■殺していいものとダメなものの線引きはどこなのか

 捕鯨に賛成する多くの日本人は、鯨を食べるべきではないと主張する欧米に対して、「牛や豚はよくてなぜ鯨はいけないのか」との論理を使う。一見はもっともだ。これに対しての回答がもしあるならば、「鯨は知性が高い生きものだ」になるだろう。ならば「知性で命の価値を決めるのか」と反論できる。

 でもこうして相手を論破しようとする人は、同じ論理の隘路(あいろ)に自分もはまり込んでいることに気がつかない。

 時おりニュースになるが、犬や猫を虐待したり死に至らしめたりした場合は刑事罰の対象になる。その法的根拠は動物愛護法だ。ただしその対象は限定されている。
まずは人が占有(飼育)している生きもの(つまり家畜やペット)であること。特に「牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、猫、いえうさぎ、鶏、いえばと、あひる」の11種については、「人間社会に高度に順応した動物」という観点から、人の占有下にあるか否かは問われない(つまり「ノラ」でも危害を加えると刑事罰の対象になる)。

 ところが明らかに人が占有している動物であっても、両生類以下の脊椎動物並びに無脊椎動物については、愛護法は適用されない。あなたが飼育している熱帯魚をもしも誰かが殺傷したとしても、このときに適用されるのは器物損壊罪だ。

 爬虫類は誰かに占有されていれば同法が適用されるが両生類には適用されない。その線引きは何か。結局は進化の道筋を根拠にしていると判断せざるを得ない。
言い換えれば高度な知性を保持していると我々が判断した生きものが愛護法の対象になる。ならばまさしく、高等な生きものを特別視しているということになる。

 ここで屁理屈を述べるつもりはない。愛護法を生きもの全般に広げてしまうと、ハエや蚊の駆除ができなくなる。ゴキブリを殺した人には刑事罰を与えなくてはならなくなる。
病原菌に対しての治療だって正当性を失う。つまり際限がない。我々の生活は成り立たない。だからこそ無理矢理に線を引くことが必要になる。



■ 動物の自己認識を研究する手法として、鏡に映った自分に対してどのように反応するかを探るマークテストがある。鏡に映っている像を自己として認識できる動物はとても少ない。人間の場合は一歳後半から二歳に成長するあたりから、鏡に映る像が自分であることを理解しているような動作をするようになる。
ヒト以外にマークテストをクリアできる生きものは、チンパンジーやゴリラ、オランウータンなどの大型類人猿、イルカの仲間やシャチ、そしてアジアゾウだけといわれている(近年はカササギがテストをクリアしたとの報告もある)。これらの動物の共通項は、自己を相対化できるだけの知性を持つことで、他者への共感ができることだ。

つまり高度な知性を持つと解釈することができる。残念ながら犬や猫はマークテストをクリアできない。もちろん牛や豚も。