>>488
小山修二が30年以上前に作った図だぞ。データはそれ以前の遺跡数を前提としている。
ここ20年だけでも西日本の縄文遺跡が増えている。
そもそも、その小山自身が縄文時代観が変わってしまっている。
http://aomori-jomon.jp/essay/?p=3818
>研究者のなかには、「この遺跡の広さや遺構の大きさを眼前に見ると1000人のオーダーの人口を考えることも
>可能である」(小山 1996)といういささか過剰とも思える表現も見受けられた・・・。

>三内丸山ブームに火がついたのは、直径1mの柱が発見されたこと、それも、明確な尺度で設計された建造物
>だとわかったからである。それまでは、30〜40人の小集団が、狩りや採集をしながら自給自足的に暮らしていた
>というのが縄文の常識だった。しかし、そんな集団がこれほど大きな集落を作れるだろうか?

>大木を伐りだし運ぶ労力、それを構造物として建てる技術や知識をもつ社会とはどんなものものだったのか?
>専門家をまじえた研究会をひらき、トーテムポールのある北米北西海岸にまで調べに行った。小さな集団では
>とても無理だ!

>この仮説は「過大」なのだろうか?確かに巨大性は人々を驚かせ戸惑わせた。とくに日本の考古学者がそうだっ
>たが、ではどんな社会なら可能だったかの説明はなかった。わたしは従来の説明は「過小」にすぎるとおもう。