>>366 >>368

http://www.sakya-muni.jp/pdf/bunsho12.pdf

また第 9 経では
ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。プーラナ・カッサパなど六師外道は弟子たち
が死んでどこそこに生まれたと記別している。世尊もそのように説くが、しかしながら
渇愛を尽し(acchejji taNhaM)、結縛を断じ(vivattayi saJJojanaM)、驕慢を滅ぼす
ことによって(sammAmAnAbhisamayA)苦際を尽す(antaM akAsi dukkhassa)と説く。
一体何がこの身を捨てて他の身に生まれる要素なのですか、と。世尊はそれは渇愛
(taNhA)であると説かれた。
とする(24)。無記を議論するなかで渇愛のある者は死後があると明言しているのであって、
死後の無記は「如来」に対しての議論であって、衆生の死後ではないことは明白である。
以上のように無記説の中の「如来」が「衆生」を意味するということはありえない。無記
説は輪廻を解脱した「如来」についての死後の有無を問われたときに無記をもって答えたの
であって、「衆生」の死後は明確にある、衆生は明確に「輪廻」すると説いているわけであ
る。したがって無記説によって輪廻や死後の世界を説くのは通俗説であるとする根拠の第一
は崩れる。