大阪市阿倍野区のシャープ旧本社が、更地の状態となっている。

旧本社前を走る南港通にかかる歩道橋の上から、その様子を見ることができる。当初の計画では、8月31日までには解体工事が完了する予定であったが、工事は前倒しで進んでいるようだ。

・更地になった大阪市阿倍野区のシャープ旧本社跡地
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シャープの旧本社は、鴻海(ホンハイ)精密工業傘下に入る以前の旧経営体制下で、構造改革の一環として2016年3月、家具販売大手のニトリホールディングスに売却していた。このとき、旧本社の向かいにある田辺ビルもNTT都市開発に売却していた。

だが、鴻海傘下に入ってから、シャープ社長に就任した戴正呉氏(鴻海グループ副総裁)が、「あの場所は、シャープの歴史がある場所。できれば買い戻したい」と発言。シャープは、ニトリおよびNTT都市開発と、両ビルの買い戻しの交渉を開始。NTT都市開発からは田辺ビルの買い戻しに成功したものの、ニトリからの旧本社ビルの買い戻しには失敗。ニトリは17年3月27日から解体工事を開始していた。

・かつてのシャープ本社
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解体作業が始まると仮囲いによって中の様子は見えなくなった
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4月15日夜には「SHARP」の袖看板が静かに撤去されたが、一方で、シャープ旧本社にとって象徴的な存在であった西田辺駅東交差点角の「SHARP」の大きな看板は、白い仮囲いで遮られ、誰の目にも触れることなく撤去された。ビルはその後も解体作業が続き、ゴールデンウイーク前には内装の撤去が終了。5月20日以降、10トンダンプを1日最大50台使用して、コンクリートガラの搬出作業を行い、現在の更地の状況になったというわけだ。

シャープ旧本社の入口には、同社の経営信条である「誠意と創意」の碑が置かれ、自動ドアを抜けるとそこには、創業者である早川徳次氏の銅像が置かれていたのを思い出す。建物は、増築を重ねたせいか複雑な構造になっており、建物の中央部は吹き抜け構造であり、それを囲むように建物が作られていた。そして、2階の役員フロアは、重厚な雰囲気を醸し出していたのが印象的だった。

更地の様子を見た本社勤務経験があるシャープ社員からは、「何も無くなった光景は、とにかく寂しい」といった声が聞かれた。

■「創業の地は大阪ではない

シャープが、大阪市営地下鉄御堂筋線の西田辺駅近くに本社を構えたのは、1924年9月1日。関東大震災のちょうど1年後だ。

多くの人がシャープは関西発祥の企業と思っているかもしれないが、実は、シャープの創業は、東京都墨田区本所であり、早川氏は東京都中央区の生まれ。東京・京橋にあった実父の生家は、江戸時代から続く袋物問屋であり、ちゃきちゃきの江戸っ子であったことはあまり知られていない

創業から12年間は、東京に本社を置いていたのだが、関東大震災により、工場を焼失。このとき早川氏は、妻とともに、8歳と6歳になる2人の子どもも亡くした。さらに、追い打ちをかけたのが、大阪に本社を持つ販売委託先からの特約契約金の返済と、事業拡張金として融資していた合計2万円の返済を求められたことだった。

金融機関が、震災後の復旧に向けて、衣食を優先する施策を取る中で、シャープは資金調達ができず、同社への特許の無償使用や技術移転などを条件に、返済を免除。早川氏は東京から14人の技術者を連れて大阪に向かい、家賃42円の2階建ての家を借りて、全員がこの家で寝泊まりし、大阪での生活を始めた。

早川氏は、後に自らの著書の中で、「東京生まれの私が大阪へやってきて、事業を新たに興したというと、ちょっと派手に聞こえるが、体のいい都落ちであった。時の勢いで、やむなく大阪にやってこなければならなかった」と記している。

・17年4月15日夜には、袖看板が静かに撤去された
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>>2以降に続く

配信 2017年08月10日 11時45分
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