根拠欠く教科書 どう評価?悩む先生 教科になった道徳
2018年10月8日09時30分
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 「考え、議論する」という方針を打ち出し、戦後初めて「教科」になった道徳。今春、小学校で始まり、来春から中学校でも始まります。従来の「道徳の時間」から特に変わるのは、検定教科書を用い、児童生徒を評価する点。でも教科書をめくると、これが本当に道徳的なのかと疑問が浮かぶ教材もあります。そもそも、道徳って何でしたっけ?

教科書 事実と違う?
 歩きスマホならぬ、歩き読書で知られる二宮金次郎。清貧で勤勉な少年・金次郎は、戦前の「修身」の国定教科書に頻出し、新たな「道徳」の検定教科書にも多く登場します。
 しかし、いま学校で使われている教科書を前に、金次郎を擁した二宮家の現当主で日本思想史学会員の二宮康裕さん(71)はため息をつきます。「どれも史実に忠実とは言えません」
 小学校の教科書では、8社中4社が金次郎を取り上げ、2社は幼少から読書を重ねた旨を記しますが、康裕さんによれば、金次郎が読み書きを学んだのは10代後半。また、少年期に、堤防工事をする村人に自ら進んでわらじを作って配る話も2社が載せていますが、信頼に足る根拠はないそうです。
 金次郎が「修身」に登場したのは自由民権運動に手を焼いた明治政府にとって都合の良い人物像だったため、と康裕さんは考えます。同様の指摘は、教育史の研究でも示されています。
 「理想像を作りあげて教える。国も教科書会社も、明治時代と何が違うのか。金次郎を扱うなら、確実な資料が残る成人後、独創的な考えで貧しい農村を活性化した姿に限って欲しい」と、康裕さんは嘆きました。
 小学4年の教科書に、幼少期から読書の話を載せた教育出版は「記念館などに内容を確認してもらった」と説明しました。
 また、東京書籍の中学2年の教科書には「武士道」が登場します。この記述について、佐伯真一・青山学院大教授(日本文学)は異を唱えます。教科書は明治時代の新渡戸稲造の著作「武士道」を例示し、自分の損得とは別に「正しいかどうかで行動する」ことと説明しました。が、佐伯さんは、この本の内容に近いのは儒教に影響されて江戸期に広まった考え方で、「武士道とは別の思想だ」と指摘します。東京書籍は「社会科なら不適切かもしれないが、道徳の議論教材としては適切と考えた」としています。
 こうした記述がなぜ、教科書検定を通ったのか。文部科学省の担当者は「定められた教育内容をきちんと扱っているかどうかが最大の要点。事実の正確性は、道徳学習への支障の有無で可否を判断している」と説明します。
価値観押しつけの懸念も
 今回の教科化では「価値観の押しつけを廃し、児童生徒の主体性を打ち出した」と文科省担当者は解説します。教科化前からあった「正直、誠実」など学年ごとに最大22項目の教育内容について、正しいか間違いかという価値判断とは一線を画し、価値を巡る客観的な事項と位置付け。児童生徒が理解した上で、それらを自身の価値観としてどう考え、深めていくかを支援する枠組みに再整理した、といいます。
 一方、小学校の教科書では全8社が、価値観の押しつけとの批判もある物語「手品師」を掲載しました。
 腕はいいが機会に恵まれない手品師は街で出会った不幸な少年を手品で慰め、翌日も会う約束をします。するとその夜、友人から、明日の大舞台で出演者に穴があいたので「君を推薦した」「二度とないチャンスだ」と勧められ、悩みますが、約束を優先して出演を諦めます。
 この物語は約40年前の文部省(当時)作成の学習資料が初出とされ、広く使われてきました。主人公には、例えば少年に事情を伝えて舞台に出るという選択肢もありそうなものですが、作者は生前、約束を守らないのは「自分の勝手」と語り、無償の自己犠牲が正しい判断だと物語の趣旨を解説しています。
 ある教科書会社の担当者は「批判は知っているが、定番の手品師をうちだけ載せなければ、採択地域が減るのではと恐れた」と明かします。地域の採択関係者には「良いことは良い、悪いことは悪いとたたき込んで欲しい」との声もあるため、手品師の判断だけが「良い」と言えるのか、児童に問いかけるような工夫もしなかったそうです。
 工夫した社もあります。光村図書は中3教科書で「手品師」を再掲。物語の前で、同じ物語を学び直したらどう感じるか、と呼びかけます。物語の後で、手品師にチャンスをくれた友人にふれて「手品師は本当に誠実といえるか」と問いかけました。

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