地元民にも見捨てられた会津

会津世直し一揆

かねてからの重税や物産の専売制度による
搾取に加え、藩主松平容保が
京都守護職として上洛して以来
その経費を賄うために行われてきた
増税に対する不満に一気に火を
つけることになった。

9月22日(1868年11月6日)
会津藩が明治政府に降伏すると
たちまち藩政崩壊による権力の
空白状態に乗じた民衆蜂起が勃発した。

会津藩降伏後、明治政府は
民政局を設置して暫定的に行政を行わせ
村々の支配は従来の村役人に
当面任せることとした。
だが、これまで会津藩当局の支配の
末端を担った郷頭・肝煎ら村役人
(彼らは地主として小作料を徴収し
また債務により農民を従属的地位に
追いやる者も多かった)を排斥するように
求める農民たちの動きが領内各地で高まり
会津藩降伏のわずか10日後の10月3日に会津若松から遠い大沼郡でまず一揆が勃発し
以後、領内各地に波及していった。