【福岡】弥生の硯、福岡の遺跡で初の完全形…文字使用か
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弥生の硯、福岡の遺跡で初の完全形…文字使用か
2017年11月15日 07時14分
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20171114-OYT1T50132.html
福岡県筑前町にある弥生時代中期〜後期の薬師ノ上やくしのうえ遺跡で、弥生時代では初めてとなる完全な形の硯すずりが出土していたことが、同町教育委員会の調査でわかった。
専門家は「弥生時代の日本で文字が書かれていた可能性を示す発見」としている。
硯は長さ15・3センチ、幅6・3センチ、厚さ0・9センチで、真ん中で二つに割れている。2003年に集落跡から出土し、用途不明とされてきた。柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が最近、町教委の依頼で再調査し、薄い墨の痕跡が数か所あると気付いた。現代の硯のように墨だまりはないが、朝鮮半島で出土した硯と同じ砂質頁岩けつがん製で形などが似ており、硯と判断。一緒に出土した土器などから、1〜2世紀のものと推定している。
(ここまで332文字 / 残り142文字) >>26
蘇我一族が滅亡した時だっけ?に屋敷を焼いて、そういう資料も一緒に燃やしたんだって >>61
こういうネトウヨは見てて恥ずかしくなるねぇ。 >>38
マジレスすると、前漢の武帝時代に朝鮮半島は漢の植民地になってる
南端の真番郡は今の釜山付近か洛東江流域のどこか
漢字や文字が使われてたとしても、それは中国人(漢人)だよ >>61
マジレスすると、中国文明はインド+中東文明の中国大陸版でしかないよ
中国文明の本質は商業文明なので当たり前といや当たり前なんだが >>106
それくらいの時代だと、倭人の領域たったんじゃないか?
黒潮文化圏ってやつ >>10
百済は日本から朝鮮半島に渡った人間
だから国が潰れた時に日本に来た 中国人が先祖が古代に生み出した文字に誇りを持つのは真っ当な事だと思う
ただ日本人にとっての古代中国はアメリカ人にとっての古代ローマみたいなもんで
文字を通じて語彙とか深く影響を受けてはいてもアメリカが現代イタリアに特に敬意を払うこたねえだろ
むしろそこまで遡らなきゃ誇れるもん無いのかとか個人的に劣等感あんのかなとか哀れまれるだけだから
日本人に対して文字の優越感は口にしないほうが利口だぞ 金印があったんだから硯もあるだろ。
どうやってハンコ押すんだよ? >>1
そこで夏スイカの種植えたった。たくさん生えてたらお前ら食べていいよ?
食べたら種植えててね >>115
封泥といって、縄の結びのところにある木札に泥をつけて、そこに印を押して
これがどこどこの国からの正式な交易物(文書)であることを証明したんだよ
当時はさすがに紙はなく、あったとしても古代中国で一般的な竹簡だったと思われ まぁ文字がないわけないとは思ってた
ただし書物としてまとめて更に保管となるとかなりハードルが上がるから証拠は出ないと思ってた 使い方は分からなかったが、珍しい道具だからとっておいたんだろう (-_-;)y-~
俺が生まれて以降、「記多真玉」に変な訓を付けて死んだ学者は二人。
今泉忠義と宇治谷孟。寺崎保広はまだ生きている。
他に女性人名事典のほうはわからん、生死不明。
http://s-file.main.jp/0031yomi.htm >>109
百済人と倭人は言葉が通じたというし、百済は倭の属国だったというから、倭人の植民国だったと考えるのが妥当だな
ギリシャ人が地中海各地に植民都市を作ったのと同じ 魏志倭人伝は伊都国に外交施設があったけど、
ここは内陸部だからな。
外交以外で既に文字を使用していたと言う事だよ。
文字を使用していたという視点で発掘すれば、
出てくるモノなんだ。 輸入品なりを認識するためのコピー、表図としての意味しか持ってなかったろうね
この時期に土着日本語との整合性を模索してたら3世紀にはオリジナルのなんらかの文章が出来上がってたはず >>27
それを言ったらアルファベットはフェニキア人だし、中国の文献には漢字は東夷が作ったと書いてあるから、漢民族だって漢字は借り物だぞ 1〜2世紀と言えば銅鐸、
楽で支配されていた時代だな。 (-_-;)y-~
百済人ちゃうで、俺の母方姓「北ノ間」は。
血統は「田上」やで。 (-_-;)y-~
ちなみに、戦国時代の主家薩州島津家は朝鮮半島加徳島で滅亡。
俺の父は朝鮮半島加徳島で終戦や。 >>125
奴国の政権本部の存在した可能性のある場所だから、外交文書を書くための硯があってもおかしくはないでしょ
それに、国内に対する命令書等で使われていたのなら、古墳時代以前に木簡竹簡が出てきてもおかしくないが、
まったく出ていない
それが起きるのは、国の統一が進み、地方官僚全般に文字が普及する飛鳥奈良時代を待たないといけない
三世紀の卑弥呼がおそらく竹簡で上表していることから、外交に置いては漢字が、つまり墨と硯と筆が使われて
いたのは間違いないだろうけど >>123
黒潮で繋がる黒潮文化圏
百済は倭人の国だろ >>124
奈良時代の日本人の名前も随分今と違うよ >>109
その後、半島や大陸はいろんな人種や民族や入り乱れたので当時とは全く異なる人が住んでる
日本人が元祖中国人であり元祖朝鮮人かもな 古代ユダヤ教と源を同じくするインド方面から日本列島までやって来た民 ヤマト
モンゴル帝国に故郷から追い散らされて西に逃げアシュケナージに同化した民 ハザールユダヤ
箔を着けたいハザールユダヤに失われた十支族の末裔に認定されてイスラエルに帰還した民 福建
モンゴル帝国に故郷から追い散らされて東に逃げ明清に精神改造を施された王侯貴族 ハザール儒教 >>124
百済はともかく、任那は倭の領域だったからな
文化的に近かったことは確か >>123,132
百済は古くから倭の友好国だが異文化圏
5世紀の倭王珍は宋に百済を含む半島の支配権の認可を(称号として)願い出たが百済だけは認められなかった
倭人の文化圏は半島南東部で新羅の領域にも広がってた >>139
ああ、それは、文化圏ではなくて、政治的な縄張りでしょ
文化圏に違うことの証拠にはならん >>140
書く順番間違えたな
2行目は>>123の「百済は倭の属国だったという」への反論
文化を異にする証拠はいろいろあるけど長くなるから略 >>83
それは知らんけど、日本には青銅器と鉄器は同時期に伝来した >>117
秦の頃に現れた硯は、石を平らに削っただけのものだった >>41
DQNは「夜露死苦」とか大好きだろ?
鉄剣の漢字もその手の奴が彫ったんだよ
時代が変わっても人間性は変わらない >>90
銅印しか貰えなかった奴隷が何か言ってらw >>139
マジレスすると、百済よりむしろ新羅地域の方が勾玉などの倭系遺物が遥かに多い 硯って不思議な道具だよな。
たとえば、『徒然草』の冒頭の「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて」だ。
画家の場合なら、向かうのはキャンバスであってパレットではない。
近代の小説家も原稿用紙に向かった。 >>151
この辺の感覚がどうもわからない。
硯や墨や筆などをセットで入れる「硯箱」は、そう古いもんじゃない気もする。
それ以前は、たとえば筆だけはmy筆を持ち歩くけど、墨と硯は行った先で借りると
いうあたりが妥当なのかしらん。 >>130
忠隣さんは立派に闘ったというのに・・・ >>151
いまと違って簡単に文書が発行できない時代で
帯方郡の使者でさえも王朝の許可なく発行できない
相手国側も国(帝)爾がないと信用しない
ゆえに書いても意味がないのだよ 邪馬台国九州論者が来ないとスレが伸びないなw
>>151
戦乱から逃れた中国系住民が沢山移住して文化を発展させた面もあるだろ
後の倭王は太伯の子孫と自称してるくらいだし 対馬から九州は古くから渡来人がいて通訳(読み書き話す)ができた
魏志倭人伝の使者も困らなかった >>14
むしろそうやってケンカに持っていきたがるお前が分からん >>39
消されたも何も、記紀に神武天皇は九州(日向)から東征したって書いてあんじゃん。
東征の際に筑紫国に長期滞在してるし。 >>155
いやだって、権威主義の学界以外では九州が常識やから、近畿説派がけえへんとおもろないわ >>159
九州の遺跡は邪馬台国の時代より少し古いだろ。
後漢書の時代なら合うと思うけど。 畿内中心主義を改めないと
こういうのは黙殺されちゃうよね >>26
曽我氏が滅んだ時、聖徳太子と曽我馬子が編纂した天皇記と国記が燃やされてる
あとそれぞれの氏族が独自に作って代々受け継がれていたものがのちの時代に焚書されたりもしてる
自分たちを大きく見せるための捏造が多かったからとも当時の権力者に都合が悪かったとも言われてるが真実は謎のまま 紀元前1世紀頃に、九州でも辺境の日向で新天地を求めた神武天皇が橿原で小国を立ち上げ
農耕で豊かになると、2〜3世紀頃から全国制覇を初める(纏向遺跡の時代)。
この間、九州北部は先進地域として栄えていたんだろ。
記紀とも特に矛盾は無いと思うがねえ、年代は別として(古代の天皇の統治期間は眉唾物)。 >>156
渡来人がいたかどうかも、彼らが翻訳ができて、担当していたかどうかはまだ想像にすぎないな
通訳が出来た人間がいたことや、魏帝からの公文書を読めた人間が政治中枢にいたことは魏書の内容から推測できるけど
>>159
つまり九州説派はアマチュアしかいないということでは…?
邪馬台国の問題に限らず、教科書に載ったり、メディアが信用するのは、論文を書いて学術的検証を受けた立場の人間の説だけだからな
専門外の学者なら、まだ自分で本を書いて発表できて稼げるけど、アマチュアはネットか同人誌で自己満足するだけだからな >>67
センス悪いのは疫病神だからだよ
魔を払うためこいつを川に流してたんだ 弥生とか古墳とかは大陸からの流入者が引き起こしたんだから当然だろう。
埴輪って兵馬俑の成れの果てだろう? >>164
邪馬台国九州説は種類が多いんだよ
九州北部広域説、山門説、宇佐神宮説、太宰府説、西都原説とかな
根拠を失っても、長いものに巻かれろ的圧力で一本化されてしまっている畿内説とは違う この頃には既に中国大陸との航路が確立されていたわけだし
中国との交易で硯を入手しても不思議ではないだろう >>161
そもそもどこが中心だとかいう考え自体が間違っている
そんな考えだから下らないケンカになる 今回の硯の出土場所は、川を下れば筑後川流域の大昔からの大穀倉地帯だからな
もし太宰府が中央政府だったとしたら、有明海から筑後川を遡上しての穀物や海産物の陸揚げ場所にあたる >>167
資格を問題にしているのであって、お説の種類など問うてもいないのだが 邪馬台国論争も素直に「やまと」と読めばいいのに、「日本人の先祖が中国に朝貢するような土人であるはずがない」
とか言って無理矢理九州説をでっち上げた国学者(当時のネトウヨ)が悪い罠 >>155
倭王ではなく使節の大夫が自分の先祖だと言ったというものだぞw >>176
当時と付けようが、ネットがない時代の人物をネトウヨとか言うのは言葉を知らない馬鹿だと見られるだけだぞ。 >>176
「日本人は太伯の末裔」と言われて激怒したのは水戸光圀だろ
その後、彼は配下の林家学派の儒者に日本中から古文書を収集させて、
何故か古文書の書庫にしていた寺が火災で完全焼失
幕府や自分にとって都合の悪い歴史を改竄して「大日本史」を編纂したからな >>181
倭王の話しもだが、東国武士は新羅人移民の子孫とか書いてあったのかね 文化圏で半島南部が倭に含まれるってよく言うんだけど
考古学的には確かに半島南部と北九州は
海を隔てて同じような文化圏にあるけど
近畿とは違うんだよ
じゃあ北九州は倭で近畿はそうじゃないかというとそういう見方もできるということで
なんか保守派連中の言ってることはずれてる >>181
いい加減な情報しかなく、事実かどうかもわからない時代の記事であることも
太伯には子孫がいないことも、光圀ともあろう人が本当にわからなかったのだろうか? >>183
日本も長い間外国は全て唐
ヨーロッパもアジアは全部インドだと思ってたわけだから
中国でも海の向こうの島国は全部倭だと思ってた可能性は高い
だから日本もフィリピンも東南アジアも全部倭国 古代日本の韓国は「からくに=中国大陸」だからな
ちなみに魏志倭人伝の狗邪韓国は伽耶加羅国なのかね? >>14
北九州と畿内の勢力が各々大陸と交流を持ってたんじゃないの >>185
>日本も長い間外国は全て唐
「唐天竺」とか「三国一の○○」とか言ってたようだが 日本には神代文字ヲシテがあるだろう。大陸から漢字が伝わって初めて文字が出来たことにしたい勢力的には、認めたくない問題だろうが。 >>189
ヲシテが何かは知らないけど、
世界的に見ても特殊と言えるほど、膨大な発掘調査をしてきたのに
古墳時代以前に、漢字以外の文字・言語と呼べるほどの資料は皆無なんだよ >>187
だったら中国側に記録が残るだろ、魏志倭人伝のように
実際には九州のことが書かれた魏志倭人伝だけが記録されているんだから、中国との交易は九州の専売特許 >>191
魏書呉書蜀書が残ったのは政治的争いの結果であって、晋の高官である陳寿は魏を正当として書かざるを
得なかったので、呉や蜀の外交記録は一部を除きほぼ棄てざるを得なかったはずだ
だけど呉の鏡が近畿から東日本にかけての4〜5世紀の古墳から実際に出土している以上、交流がなかった
とは言い切れないのは当然のこと 畿内説支持者って、紀元前や卑弥呼の時代のスレで古墳時代の話ばかり持ち出すのなんで? 硯が日本のものって>>1の自称専門家頭おかしいだろ 弥生時代のレスラーが、飲み会でキレて
硯を投げていた可能性もある >>148
硯に向かひて の間に 心に映り行くよしなしごと、 なのかもな
墨をすりながらあれこれ考える。 墨も墨汁で売ってるのが多いから墨をする機会なんてなかなかないだろうが
ある程度力はこめてすらないと
いつまでたっても透明に近い黒い水だ 水をためるところがないけどあれで硯として使えるんかな
当時の中国の硯もあんな形なんだろうか >>199
石墨を削って粉にしたのち、膠などで作られた定着用溶液に混ぜて使用していた
煤と膠を原料とした練り墨の登場はもう少し時代を下る必要がある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています