>>135
>811年に徳丹柵(岩手県矢巾町)が築かれ以降は大きな反乱もなく、蝦夷の住民は同化政策により吸収された。

は誤認されている
811年以降も蝦夷達の大きな反乱があった
878年には東北出羽国の秋田柵で俘囚(帰属した蝦夷)たちが秋田柵城司に対して大規模な反乱を起してる
秋田柵城が焼かれて出羽に駐留していた朝廷の派遣軍勢では対応できないほどの反乱規模になってる
蝦夷の東北社会は集落が散財して大きな権力集中の見られないことが特徴とされてたが
この秋田柵での反乱では米代川や八郎潟流域に及ぶ蝦夷の住民勢力が統一した行動を起こし
雄物川以北を蝦夷達の占有地とすることを朝廷に強く要求。
朝廷から出羽権守として派遣された藤原保則は鎮守将軍小野春風とともに
軍事威圧を背景にして説得し、その策によってようやく蝦夷達による秋田柵の反乱の鎮圧に成功
藤原保則の伝記に
「これによって津軽より渡島(北海道)に至るまで、雑種の夷人、帰付せざるもの、皆ことごとく同化さす。」と記されている。