田村麻呂は朝廷三度目(田村麻呂は二度目)の征伐でアテルイをだまし討ち
これで盛岡市に志波城という1キロ四方ぐらいある柵(役所などが並ぶ)を作り
これを拠点に東北支配は万全になった・・
と教科書で読まれたかもしれないがこれも大嘘で
この城は10年ほどしか使われず
その後近所に大幅縮小して移転
さらにその5年後には防衛軍がいなくなり、俘囚(つまり朝廷側のエミシ)が防衛していたようである

要するに田村麻呂が謀殺してまで得た盛岡の支配権はほんの20年も経たないうちにまたエミシ(ただし朝廷側)に戻ったのだ
その後は記録が消えるのでもう朝廷側も東北への関心を失い
後は野となれ山となれという次第であった

このような無意味な戦争のために謀殺されたアテルイが哀れでならない
田村麻呂もどうぜ無謀な戦争ならばテキトウにやりあったふりをしておけばよかったのだ
朝廷には東北を支配する武力などもともとなかった
このエミシ38年戦争の顛末後、9世紀半ばには朝廷は軍隊そのものを編成する能力を失ったようであるね