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(徳川史観の大嘘) ↓これを400年間、誰も疑問に思わないのは本当に恐ろしいことである。

1.三河武士は「犬のように忠実」 → 嘘
2.三河武士は強い → 嘘
3.姉川の戦いで、強い浅井長政(秀忠の舅、家光の外祖父)に勝てたのは、強い徳川軍のおかげ → 嘘
4.清洲同盟(織徳同盟)は戦国時代に珍しく破られることがなかった美談 → 嘘
5.賢夫人の高台院(北政所、ねね、おね)は、泰平の世を築くのは家康と見定めていた、
  家康が次の天下人となることを認めていた、東軍を支持していた → 嘘

1.三河武士は「犬のように忠実」だって?(大爆笑)

・清康、広忠と二代続けて、当主が家来に殺されている
・清康横死の後、広忠は一族(桜井松平家、十八松平のひとつ)の
 松平信定に岡崎を押領されて伊勢へ放浪
・三河一向一揆で家康に歯向かう家臣多数(さすがに徳川史観でも否定できず)
 ちなみに織田家臣団で本願寺に寝返った武将など存在しない
 (強いて挙げれば、新参の荒木村重家中。村重本人ではない。)
・本多正信は、三河一向一揆の後、徳川家を出奔、逐電した(後に帰参)
・家老の大賀弥四郎が武田勝頼に内通(大賀は例外中の例外の極悪人!(キリッ w)
・信康事件でお家騒動、内紛(三河物語はじめ曲筆があったと見られる)
・筆頭家老の石川数正が逐電、秀吉へ寝返り

4.清洲同盟(織徳同盟)は戦国時代に珍しく破られることがなかった美談?

(ざっくりまとめると)

☆武田征伐後、家康は絶体絶命だった、すでに詰んでいた。
☆本能寺の変という「幸運」によって、徳川家は滅亡の危機を脱した。

・信康事件で織田家との姻戚関係は解消、新たな縁組もなし。実際には、すでに破綻していた。
(ちなみに武田家は、義信事件の後、今川家と手切れとなり、駿河へ侵攻している。)
・武田征伐後、北条氏(相模・伊豆)、河尻秀隆(甲斐)、森長可(信濃)、
 織田信忠(尾張・美濃)に包囲されて伸びしろゼロ。
・信長に隠れて武田遺臣を大量に匿う、雇い入れている(実質、謀反の企て)。
※この“謀反”を正当化するのが、信長による「過酷な残党狩り」、「皆殺しにされた」という捏造プロパガンダである
・同じ境遇で信長に粛清された水野信元(家康の叔父)という先例がすでに存在する。
・信忠と松姫(武田信玄六女、のちの信松尼)との正式な婚姻が予定されていた。
 信忠と松姫の間に生まれた男子の1人が武田の名跡を継承すれば、ジ・エンド。
・同盟国だったのに方針変更、前言を翻した、対長宗我部外交という、まさに同時進行例がある。
・「本城惣右衛門覚書」でも、織田と徳川の手切れ、関係が険悪化していることが、
 本城クラスの人間にも周知の事実になっていた、織田家中の常識、共通認識になっていたことが伺われる。
・当時、長男の信康は家康に粛清され、残った息子の於義丸(結城秀康)が満8歳、
 長松丸(徳川秀忠)が満3歳。家康には男系の(広忠を父とする)同母兄弟、異母兄弟もいない。
(義信事件のとき、諏訪勝頼は満18〜19歳ですでに元服・初陣も済ませており、
信廉(信玄同母弟)、信豊(信玄同母弟信繁の次男)も居た武田家よりも、はるかに条件は悪い。)
・晩年の家康は信長のことを一切語らず。

本城惣右衛門覚書
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E6%83%A3%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%E8%A6%9A%E6%9B%B8

> ところが山崎の方に行くと思いましたのに、そうではなくて京都へ命じられました。
> 我らはその時は家康様が御上洛しておられるので、家康様を討つとばかりに思っていました。