松平定信が随筆『閑なるあまり』の中で「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、
大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献
の中では、和歌や蹴鞠といった娯楽に溺れ国を滅ぼした人物として描かれていることが多い。

19世紀前半に編集された『徳川実紀』は、今川家の凋落について、桶狭間の合戦後に氏真が
「父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず」、三河の国人たちが「氏真の柔弱をうとみ
今川家を去りて当家〔徳川家〕に帰順」したと描写している。

こうした文弱な暗君のイメージは、今日の歴史小説やドラマにおいてもしばしば踏襲されている。

氏真は和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。

氏真は、後水尾天皇選と伝えられる集外三十六歌仙にも名を連ねている
(集外三十六歌仙は連歌師や武家歌人が多いことが特徴であり、ほかに武田信玄や北条氏康
・氏政も数えられている)。

『続武家閑談』は、天正10年(1582年)に武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に
「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったと記す。信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、
不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ
去っていたが、そのうちに本能寺の変が発生したという。

『及聞秘録』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れては長話をしたために家康が辟易し、
江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。

『故老諸談』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉
選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。