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ガリレオ・ガリレイ
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職を失い経済的に苦境に立たされ齢も重ねたガリレオは病気がちになった。
これを知ったルネ・デカルトは、自身も『宇宙論(世界論)』の公刊を断念してしまった。

裁判の影響
この後、ガリレオの著書はイタリアでは事実上発行できなくなったため、『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、プロテスタント教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。
フランスのルネ・デカルトは、Traite du monde et de la lumiere (タイトルは『世界論』などと訳されている。)
の原稿をほぼ書き終えていたが、1633年のガリレオ裁判の報を聞いて出版をためらったことを、『方法序説』(1637年刊)に記している。[注 6]
さらに1634年にガリレオの『天文対話』の原稿を手に入れて読み検討してみて、自説を出版するのは危険があると判断したらしい。
というのはデカルトはTraite du monde 〜で(ガリレオ同様に、あるいはそれ以上に) heliocentrisme 太陽中心説を展開していたからである。[注 7]

6.^ デカルトはTraite du monde et de la lumiereの代わりに3部作La Dioptrique、 Les Meteores、 Geometrieを出版し、その3部作の序文のような位置付けで書かれたのが有名な『方法序説』である。
7.^ 結局デカルトのほうはリスクを避けて、自分の死後に 太陽中心説を含む完全版のTraite du monde 〜を出版させる段取りをつけた。結果としてそれは1664年に出版された。