【政治】共産党のカリスマ「宮本顕治」の偶像 リンチ査問事件のアキレス腱 2ch.net
元スレ http://karma.2ch.net/test/read.cgi/seijinewsplus/1494154777/

 元日本共産党員で、中央委員会常任幹部会委員を務めた筆坂秀世は、宮本顕治をこう振り返る。

 宮本顕治――。昭和33年(1958)に書記長に就任以来、議長引退までの40年間、党のトップの座に居続けた、
日本共産党の指導者だ。通称、ミヤケン。

 明治41年(1908)、現在の山口県光市にて肥料米穀商の長男に生まれ、愛媛県の旧制松山高等学校から
東京帝大経済学部に入学。在学中、雑誌「改造」の懸賞論文に「『敗北』の文学」と題した芥川龍之介論を応募し、
第一席を射止め、文芸評論家として世に出た。大学卒業後の昭和6年、共産党に入党。翌年、
作家の中条百合子と結婚。治安維持法により幹部の検挙が相次ぐ中、入党2年後には中央委員に
昇格するも逮捕され、戦後、GHQの指令で解放されるまで12年間の獄中生活を送る。しかも完全黙秘、
非転向を貫いた。筆坂は言う。

「残酷な拷問を受けても転向しない。これは誰にも真似できない。彼に立ち向かえる人なんていなかった」

 一方、日本共産党中央委員会に勤務していた、古参の元党員は別の見方をする。

「巣鴨の拘置所にいる時も百合子さんは、宮本がお腹をこわしたと聞けば仕出し屋から粥を届けさせ、 食べ物だけではなく、らくだのシャツやふかふかの毛布など一杯、差し入れした」

 無期懲役の刑が決まり網走刑務所に服役したのは、20年6月、クサい飯を食ったのは3カ月かそこら。
宮本は獄中生活の大半を、妻・宮本百合子の献身的かつ潤沢な、物心両面での支えの下で過ごしていた。
その支えを、後に踏みにじることができる人間でもあった。先の元党員は言う。

「許せないのは戦後、百合子さんの秘書と関係ができたこと。百合子さんは髪を振り乱して、
『顕治さんはどこ行った?』と探していた。百合子さんの印税も入るし、実家の資産と名声と、 百合子さんを踏み台としてずいぶん利用したと思う」

 宮本が権力を掌握できたのは「獄中12年」のステータスだけでなく、熾烈な権力闘争の末のこと。
筆坂には改めて思うことがある。

「共産党は、自分たちの歴史は立派だと天まで持ち上げるが、徳田球一、野坂参三、志賀義雄、
中野重治など錚々たる共産党幹部が今はみんな、ダメだと否定されている。戦後、指導者として評価を得ているのは、 宮本顕治だけ。立派なのは宮本さんだけで、あとはゴミみたいなものが作った政党なのかよって」

 政敵を除名処分などで粛清することにより、宮本は党の独裁者となった。しかしその姿は、
清貧を旨とする共産党員とはかけ離れていた。先の元党員は、こんな姿を鮮明に記憶している。

「何でも一流のもの、ブランドが大好き。背広は英國屋でネクタイはフランス、靴はイタリアのブランドで。 鰻重が大好物で、それも銀座の有名料亭のものと決まっていた。新聞は朝日新聞、テレビはNHK。
党のトップは常に東大卒、不破さんも志位さんもそう」

 数年に1度の党大会で振る舞われる料理にも、“ヒエラルキー”をつけた。

「コックは元帝国ホテルのシェフでしたが、嘆いていた。『組織内の身分の違いで
メニュー内容が変わるのは日本共産党だけ』と」