【新潟】戊辰戦争…会津藩に「愚直さ」あった 長州藩は「変化に柔軟だった」 会津、越後、長州が語る 新潟でフォーラム開催★4

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1樽悶 ★2018/10/12(金) 16:56:38.68ID:CAP_USER9
戊辰戦争について語る(左から)宗像、稲川両館長、道迫学芸員
http://www.minyu-net.com/news/181007news10.jpg

 戊辰戦争に関わりが深い会津、越後、長州の3地域によるフォーラムが6日、新潟市で開かれた。パネリスト3人がそれぞれの立場から歴史認識について意見を交わした。

 會津藩校日新館(会津若松市)の宗像精館長、東軍として戦った長岡藩士河井継之助を顕彰する河井継之助記念館(新潟県長岡市)の稲川明雄館長、西軍の主力となった長州藩があった山口県萩市の萩博物館、道迫(どうさこ)真吾主任学芸員がパネリストを務めた。

 戊辰戦争に突入した理由について宗像氏は、会津藩には将軍家への忠義を尽くそうとする「愚直さ」があったとし、稲川氏はやむなく戦わざるを得なかった会津藩に対して同情する武士的な「教養」が長岡藩にあったと解説した。道迫氏は会津藩などに「武士の生きざまを貫き通す意味で敬意を表さざるを得ない」とした上で、当時の国際情勢を意識した長州藩は「変化に柔軟だった」と指摘した。

 また会津若松、萩両市の共通性として、先人の思いや伝統的な規範意識を子どもたちの教育に生かしていることが示された。

 道迫氏は「地元では歴史への関心が薄れている。しっかりと歴史に向き合うよう市民に伝えたい」、宗像氏は会津と長州の関係について「歴史は消すことはできない。仲良くはできても、仲直りはできない」としつつも「互いの立場を推し量ることが大切だ」と話した。

福島民友 2018年10月07日 12時00分
http://www.minyu-net.com/news/news/FM20181007-313962.php

★1:2018/10/09(火) 22:21:26.43
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1539173092/

952名無しさん@1周年2018/10/13(土) 01:57:53.81ID:MZlzHGEI0
>>950
全部一緒にして叩きたいんだよ

953名無しさん@1周年2018/10/13(土) 01:59:27.03ID:ySTWDeXi0
いまだに昔ながらの薩長史観を信じてるアホは、
大隈重信公の名言を100回読むべき。

「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら明治政府の近代化政策は、
そっくり小栗のそれを模倣したものだから。」

954名無しさん@1周年2018/10/13(土) 01:59:59.64ID:MZlzHGEI0
会津藩の搾取ぶりを聞いていた
旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達に
これまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津藩による
支配に反対する建白書を出す事になる。

「会津藩は、奥州若松から
七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。
越後が戦闘になったら小千谷・小出島
蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や
夫役を課せられ、私どもの村々は
立ち行かなくなるだろう」
(十日町市史通史編3)

以上がその建白の内容だが
いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り
越後の民衆は会津藩兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである。

955名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:00:34.94ID:lnBcRWWK0
バナナマンのせっかくグルメの会津でのこと
出てくる名物がソースカツ丼というオリジナリティの無いもので
この番組では農産物に名産品があればそれが出てくるがそういったものも無し
ホント捏造話で観光をもり立てねばやっていけない哀れな土地なんだと思った

956名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:00:54.28ID:MZlzHGEI0
>>953
それ別に薩長史観じゃなくて大隈の言葉じゃん

957名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:03:42.61ID:MZlzHGEI0
>>955
会津のソースカツは駒ヶ根から入った物なのに起源は会津だと嘘をつき
嘘がバレたらキャベツを乗せたのは会津が最初と嘘をつく。
キャベツを乗せたのは桐生が最初。
本当知れば知るほど残念だよ会津は。
カレー焼きそばも新潟のイタリアンのパクりだよな。
喜多方ラーメン90年も嘘くさい。

958名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:04:11.06ID:MZlzHGEI0
既に会津藩領になっている
小千谷陣屋領等から
会津藩は年貢の前払いをさせたり
石高に応じた御用金
(塩沢村からは五五〇両
六日町からは五〇〇両
浦佐村からは四八〇両など)を
負担させられたり、また新たな税
(織着用税として五両
脇差税として十両など)を設けた

(小千谷市史下・越後歴史考)

959名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:04:49.12ID:MZlzHGEI0
もう埋めちゃうね

960名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:04:58.66ID:ySTWDeXi0
>>950
明治政府は律令時代に倣って官制をでっちあげ、
太政官の上に神祇官をおき神道国教化政策を進めた。
それに扇動され江戸期の文化遺産を汚習と教え込まれた民衆が、
お寺や仏像の破壊活動を行ったんだよ。
現代で言えば共産党が扇動して暴動が起きたようなもので、
責任はあくまでも扇動者にある。

961名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:05:05.08ID:48F6A6K80
>>953
小栗が殺害されたのは明治の前なのに?
それに大隈重信って長州閥にに引き立て貰った人物じゃないか

962名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:05:07.39ID:MZlzHGEI0
会津藩の支配に抵抗した庄屋達に対し 四月五日に会津藩小千谷陣屋から
出雲崎代官領に
「これ以上代官領の引渡しを拒むならば
軍勢を差し向ける」との恫喝がされた。
(津南町史通史編)

遂に代官領の領民達も恫喝に屈して
会津藩の支配を受け入れる事になるのである。
他の旧幕領も同じような経緯で
四月には会津藩による旧幕領の制圧は
終わった模様である。

963名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:05:26.26ID:MZlzHGEI0
越後に侵攻した会津藩兵の目的は
会津藩預けとなった旧幕領の接収と統治
そしてやがて訪れる新政府軍との対決に
備える事にあった。その為にも越後での
継戦能力を得る為に、越後の民衆の
支持を得るのが不可欠だった筈である。

しかし長年の京都守護職と鳥羽伏見の
敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した
会津藩は慢性的な戦費不足から
近視眼的に進駐した各地で
民衆から搾取・略奪を始めるのであった。

旧幕領を接収した会津藩兵が
まず行ったのは、戦費調達の為に
各村々への御用金の名の元での搾取だった。
この会津藩の御用金の割当は旧幕領の
各地に及び、旧水原代官領での
千唐仁村十八両、浮村一五七両、
野田新田十八両を始め
前述の小千谷陣屋領での割り当てや
後述する新潟町での御用金の取りたて等
枚挙にいとまがない。
(水原町編年史第一巻)

964名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:05:42.75ID:MZlzHGEI0
またこのような組織だった徴発だけではなく
個人の会津藩士による略奪も多発した
模様である。

初期においては新潟町で強盗を働いた
会津藩士数人が町民によって
捕らえられて処刑されたなどした。
(新潟市史通紙編3)

965名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:06:03.57ID:MZlzHGEI0
武器を持ち民衆を恫喝する
会津藩士や衝鋒隊の兵士達に
民衆は次第に手も足も出せなくなる
「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、
度々村里へ出、百姓共へ無心申し掛け、
或いは乱暴等いたし候。」
(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿)

金銭や食糧の徴発以外にも
小千谷等の戦場が近い村々では
農兵の取立てが行われた。
半ば強制的に行われた徴募では
貴重な労働力を強引に
奪われただけでは済まず
農兵の食料までもが村々から取り立てられ
村々は二重の負担に苦しむ事になる。
何より新政府軍の農兵が小銃を
供与されたのに対して
正規軍にすら小銃が揃わない会津藩に
徴募された農兵は「先端に鉄の分銅が
付いた鉄棒」や『竹槍』で
小銃を装備した新政府軍に挑まされ事になる。
しかしこのような農兵の士気が
上がる筈がなく、戦いが始まれば一目散に
逃げた模様である。
(小千谷市史下巻)

966名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:06:34.27ID:GlRtwY+c0
>>881
長州征伐は四つの攻め口からおこなわれました。
芸州口は第一陣の彦根藩は軍備が旧式で敗退しましたが、
第二陣の紀州藩と大垣藩は長州より早く西洋銃陣を取り入れ武器も最新でした。
長州藩兵は押しまくられて山岳地帯で遅滞戦術にはいり防御に徹しました。
これは大村益次郎の作戦指導のとおりです。

967名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:06:48.91ID:M0yNku5A0
戊辰戦争を現代の構図で語るのは気持悪い
戦国時代なら隣街同士で殺し合いしてたのにな

968名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:06:49.16ID:MZlzHGEI0
会津藩兵による草莽の志士への
襲撃も行われた。殆どの草莽の
志士は会津藩の進駐を聞き
身の危険を感じて故郷から脱出した。
しかし旧水原代官領に住む草莽の志士
三浦杏雨は剛腹にも、会津藩兵が
進駐して来ても留まっていたが
三月に会津藩兵の襲撃を受けて
殺害されてしまう。
(水原町編年史第一巻)

越後の民衆に対する蛮行は
会津藩正規軍だけが行った訳ではなく
会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍に
よっても搾取や略奪は行われた。
「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の
脱走兵五七〇人余が相次いで
新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら
各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。
幕府の倒壊によって支配機能停止の
状態に陥った新潟奉行所はこうした
行動を停止出来なかったから
民衆の恐怖と憎悪は高まった。」
(新潟市史通史編3)

新政府よりの新発田藩や
与板藩の城下に乗り込み
軍資金を強要する等の蛮行を行った。

969名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:07:15.39ID:MZlzHGEI0
かくして会津藩兵による搾取・略奪によって
越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。
これを危惧した会津藩は家老梶原平馬を
新潟町に派遣して
「乱暴兵ヲ斬テ規律ヲ示シタ」と藩兵による
略奪を禁じたものの
「人心尚之ヲ厭ヘリ」のように
一度民衆から失った信頼を取り戻す事は
出来なかった。
(仙台戊辰史二巻)

また年貢の減免等も行ったが
その直後に人足を徴発したりしては
民衆の歓心を得る事は出来なかった。
(水原町編年史第一巻)

会津藩兵の搾取・略奪に苦しんだ
越後の民衆は、自分達を救ってくれる
存在を求めるようになる。
かくして越後の民衆が助けを求めたのが
会津藩兵と戦闘を繰り広げる新政府軍であり
かつて越後を統治した米沢藩上杉家だった。

970名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:07:15.39ID:lZG8Xmnh0
>>1
藩祖が幕府のために身を投げ出して尽くして尽くして尽くせ。

なんて主旨の命令を残してるからだろ。

971名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:08:06.10ID:MZlzHGEI0
会津藩の搾取略奪に苦しんでいた
越後の民衆もまた、かつての越後の
支配者である米沢藩兵を慕った。
「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず
各自が荷物を背負ってきた。
米沢様は別段のものだと衆人が感服した。
それにひき比べ、会津は異形
はなはだしいゆえか、衆人不服で
負け戦の話をきくと婦女子までが
よろこんだ。」
(新津市史通史編下巻)

越後の民衆が会津藩を嫌い
米沢藩を慕った一例として
会津藩によって徴募された
出雲崎代官領の農兵隊が
会津藩の支配を嫌って
米沢藩の家来になる事を
懇願して許された事が挙げられる。

この農兵隊は後に米沢藩から
精義隊と命名され、米沢藩の
指揮下に入り最後まで米沢藩兵と共に
新政府軍と戦う事になる。
(新潟市史通史編3)

972名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:08:44.60ID:MZlzHGEI0
>>970
でも最終的にには幕府見放して売国計画だからね会津は

973名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:09:09.68ID:MZlzHGEI0
会津藩は新潟奉行所に約束違反と抗議し
五千両もの大金を脅し取ったが
とにかく新潟町は会津藩の蛮行略奪から
解放されたのである「新潟港は外国貿易の
場となり、同盟軍が武器弾薬を
購入補給する基地となった。
乱れていた新潟町の治安は米沢藩によって
回復した。
(新潟市史通史編3)

米沢藩参謀甘粕継成の日記に
六月頃から会津藩の批判が目立つようになる。

「時に越地の人民会津を悪みきらふ
甚深く恰も仇敵の如し。依之所在の
郷村御家を慕ふ心ありと雖会と
相合するのを以て味方する者なし。
是を以て大面在陣以来
村民を雇て篝火を焼せ死傷を
舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども
家々の老若男女尽く逃散て一人も
応ずる者なし。其内衝鋒隊の
歩兵乱妨せしより、大面村民自ら
火を家々にかけて我が軍を追出し
賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より
忠信出、早く会兵とはなれて
御一手にて御持なされずんば遖れ
御大事なるへしと云う」
(甘糟備後継成遺文)

これは六月一日の記述だが
「略奪を行なう会津藩兵と一緒に
行動するのなら、もはや米沢様には
協力出来ない」と民衆が米沢藩本陣を
訪れて訴えたのを受けて
今は民衆に慕われている米沢藩だが
会津と行動を共にするのを続ければ
民衆の信頼を失いかねないので会津とは
別行動を取るべきだと、米沢藩参謀の
任にある甘粕が考えていたのが判る。

974名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:09:39.40ID:MZlzHGEI0
信濃川西岸の戦況が芳しくないのを受けて
督戦に訪れた際に、この方面の庄内藩兵を
率いる石原多門から次のように語られている。

「当地へ出張以来会の将
佐藤折之進等表裏の所業甚しく
危険の場へは必我庄兵を差向け
己は後へ廻りて分捕等を掠むる
工夫を事とし一向義を重んじ
信を守るの志なき故、我士卒いづれも
不平を抱き元より越地出兵は
会を援くる為なるに
会人の作業如斯にては何ぞ尽力する
栓あらんと云て、自然と勇戦の心なく
数十日空く日を送れるなりと云。
(甘糟備後継成遺文)

甘粕は庄内藩兵を指揮する石原より
「会津を助ける為に越後に
出兵したきたのに、肝心の会津藩兵は
激戦地に庄内藩兵を送り
自分達(会津藩兵)は安全な後方で
民衆からの略奪に狂奔しているので
庄内藩兵の士気が下がっている」
と不満を述べられている。

他にも「会津・長岡両藩
越地人民ノ心を取失候上」や
「会兵と御離れ、仕事を別申て
御兵は越地鎮撫醜類掃除之御本位を
いつく迄も御示被遊、御仁恤を御下し
被為在候様無之候ては
危急此事ト奉存候」
(米沢藩戊辰文書)

新潟奉行所の役人から
米沢藩に送られたと思われる書状にも
会津藩との別離を勧めるように書かれている。
(幕末維新と民衆社会 米沢藩からみた北越戊辰戦争 溝口敏麿)
 
そして米沢藩総督である
千坂高雅が国許に送った書状にも
次のようなものがある
「会也庄也亡国ニ成リ候ヲ助ケ候事ニ候ヘ
ハ大兵モ差出可申処、両国共に三百ツゝ
其外ハ歩兵・水戸勢ニ候」
(米沢藩戊辰文書)

会津と庄内がこのままでは
新政府軍に滅ぼされるから助けて
欲しいと言うのなら大軍を差し出しもする
けれども、肝心の会津藩が衝鋒隊や
水戸脱走軍と言った非正規軍ばかりを
前線に送り、正規軍は三百程しか
前線に出兵させないようなら
話にならないと、米沢藩兵の総督である
千坂自身が、会津藩兵に反感を
抱いていると書かれた書状を送る時点で
会津藩と米沢藩の確執は限界に
達していたと思われる。

975名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:10:05.11ID:MZlzHGEI0
『会津人が書けなかった会津戦争』(著)牧野登
(引用)
 山川浩・健次郎兄弟の思想を論理的骨格とする会津士族たちの主張は“会津は
朝敵にあらず”の一点に徹底集中した雪冤論であり、その論調は「会津会会報」に
拠る荘田三平や史学者花見朔巳などの論客によって踏襲・展開されたが、昭和3
年の松平勢津子の皇室輿入れによってその目的は実質的に達成され、さらに昭和
12年5月に若松で行われた徳富蘇峰の講演「維新史に於ける会津」によって集約・
完成されたといえよう。
  
 しかしこの気運は、天皇を神格化する軍国主義の風潮と政治構造の力によって結
果的には利用され、会津は沖縄に似た皇民家教育の道を突っ走ることになった。
“会津武士道”が国是として賞揚賛美される昭和前期から戦中にかけての時代風潮
の中で、かつては武士階級や士族の倫理であった会津士魂なるものが、郷土意識
の顕彰気運と合流して一般会津市民の意識をも併呑し、今日の姿を生み出したので
はあるまいか。
(引用終わり) 

戊辰戦争後新政府から手厚いフォロー受けといてその恩は知らぬふりw
維新後の弾圧差別話は根拠なしw
美化・虚言・責任転嫁が大好きな今の会津は
『什の掟』
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
についてはどう考えているのかな? かな?

976名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:10:22.51ID:ySTWDeXi0
薩長史観を否定され発狂した長州人がスレを埋めて逃走中

977名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:10:42.05ID:MZlzHGEI0
会津が郡山で放火や略奪をした史料です

2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号

978名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:10:48.95ID:48F6A6K80
>>970
宗家は天皇と新政府に逆らう気がないと恭順しているから守っていないよ
下手したら会津のせいで慶喜と家達は処刑されていた

979名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:11:40.11ID:MZlzHGEI0
>>976
否定できてないじゃんwww
あってもしょうがないから埋めてるだけ
残す意味ある?

980名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:12:25.85ID:MZlzHGEI0
英国公使館員の維新戦争見聞記

会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか
彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。
この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて
両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。
その人夫はもし会津兵につかまったならば
むごい死に目にあわされていただろうと私に語った。

そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。
たくさんの死体が堀から引き上げられたが
彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ
腹が深く切り裂かれていたのだ。

私は会津の徒党のでたらめな残酷物語をいろいろと耳にした。
長岡で、彼らは天皇側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。
会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り
反抗する者をみな殺害したのである。

981名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:12:56.21ID:MZlzHGEI0
斗南に逃げる会津

会津再興が認められて、新政府から「猪苗代か斗南」のどちらかと聞かれた時
偽金の不満から一揆が多発する会津近くにある猪苗代を避け
斗南の領地に移住せざるを得なかった。もし、猪苗代に領地を得ていたら
再興したばかりで戦う力を無くしている会津藩は
会津藩をまったく信用しなくなってしまった領民達の
一揆によって滅ぼされていた可能性がある。
新政府から会津藩再興が認められた時、新領地は斗南にしようと
言い出したのは山川大蔵だった。彼には偽金と戦争によって
荒らされた故郷の領民たちの怒りが良く解っていたのだろう。
補足するが、明治新政府が会津藩を流罪にすべく斗南の土地に
追いやったという事は無い。会津藩に示されたのは、斗南と会津に近い
猪苗代の二カ所である。会津藩が自ら斗南を選んで移住したのだ。

982名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:13:55.76ID:MZlzHGEI0
1.鉄道・道路を通してもらえなかった
→実際は三島県令が当時日本でも稀な大規模道路整備を若松を中心に行い、
恩恵が少なかった会津以外の人々が一揆を起こした。
→鉄道が通らないのは当然。仙台へ伸ばすには会津は経由させるべきではない。
また、磐梯山噴火などがあり若松より北へ伸ばす路線は危険が多かった

2.産業育成を阻害した
→実際は産業博覧会で三島県令が盛んに会津漆器などの産物を販売し、陶器産業も復興させている
清酒も明治以降の導入で、江戸時代はどぶろくだった

3.県都を郡山に移さず会津を引き裂いた
→郡山は新政府が開拓した都市。そこに移すのは新政府偏重と言う福島市の意見が強かった

4.学校を作ってもらえなかった
→会津高校を作ったのは明治初期、しかも三島県令と明治新政府の重役たちによる寄付だった

5.賊軍の遺体埋葬を禁止された
→「彼我の戦死者一切に対して」遺体確認作業の為禁止されていたのを作家が捻じ曲げて解釈しただけ
かなり早い時期から遺体処理を指示する民政局の達し書が出てる
会津藩士の遺体もちゃんと埋葬された

6.「白河以北一山百文」と侮辱された
→言いだしっぺは東北、わざわざ新聞タイトルにしてスローガンにしたのも東北

つまり、会津人が涙ながらに叫ぶ「被差別」話は、どれもこれも根拠がない。
新政府の援助をたらふく食った末に、貰った先を罵って、恩義はないといって済ませようとするのが会津。

どっかの国にそっくりだな

983名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:14:22.92ID:MZlzHGEI0
禁門の変後の勝海舟の日記に依れば
『京地の風評、長を善とし、会、殊に悪説有り。(略)
又、薩・会の処置、暴に過ぎ、頗る正中を得ざるものあり。
薩は形勢を明察し、機会に乗ずる、天下第一といふべく、昨冬以来、長人是に仇すれども、私怨を忍び改めて咎めず、
彼が挙不正に到るに及んで、憤怨以てこれに答へんとす。尤も巧なりといふべし。
会藩は、上に人物なく、下士激烈無着落。その規模、殊に狭小。必ず労して天下の大害を生ぜん。また憐れむべし。』

当時の会津は嫌われていた。
会津の活躍は会津プロパガンダによる美化。

984名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:14:52.72ID:MZlzHGEI0
寺石正路「南国遺事」の同時期の記録に依れば、薩摩の寛大な処置に対し会津の捕虜の扱いは苛烈を極め
『長人の捕虜を頗る惨酷に扱ひ、爪を抜き、舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
其中、或一人の頭に釘を打込む。容易に死せず。遂に十三本も打込むと死した。中々豪傑であった』
と会津の者から聞いたそうだ。

会津ろくでもねえな
まるでベトナム戦争の韓国だ!

985名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:15:11.91ID:MZlzHGEI0
会津飯盛山で集団自刃した白虎隊。
彼らはなぜ自刃したのか?

唯一の生残り隊士が手記を残していた!
「城が燃えている」という落城説は真っ赤な嘘。
直系の孫(「白虎隊の会」代表飯沼一元氏)が
その真相を明らかにする。

奇跡的にただ一人生き残った隊士飯沼貞吉の生涯を
奇しくも祖父と同じ通信技術者の道を辿った
孫、飯沼一元氏が新たに発掘した資料に基づき、
克明に跡付ける。賊軍・死にそこないの汚名を着せられ
死処を求めてさまよったた貞吉は
偶然敵地長州で療養と勉学の時間を与えられ
やがて日本の電信技術者として大成する。

子孫も会津プロパガンダの嘘を指摘か。

986名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:15:30.14ID:MZlzHGEI0
会津は「今に会津が江戸になる」と謳い…

慶応4年(1868年)2月27日、松平容保(34歳)は会津藩士に徹底抗戦を通告。
西郷頼母は恭順を勧めるが、容保はじめ藩士たちから猛反発され徹底抗戦へ。

慶応4年(1868年)5月1日、白河城陥落。西郷頼母は再び恭順を勧めるが
会津藩士の多くが聞き入れず徹底抗戦を主張。頼母は登城差し止めとなる。

慶応4年(1868年)8月26日、西郷頼母は西軍と砲火を交えている評議中
「この窮地に陥ったのは余の献策をいれないためだ」と厳しく批判。
そのため「西郷斬るべし」の声が起こり容保の命で伝令され
息子吉十郎と共に城を出る。その後は榎本武揚の軍に投じて函館で戦った。

987名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:15:57.40ID:GlRtwY+c0
>>960
>太政官の上に神祇官をおき神道国教化政策を進めた。
>それに扇動され江戸期の文化遺産を汚習と教え込まれた民衆が、
>お寺や仏像の破壊活動を行ったんだよ。

神仏分離令は慶応3年、大教宣布は明治3年。
権力の弱い始まったばかりの明治政府がたった4年でそんなことができるわけがない。

988名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:15:59.96ID:MZlzHGEI0
家永三郎《日本の歴史4・明治維新》

>若松城が落城すると、200余年の長いあいだ役人の圧制に苦しんでいた会津の人民が、
>いっせいに『世直し』一揆に蜂起した。10月3日、大沼郡ではじまった一揆は、
>11月下旬の南会津郡の一気におよぶまで、2か月近く、全領内で、しかも、まだ、
>政府軍の砲火のおよばないところでもおこった。かれらは、『徳政』あるいは、
>『肝煎(庄屋)征伐』と書いたむしろ旗をかかげ、『村役人の農民による選挙、土地を
>平均に所有する、高利貸から借りた金は、徳政としてかえさない、3か年の無年貢』などを
>要求した。農民は、役場・肝煎・高利貸などをおそって打ちこわし、土地台帳や借金証文を焼き、
>村役人を新しく選挙した。」

会津農民や領民は会津藩を見放したのである。領民たちは会津武士の死骸から衣服や金目のものを
剥ぎ取って売り、藩士の死体収容すら拒否したのである。

989名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:16:01.91ID:T/EEVAH/0
結果を知ってるんだから何とでも言えるわな(´・ω・`)

990名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:16:29.41ID:MZlzHGEI0
会津プロイセン(ドイツ)との
提携を模索していたことが東京大史料編纂所の
箱石大准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は
会津が北海道などの領地の譲渡を提案したが
宰相ビスマルクは戦争への中立
などを理由に断ったことを伝えていた。

ドイツの国立軍事文書館の資料で
10年ほど前にドイツ側の研究者が
存在を紹介したが詳細が不明だった。
箱石さんらの調査で確認されたのは
1868年の文書3点。いずれも、ボン大の
ペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読
日本語に翻訳した。

会津による国土売却未遂事件!これが史実の会津!!!
天皇の忠臣でも幕府の忠臣でもない!ただの売国奴!
会津プロパガンダで美化してるキムチ脳だっ!

991名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:17:01.44ID:MZlzHGEI0
白河似北一山百文。
東北を蔑視する言葉。
河北新報の題号の由来でもある。
旧盛岡藩出身の平民宰相原敬は
自らを「一山」と号した。私も小学校の先生に
教えられた。東北を蔑む言葉だが
自らその表現を伝えるわが東北人には
中央中心の日本の見方に対する明確な
外交意識を想起させる言葉でもある。

この蔑称はどのように生まれたのか。
戊辰戦争で官軍が発したとも言われるが
実証されていない。今のところ『近事評論』の
記事「白河以北一山百文」(1878年8月23日)
を起源とみるのが最も信頼できる説だ。

■出典 河西英通『続・東北 異境と
原境のあいだ』中央公論新社(中公新書1889)

会津プロパガンダ洗脳者は会津の嘘に気づきましょう。

992名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:17:26.89ID:MZlzHGEI0
北越戊辰戦争はある意味、会津藩にとって長年の宿願だった阿賀野川流域と
新潟港の利権を手に入れる好機でもあった。しかし戦費不足に陥っていた会津藩兵は
戦略的判断を失い、近視眼的、或いは刹那的に『越後の民衆から略奪を行い』
遂には戦闘活動より『搾取略奪のほうを優先』してしまい、越後の民衆の支持を失う事になるのである。

そして越後の民衆に対しての蛮行は、友軍である米沢藩兵との確執にも繋がり
後の越後戦線の崩壊の一端となる。全てとは言わないものの、越後の民衆からの支持を失った事は
越後戦線での会津藩の敗因の一つと言えるだろう。

確かに会津藩には意地や誇りはあったかもしれない、しかし長期戦を戦う戦略眼は
皆無だったと言わざるを得ない。この『会津藩の意地や誇りの為に、財産を略奪され
住む家を焼かれ、遂には命すらも奪われた越後の民衆こそが、北越戊辰戦争最大の犠牲者』ではないだろうか。

993名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:17:43.76ID:MZlzHGEI0
会津軍は周辺の地を焦土にしながら敗走を続けた。

慶応四年に始まった戊辰戦争は塩原温泉をも巻き込んだ。
旧幕府軍の形勢が不利になると、会津藩や凌霜隊などが塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は149戸といわれる。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。

松楓楼松屋の歴史

994名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:18:17.47ID:MZlzHGEI0
>著者の原田伊織氏は69歳で
>作家のほかクリエイティブディレクターとしても
>活躍する人物。なぜこんな刺激的な歴史本を
>書こうと思い立ったのか。

>「子供の頃から、自国の歴史を否定する風潮に
>疑問を感じていました。洋の東西を問わず
>戦争に勝った方が自分たちに都合のいいように
>歴史書を書く。ただし、どの国も戦後100年も
>経てば必ず当時を検証するものです。
>ところが明治維新後に生きた日本人は
>その検証をやってこなかった。
>そこで明治時代以降の歴史を一冊に
>まとめておくべきだと思ったのです」

歴史家でも何でもない老人ですね。
検証されてないとは何を根拠に?
この老人は何を根拠に検証したのか?

995名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:18:34.61ID:MZlzHGEI0
斗南藩史の作者である葛西冨夫は
「飼い犬に足を噛まれるとはこのこと……
会津戦争に追いうちをかけられたようなこの一揆は
敗戦にうちひしがれた会津藩士にとって
大きなショックであったろう」と記している。

何なの?会津系の奴って。領民を犬くらいにしか見てないのか!
会津が最終的に領民から見放されたのがよく解るわ!

996名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:19:01.81ID:MZlzHGEI0
会津の遺体埋葬の問題について思うところがある。
新政府が会津藩兵を賊徒とみなして戦死遺体の埋葬を
禁じたというのは真っ赤なウソだ。
こうした虚構を言い広めるのは、たいがい善意に基づいてのことだろう。
そんなやり方は許せないという正義感は、裏返せば
新政府の側にあった(主として薩長の)人々への悪意になる。
もちろん悪意を向けられる歴史上の人物たちにしてみれば
まったくの言いがかりでしかない。

歴史学者大山格

997名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:19:24.95ID:MZlzHGEI0
会津藩士は「他国の農民は虫けら」と見ていたのである。

たとえば、慶応四年八月二十一日
会津直撃を目指して、三千人の征討軍が
殺到した母成峠戦いのことだ。
会津側は、ふもとから頂上まで三段の陣地を
構築し、頑強に抵抗した。
勝敗を決したのは、征討軍右翼隊である。

彼らは、道なき深山を迂回し
会津守備隊の側面を奇襲したのだ。
この奇襲部隊の道案内をしたのは
峠のふもとの石筵集落(郡山市熱海町石筵)の農民たちだった。

その前日、会津藩兵は
敵が隠れる所をなくすために
放火して集落を焼き払ってしまった。
家を焼かれた農民たちが、恨みを晴らすため
道案内を買って出たのである。

会津盆地から流れ出す阿賀野川の下流
新潟県安田町でも、会津藩兵は六野瀬という
集落を焼き払った。その翌日の八月一日
会津藩兵は、阿賀野川に面した砦を
守っていた二十四人のうち、二十三人が
戦死したのだが、六野瀬集落の人々は
「会津のやつらは……」と言いながら
遺体を阿賀野川に投げ捨てた。

998名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:20:17.83ID:MZlzHGEI0
まさに蛮族

駐日英国公使館付き医員ウィリアム・ウイリスの報告書

・会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりは領内の何処でも一様に聞かれた
・会津兵は新政府軍兵士ばかりか、非戦闘員の人夫たちまでをも殺した
・会津兵は民家に押し入っては略奪を繰り返し、婦女子を乱暴し、それに反抗した者を 惨殺した
・会津の領民は徒党を組んで竹槍で武装し、後退する会津軍の退路を阻んだ
・会津藩降伏後、会津の領民は護送さかな態度で見送った

999名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:20:37.82ID:01Zmmmzp0
>>990
列強の世界分割ってな時代や世界情勢に疎いし
短期的な内戦の勝利とか幕藩体制維持くらいにしか
考えてなさそうだわな。

そういうところでやっぱりちょっと、守旧派で限界が
あったんじゃないかと思ってしまう。

1000名無しさん@1周年2018/10/13(土) 02:20:49.65ID:MZlzHGEI0
本書の著者である原田伊織の歴史認識として
大日本帝国=悪 韓国併合や大陸進出=悪 
であることは先に言及しましたが
著者は大日本帝国を全否定する手段として
会津をダシに使って、明治維新と
その立役者である薩長(中でも長州藩)を
全否定したというのが本当のところなのでしょう。

追記)2015年11月22日の23時30分から
11月23日の8時30分の間に
マイナス評価が11も入りましたが
捨てアカでも使用されているんでしょうか?
随分と姑息なことする人間がいるもんだ。
バレないとでも思っているのか。


Amazonでも5ちゃんでも
会津プロパガンダ洗脳者
反日プロパガンダ洗脳者はセコいね

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