7/20、雲南遠征軍第3次攻撃
7/27、ビルマ方面軍司令官河辺正三中将から拉孟守備隊の勇戦に対し、感状が届く。翌日、第33軍本多政材軍司令官からも感状
8/2、複数ある陣地のうち、本部陣地が陥落
8/12、挺身破壊班、雲南遠征軍陣地を奇襲
8/20、雲南遠征軍、地下坑道に仕掛けた爆薬により関山陣地を爆破
9/6、17時頃金光少佐戦死、後任に副官の真鍋邦人大尉
9/7、未明に真鍋大尉、砲兵掩蓋内にて軍旗奉焼。早朝より激しい集中砲火を受け、松山陣地陥落。午後、真鍋大尉戦死(死後、少佐に進級)。18時頃、全ての陣地が陥落し、戦闘終結


9月7日をもって全戦闘は終結した。1300名の兵力のうち、残存兵力はゼロ、すなわち玉砕であった。
9月7日に玉砕している日本兵が、どうやって9月13日に朝鮮人慰安婦を銃殺にできるのだ?

そもそも、こんな最前線で1300名の兵しかいないこんな場所に慰安所なんてあったのか???



もしかして「挺身破壊班」と「慰安婦」を間違ってるんじゃね?w