>>69
出雲からは銅鐸の鋳型などが発見されているし
銅剣も発見されている
これまで九州の祭儀であった銅剣と本州の祭儀であった銅鐸は
神武の東征まではまったく別別に広まっていたとの通説を覆す発見があった
出雲を構成した人たちはかなり複雑なのか
その地域から東西の文化を共に受け入れていたのかわからないが
簡単に分けれるようなものではないと思うよ

それに国津神と天津神に分けたのは、かなりあとになってからではないか
って思う
崇神天皇の叔母のヤマトトモモソ姫が崇めていた大物主命は
出雲の神の大国主命の別名とされている
つまり大和朝廷初期には出雲の神を崇めていたのだからな
この時代、出雲に畿内は服属していたのではないかと私は思う
その後、畿内が出雲を倒す下克上があったから、それを正当化するために
国譲りの神話や、これまでの神の上位の神として天津神を位置づける必要ができたと考えられる