>>410
或る正直な東京人のホームページの記述より


武蔵の国
http://www.kt.rim.or.jp/~tro/tt/togarasi.htm

東京や多摩の別名として古来からの国名の武蔵がある。若者の街で人気の吉祥寺も武蔵野市にある。
“武蔵”というのは“モサシ”という朝鮮語から生まれた言葉だという。
モサシは河原にはえる草の呼び名らしく、多摩川の河原や東京を二分するようなその広大な河岸段丘の草原からつけられたようだ。

また、武蔵の国の国司は百済人と決まっていて亡命してきた百済王家の人間がなっていたという。
今でも東京(武蔵野)には狛江とか高麗とか朝鮮に関係ある地名や名称が多く残っている。
武蔵の国の政府があった府中の大国魂神社(オオクニタマジンジャ)のあたりからは、百済人や東夷が暮らした武蔵野の大地が遠望できる。

江戸がなぜ栄えたか、というと「田舎者で栄えた」というのが一つの答えらしい。
江戸八百八町は当時も世界最大の都市。大名の参勤交替だけではなく、ありとあらゆる田舎から人々が集まって来ていたのだ。
そもそも江戸の背景となった武蔵の国そのものが海外からの亡命者や入植者、あるいは都落ちしたもの、東国へ派遣されたもの、
古来地元で群雄割拠する豪族など、ありとあらゆる人間が生活を営んでいた場所である。
しかも知事は外国人、国際的といえる地域でもあるのだ。

これが、ボクにとっての東京のバックボーンであり、歴史であり、生い立ちであり、成り立ちであり、現実であり、その一部分だ。



http://www5.tok2.com/home2/okunouso/0111.htm
武蔵・相模の地は、高麗・高句麗・百済・新羅など朝鮮半鳥系の帰化人によって開拓され、
武蔵の区域は二分裂し、互に本系を表示する「宗国」「主国」の意を古朝鮮語の訓で称え
「ムネサシ」と云い、 一は「胸刺」の字をあて、一は「ネ」が略された「牟邪志」の字を
あてて表わしたもので、 これに対して相模の地域の方は、本系を表わすのに「真」を
用いて「真城(マネサシ)」(真倉)といい、 これが後に相模の枕言葉になったものである。