【鑑定】大正天皇の直筆画か、侍従武官の子孫宅で発見(写真あり)
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◆大正天皇の直筆画か、侍従武官の子孫宅で発見
大正天皇(1879〜1926年)が描いたとみられる絵が、侍従武官として大正天皇に仕えた四竈しかま孝輔(1876〜1937年)の東京都内の子孫宅から見つかった。
大正天皇と四竈は深い信頼関係にあったと考えられ、絵にあった大正天皇の名前「嘉仁よしひと」の署名がその特徴を備えていることから、識者は「直筆とみて間違いない」と話す。
大正天皇の書は知られるが、絵が見つかるのは極めて珍しい。
絵は四竈家の資料箱に保管されており、整理の過程で見つかった。縦27・5センチ、横39・5センチの半紙に、墨の濃淡を使って花や葉が描かれていた。
日付はないが、大正天皇に詳しい古川隆久・日大教授は「他の筆跡と比較しても、署名は大正天皇の直筆とみて間違いない」と話す。
写真:大正天皇が描いたとみられる絵
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20180130/20180130-OYT1I50003-L.jpg
▼記事を一部引用しました。全文はソースでご覧下さい
読売新聞 2018年01月30日 09時28分
http://www.yomiuri.co.jp/national/20180130-OYT1T50018.html 目弄ってんの
鯛しょってんの
しょわってんの
いまのってんの
も来年までの親父ギャグだな >>8
天皇万歳というか天皇は神様世代のばあちゃんが
大正天皇はキチガイで殺されたって言ってたからな 寒蘭っぽいけどちがうなー。単子葉であるのは間違いない 大正天皇はお忍びや庶民への話しかけが好きというリベラルな性格が災いして、
あの時代の神格される天皇の役割に合わず、病気という事で時の政府に奥に引っ込められた お貴族に仕える乳母が胸に塗ってたおしろいのせいで、脳軟化症かなんかで死ぬ赤子が多かったんじゃなかったっけ
この絵は、知恵おくれ系には描けないと思う
筆の運びとかね >>16
そりゃ傷病兵を見舞って気軽にタバコを差し出すなんて山縣有朋が見たら鼻から○ーメン噴出するわ。 庶民の格好して、外に酒飲みに出かけたりしてた天皇か。
まあ、頭おかしい事にされるわな。 この人が一夫一妻で4人も皇子をもうけられたせいで
側室なくても皇室の男子は途絶えないという甘い考えが根付いたのではないかと思う 天皇は京都で絵描いたり歌詠んだりしてればいいんだよな
政治、軍事は御公儀がやりますんで 昔は頭がちょっと…って言われてたけど、よくよく色々な話を見聞きすると、本当にそうだったの?ってイメージがガラッと変わるんだよな 望遠鏡を逆側から覗いたりお茶目なところがあったらしいね。 能書家、漢詩人、そして日本画家
しかも気さくで庶民派 >>23
未だに騙されてるのがこのスレにも数人いるからなあ >>21
自分がかーちゃんだと信じていた皇后が養母で
実のかーちゃんが側室(しかもお付きの女官)ということを知ったときとてもショックだったみたいだし
この人は例え嫁と相性悪くても側室はとらないで傍系から皇太子迎えてたんじゃないかという気がする 昭和天皇も、戦前は押し込められて、自分がなにいっても誰も聞かないと
すとれすためてるからな。戦争に負けてなければ大正天皇と同じように早死しただろ >>3
ちっとは勉強して知識更新しろよ
無知晒してるだけだぞ >>21
そのうち男子ができたのは2人の所だけだったけど
昭和天皇に2人・三笠宮に3人だから
まだ大丈夫だと思ってたのかね 大正デモクラシーが成功していれば朝鮮台湾サハリンまで領土は安泰やったな。
基地外扱いで幽閉された怨念パワーで亡国とか崇峻天皇以上やで 死んだおばあちゃんが、大正天皇は公式の席で賞状みたいのをクルクル丸めて望遠鏡みたいにした、知恵遅れだったんだよって何度も言ってた
新聞ではそんなこと書かないだろうし、噂だけで広がったのか お忍びで外出するのって
暴れん坊、遠山の金さん、あんみつ姫、志村けんの馬鹿とのもしてたな。 お忍びで外出して
悪を成敗する
暴れん坊天皇ってドラマが出来たりしてw >>37
こういう輩がこの後も出てくるだろうが、要するに大正天皇のことについて何も知らない無知なんだよ
大正天皇が芸術や文学、とりわけ漢詩においてその才を遺憾無く発揮されたのは知ってるのか?せめて『大正天皇漢詩集』『漢詩人大正天皇』を目を通すだけでもしてくれ
そして皇太子時代にアクティブに全国を巡啓された大正天皇のご活躍は原武史の『大正天皇』に詳しい。それくらいは読んでから口を開いてくれ >>36
おれはまったく嫌じゃないよ。
皇室にきちんと敬意を払った描き方をしてくれればだがね。
正義と日本をこよなく愛する大正天皇を描くドラマなんてとてもいいじゃないか。 >>36
「陛下がこのようなところに来られるはずがない、叩き斬れ!」 >>40
いやいやそんな本読む人ほとんどいないから。
フレドリック・R. ディキンソンの「大正天皇―一躍五大洲を雄飛す」も面白かったよ。 1932年の少女たちが「現代女子高生と同じ姿」と衝撃走る(動画)
http://kabuz.alexfb.com/1042.html
(´・ω・`)発見された100年前の日本の写真が凄過ぎる件
http://kabuz.alexfb.com/1045.html E3R43RRE 40歳前後は恐らく脳梗塞を患っておられたんだろうな >>30
叱責した田中義一がぽっくり逝った自責の念やら、西園寺公望の諫言やらがあの口パクパクに繋がってるんだっけ >>45
山縣有朋が「爺」として出てきたり、消防士のおっさんに「嘉さんも高等遊民きどって親の脛かじってちゃダメだよ」とか言われて面目なさげに団子を齧る大正天皇は嫌だろ。 >>57
226の青年将校を暴れん坊将軍みたいに「成敗!」しに出そうになったらしいな >>53
もう死んでる天皇に敬語使ったらダメだぞ
就活の一般常識に書いてただろ >>59
「朕自ラ近衛ヲ率イ、此レガ鎮定ニ当ラン」だったか >>21
病弱と言われていたのに子沢山というのが・・・・・
側室持つのを拒否しているしな 何とかシステム(入れ替わり)があれば大正40年くらいまで 昔の皇族・貴族は生まれて直ぐに白粉(おしろい)を付ける習慣があったんだけど
こいつが曲者で、水銀が含まれてたんだ。
で、小児脳膜炎や日本脳炎の後遺症で精神に障害が残るケースが多かった訳。
皇族は異母兄妹での近親婚(皇族・貴族は通い婚で、子供は母方で育つから異母兄弟だと一緒に育たない。
だから一緒に育つ事で自然と湧く、異性兄妹への性的嫌悪感が生まれにくい)も多く、遺伝的な障害を持っている人が一般より多かったから
そういった先天的な原因と、白粉の後天的な要素が合さって奇行の人の割合が高かった。
教科書では学ばない日本の裏歴史ね。 >>66
> 近親婚(皇族・貴族は通い婚で、子供は母方で育つから異母兄弟だと一緒に育たない。
> だから一緒に育つ事で自然と湧く、異性兄妹への性的嫌悪感が生まれにくい)
このへんの理屈が分らないので詳しい説明がのってるサイトか何かを教えてくれ >>68
面白いと思うけど、不敬だといわれて無理だろうな >>19
息子の高松宮も海軍士官時代にお付き巻いて同期と汁粉食ったりガンルームで談笑してたそうだから血筋なのかね 日露戦争後にロシア帝国が崩壊して緊張がほどけた。
第一次大戦の特需もあった。
民主化が進んだりして、戦前の明るい時期。
しかし、終盤に関東大震災が起こり厳しくなり出した。 >>66
白粉に含まれていたのは水銀じゃなくて鉛では 明治以降の歴代で、政治的にいちばん有能な天皇だったな。 >>69
権力者にとって都合が悪かったから、池沼ってことにして葬られたんじゃね >>37
そのエピソードが本当だとしても
知恵遅れというより芸術家肌ってことなのかもな >>79
いわゆる「遠眼鏡事件」
帝国議会の開会式で読み上げた勅語をくるくる丸めて覗きこんだ、との伝承があるが、
・下付する際に丸めるのは普通のこと。
・丸めた勅語を渡すときに、上下を確認するために中を見たのが針小棒大に伝えられているだけ
等で、特に基地外じゃないんじゃね? との説もある。 >>32
雅子の不妊が長期化するまでは「皇族がどんどん増えるのはヤバイ」というムードがあった。
俺の祖父は右よりだったけど昭和五十年代に髭の三笠が皇籍離脱したいとかマスコミにぶちあげた時には「そんな宮さまはとっとと追い出せ! ひろのみや様に礼宮様もいらっしゃるんだから、こんなアカにかぶれたような宮さまはいらん!」ってテレビに向かって吠えていた(w 浩宮さまはマジ天然物 浩宮さまはKANの「愛は勝つ」が好きだからな 浩宮さまは憎めないけど上背ないのが残念だ
秋篠宮さまは若い頃にプレイボーイだったのが残念
一代、飛ばして眞子さまが悠仁さまが立派になられるまでの繋ぎの女王陛下しかない。 >>29
女官をしていた女性の手記で自分が側室候補にあがったらしいとなったら皇后の視線が超怖くなったので
なんとか見合いのような形で出会った好いた男性のところに嫁いで逃げたギリギセーフ!みたいな話があったな
大正天皇の反応は特にノリノリと言う感じではなくてたまたま行き合った時に「ああこの子か」みたいな風にジッとみられた程度らしかったけど
皇后がお冠だったなら夫婦仲としては悪くもなかったのかな 御病弱だったとはいえ、御教養溢れられる陛下は絵も素晴らしい。 >>82
でも、東京駅でも何かやらかして、原宿に天皇専用プラットホームができたんだろ? >>66
偉そうに適当なこといってんじゃねーよ
お前反天連のアホ左翼だろ >>88
けど、何人か正式に
お妃女官はいたんだよね。
しかし貞明皇后が次々男児をあげるし、
既に西洋的価値観になっていたから御役目が来なかった。
入った以上は退官も結婚も出来ず、
相当フラストレーションたまって、
スキャンダルを起こしちゃった人もいたという。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています