【東日本大震災】津波で漂流の岩手・陸前高田市の小型漁船、沖縄で発見・・・6年以上海を漂流 [無断転載禁止]©2ch.net
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津波で漂流の船、沖縄で発見 岩手・陸前高田で被災
中城海上保安部(沖縄県沖縄市)は29日までに、東日本大震災の巨大津波で漂流した岩手県陸前高田市の小型漁船(長さ約6メートル)が、沖縄本島沖の久高島(南城市)北東約8キロの海上で見つかったと発表した。
6年以上、海を漂流していたとみられ、海保の担当者は「海流に乗って流れ着いたと推察できる」としている。
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO18251920Z20C17A6CC0000/ カナダ「ゴミになるからもう一回流そうぜ」
アメリカ「ゴミになるからもう一回流そうぜ」
ハワイ「ゴミになるからもう一回流そうぜ」
沖縄「・・・」 ドトールコーヒーは悪の結社、創価学会の
一員だ
集団ストーカーを行なってる
ドトールも創価も法的措置を取らないのは
事実だからです
10月5日悪魔の娘 生誕
とうきょうときたくあかばねは
そうかのまち
何事も愛をもって行いなさい。
(新約聖書『コリントの信徒への手紙1』16章14節から)ghjっhyhっy アメリカ行ってオーストラリア行ってフィリピン行って帰ってきたな笑 あれからもう6年経つのか。
あの頃はまだ家庭があったなー。破産もしてないし家も車もあった。
たった6年で人間こんなにも生活が変わるんだな。 殆ど陸地を見ずに太平洋を回ってきたのかな
星はよく見えただろう >>13
。・゚・ミノД`彡・゚・。
お前の未来に幸あれ! 久高島の住民が5年前に漂流してきたのを保管してて、それを最近再び放流したのでは? 雨水が船内にたまったりしないの?
よく沈まなかった。 6年間海で発見されなかったのか
すげえな海は広いな大きいな やっぱり買うなら日本製の船だね。小船でも台風で沈まないのが証明されたな。 >>13
破産してもネットはできるのか?
安心したわ >>13
で、レス版13だしこれからもわるくなりそうじゃん。 >>28
自己破産って特に日常生活にはそこまで制限かからんよ
まあローンくめないとかクレカ作れないとかはあるけども > 6年以上、海を漂流していたとみられ
この6年以上の根拠はどこから? 江戸時代の遭難船もまだ漂流してるかもしれんのか。ロマンだわ。 また東北では感動ニュースとして報道するんだろうな。
地元でも辟易してる@仙台 6年も見つからずに漂流とか、海で遭難する恐ろしさがよくわかるよな 【歴史】琉球王国の先祖は源氏 琉球王国を造ったのは源氏 【沖縄】
教科書では1429年に琉球王国誕生 尚巴志が初めて沖縄本島を統一琉球王国を築いたとされている。
今帰仁村にある源氏の石碑は12世紀に源氏が上陸した記念碑である。運天港 源為朝が運を天に任せて辿り着いた場所で運天港と呼ばれるようになった。
源為朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝と幼少期に牛若丸とされる義経の叔父さんにあたる。
1156年に保元の乱に参戦に頼朝の父に破れ伊豆大島に流され31歳で自害とされているが本当は沖縄に流れていた。
本当に可能なのかと疑いの目が向けられるが
東京大学 海洋学研究所 講師 岡英太郎氏は、黒潮の沖側つまり南側には弱い西向きの流れが流れていて、それに乗れば小笠原諸島からは沖縄まで流れるのは十分可能と証言している。
中山世鑑には1650年編纂された琉球王国初の正史には琉球王国の王様である舜天が為朝公の子供であると沖縄県立博物館 稲福氏は語っている。
そして都にも源為朝 琉球へ渡り 建国の主となると伝わっていた。
何故、為朝親子は琉球を統一が出来たかというと舜天の背後に源氏のバックアップありその源氏と父、為朝との繋がっていたのである。
当時の頼朝と敵対ししていたので後ろ盾となったのは誰なのか?と素朴な疑問が生まれると思います。
それは義経であり、義経は兄頼朝に命を狙われていた。保元の乱で頼朝に敗れた為朝と共通の敵であった。
しかし東北の義経とどのような繋がりがあったのだろうか?
ここでも素朴な疑問が生まれる。
沖縄県立芸術大学 教授 安里進氏
平安時代に岩手の中尊寺金色堂に、沖縄の夜光貝を使った螺鈿細工が大量に柱や台座に使われていた。
交流の証であり琉球と奥州は深く繋がっていた。
突然15世紀に統一王国が出来たのではなく夜光貝の交易を通じて、12〜13世紀頃から政治的権力者が存在し13世紀には王権が登場していた。
教科書の15世紀前から琉球王国は存在していた。
源為朝には琉球だけじゃなく奥州(岩手)にも子供が存在した。
鎌倉時代の奥州を治めていたのは為朝の四男為頼
為朝と義経のパイプ役を果たしていた。
義経(21歳)と為頼(20歳)は従兄弟同士であり年齢も近かったので仲良しであった。
義経が北から為朝は南から鎌倉を挟み撃ちにしょうとした密約を交わしていたのであった。
義経はアイヌ民族の力を借り、為朝は琉球王国で頼朝への逆襲の力を貯めていたのであった。
打倒頼朝であった ■琉球王朝の歴史 沖縄 古文献
舜天(しゅんてん、1166年 - 1237年)は、舜天王統の開祖とされる琉球国王。
在位1187年 - 1237年。神号は尊敦。実在を証明する同時代史料は存在しないが、その名は16世紀頃から見られ、『中山世鑑』(1655年)や『中山世譜』(1701年)といった正史では、初代琉球国王と位置づけられている。
舜天の名自体は、国王頌徳碑(石門之東之碑文)(1522年)や浦添城の前の碑文(1597年)にすでに見られ、16世紀には実在の王と考えられていたことが分かるが、より詳しい経歴は、1650年に編纂された琉球王国の正史『中山世鑑』に見ることができる。
それによると、沖縄本島には天帝の遣いとして下界に下った神・アマミキヨの子に始まる天孫氏と呼ばれる王統が25代続いた。この後、臣下によって天孫氏が滅ぼされ、国が乱れていたときに善政を敷き、天下を統一したのが浦添の按司であった舜天とされている。
王統は舜馬順煕・義本と3代にわたって続き、1259年に英祖に王位を譲ったとされている。
『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、舜天は保元の乱で日本を追われた源為朝の子であるという。
保元の乱で為朝は伊豆に流刑となったが、その途上、船が嵐に遭い、沖縄本島の今帰仁に漂着して豪族となった、というものである。
『中山世鑑』における記述では為朝が上陸した地の豪族大里按司の妹と結婚し、生まれた子を尊敦(後の舜天)と名付ける。
尊敦は15歳で浦添按司となり、天孫氏25世の在位で謀反を起こし中山王に就いた利勇を討ち、22歳の時に諸侯の推挙を受けて中山王となった。
これが舜天と伝えられる。この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。これが真実であるとすれば、舜天と鎌倉幕府を起こした源頼朝は従兄弟同士ということにもなる ぶっちゃけ源氏も
その大昔のお前らも「ただの漂流者」
よくたどり着けたと思うわ? 6年間も海を漂ってる間に他の船から全く目撃されなかったんだろうか?
もっと長期間漂流してる幽霊船とかありそうだな…。 何年も何処かに引っ掛かってて嵐か何かでまた海に流されただけかもよ 沈んでたんじゃなくて漂流中に発見かよ
6年も漂流してるのもすごいけど今まで発見されなかったってのもすげーな
こりゃマレーシア便も見つからないわけだわ むかし見た幽霊線ものの映画怖かった
血のシャワーとか拷問部屋とか パイレーツ・オブ・カリビアンの映画宣伝じゃないのか? >>13
生きてたら必ずいい事はある
生きてくれてありがと >>33
どこかの国で使われててやっぱイラネって手放したんじゃないかって言いたいのかもよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています