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2018/01/18(木) 18:48:37.89ID:CAP_USER9http://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/01/18/20180118dd0phj000087000p/9.jpg
幕末に活躍した土佐藩の郷士、坂本龍馬は1867年11月に「新政府綱領八策」をまとめ、議会政治や人材登用など新しい日本の構想を提言した。藩の枠にとらわれず、薩長同盟の仲介などで行動力を見せ、時代を先取りする視野の広さが今日(こんにち)の龍馬人気の基になっている。
その龍馬に先立ち、議会開設や人民平等を唱えた人物がいた。上田藩士の赤松小三郎。だが龍馬と比べ、その知名度は著しく低い。
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赤松は幕末、江戸、京都などで活動した。蘭語や英語を身につけ、日本に来た外国人から直接、西洋思想や兵学を吸収した。また、勝海舟や松代藩の佐久間象山、会津藩士山本覚馬ら当時一級の人物と交遊し、時代を見る目を養った。上田市の赤松小三郎顕彰会会長の林和男さん(66)は「赤松は、新しい国づくりの思想的なリーダーだった」と評価する。
赤松は維新前年の67年5月、国政改革の建白書をまとめた。提出した相手は、幕府政事総裁や越前福井藩主を務めた松平春嶽(しゅんがく)と薩摩藩の実力者だった島津久光、幕府の三者とされる。内容は、上下2院による議会開設▽人民平等▽統一貨幣の導入▽専守防衛の陸海軍の整備など。議会の上院は大名や旗本から30人を、下院は諸国の有能な人物の中から130人を「入札(いれふだ)」(選挙)で選び、国の方針を決めるという構想だった。
だが赤松は新時代を見ることなく、67年9月、京都で薩摩藩士に暗殺された。この頃、赤松は薩摩藩に兵学教授として招かれていた。薩摩藩がなぜ師匠ともいうべき赤松を暗殺したのか。赤松は幕府と薩摩が協力し改革する「幕薩一和」を唱えており、武力倒幕に傾いた薩摩藩にとって邪魔になったためだといわれる。あるいは、薩摩藩の内情を知りすぎたため、消されたともされる。
赤松を斬ったのは、西郷隆盛の部下だった中村半次郎。明治に桐野利秋と名乗り、西南戦争を実質的に指揮した。最後は鹿児島の城山で西郷と散った。西郷自身が赤松暗殺にどこまで関わっていたのかは分かっていない。
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明治以降、赤松の功績はほとんど語られず、上田でも忘れられてきた。暗殺した薩摩が明治政府を主導し、赤松の資料を廃棄したことが影響したとみられる。
赤松小三郎顕彰会は2003年にでき、赤松の生涯を伝えている。近年、赤松の資料がいくつか発見され、再評価が進んでいる。顕彰会副会長で長く赤松を研究する香山裕さん(79)は「昨年は赤松の死と大政奉還から150年だった。県外からも赤松に関心をもってもらい、ありがたかった」と話す。
赤松は倒幕の戦いを避けようとし、新政府の軍備も最小限にすべきだと主張した。その考えは平和主義からきていたと、香山さんは言う。赤松がもし明治の世を生きたら、富国強兵ヘ進む日本に対し、どのような姿勢を見せただろうか。【小川直樹】
上田城跡公園内に、赤松小三郎顕彰会が運営する「赤松小三郎記念館」があり、現在は冬季休館中。土日祝日に公開され、入館無料。赤松の生涯をパネルで紹介するほか、京都・金戒光明寺に残され、傷んでいた赤松の墓石を移し、保存している。
■ことば
赤松小三郎(あかまつ・こさぶろう)
幕末の 兵学者、思想家。1831年、上田藩の下級武士芦田勘兵衛の次男として生まれる。江戸で蘭学、数学などを学び、勝海舟のもと、長崎海軍伝習所で兵学や航海術などを学んだ。60年に上田藩士の赤松家に養子に入り相続。日本に滞在した英国士官から英語や兵学を学び、「英国歩兵練法」を翻訳・刊行した。67年、上田藩からの帰藩命令を受け、帰郷する直前、9月3日夜、京都の路上で斬られ、暗殺された。
毎日新聞 2018年1月18日 地方版
http://mainichi.jp/articles/20180118/ddl/k20/040/136000c?inb=ra