>>661
江戸時代における捕鯨の多くはそれぞれの藩による直営事業として行われていた。鯨組から
漁師たちには、「扶持」あるいは「知行」と称して報酬が与えられるなど武士階級の給金制度に
類似した特殊な産業構造が形成されていた。捕獲後の解体作業には周辺漁民多数が参加して利益を
得ており、周辺漁民にとっては冬期の重要な生活手段であった。捕鯨規模の一例として、
西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩生月島の益富組においては、全盛期に200隻余り
の船と3000人ほどの水主(加子)を用い、享保から幕末にかけての130年間における漁獲量は
2万1700頭にも及んでいる。また文政期に高野長英がシーボルトへと提出した書類によると、
西海捕鯨全体では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなるとしている。
江戸時代の捕鯨対象はセミクジラ類やマッコウクジラ類を中心としており、19世紀前半から
中期にかけて最盛期を迎えたが、従来の漁場を回遊する鯨の頭数が減少したため、次第に
下火になっていった。また、鯨組は膨大な人員を要したため、組織の維持・更新に困難が
伴ったことも衰退に影響していると言われる。

馬鹿は知ったかしないように