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麻生太郎副総理は福岡県飯塚市の生まれである。小学校三年生の時上京し、
学習院初等科に編入学した。朝鮮戦争が始まったのはその翌年(1950年)である。
朝鮮戦争当時、福岡県は兵站基地として極度に緊張の状態にあった。しかし、
太郎おぼっちゃまは遠く離れた平和な東京で何不自由ない豊かな暮しを
のんびりと楽しんだ。彼の朝鮮戦争に関する話は伝聞どころか、ただの
作り話である。

たとえば 「敵機来襲」と言ってはしゃいでいるが、そもそも金日成を首班とする
北朝鮮は戦闘機や爆撃機を持たなかった。支援した毛沢東は人民解放軍
陸上部隊だけを派遣した。北朝鮮の後ろ盾となったソ連のスターリンは
戦闘機を飛ばしたが、飛行範囲はあくまでも北朝鮮軍の支配地上空に限定し、
米軍機の北上阻止に専念した。(NHK番組で旧ソ連空軍パイロットが
証言していた。国連対策のためとか)。

「小倉黒人米兵集団脱走事件 (1950年7月11日-15日)」の際、米軍は
脱走兵威嚇・鎮圧のために小倉市ならびに周辺にグラマン戦闘機を飛ばした。
それが朝鮮半島からの敵機と誤って伝えられたのか、それとも占領軍の
情報操作でそう地元新聞に報道させたか、さだかでない。

朝鮮戦争勃発とともに日本は特需景気に沸き、福岡県は他の党道府県に先んじて
その恩恵に酔いしれた。麻生一族はこのどさくさを巧みに取り込んで、
巨万の財をなした。一族はいまも心中密かに 「夢よもう一度」 と第二次
朝鮮戦争を待ち望んでいる。麻生太郎副総理が岐阜の演説で難民にことづけて、
隣国での戦争に言及したのは 「衣の下に鎧が見えた」 一瞬であった、