>>969
> 畿内系住人の北部九州への移住が3世紀前半から始まっている
とは言えないし
>>977
> 伊都国や奴国はそれまで何百年継続してきた自分たちの祭祀を放棄して、畿内様式の祭祀に乗り換えた
> ヤマト政権の傘下に入ったと解釈できる
とも言えない
佐々木論文を誤読している
(以下理由)
佐々木論文279頁に
「比恵・那珂遺跡群における畿内型・系甕の導入に関してまとめると(中略)
導入よりも在地模倣生産・搬出センターとしての役割」
とあり
佐々木論文281頁では
「久住(2000a, p。148)は須玖・岡本遺跡群の重要性を考慮に入れ,こちらを「政治・祭祀センター」とし,比恵・那珂遺跡群を「交易センター」とする。
しかしIB期には須玖・岡本遺跡群の機能が比恵・那珂遺跡群に移動している可能性があり,また那珂八幡古墳の存在も併せ,比恵・那珂遺跡群もこの時期の政治的拠点と考えたい。」

佐々木論文の結論でも(303〜304頁)
「畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,
場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは,福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,
模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,
豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
同時に,北部九州各地,壱岐,朝鮮半島南部の畿内系土器の存在は,
畿内との関係を示すものでは必ずしもなく,福岡平野の在地社会との関係を示す場合があるということである。
また,土器の交流の相手は,在地社会が自らの意思で大和とは関係なく,選択できたことも示す。
とにかく,この時代での在地社会の自律性・独立性は極めて高かったと言える。」
(改行は引用者)

・比恵・那珂遺跡群もこの時期の政治的拠点
・在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し
・福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していた
・北部九州各地,壱岐,朝鮮半島南部の畿内系土器の存在は,畿内との関係を示すものでは必ずしもなく福岡平野の在地社会との関係を示す