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地に潜行せる共産党員は国際共産党の指令に基いて自衛軍の組織に著手し、此等が後に至り統制
せられて共産軍を組織するに至つたのである。
昭和六年に至り中華ソヴイエート共和国仮政府が江西省瑞金に樹立されるや、支那共産軍は遂に
国民政府公然の敵として目されるに至り、蒋介石自らの運命を賭しての累次の討伐にも屈せず、必
死の抗争を続けて来たのであるが、其の裏面に於ては、依然として蘇連邦の援助があつた事は看過
することは出来ないのである。殊に満洲事変勃発以来の二、三年間は「日支間の紛争に依る中央
軍の隙に乗じて長江沿岸の要点を悉く占領すべし」との第三「インター」の積極政策指令を忠実に
実行して到る処中央軍を悩まし、其の勢は実にあなどり難きものがあつた。茲に於て蒋介石は「抗
日よりも先づ剿共」なる標語の下に共産全軍の中心勢力たる、江西匪軍の討伐に全力を注ぐに至
つたのであるが、その経済封鎖の戦略の効果が逐次発現するに及んで、匪軍を非常なる苦境に陥
れた為、該匪軍は唯一の活路を四川方面に見出すべく、昭和九年十月下旬より西方移動を開始し、
爾後政府軍と戦争を重ねつつ湖南、貴州、四川を経て甘粛に入り、四川北部に在つた徐向前軍も
之と合流して陝西、甘粛・寧夏の辺境へ移動し、又従来陝西北部に地盤拡張を企図してゐた劉子
丹、徐海東等の共産軍は之に呼応して漸次猖獗を極めるに至つた。そして昭和十一年十二月の西
安事件以来蒋政権と妥協したのである。今次事変発生するに及び蒋介石は国内の相剋を排し国家
を挙げて抗戦の目的を達せんが為めに、遂に容共政策を採用した。茲に於て共産軍も蒋政権の統
制に服するに至つたものの如く、殊に事変前陝西北部に蟠居してゐた共産軍中朱徳の率ゐる約三