1990年代は、生々しい戦争の記憶を持つ世代がまだ多く存命していた。
だからこそ、唯一の陸上戦を強いられた沖縄の苦しみにも思いが至り、本土もそれに向き合えた最後の時代だった。
思想史研究家の片山杜秀氏と、元外交官・作家の佐藤優氏が、1990年代を振り返りながら、沖縄の問題に向き合った。

片山:終戦から50年が過ぎた1995年9月、沖縄米兵少女暴行事件(※1)で、戦後の日米関係のひずみが浮き彫りになりました。

【※1/1995年9月4日、米兵3人が12歳の女子小学生を拉致、暴行した事件。
沖縄県警に身柄引き渡しを求められた米軍は日米地位協定を理由に拒否した】

当時はまだ本土の人たちは、防衛の最前線として大きな犠牲を強いた沖縄に対する負い目を共有していた。
終戦時20歳だった人は70歳。30歳なら80歳。生々しい記憶が刻まれていました。
しかし、その後は急激に世代交代が進む。記憶がどんどん薄らいで今日に至っているように感じます。

佐藤:沖縄と本土の関係の変化は、昨年4月に起きた米軍の軍属による強姦殺人事件(※2)を振り返ると分かりやすい。
1995年の暴行事件とは、本土での世論のハネ方がまったく違った。
強姦殺人という凶悪事件なのに本土の反応はとても冷ややかでした。

【※2/2016年4月28日、うるま市で20歳の女性が元米海兵隊員で軍属の男に殺害された。5月19日、殺人や強姦致死などの罪で男を逮捕】

片山:それだけ本土と沖縄の距離は離れてしまったと言えますね。

しかしそんな状況で、沖縄を繋ぎ止めようと今上天皇は沖縄と向き合い続けてきました。

佐藤:私は今上天皇と皇后が琉歌を詠んでいることに注目しているんです。

琉歌の基本形は、本土の短歌や俳句の定型である五七調や新体の七五調とは違う八・八・八・六。
今上天皇はリズムが異なる琉歌を一生懸命に学び、沖縄について必死に勉強している。
そうしないと沖縄が理解できない。

片山:言語学者の服部四郎は日本語を本土の日本語と南方の日本語に分けていたと思います。

後者は琉球語でしょう。
方言ではなく同系の対等な日本語同士なのですね。
つまり対等の兄弟と見なくてはいけない。

ところが明治以後、本土は沖縄を帝国主義的に植民地のように扱った。
単に辺境の遅れた地域と見ていた。
しかし、やがて南方進出が叫ばれ、「大東亜共栄圏」のイメージへと発展する過程で、沖縄は地政学的な重要拠点と位置づけられ直していった。
そのクライマックスが沖縄戦です。
この歴史を記憶していれば今のように本土は振る舞えないでしょう。
ひたすらひずみを引き受けさせてきた不遇の兄か弟が沖縄なのですから。
でも、歴史は忘却される一方のようで。

佐藤:基地を巡る状況も大きく変わっています。

安倍政権は辺野古の海に土砂を投入すれば、沖縄は抵抗を諦めると考えている。
一方の沖縄では、いまは我慢して100年後に基地を壊して原状回復してやるというくらいの気持ちで抵抗を続けている。
沖縄出身の芥川賞作家・大城立裕さんが「辺野古遠望」という小説で、抵抗することは我慢することなんだ、と書いている。
そんな思いが沖縄の人たちに内在する分離独立気運につながっています。

片山:しかし安倍政権にその連鎖は見えていない。短期的な結果を求めるから中長期的な視野が持てない。

佐藤:そうなんです。

今後、沖縄が日本から独立する可能性は十分にありえるでしょう。
私は平成という時代がそのプロセスになると見ているんです。

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