>>128つづき
1938(昭和一三)年4月、徐州作戦、6月、漢口作戦、10月、広東作戦と、中国大陸での日本軍は戦線を拡大していった。
1940(昭和一五)年9月、日・独・伊三国同盟が成立。
1941(昭和一六)年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃を行った。アメリカ側は4隻の戦艦が沈没し、4隻が撃破、188機の飛行機が破壊され、およそ3800人の死傷者が出た。
ところが日本の駐米大使が米国務長官に宣戦布告の文書を手渡したのは真珠湾攻撃の一時間後のことだった。
1941(昭和一六)年12月10日、シンガポールでイギリス東洋艦隊を日本機が攻撃、プリンス・オブ・ウェールズをはじめとする、イギリス東洋艦隊を壊滅させた。
その後、1942(昭和一七)年1月にかけて、アメリカ領のグアム島、ウェーク島、オーストラリア領のラバウル島などを占領した。
1942(昭和一七)年1月31日、日本軍はジョホールバルを占領。2月15日にはシンガポールを占領。そして数千、または数万の華僑が無差別に虐殺された。
1942(昭和一七)年1月2日、日本軍は当時アメリカ領フィリピンのマニラを占領。
1942(昭和一七)年4月9日、日本軍はアメリカ・フィリピン軍が立てこもるバターン半島を占領。
1942(昭和一七)年5月7日、コレヒドール島の米軍司令部が降伏した。この時日本軍は、米国軍とフィリピン軍の捕虜を移動させるため、暑い日盛りの下、80キロも歩かせ,たくさんの捕虜を死なせた。(バターン死の行進)
1942(昭和一七)年7月、日本軍はタイとビルマを結ぶ鉄道の建設にかかった。
労働力はイギリス軍、オランダ軍の捕虜や、タイ、マレー半島、インドネシア、ビルマの現地人だった。
全長450キロに及ぶこの「泰緬鉄道」は、わずか1年3ヶ月で完成したが、工事中に栄養失調や伝染病で一万人以上の捕虜と、数万を数える現地人労働者が死亡した。