独房に現われていた祖父の存在

幼女を殺害し、解体したり血を飲んだりしたことも、おじいさんを甦らせるとか、おじいさんに捧げるためという。
そして実際、彼は逮捕後も独房にしばしばおじいさんが現れると語っている。
不思議なことに、彼は自分を襲おうと何者かが囁きあっているという声については「幻聴」と言うのだが、この祖父再生については幻聴だと認めようとしない。
そもそも彼はその後も祖父が死去したことを認めようとしていないのだ。
『夢のなか』で彼は私の質問にこう答えている。

──おじいさんが亡くなった後からあなたは、おじいさんをよみがえらせようとしていたようですが、死んだ人はどうすればよみがえるのでしょうか。

宮崎 “よみがえる“と”生き返る”とは違う。
おじいさんは実際のところ死んだのか見えなくなったのか分からないのです。
最近、その辺はっきりしてほしいと思うようにもなった。死んだんなら死んだでいい、はっきりしてほしい。
見えなくなったのなら見えなくなったとはっきりしてほしいと思うようにもなった。
実際のところ、おじいさんが見えなくなったのか死んだのかさっぱり判明していないのです。

我々が人間の死について、根源的で具体的な原体験を味わうのは、身近な人の死に直面し、その肉体が焼かれて人格が物体になってしまう瞬間を目撃することによってだと言われるが、
宮崎勤にとってもこの祖父の死は強烈な体験だったようだ。
最初の幼女殺害事件が起こるのは、この祖父の死から3カ月後のことだ。

私はあの幼女殺害事件には、神戸の酒鬼薔薇少年が人間が死ぬことに興味を抱いたように、あるいはその後も「人を殺してみたかった」という動機での殺人が幾つかあったように、
単なる幼女へのわいせつ目的というのでは包摂しきれない要因があったと思う。
もちろんそれが性的欲求や衝動と結びついていることは、酒鬼薔薇少年が児童を殺害しながら性的興奮を覚えていたことからも分かるだろう。

宮崎事件も、あまりに分かりやすい物語にしてしまうと本質を見誤ると思う。
裁判では、そういう難しい問題に踏み込むのを避け、責任能力ありという落としどころに持ち込むために、事件の解明が二の次にされてしまったという思いが拭いきれないのだ。
ちなみに独房に現われるこの宮崎の祖父とは、宮崎勤の幼少期のノスタルジアと重なり、本人言うところの「甘い世界」「自分が自分でいられた時代」の象徴でもある。
では実際それは彼の少年期のどの時代かというと曖昧なのだが、現実に存在した少年時代というより、それは宮崎勤の内面に夢想された郷愁なのかもしれない。
『夢のなか、いまも』の出版に際して彼は独房からわざわざ1枚の写真を送ってきた。
それが彼のイメージする懐かしい少年時代だった。
確かに写真に写った宮崎勤は、表情豊かで、これが同じ人物かと思えるような写真だった

篠田博之