社会をよくするにあたって、ユダヤ人をごっそり取り除いてからでないと始めることはできないという人はいないだろう。
むしろ私たちは精神的にはユダヤ人の子孫としてあるのであり、どういう異性が好みかということを元にして社会を形成するつもりはないのである。
フロイトは、欧米人のユダヤ教嫌いは、もともとの土着の宗教を奪われて肌に合わないキリスト教を押しつけられたことへの恨みが行き場を無くした結果、ユダヤ教に八つ当たりしたもの、という仮説を提出している。
この説はなかなか今でもいい線行ってると思う。
ユダヤ教嫌いはキリスト教徒らしくもなく科学者らしくもない反応だと思うからだ。
ほんとうは、私たちがせっせとインターネットを構築して、私たちの悪口を聞くのはなぜだろうと考えるべきである。
エネルギーは充満していて、それは人として結構なことだけど、混濁していて行き場が洗練されていないのではないだろうか。