直接手を下すことはできないものの、絶対に許せないと思う相手に一撃を加えたいと考えた時、まず、我々の多くは悪意のこもった眼差しを向けるのではないだろうか。
この邪悪な意図を持った視線は“邪視(じゃし)”と呼ばれ、世界中の文化で共有されているユニバーサルな“超能力”である。

■世界各地に“睨んで呪う”民間伝承

“目ヂカラ”が強いとか“目が死んでいる”などとよく言うが、やはり視線にはレーザービームのような神秘的な力が備わっているのだろうか。
世界各地の文化で、古来から“目ヂカラ”の存在が語り継がれている。

しかもそれはポジティブなものというよりも、相手を呪ったりダメージを与えるために睨みつける邪視(evil eye)がその土地土地で伝承されているのだ。
ちなみに「evil eye」を「邪視」と訳したのは希代の博物学者である南方熊楠(1867-1941)である。

もちろん邪視の呼び方は世界各地でさまざまだが、その意味するところはシンプルで、“睨んで呪う”ことだ。
しかしその“呪い”の程度はいろいろあり、軽い不快を感じさせるものから、不運を与え繰り返させることや、病気の発症、さらには死に至らしめる効果までがあるとされる。

呪いは通常、かけられた人物はその時点ではまったく気づいておらず、悪い影響が何度か出始めてから人によって呪われたことに気づくということだ。
また一部の文化では、呪いの言葉を投げかけて邪視と同じ効果を及ぼすパターンもある。
また鏡の前の自分にポジティブな自己暗示をかけることに使われることもある。

さらにある文化では、これといった悪意を持たずに相手に邪視を投げかけて呪ってしまう場合は、自身がすでに呪われているからなのだという解釈が与えられている。
また成功した相手などへの“羨望の眼差し”がこの邪視を引き起こしているという説明もあるようだ。

古代ギリシアの作家、エメサのヘリオドロスもまた“羨望の眼差し”がもたらすネガティブな影響について解説している。
「誰もが羨望する優れた人物を見る時、人は周囲の空気を有害なものにし、そして最も近くにいる者に不快なため息を送ります」(エメサのヘリオドロス)
我々が他者を見る目は古来から何かとシビアで嫉妬深いものであり、場合によっては“目ヂカラ”で呪い殺すことすら意図されているのだとすれば危険この上ない“超能力”だ。

■邪視の不意打ちから身を守る“お守り”

『プルタルコス英雄伝』で有名なローマ帝政時代のギリシア人著述家プルタルコスは、邪視は、目から発することができる見えない“光線”の作用であり、そして十分に強力であるならば、人を殺すことさえできると説明している。
そして興味深いことに、瞳がブルーまたはグリーンの目をした人々が邪視に熟達していると言及している。

地中海やエーゲ海の地域では青や緑の目の人間は稀で、それ故、より“邪悪”であると考えられていたようだ。
同じく帝政ローマの博物学者、ガイウス・プリニウス・セクンドゥスたちもまた邪眼について言及しており、特にアフリカ人がその技に熟練していて、「目で魅了する力を有し、視線を定めることで人を殺すことさえできる」と自著に記している。
このように危険過ぎる邪視なのだが、その認識が高まるほどに自ずから防衛策も講じられてくる。

■邪視からの防衛策

最もシンプルな防衛策は、神の加護を求める言葉を口ずさむことだ。
ご存じのように神に祈りを捧げて恵みを請う言葉は宗教や文化によって各々多数存在する。
唾を吐く行為もまた邪視からの防衛策として意外なほど広く行われているということだ。

またクリスチャンが手で胸に十字を切ったり、仏教徒が手を合わせたりするようにジェスチャーで“お祓い”をする行為もさまざまな文化で存在している。
こうした祈りの言葉やジェスチャーは当事者が呪われる危険性を意識しているからこそ実行するのだが、呪いの眼差しに無自覚な場合もある。
そこで助けになってくれるのか各種のお守りだ。

お守りも宗教や文化によってさまざまなバリエーションがあり、ネックレスやブレスレッドなど身につけるものから、日本の神社のお守りのように荷物などと一緒に携行するもの、あるいは額など身体の一部にマークを描き込んだりするものなどがある。
また起居する場所そのものを守るお札(ふだ)や魔除けなどもある。

※続きは下記のソースでご覧ください

TOCANA 2019/04/10
https://tocana.jp/2019/04/post_91387_entry.html