬台国連合ならやってたはず >>705
それを新品だと言い張るなら、その編年とやらもコピー品であることを
見抜けてないだけだという当然の帰結を書いてるだけだが。 >>1 弥生時代後期から古墳時代初期にかけてのかめ形土器は形が大きく二分され
はいはい
>>1 「政治的区分の可能性があり、
偉大なる飛躍w >>706
3世紀後半には、日本列島で楽浪郡土器の出土がなくなる
4世紀初頭には楽浪郡が滅亡する
よって、後漢鏡の入手時期はそれ以前に限定される
また、九州で出土するのは7期第1段階までの鏡(2世紀までの鏡)に限定される
もし九州が古い鏡を自ら入手できていたなら、3世紀の鏡を入手しなかった理由が説明できない
伝世とみなすか、もっと可能性が高いのはヤマト王権からの下賜だろう
三角縁神獣鏡と一緒に古墳から出土することも多いし
あと勘違いしてるようだが、畿内勢力が1世紀2世紀に、後漢と直接交流していたと主張する人はいないはず
畿内が対外交渉を行うようになったのは3世紀前半からだよ
すなわち、中国鏡の独占が始まった頃から >>708
つまり、知識ゼロで文句つけてただけってことか
もういい >>710
倭国(阿波)は、前漢 紀元前1世紀には、中国と交流していたよ。 わははははは @阿波
「庄・蔵本遺跡」 異体字銘帯鏡片 出土。 >>710
その憶測は意味が無い。
もちろん、あなたの仮説として披露するのは自由だが、
それが3世紀の後半に九州地域の豪族が漢鏡を入手出来なかった事を意味しないし、、
4世紀5世紀に中国大陸からかなりの渡来人が着て大和に移り住んで行った事も分かっている。
後期漢鏡が4世紀5世紀の近畿の遺跡から出る事は、
なんら3世紀の後半に九州地域の豪族が漢鏡を入手出来なかった事とは結びつかない訳だよ。 >>710
大和政権勢力下の形式の古墳が九州北部にあったり、
記紀でも大和が反乱分子らしき勢力を討伐してる記載があったりで、
いろいろと業務を依頼してた様子がうかがえるから、
3世紀辺りに入手した鏡もその報酬として大和政権勢力地域に
移動した可能性が十分考えられるかな。 天照と卑弥呼は無関係
天照や天孫系は中国の東夷系でその子供か孫のニニギが縄文人で日本人のオオクニヌシから国を奪った
もう邪馬台国なんてどうでもいいよな 九州の装飾古墳は高句麗の壁画古墳と似てるんじゃなかったっけ? >>702
奈良には有力な豪族たちがいたのに九州から攻めてきたやつが
「おれたち九州のヤマト国だからここもヤマトにする」なんてしたら
地元の人間黙ってないんじゃないですかね >>713
4世紀に朝鮮半島からではなく中国からそんなに来ていたとは初耳w
九州は古い鏡ばかり入手して、3世紀の鏡を入手しなかったのはなぜ? 弥生終末期2世紀には近畿の丹後地方の鉄が増える。九州と並ぶくらい。
古墳から出てくるものも豪華ででかい。
丹後はご存知海部の故郷というか拠点。
1世紀の貨泉が出る遺跡もある。
>>710
1~2世紀にヤマトが直接後漢と交流した証拠を探す必要はない。
丹後でも出雲でもコシでもいい。
卑弥呼は「共立」されたのだから、それ以前にヤマトに有力者がいなくても問題ない。
ヤマトは都だ。
江戸に室町期の遺跡がなくて無人であっても問題ない。
「ヤマトになにもないから邪馬台国はなかった」というのは、「江戸はでっち上げ」と
主張することと同じだ。
平安京の地下に飛鳥時代の遺跡がないから平安京はでっち上げと言うのと同じ。 邪馬台国って本当にあったの?中国の文献だけが証拠なのに
あれ信用できるもんなん? 記紀にはいちおう魏志倭人伝からの引用があるけど
全部「魏志にはこうと書かれているが・・・・」という伝聞調だし
卑弥呼や邪馬台国等の地名人名は省かれているし
狗奴国と争っている事も調停を魏にお願いしたことも魏が激を送った事も書いてないんだよな
中国の歴史書に書いてあるから無視は出来なかったけど
詳しく書きたくないから仕方なく最小限の伝聞の形で引用しました、というのがアリアリ分かる
なんでそこまで邪馬台国を無視したかったのかねえ? 「弥生人がやって来た」のカルトに染まってとけない人が多いね。
なんでもかんでも朝鮮半島から来なくちゃいけないらしい。
だから「進んだ文化はすべて九州にあるはず」と。
人間さえもそうでなくてはいけないらしい。
必ず、九州から近畿へ移ったのでなければいけない。
近畿で勝手に国家が誕生してはいけない。
東遷していなければいけない。
何故なら、「進んだ文化は朝鮮人がもたらしたから、まず九州に伝わる」と。
それどころか、朝鮮半島からやってきた弥生人が未開の縄文人を追駆するのだから
古墳時代はちょうど近畿へ行ったのだ、とw
未開人がいた畿内で自律して国家が産まれるわけがないらしい。 >>720
三世紀に倭人が女王を共立した。
都をヤマトに作った。
これだけだよ。
「邪馬台国」という国家があった訳じゃない。
平安京という国家はなヵったし、江戸という国家もなかった。
鎌倉という国家もなかった。
邪馬台国=女王が都するところ >>35
じゃあ吉野ケ里は何国だったんだろう。列挙されるその他三十か国のうちのひとつかな >>713
古墳から出土=九州の豪族がヤマト王権の傘下に入ったことを意味する
三角縁神獣鏡と一緒に出土=ヤマト王権から下賜された可能性が高い
九州の豪族が独自に魏や晋と交流してたという証拠はないが
逆に状況証拠は、ヤマト王権から下賜されたことを支持している 鉄についての出土量は
4世紀までは九州が優位で
5世紀頃に山陰に追いつかれるが
その後また引き離し
平安時代くらいまで九州のほうが多い。
畿内が優位になるのは鎌倉時代あたりから。 >>726
それを示す資料ってネット上にあるの?
あるなら、リンク教えて欲しいけど。 >>727
広島大学の先生が古代の鉄の論文を
多く出してるね。
鉄の議論の資料元はだいたいその先生の資料だ。 ?邪馬台国って言葉は書いてなかったって事?意味がわからない
じゃあヤマトでいいじゃん >>718
その頃は公孫氏の反乱で日本自体に漢鏡をゲットする勢力は少なかったものと考えられる。 高地性集落の推移を見ると1世紀までは九州から大阪湾までの瀬戸内周辺に多く見られ、2世紀では瀬戸内のものは減り東海まで広がるようになる
3世紀には数は減少するが北陸などへの広がりを見せる
これを見ると倭国大乱は九州の戦乱ではなく近畿東海あたりの話なのかもな
だとしたら九州勢は何してたのって話だがこれが東征の結果なのだろうか >>725
3世紀前後の東遷説ならそういう考え方になるのかもしれないが、
2王朝説なら、中国鏡:九州北部→畿内、三角縁神獣鏡:畿内→九州北部といった具合に
単に交易で品数が豊富な地域から少ない地域に移動したと考えるだけだけどな。 >>731
3世紀の後半に九州地域の豪族が漢鏡を入手していたという主張だったはずだが?
公孫氏なんかとっくに滅んでる
実際、3世紀の鏡は畿内に多い
九州勢力が古い鏡ばかり入手して、3世紀の鏡を入手しなかった理由にはならない >>722
九州説の論者は別に邪馬台国が弥生系とも朝鮮半島にルーツがあるとも言っていないが。
お前は何と戦っているんだ?
むしろ倭人は逆に朝鮮半島南部に進出していた気配があるし、宗像三女神とかは済州島の
建国神話に顔を出している。倭人の海洋民族としての性格は九州北部壱岐対馬半島南部を含む
海の倭人王国を作っていた可能性があるな。
そして畿内にもそれなりの王権はあったことは神武東征の際に河内の豪族に撃退されたことからも
窺える。神武は紀伊半島から北上しジリジリと畿内を攻め、婚姻関係なんかも結んで
初代大和王朝の天皇になったみたいだな。でも純粋な九州王権じゃなくて
いくつかの豪族の連合政権だから主導権は不安定。 >>729
俺も基本はそうだと思う
邪馬台国=奈良=ヤマト王権→大和朝廷とダイレクトに繋がっているならここまで邪馬台国や卑弥呼を無視する必要はないんだよね この前、曹操の墓から出土した鉄鏡が、
日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と似ている事が明らかになっただろう?
実は曹操の子孫が日本に一族郎党を引き連れて渡来しているのだよ。
金の象嵌は魏の皇帝しか持ち得ないとう言う鏡が日本にある。
これに書かれた文字が長宜子孫であり、長く子孫に宜しという、
代々、引き継ぐ様な鏡だった訳だ。
雄略天皇の時代に渡来したと言われ、まさに古墳時代に、
この3世紀の鏡が曹操の直系子孫が日本に渡ってきた。
恐らく、こういう事が他の漢の上級氏族の渡来人にもあったのは間違いない訳で、
特に、後期の漢鏡が大和にあるといううのは、
まさに漢の滅亡で没落した氏族たちが大和に渡来した状況を示していると言えるだろう。 邪馬台国が帯方郡に使者を派遣できたのは、
魏が公孫氏を滅ぼしたからだぞ。
基本的に、漢の後期は日本は漢とは交流できなかったのが歴史の基本だ。 >>737
僕はそれができるまで大和が圧倒的な権力で周辺地域を従えてたとは思わないかな。
それ以後に併合した地域に元邪馬台国があったと思うな。
これなら、その併合された地域以外のほとんどの人間がその事実を知らないわけだから、
隠ぺいは比較的容易だ。 後期の漢鏡が4〜5世紀の近畿の古墳から出て、
漢後期と同時期の九州等の遺跡から出てこない理由、
お分かりいただけましたか?? >>713
公孫氏が遼東から朝鮮半島を抑えていた時期は漢との交通が途絶えて銅鏡が入手困難な状況であったろうな
魏も銅が不足していたから魏代になっても銅鏡の入手は困難だったろうな
漢代の銅鏡や鉄鏡しか入手出来なかったんだろう。 >>729
中国側の資料と日本側の資料では遣隋使の回数が違っていたり
日本側の資料には出てこないアメタラシヒコなる謎の倭王が中国の史書に出てくる。
そして中国側が新しく来た倭国の後継者を自称する使節に、どうも尊大で不実で
本当に倭国の後継者かと疑ったとの記述が旧唐書日本伝に書かれている。
隋から唐に移る期間に何か大きな政変が起きたことは間違いない。
王朝交代したんだろう。九州王権から畿内王権に変わったが対外事情で倭国の後継者と名乗ったが
対内的には記紀には九州王権の存在は無かった事にした。 >>742
後漢鏡は、後漢時代の九州の遺跡から出てる
根本的に認識がおかしい こう考えると、長宜子孫鏡なんかが出ちゃっうような前方後円墳は、
実は渡来人が作ったものじゃないかと考えられる訳。
南壇北壇の円丘方丘が前方後円墳で、
方は家臣、円が王族で、それらが一つになって、
一体になって日本に渡ってきた事を示している。
そういった意味では、前方後円墳を卑弥呼の墓にするのは、
戦略上あまり賢くないな。 >>742
3世紀の後半に九州地域の豪族が漢鏡を入手していたという言い分に根拠を示さなかったな
推測というより願望で、入手できていたかもしれないと言ってただけだ
もちろん、少数の鏡の直接入手まで否定するつもりはない
邪馬台国が九州だと言い張るには、ヤマトを凌ぐほどの量が必要 後漢時代の九州の遺跡から出る漢鏡の頻度は、
公孫氏の乱で漢との交流が激減した事を示すに十分な少なさと言えるだろう。 >>748
いやいや、歴史の整合性を考えれば、だろ?
そもそも、漢後期の九州の漢鏡は少なくなって大和にいっぱいあるって、
あなたが認識している事だよな?? >>744
推古の御代における外交歴は非常に興味深い。
まだ外交歴の詳細と中国史を十分比較検討したわけではないが、
隋→唐に至る経過で、大和がいろいろ暗躍してたんじゃないかという想像が湧く。 奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、
また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、
また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、
魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。 >>750
まったく逆
後漢鏡は九州に多い
ところが3世紀の鏡は九州にはない
一方、畿内にも後漢鏡はあるが九州ほどではない
3世紀の鏡は畿内が独占状態 >>737
記紀は天皇が命じて書かせたものですよ
万世一致てやつが崩れてしまうんで困るから
天皇と関係ない卑弥呼のことは書かなかったと >>754
鏡の出土は鏡が最終的にどこにあったかを示すに過ぎない 画文帯神獣鏡は5〜6世紀とされる江田船山古墳や稲荷山古墳で出土してるな。 >>758
だから何?
九州は根こそぎ持ってかれたと言いたい? >>759
3世紀に編年される舶載鏡に限定した話をしている
同型鏡や国産コピー鏡は対象外 現実問題として、よくできた国産鏡と
舶載鏡は区別がつかないからね。
緻密で舶載鏡と呼ばれていた鏡と
粗雑で国産鏡と呼ばれてた鏡で
同じような筋が見つかって
同じ型から作られたわかったものがあった。
要は仕上げをちゃんとしたかどうか。 >>763
中国で発見される形の鏡と同形状の物に関しては
少なくとも形状の種類だけオリジナルは存在するだろうけど。 日本国内で出土してる画文帯神獣鏡は全て国産ですね。 >>756
天皇っていうか藤原氏でしょうね。藤原不比等が孫の聖武天皇への
皇位継承を正当化するために作られたと言っても過言ではなさそう。 んーそうだよねして一時期そう主張してたとおりじゃないか
伊藤博文の系譜がタイにあるんだろ >>754
まあ漢鏡の傾向と邪馬台国が九州北部にあったことは矛盾しないと思うがね。
卑弥呼後の争乱で東方へ移動(3世紀半ば
この連中が鏡を持ってるなら鏡は7ー2頃の鏡を所有してたはず
その頃から大和は勢力を拡大して
4世紀に入ると大型古墳が出現する >>1
「狗奴」は対立していた邪馬台国側からの蔑称で、「旧奴国」だと思う
邪馬台国連合をよしとせず、連合に参加した奴国とは別の奴国を南部に作ったんだと思う 根本的に邪馬台国が大したことない地方の1集団という可能性は? >>750
九州勢力が3世紀後半まで中国鏡を大量に入手できていたと言い張ったが、結局、根拠を示さなかった
その言い分に根拠はないってことでいいね? >>769
時系列が逆になるから、その妄想は通用しない >>757
斜縁神獣鏡は日本独自の鏡だよね
中国からの出土例はないよね。 >>760
畿内が1〜2世紀の鏡を欲しがるか3世紀の鏡を欲しがるか次第かな。
3世紀の鏡を欲しがらなかったのなら九州にも残るはずだが、
畿内との交易が増えたことによって朝鮮との交易が減った上に
畿内が3世紀の鏡を欲しがったなら、九州に残る量がほとんどなくても不思議は無いかな。 >>773
2世記後半〜3世紀の鏡が九州に渡り
3世紀半ば近畿へ移動して埋葬された
時系はあってると思うが 狗奴国が、呉に使節を派遣したみたいな話が、
文献に残っていればなあ
三国志のゲームに北方民族や邪馬台国関連等が出ることあるけど、
狗奴国やアラハバキ(蝦夷)の勢力や朝鮮半島の勢力とかも出して
2世紀末〜3世紀の東アジア大戦(ベトナム等含む)みたいな感じにしてくれんかね? やはり記紀や様々な伝承にもあるように、九州勢力の東征に伴う倭国大乱があって大和侵入
邪馬台国も大和なんだろうな >>776
3世紀初頭には初期ヤマト王権は誕生している
纒向の大型建物跡が3世紀前半というのは、教科書にも載ってるくらいの「常識」 >>780
纏向押しは今となっては無理筋だろう
他の候補探さないと >>783
畿内が欲しがった新しい中国鏡の在庫がなくなり、
古い中国鏡も取引されたと考えるのが自然かな。 >>780
それはそうだと俺も思うよ
だけどそれと邪馬台国とは何の関係も無いよね
畿内説の無理筋なのはそこ
3世紀前半に大きな集落が有ったからと行ってイコール邪馬台国にはならないのに
結論ありきでそこで思考停止してしまっている 七支刀も金印も
7世紀以前の文化物は京都御所にはなかった 10000年かけて縄文時代をいきてきた土器はそれほど変わり映えしなかった中国では羅針盤ができてた >>788
極めて単純な話
魏が倭国と国交を結ぶ際に誰と外交交渉をするか?
・列島最大勢力で、魏が一番密接に交流しているヤマト国
・魏が相手にしてない(少なくとも交流痕跡がない)九州の雑魚勢力(しかもどこにあるかも不明)
どっちと交渉する?
なお、伊都国や奴国は邪馬台国ではないので除外 >>792
鉄器の量から当時畿内の方が雑魚だったことが伺い知れるけどな。 3世紀の奈良は沼地でカエルしかいないド田舎
九州でワンサカ出土してる鉄や絹がなく木や骨で作った農具しか無い
九州勢力からしたらアマゾン未開の地の原住民みたいなもんやでしかし >>793
九州が自慢してる鉄も、邪馬台国が魏と外交をやっていた3世紀中頃からは、九州の優位性はない
ホケノ山古墳(3世紀中頃)
素環頭大刀 1口、鉄製刀剣類 10口、鉄鏃 約60本、鉄製農工具
黒塚古墳(3世紀後半)
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札600点、U字形鉄製品
椿井大塚山古墳(3世紀後半)
武器:鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、鉄製甲冑1領、
工具農具:鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上
漁具:鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本 >>795
だから3世紀後半に大和が優位なっていったんだろ、なんの矛盾もない >>792
単純な話すると
邪馬台国まで朝貢してた国は連続した国家と記述されてないから毎度勢力図が変わってる
邪馬台国は小規模国家連合で卑弥呼が死んだ後は分裂の危機
壱与で収まったが狗奴国と不穏な状況のまま魏の遣いは帰国しそこから150年朝貢なし
その後出てきた倭の五王の後も100年の空白がある
その間500年近くずっと邪馬台国が勢力を保ち続けてたって方が無理ある >>795
僕が見たことある資料は3世紀中ごろまでの鉄器の比較やけど、
そこまでは九州が圧倒的に有利やし、それ以後に逆転したって言うんやったら、
まず、それを比較して示した資料を見せてくれんと。
ネット上に公開されてるなら、リンクを教えてよ。
仮に、3世紀後半以後に逆転してたとしても、
魏が相手に選ぶ地域は変わらんことになるが。 真の邪馬台国は現在の徳島で決着したのに、まだ騒いでいたのかアホども。声が大きければ歴史が変わるわけじゃない。 >>796
ホケノ山古墳(3世紀中頃)
素環頭大刀 1口、鉄製刀剣類 10口、鉄鏃 約60本、鉄製農工具
読めない?
九州が優勢と言い張りたいなら、なぜ九州は魏に無視されてた?
言い分が矛盾してるんだよ >>798
邪馬台国が魏と外交をやってた時期に九州から大量出土は聞いたことがない
邪馬台国の候補地がないということ
伊都国や奴国でいくら鉄が出ても、邪馬台国とは無関係 >>792
魏が畿内を相手にしていないと見た方が全てがスッキリするよねw >>803
九州は、伊都国や奴国以外に魏との交流痕跡がない 纏向は3世紀に人が生活した跡が無いのに古墳は3世紀に作られたと意味不明な供述をしており ホケノ山古墳の内部の木を測定したら4世紀と判明
箸墓古墳から5世紀以降の馬具が出て来ても後から放り込んだと意味不明な供述を繰り返しており 記紀の魏志倭人伝、邪馬台国の無視ぶりと、畿内説の九州無視ぶりが重なってしょうがない 九州説は最後には物証否定、考古学否定に走る
まあいつものパターンだが >>801
聞いたことがないと言われてもそれを示す資料を見せてくれんと。
少なくとも僕が見た3世紀初め〜中頃で区分された資料では
九州北部の鉄器出土量が圧倒的だった。 >>813
やたらと鉄器にこだわってる奴がいるけど
魏志倭人伝その他当時の資料に
「邪馬台国では鉄器の製造が盛ん」って書いてあるの?
その一文が無いなら、「九州から鉄器が出た」といわれても
それは邪馬台国に結びつく話じゃないから、全然意味ないよ? >>814
アンカ遡って何を議論してるか確認してこい。 >>814
その通り
魏との外交で重要なのは中国鏡
中国鏡>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>鉄
このくらい差があるw >>817
アンカ遡っても「無意味な話」という現実はかわらんだろ
邪馬台国と関係ない話がしたいなら、別板でもいってこい
鉄器を理由に九州説を述べたいのなら、魏志倭人伝のどこに
「邪馬台国は鉄器製造が盛ん」と書いてあるのか、ソース出せ。 そもそも倭人伝の記述に目をつぶりまくってるのが畿内説 >>820
倭人伝の記述通りにいくと海上に出てしまうという現実に目をつぶりまくってるのが九州説
ですよねーw 鉄がー、鉄がーの人は日本の古代史を全否定なんだろ?
議論の出発点が違うんだろ 正しく言うなら、魏志倭人伝の一部を誤記だと言い張って
他のどこにも存在しない「短里」という単位を捏造して
はじめて成立するのが九州説
ですよねーw >>821
九州説で倭人伝の記述通りに行っても海上には出ませんよ? >>819
議論の流れ無視かよ。
それとも日本語理解力低いんか?
以後、キナイコシの特徴を示すレスなら無視する。 >>823
魏志倭人伝の南を東の誤記だと言い張ってるの畿内説だろw >>825
その「九州説」というのは、「1ヶ月は1日の誤記であり、尚且つ、里とかいてあるけどこれは短里という単位である」という
独自の説に則った場合ですよね?w >>810
三角縁神獣鏡が出土してる古墳は4世紀以後だよな。 画文帯神獣鏡は大和は呉の文化圏を補強するものでしかない。 >>826
議論の流れがそもそも邪馬台国と関係ないですよね。
関係ない話はスレチですよ、って話。
関係あるというのなら、魏志倭人伝のどの部分に「邪馬台国は鉄器の産地である」って書いてあるのか、おせーて?
それが出ないなら、スレチだよね。
>>827
そうしないと成立しないのが九州説なんですが??
>>828
そうなんだよね
>>820に対するレスだから、おk?w >>829
独自の説ではないよ
1ヶ月は1日の誤記・・・東大教授白鳥庫吉
短里という単位・・・古田武彦 >>833
短里って阿波説じゃなかったんか。
阿波説が古田武彦をパクったってこと? >>1
なんか最近は九州説も畿内説の基地外に寄せてきたな。昔は多少マシだったのにな。
なんでいきなり邪馬台国に結びつけるんだよw
北九州に王朝があったのは事実だろうが、なんでそれが邪馬台国だと断定できるんだボケ
もう日本の考古学なんか疑似科学に過ぎないんだから国もカネ出すなよw まあ九州説とは議論の出発点が違うのがよくわかった
・日本の古代史を全否定するのが、議論の前提となってる
・オリジナル古代史を創作して、それをもとに独自の論を展開する
こりゃ議論が噛み合うわけないw 最近の主流の説によると、奴国が金印もらった200年後の卑弥呼の頃には倭の中心が畿内に移ってるんだよな
この間に一体何があったのか >>818
銅鏡を国産できるにもかかわらず、
古墳時代、大和が九州に比べ中国鏡に異常なまでの執着を示してたってことだけやね。 近畿に向かうのなら末廬国から伊都国までなぜわざわざ陸行するのか?そのまま水路を畿内目指せばよいはず。
そしてその途上の吉備出雲が何故まるで記録されてないのか?
これは伊都国までの詳細な記録と相容れない >>840
弥生時代中期から3世紀中頃に中国との交流が途切れるまで、
中国鏡は、日本各地の王にとって、最も重要な威信材
そういう基本的な認識が九州説には欠けている >>833
公式で認められてる説じゃないじゃん、どっちも >>818
魏から日本まで移動するものが何で日本に入ると定点に留まり続けると思えるの んだ? 呉鏡の存在がどうして魏の交流になるのか??
意味不明としか言いようが無い。 九州で3世紀の中国鏡が出てなくなる状況が意味してるものは
・九州に有力な王がいなくなった
・魏と交流ができなかった
このどちらかになるだろう
有力な王のいない九州に邪馬台国があるわけないし
魏と交流ができなかった国が邪馬台国のわけない
どっちにしろ、九州説は詰みw >>843
昔から中国鏡がさほど珍しくない所では、大した威信材にはならんやろ。
中国鏡1個で比較的珍しい国産鏡2個と交換可能ならそうするだろうし。 >>846
日本で出土する画文帯神獣鏡が呉の鏡と言ってるのは、九州説のド素人連中だけだよ >>846
卑弥呼に送った百枚以外は朝鮮との交易で手に入れた物だろうな、たぶん。 九州で魏鏡が出ないのは魏に銅の産地が無かったから、コレに尽きる。
逆に言えば、大和は呉と交流していたので呉鏡が出土している。
そういう事だろ。 九州説は最後は考古学も否定して開き直るしかないんだよ >>850
あなたはおかしなことを言っているな。
三国志の時代、銅鏡の存在、そのものが呉との交流を示している訳だよ。
むしろ、魏との交流であれば”鉄”でなければならない。 九州説は、一月を一日の書き間違いだとか、
魏志倭人伝の一里は70メートルだとかわかりやすいアホに満ちてるが、畿内説のムー史観よりは素朴で微笑ましい
畿内説はそもそも記述無視してるから基地外の妄想レベル >>855
そんなデタラメ言ってるのも九州説のド素人連中だけw 宮内庁が邪魔しなきゃ、もっと日本の古代史判明するのになあ 北部九州って古墳時代になったらどうして衰退したんだろうねえ。
半島との権益を近畿が握ったからにせよどうしてそうなったのか。 >>860
たぶん衰退したわけではないだろう。
九州北部は弥生末期にはほぼ頭打ち状態で
古墳時代に急成長した畿内に国力で抜かれたと推測するけどな。
技術で敗れ、ついには食糧生産量でも敗れみたいな。 呉の文化圏は熊本にもあった訳で、
魏の文化圏の北部九州が、
南と東から圧迫を受けて広がりを見せなかったと言うのが、
3世紀後半の九州の勢力図じゃないかな。
そもそも、魏の助けがないと熊本に対抗できない小国だった訳だし。 九州がいつまでも統一できなかったのに対して、大和が単一政権で勢力を、拡大できた。
なぜ大和は統一できたのか?その辺考えると大和は九州の一勢力が東征した政権。つまり当初から単一政権だったからと考えられるのかな。
でもそうしたら記紀が九州起源は認めても邪馬台国は無視したい理由がいまいちわからん。 >>724
九州は単なる通過国。 列挙されるその他三十か国のうちに入らない。 @阿波 >>862
別に小国だったわけじゃないと思うが。
日本列島において九州北部に次ぐ大国が熊本+αや北陸で、
九州北部諸国の結束のためや、戦による自国の消耗を少しでも少なくするため
九州以外の国にも援助を依頼してたんじゃないかなと思うけど。 >>864
僕は大和と銅鐸圏の間に稲と農業知識の違いがあり、
それによって上下関係が生まれた可能性を推測してる。
対して九州はみな同じ稲と農業知識を持ってたので差が生まれにくかったのかなと。 根本的に先ず邪馬台国は狗奴国との戦いで、
魏に助けを求めなければいけないほどの国であったと言う事。
コレがもし仮に北部九州から大和までを示す国なら、
狗奴国は日本列島に再現できなくなる。
考古学的な発掘事例から考察するに、
弥生後期に北部九州VS熊本の戦いを設定すれば、
魏志倭人伝の世界が忠実に再現できる、
狗古智碑狗は菊池彦だしな。 >>870
碌な集落遺跡や資源の無い九州に、邪馬台国や狗奴国が在る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 あと、曹操集訳注に書かれた、魏の皇帝しか持ち得ない金錯鉄鏡と同型の
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が日田から見つかった意味を冷静に考えなければいけない。
皇后や皇太子ですら銀象嵌でしかないのに、皇帝クラスの鏡だぞ。
これはやはり、雄略天皇の時代に渡来したとされる安貴公が、
曹丕の直系の子孫だったからとしか言いようが無い。
もちろん、魏と日本のどこが交流したか、当時の人たちは覚えていたはずで、
それが要するに日田周辺の地域だった訳だよ。 >>864
あっ、単純に九州起源だけど邪馬台国と別種だからか
自己解決 >>869
知識で納め拡大したってのはありそうですね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています