【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★3
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卑弥呼の墓説がある箸墓古墳について議論するパネリスト(東京都千代田区で)
https://www.yomiuri.co.jp/photo/20181014/20181014-OYTNI50010-L.jpg
◇纒向フォーラム
東京・よみうりホールで14日に開かれた邪馬台国の有力候補地、桜井市の纒向(まきむく)遺跡を巡る7回目のフォーラムでは、卑弥呼の墓との説がある同市の箸墓古墳がテーマとなった。調査成果や全国の事例、中国の文献も参考に専門家4人が議論し、考古学ファンら約850人が熱心に耳を傾けた。(辰巳隆博、大森篤志)
市纒向学研究センターの福辻淳・主任研究員は、箸墓古墳の調査について説明。レーザーを使った詳細な測量で、地表の高低差や形状を立体化できたことなどを紹介した。
俳優の苅谷俊介・京都橘大客員教授(考古学)は、纒向遺跡の大型建物跡の南に箸墓古墳が位置することに着目し、「都城の南に祭礼施設を造るという中国の思想が取り入れられており、大型建物跡と箸墓古墳は密接なつながりがあった」との見解を示した。
また、松木武彦・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は前方後円墳の成立過程について解説した。2世紀中頃から、全国で墳丘に突出した部分が設けられ、被葬者も集団から個人になり、形も統一されるとし、箸墓古墳について、「倭国(わこく)初の国家的モニュメント。親魏倭王の墓にふさわしい」と述べた。
渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、魏の文帝が「寿陵(じゅりょう)(生前に造る墓)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」などと定めたことを紹介し、「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。
その後、センターの寺沢薫所長の司会で4人が討論。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする見方に対し、寺沢所長は、桜井市のホケノ山古墳など箸墓以前に築造された古墳のいずれかだと主張した。
テーマとなった中国の歴史書「魏志倭人伝」の記述、「卑弥呼、以(すで)に死し、大いに冢(ちょう)を作る」なら死んだ後に墓を造ったという意味になり、渡辺教授は「死んだために墓を造ったという意味の『死するを以もって』と読むべきだ」と指摘した。
大学で古代史を専攻したというさいたま市南区の会社員長谷川菜摘さん(29)は「纒向遺跡や箸墓古墳に吉備(現・岡山県)などの影響があったのが興味深かった。遺跡を探訪したくなった」と笑顔。東京都江東区の会社員大迫文次郎さん(53)は「邪馬台国の所在地に関心が集まりがちだが、中国の思想や墓制との関わりを知ることができて勉強になった」と満足そうだった。
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20181014-OYTNT50054.html
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20181015-OYO1T50005.html
★1:2018/10/15(月) 18:49:51.46
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1539642549/ 関東人が大和文化に興味があるとは驚きだな
とうほぐの縄文がお似合いだぞ まだやるのかよw
そもそも決定的な証拠がないから結論なんて出ないのに もういっその事奈良をこのスレで駆逐しましょう
せっかくこの時間帯に立ったのです 邪馬台国云々はともかく、最近の学説は初期ヤマト王権には吉備の影響が大きいという感じなのかな
記紀の神武が吉備に長期滞在した後大和に入ったのと話的に重なるな >>8
関東人は西日本とは関わりの無い民族だろ
とうほぐに帰れや ・少なくとも弥生時代後期前半ぐらいまでは畿内より九州のほうが先進的で栄えていた(山陰も栄えていたが)
・5世紀、遅くとも6世紀までには畿内が先進地域となっており、権力の中枢は畿内にあった
この二点から
2世紀頃〜5世紀頃までのいずれかの期間中に九州→畿内の権力の遷移があったと推測することはできる
それが卑弥呼の時代(3世紀前半)以前に起こったのか、以後に起こったのか
以前に起こったことを証明できれば畿内説の勝ち
以後に起こったことを証明できれば九州説の勝ち 何度も掻きますが奈良県の畿内説は
京大の内藤が魏国が南と東の方角を間違えたという
滑稽な妄想によるものです >>1
宮崎県じゃね?
日向→ひむか→卑弥呼
何か似てるし(笑) まあ、ホントに邪馬台国があったとしたら
そいつが、突然、跡形もなく滅んだのか?
そっちから考えたほうがいい。
日本で跡形もなく滅ぶものと考えると、噴火か津波だろ。
そうすると、畿内説、特に奈良は苦しい。 宮崎の美々津は大分に近いな
船でいったりきたりだったのだろう うどん発祥の地と同じだろ
空海が讃岐に持ち込んだのに
九州がなぜか絡んでくる
日本三大都市は東京大阪福岡と本気で思ってるのと同じだよ >>15
中国の史書に邪馬台国が滅んだという記述はないぞ >>18
じゃあ、いまでも邪馬台国があるんじゃね? いつまでたっても邪馬台国、卑弥呼ってアホやろ
中国の都合本に一生振り回されてろよ
古代日本の成り立ちを筋よくプロファイリングしてみろっての >>17
空海が讃岐にうどん?w
聞いたことないわ
博多は記録があるっての 江戸時代は見世物小屋の時代
魚と猿を引っ付けて珍獣発見と瓦版に書かせて見世物小屋でカネをとる
金印が見つかったのは江戸時代
金塊の年代測定法があればあれが何かわかるはず 福岡の金印も怪しさ満点だし、実際どこなのかなかなかはっきりしないな
まあ関東は100パーないと思うが あまり知られていないが西郷どんは菊池
気靴は後醍醐天皇の血筋 >>10
だから、どこが権力の中枢かなんて関係ないんだって
魏志倭人伝がどういう視点で、どこをどう見て書かれたか
なんだから
当時の状況は、そりゃいろいろあるでしょ
でも当時の日本の状況と魏志倭人伝は、基本的に無関係。
今で言うなら、アメリカ西海岸に旅行に行ってブログ書いた
そこに東海岸の話は書かれてないよ
って感じ。
書かれてないだけで、ボストンもニューヨークもワシントンも、そりゃあるでしょ
無かったことになんてならない。
でもブログの旅行記には書かれてないよって 畿内説は、ロスが東海岸にあったって強弁してるイメージ 権力の中枢は中央集権国家を前提にした文言。
バカなやつ多いなここ。 >>30
いい加減に邪馬台国は九州だったって認めればいいのにな
近畿は新しい王朝だったって認めりゃいいじゃん
千年以上前のことなんだしさ
イギリスなんて数百年前の王朝の血筋が繋がってないとかで話題になってるのに
邪馬台国なんて滅んだ国じゃん
繋がってなくてもやっぱりねでおわるだけなのにさ 倭国大乱って
吉備対出雲(侵略者)だったと
最近思えてきた。
吉備邪馬台国は中国地方と
九州北部 四国北部と
多分朝鮮半島南部までを
支配していた。
侵略者出雲は 日本海側と東北を治め
土着対侵略者の戦いは
三千年に及ぶ。
侵略者は いくらでも補強できるけど
土着民は 私一人になってしまった・・・。
え〜〜ん え〜〜〜ん >>18
中国の歴史書に、倭国と日本は違う。日本人は尊大で信用できないと書かれてるけどな。 アテルイが最後まで抵抗したが
蝦夷の文化はすごかった 西暦135〜230年の桃の種が奈良から出土してるんだぞ もうあきらめろって ◆卑弥呼は何者? 総合的に説明を
九州か近畿か。中国の史書、三国志魏志倭人伝に記された「邪馬台国」の所在地論争は、古くは江戸時代から続き現代に至るが、諸説入り乱れて決着がつきそうにもない。
その中で最新の統計論を駆使して九州北部と推定し、卑弥呼=天照大御神(あまてらすおおみかみ)伝説へと論理を進める安本美典・産業能率大元教授(84)。
「邪馬台国の会」を主宰し、関連する著書は九十冊を超える。邪馬台国を熱く語った。
−邪馬台国問題を考えるうえで大切なことは?
古代史の全体を見て議論することです。私は九州説ですが、畿内説には部分的な事実をとりあげ、マスコミを誘導して世論をつくればいいといった雰囲気があります。
「長江はある岸辺で見ると南や北に流れ、別の場所では東や西に流れたりしている。しかし、全体としては西から東に流れている」。
これは毛沢東の言葉ですが、学問も同じです。ある特定の岸辺に立って観察して得られた事実が全体として正しいとはかぎりません。
「全体をうまく説明できるのか」が大事です。
−具体的には?
考古学的な議論では「魏志倭人伝」の記述から出発し、データ全体を総合的に公平に比較すべきです。
「倭人は、鉄の鏃(ぞく)(矢尻)を使った」と魏志倭人伝にあります。「鉄の鏃」の福岡県からの出土数は奈良県からの出土数の約百倍です。
弥生期の「絹」は九州からは出土するけど畿内からはほとんど出土していない。
「鏡」や「勾玉(まがたま)」でも同じ傾向が認められます。
全都道府県について、出土数を調べ、その傾向を公平に比較すべきです。
最近はビッグデータ処理の技術が、進歩してきています。
私は便利な確率計算法であるベイズ統計学によって確率計算をしました。その結果、邪馬台国が福岡県にあった確率は、99・9%以上となり、
奈良県である確率は、ほとんど完全にゼロです。畿内説の方に議論の出発点として検討していただきたいものです。
−纏向(まきむく)古墳群の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないかと言う人もいますが。
纏向の大きな建物の近くからモモの種が出土して放射性炭素(C14)年代測定で分析すると、卑弥呼の時代を含む西暦一三五〜二三〇年代という結果が出たと報道されたことがあります。
しかし、この方法による場合、箸墓古墳から出土したモモの種で測定すると、四世紀を中心とする年代が出てきます。箸墓古墳では年代の古く出がちな土器付着物で測ると、三世紀という年代が出てくるのです。
C14年代測定法というと科学的な印象を与えますが、何を測定するかで年代がかなり変わってくるし、年代推定の誤差の幅も広いのです。
畿内説に都合の良い測定値はマスコミに持ち込み、都合の悪いデータは報道されていないのです。
またモモの種や大型建物のことは倭人伝に記載がありません。古事記・日本書紀(記紀)の記述と倭人伝の記述の擦り合わせも必要です。
−卑弥呼の鏡と騒がれた三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)はどうみるべきでしょう?
これは古墳時代になってからしか出土していませんし、わが国からは五百面以上出ているのに中国からは一面も出ていません。
日本国内でつくられたとみるのが妥当です。三世紀後半から四世紀はじめごろの、いわゆる「西晋鏡」でさえ、おもに福岡県を中心に分布しています。
「庄内様式」といわれる弥生時代の土器の時期が卑弥呼の時代と重なるといわれていて、この時期の鏡は奈良県からの出土は三面のみなのに対し、福岡県からは三十面も出ています。
もうひとつ、倭人伝に「棺(ひつぎ)あって槨(かく)なし」と墓制が記されています。
おもに三世紀ごろ福岡県を中心に分布する箱式石棺は、これにあてはまります。奈良県のホケノ山古墳からは、木槨が出土していて、倭人伝の記述に合いません。
−里程の問題からは?
帯方郡(現在のソウル周辺)から一万二千余里のところに邪馬台国があると倭人伝に記されています。一里が現在の尺度で何メートルになるかは議論がありますが、
同じ三国志韓伝には現在の韓国あたりを四千里四方としており、これから一里の距離が割り出せます。
記述では帯方郡から一万里で九州に着きます。残りは二千里ですから、これまでの行程からすぐ想像はつきますよね。
とても畿内まで行ける距離ではありません。九州しか有り得ません。
全文
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2018072002000264.html 卑弥呼と同時期の天皇が、10代目の崇神天皇。
邪馬台国と覇権を争っていた
狗奴(くな)国の男王が崇神天皇。
魏志倭人伝に邪馬台国との対立が描写される
「狗奴国」(熊本説などが有力)
初代「神武天皇」と第10代「崇神天皇」は、共に「ハツクニシラス天皇」。
第2代〜第9代までの天皇に関する記述は極端に少なく、「欠史8代」と呼ばれている。
古代史の定説では、初代〜第9代までの天皇はみな、架空だとされている。
つまり
実際には、初代(神武天皇 = 崇神天皇)という説が有力
神武東征
古事記では
日本統治のために本拠を東(大和)へ移そうという提案をし
宇佐(大分)、岡田宮(福岡)、安芸(7年)、
吉備などを経て高嶋宮(岡山)に入り、
8年もの準備期間の後に大和(奈良県)に入る。
しかし
大阪から大和に入ろうとするが阻まれ、
熊野に廻って大和入りを目指すが、
ここでも苦戦がつづき、兄弟を失い自らも重症を負う。
ようやく高天原からの支援(神剣を贈られる)により
大和入りを果たし、橿原宮で即位する。(古墳:橿原神宮)
つまり
大和には「狗奴国」を退ける巨大な勢力があった事になる
卑弥呼が亡くなったのは
魏志倭人伝によると248年
その死の直前に、
狗奴国王との争いがあったことが魏史に記されている >>34
むしろ学界では「いい加減邪馬台国(ヤマト国)は畿内にあったって認めればいいのに」ってなってるけども >>12
古田信者ですね、わかります。
古田のオッサンは「台」の用法を詳しく調べたけど
発音に関しては無頓着だった。 >>42
この狗奴国の男王を
『魏志倭人伝』では【卑彌弓呼(ひみここ)】と記している。
卑弥弓呼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%BC%93%E5%91%BC
卑彌弓呼(ひみここ、生没年不詳)は、
『魏志倭人伝』に記録される狗奴国の男王
3世紀の倭国(現在の日本)の人物である
崇神天皇陵(行燈山古墳) 【天理市】←※重要(狗奴国の国王の墓が奈良の天理に実在)
古墳は全長約242m
築造された年代は4世紀後半(古墳時代前期後半) 国立歴史民俗博物館FAQ
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c
プロの研究者の間では論争は終わってます >>15
滅んだんだよ。
痕跡は吉野ヶ里遺跡があるだろ?
なぜ滅んだ記録がないか?というと、4世紀の日本の歴史を記録した文献がないから。
5世紀については宋書倭国伝に、倭の五王の記載が出てくるが、ここには邪馬台国の形跡は既にない。
2世紀後半に倭国大乱があり、3世紀中頃卑弥呼が亡くなるまで倭国は邪馬台国を中心とした連合国があった。
ただし邪馬台国のあった時期の倭国とは日本全土を指すものではなく、九州を指すと見た方が無難
邪馬台国は30に満たない小国の集合体に過ぎず、邪馬台国の南の境界の先には狗奴国があった。
北九州より北の地域(本州)については、遠く離れており詳しいことはわからないと書かれている。
記紀によれば神武東征は南九州の日向国から始まっている。
以上から3世紀後半から4世紀にかけて、倭国(九州)は南北で戦があり邪馬台国を中心とした北部連合は
南九州勢に敗戦し滅んだと見る方が無難である。
北部連合が勝っていたのであれば、もっと記録に継続性が残っているはず。 >>34
むしろお前が冷静装いながら
なんでそこまで必死になるのか不思議なんだが 学術レベルで決着したのを受けて、教科書にも反映されてきました
日本史の教科書の記述もかつては中立だったが、現在では畿内説寄りに変わってる
・考古学的な成果を踏まえて、畿内説が有力になりつつあることを示唆する記述が増えている
・纒向遺跡の建物群跡が「魏志倭人伝」の記述と似通っていることに言及する教科書が多い
https://premium.toyokeizai.net/articles/-/17987 邪馬台国の所在地について各教科書の記述
山川出版社『詳説日本史B』2016年
「奈良県の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、
邪馬台国との関係で注目されている」
東京書籍『新選日本史B』2018年
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向遺跡の発掘結果や、漢の鏡の出土分布などから、
大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
清水書院『高等学校日本史B』2017年
「初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で
魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」 >>25 >>29 >>32
>気靴
菊池は平安の昔「くくち」と発音していた。
キとクの発音=音色がよく似ているのは福島辺りの東北弁
つまり菊池は縄文人の血が濃いという証拠 >>45
倭国大乱期 100有余の国があり
邪馬台国(大和大国)は、
30国ほどの連合国の中心国 ← ココ重要
邪馬台国(大和大国) と 大和政権 は、基本 別物だが
この時代の背景と伝聞と記録から
神武東征、のち、 国譲り 後 大和政権 発足までの一連を考察すると
色々 合点がいく流れが出てくるから おもしろい! >>52
もともと100あったのが30に減ったなら九州だけで完結だな
畿内はのこり70の方 >>1
卑弥呼=日巫女 であるなら、
当時の「日」には、もちろん「日本」の意味はなく、「太陽」を表すものでしかなかった。
そして「太陽神」を最高神とする「神道」の神社において、そこに仕える未婚の女性を「巫女」と言った。
したがって、「日巫女」は、おそらく「日」の文字を冠する神社の巫女であった可能性が高い。
日本のすべての神社を確認すると、九州には「日」の文字をアタマにする神社は見当たらない。
で、近畿には琵琶湖のほとりに有名な「日吉神社」がある。
この神社は「古事記」に出て来るほど日本の神社の中でも歴史が長い。
琵琶湖周辺には古代日本の遺跡が膨大に眠っており(総数80と言われる)
一番古いものでは「粟津湖底遺跡」があり、1万年前のものと言われる。
おそらく、九州とは別に、琵琶湖周辺には古くから古代文化が栄えており、
その神社(日吉神社)の巫女を、「日巫女」と称した可能性が高いのである。 >>40
これまでで最も冷静で論理的な見方だな
総合的に見ればやはり結論するしかないようだ 纏向遺跡からは大量の桃の種、魚の骨、イノシシや犬の骨。などグルメがたくさん
出土したが、吉野ヶ里遺跡は食い物にはならん鉄の武器や鉄の農具、絹織物のはぎれ
しか出土していない。明らかに纏向遺跡の方が支配者がいた地域だと判る
吉野ヶ里は単なるクソ田舎の底辺労働者が住んでいた遺跡だろう。 畿内説の人には残念だろうけど、纏向遺跡を40年も掘り続けた発掘の当事者が否定しているんだ
悔しいだろうが仕方ないんだ
> 749 :名無しさん@1周年 :2018/10/16(火) 03:00:46.90 ID:/i7a20jM0
> >>1
> マキムク遺跡は発掘調査した当事者が否定してるんだがw
> そんな終わった遺跡を無理矢理ゴッドハンドする畿内説w
> さすがゴッドハンダー畿内と揶揄されるだけのことはあるw
>
>
> 考古学の立場からみた「邪馬台国大和説」への疑問 奈良県・纒向遺跡出土の大型建物について
> http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku335.htm
> > 1.考古学の立場からみた「邪馬台国大和説」への疑問 (関川尚功先生)
> > ・出土品と大陸系遺物の存在
> > これまで副葬品を伴う例は古墳時代初頭の壷棺のみです。ただし中期には壷や高坏を供献した例がある。
> > 大陸系の遺物はまったく出ていない。九州の弥生遺跡と比べると副葬品が少ない。
>
> > (2)纒向遺跡の実態
> > ・大陸系遺物の出土量とその比較【対外交流のあとはみられるか】
> > 断面が三角形の特徴的な木鏃で、儀礼用と推定される。3・4世紀の日本ではめずらしい。朝鮮半島南部の
> > 大成洞古墳群に副葬されているような骨鏃がモデルと思われる。纒向からは10本以上がみつかつている。
> > 木鏃や土器から、朝鮮南部とのつながりがあったことが分かるが、楽浪郡あたりとの関係がないようだ。
> > 大陸系の土器が出てこない。
> > 纒向は大陸との交易が終わった邪馬台国時代以後の遺跡ではないか。
> > 九州では博多湾での交易が古墳時代の前期まで続いている。
>
> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%B7%9D%E5%B0%9A%E5%8A%9F
> > 関川 尚功(せきがわ ひさよし)は日本の考古学者。橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘調査に携わり、
> > 石野博信とともに報告書『纒向』を著した。 畿内説の人には残念だろうけど、纏向の大型建物は中国の礼制に対応していないんだ
悔しいだろうが仕方ないんだ
> 833 :名無しさん@1周年 :2018/10/16(火) 04:05:36.39 ID:/i7a20jM0
> >>1
> > 俳優の苅谷俊介・京都橘大客員教授(考古学)は、纒向遺跡の大型建物跡の南に箸墓古墳が位置することに着目し、
> >「都城の南に祭礼施設を造るという中国の思想が取り入れられており、大型建物跡と箸墓古墳は密接なつながりがあった」との見解を示した。
>
> 纏向の大型建物は中国の礼制に対応していないんだが
> 中国の都城は軸線が南北方向なんだよ
> 「天子は南面する」という思想があるからな
> そんな事も知らずに歴史研究者ヅラとか笑わせるなw
> やっぱり所詮俳優の片手間か
>
> https://ironna.jp/article/10766?p=5
> >倭人伝の記述と結びつく発掘成果は、有明海北岸の佐賀平野東部地域を除いて、ほとんど見当たらない。
> >近畿説のよりどころとされる三角縁神獣鏡についても、魏から贈られた鏡かどうかの議論もあり、これを含めても
> >中国系の文物が出土するのは古墳時代の古墳からであり、弥生時代終末期(邪馬台国時代)の遺跡からもほとんど出土しない。
> >ましてや、遺跡や遺構、建物配置や構造にも中国文化の流入を確認することができないのが現状である。
> >近畿説の有力集落とされる奈良県纒向(まきむく)遺跡の、大型建物を含む建物群を貫く軸線は東西方向であり、
> >前漢と後漢を境に君子と臣下の配置関係が「座西朝東」から「座北朝南」へ変化する中国礼制に対応していない。
> >吉野ケ里遺跡では、墳丘墓と北内郭の祭殿が南北方向に配置され、最重要空間である北内郭と大人層の空間である南内郭についても、
> >南北の位置関係である。 >>57
その発掘の当事者がマヌケだけのことじゃないか? 畿内説の人には残念だろうけど、出土品の分布から統計的に判断して奈良県の可能性はゼロ%なんだ
悔しいだろうが仕方ないんだ
> 798 :名無しさん@1周年 :2018/10/16(火) 03:40:16.77 ID:/i7a20jM0
> ちなみに、魏志倭人伝に記載された倭国の鉄製品は鉄の鏃だが、
> それらの出土状況をビッグデータ解析した結果、 邪馬台国は99.9%以上の確率で福岡だって結論が出ちゃってるんだよね
>
> https://ironna.jp/article/4548?p=7
> > ◆邪馬台国が、福岡県にあった確率
> >
> > 広島大学名誉教授であった川越哲志氏のまとめた本に、『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)がある。
> > 弥生時代の鉄器の出土地名表をまとめたものである。鉄器についての、膨大なデータが整理されている。
> >
> > 『魏志倭人伝』には、倭人は、「鉄鏃(てつぞく)」を用いる、などとある。『弥生時代鉄器総覧』の鉄器出土地名表を見ると、
> > 福岡県には49ページ割かれている。これに対し、奈良県には1ページも割かれていない。
> > 「邪馬台国=奈良県存在説」を説く人々には、この愕然とするほどの圧倒的な違いが目に入らないのだろうか。
> >
> > 例えば、弥生時代の鉄鏃の出土数をみれば、図5のようになる。『魏志倭人伝』に記されている事物(鎧・絹・勾玉など)で、
> > 遺跡・遺物を残し得るものはすべて、出土数において福岡県が奈良県を圧倒している。
> > https://ironna.jp/file/d4c399889c0b962f241b7957292bbe0d.jpg
> >
> > 図5のような分布を示すいくつかのデータから、邪馬台国が福岡県にあった確率や、奈良県にあった確率を計算によって求めることができる。
> > 県ごとの確率は、表1のようになる。
> > https://ironna.jp/file/b918d0f424991e886db129418cce67d2.jpg
> >
> > これについて詳しくは、拙著『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』(勉誠出版、2015年刊)を、ご参照いただきたい。
> > この確率計算にあたってご指導、ご協力をいただいた現代を代表する統計学者、松原望氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)は述べている。
> >
> > 「統計学者が『鉄の鏃』の各県出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています」 ◆卑弥呼は何者? 総合的に説明を
九州か近畿か。中国の史書、三国志魏志倭人伝に記された「邪馬台国」の所在地論争は、古くは江戸時代から続き現代に至るが、諸説入り乱れて決着がつきそうにもない。
その中で最新の統計論を駆使して九州北部と推定し、卑弥呼=天照大御神(あまてらすおおみかみ)伝説へと論理を進める安本美典・産業能率大元教授(84)。
「邪馬台国の会」を主宰し、関連する著書は九十冊を超える。邪馬台国を熱く語った。
−邪馬台国問題を考えるうえで大切なことは?
古代史の全体を見て議論することです。私は九州説ですが、畿内説には部分的な事実をとりあげ、マスコミを誘導して世論をつくればいいといった雰囲気があります。
「長江はある岸辺で見ると南や北に流れ、別の場所では東や西に流れたりしている。しかし、全体としては西から東に流れている」。
これは毛沢東の言葉ですが、学問も同じです。ある特定の岸辺に立って観察して得られた事実が全体として正しいとはかぎりません。
「全体をうまく説明できるのか」が大事です。
−具体的には?
考古学的な議論では「魏志倭人伝」の記述から出発し、データ全体を総合的に公平に比較すべきです。
「倭人は、鉄の鏃(ぞく)(矢尻)を使った」と魏志倭人伝にあります。「鉄の鏃」の福岡県からの出土数は奈良県からの出土数の約百倍です。
弥生期の「絹」は九州からは出土するけど畿内からはほとんど出土していない。
「鏡」や「勾玉(まがたま)」でも同じ傾向が認められます。
全都道府県について、出土数を調べ、その傾向を公平に比較すべきです。
最近はビッグデータ処理の技術が、進歩してきています。
私は便利な確率計算法であるベイズ統計学によって確率計算をしました。その結果、邪馬台国が福岡県にあった確率は、99・9%以上となり、
奈良県である確率は、ほとんど完全にゼロです。畿内説の方に議論の出発点として検討していただきたいものです。
−纏向(まきむく)古墳群の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないかと言う人もいますが。
纏向の大きな建物の近くからモモの種が出土して放射性炭素(C14)年代測定で分析すると、卑弥呼の時代を含む西暦一三五〜二三〇年代という結果が出たと報道されたことがあります。
しかし、この方法による場合、箸墓古墳から出土したモモの種で測定すると、四世紀を中心とする年代が出てきます。箸墓古墳では年代の古く出がちな土器付着物で測ると、三世紀という年代が出てくるのです。
C14年代測定法というと科学的な印象を与えますが、何を測定するかで年代がかなり変わってくるし、年代推定の誤差の幅も広いのです。
畿内説に都合の良い測定値はマスコミに持ち込み、都合の悪いデータは報道されていないのです。
またモモの種や大型建物のことは倭人伝に記載がありません。古事記・日本書紀(記紀)の記述と倭人伝の記述の擦り合わせも必要です。
−卑弥呼の鏡と騒がれた三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)はどうみるべきでしょう?
これは古墳時代になってからしか出土していませんし、わが国からは五百面以上出ているのに中国からは一面も出ていません。
日本国内でつくられたとみるのが妥当です。三世紀後半から四世紀はじめごろの、いわゆる「西晋鏡」でさえ、おもに福岡県を中心に分布しています。
「庄内様式」といわれる弥生時代の土器の時期が卑弥呼の時代と重なるといわれていて、この時期の鏡は奈良県からの出土は三面のみなのに対し、福岡県からは三十面も出ています。
もうひとつ、倭人伝に「棺(ひつぎ)あって槨(かく)なし」と墓制が記されています。
おもに三世紀ごろ福岡県を中心に分布する箱式石棺は、これにあてはまります。奈良県のホケノ山古墳からは、木槨が出土していて、倭人伝の記述に合いません。
−里程の問題からは?
帯方郡(現在のソウル周辺)から一万二千余里のところに邪馬台国があると倭人伝に記されています。一里が現在の尺度で何メートルになるかは議論がありますが、
同じ三国志韓伝には現在の韓国あたりを四千里四方としており、これから一里の距離が割り出せます。
記述では帯方郡から一万里で九州に着きます。残りは二千里ですから、これまでの行程からすぐ想像はつきますよね。
とても畿内まで行ける距離ではありません。九州しか有り得ません。
ソース
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2018072002000264.html >>55
しかし、オマエの頭が冷静で論理的でないからなw >>52
魏志倭人伝は 支那の悪意ある 当て字 だからな
邪馬台国 = 大和大国
卑弥呼 = 日巫女
アマテラスの別名は(オオヒルメノムチ)
「日の女神」という意味がある。
卑弥呼(日巫女)も太陽に使える巫女。
卑弥呼が亡くなったのは
魏志倭人伝によると248年
西暦248年9月5日に福岡や奈良周辺で、
早朝(午前5時~6時にかけ)大きな日食があったと記されている。
(=天岩戸伝説)
魏志倭人伝によると
その死の直前に、
狗奴国王との争いがあったことが魏史に記されている
大和・桜井・纒向遺跡・箸墓古墳が築造されたのが259年 >>54
古田説のように「呼」を上古音で「カ」と読めば
卑弥呼=日巫女は成り立たない。
>>56
吉野ヶ里のような環濠集落は奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡から見つかっている。
唐古・鍵遺跡では邪馬臺国に記述されてるような楼観を描いた土器も発掘されている。
吉野ヶ里に復元された楼観は唐古鍵出土の土器を参考にしてる。 >>64
まず 伊勢 ← ここが重要。アマテラスは伊勢
つまり
纒向遺跡のある桜井からみて、日が昇る最果ての地が・伊勢
日が沈む最果ての地が、出雲
そして
卑弥呼 = 日巫女
であると考えれば
纒向遺跡のある桜井に存在する
日本最古にして、伊勢より格が高い
【大神神社】が存在する事は、諸説を圧倒するほどの見過せない根拠。
伊勢神宮
第10代崇神天皇の頃、疫病が蔓延し、
宮中内に祀っていた八咫鏡を祀りこれを治めた。
第11代垂仁天皇の世に
八咫鏡に宿る天照大御神の意向により
伊勢神宮に鎮座
大国主(オオクニヌシ)は
大和・三輪山の祭神。
国譲り神話にて
出雲大社を建立させ。出雲に隠居
つまり
伊勢神宮と出雲大社は
箸墓以後に同時期に建立 >>53
寧ろ魏志倭人伝では、大小の村、郡レベルな距離感で国と表現しているので
100と言うのは九州内部でと見ていい。 >>59
都合が悪いと誹謗中傷
これが負け犬畿内説論者の見本ですw
纏向の外部搬入土器を分析したのは関川氏だ
現在の纏向研究も関川氏の功績の上に成り立っている
後からやってきてゴッドハンドしている今のエセ研究者とは違う
そんな纏向研究の第一人者が違うと言っているのは重い
https://ja.wikipedia.org/wiki/関川尚功
>1971年(昭和46年)から奈良県立橿原考古学研究所の所員として奈良県桜井市の纒向遺跡の調査に携わった。
>石野博信とともに報告書『纒向』(1976年)を著したが、とくに外部から搬入された土器の分析と整理は関川がおこない、
>古墳時代の考古学的な研究において、きわめて重要で画期的な資料となった。 奈良出土の三角縁神獣鏡は中国製か 蛍光X線で分析
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181013-00000526-san-cul
スプリング8の強力な放射光を使い、蛍光X線分析を実施。鏡に含まれる錫、銀、
アンチモンの3元素の組成数値を調べ、グラフ化したところ、古代中国の前漢後期〜
三国時代(紀元前1世紀〜3世紀)の鏡の組成数値の分布エリアに収まることが判明。
黒塚古墳の三角縁神獣鏡と前漢後期〜三国時代の中国鏡が、同じ原材料で作られている
可能性が高まった。 過去スレに出ていたけど、弥生時代にはすでに北部九州の勢力が瀬戸内海を制して淡路島まで傘下に収めていたんだよね
そこから考えると、畿内が独自に中国と通交、というのはかなり苦しいだろう
中国と通交していた北部九州の勢力が技術的優位を活かして東進し、やがて畿内も制したと考えたほうがずっと自然だね
757 :名無しさん@1周年 :2018/10/16(火) 03:05:18.58 ID:/i7a20jM0
>>743
その淡路島の鉄工房は北部九州の勢力下だったんだがw
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml
>エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
>ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
>愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
>「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
>今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。
淡路島は北部九州の安曇族の勢力圏だw
http://4.bp.blogspot.com/-mYi5TCXdsF8/VDnqBtD4d9I/AAAAAAAAA2s/YwNSV2jEEZc/s1600/018E8B387E69699_R.jpg
地図で見ると、本拠地の志賀島から日本海ルートは出雲を経て近江、さらに岐阜、愛知と東海へまるで畿内を迂回するかのように進出している
瀬戸内海ルートは淡路島まで進出し、この地図には載ってないが難波にも安曇江がある
技術的に北部九州の系統である淡路島の鉄工房は、志賀島を本拠地とする安曇族が持ち込んだのだろう >>57
この関川って人は畿内と九州で100年近く差がある年代観を主張してる
もちろん関川編年を支持する考古学者は一人もいない
九州説は考古学者に支持されてないから、権威付けとトンデモ年代観を正当化するため関川を担いでるということ >>69
残念だがその嘘はもうネタが割れてるんだ、畿内説が採用している岡村編年は事実と100年以上ズレてるから
当の岡村が監訳した中国の資料で西晋時代の鏡を自著では後漢中期〜後期と捏造しているw
年代は墓誌など文字記録のある中国の方が正確
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm
> 「位至三公鏡」とよばれる形式の鏡がある。
> 昨年の2017年11月の講演で紹介した『洛陽銅華』(岡村秀典氏監訳の日本語版では、『洛陽銅鏡』)には、「位至三公鏡」の類といえるものが、
> 十二面紹介されている。いずれも「西晋」時代の鏡とされている。
> 西晋王朝は、「西暦265年〜316年」のあいだつづいた。すなわち、卑弥呼の時代のあとの、三世紀末から、四世紀はじめごろに存在した王朝である。
> http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-11.gif
> http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-12.gif
> この表のものに、さきにのべた「洛陽晋墓」出土の八面の「位至三公鏡」を加えれば、年代のほぼ確定できる十二面の「位至三公鏡」のすべてが、
> 西暦285年以後に埋納されたものといえる。すべて、西晋時代のものである。
> ■「位至三公鏡」の年代
> さて、問題は、ここからである。
> 岡村秀典氏は、その著『三角縁神獣鏡の時代』(吉川弘文館、1999年刊)のなかで、つぎのようにのべる。
>
> 「漢代400年間の鏡は、文様と銘文の流行の推移をもとに、およそ50年前後の目盛りでつぎのように大きく七期に区分する。
> 漢鏡1期(前二世紀前半、前漢前期)
> 漢鏡2期(前二世紀後半、前漢中期前半)
> 漢鏡3期(前一世紀前半から中ごろ、前漢中期後半から後期前半)
> 漢鏡4期(前一世紀後葉から一世紀はじめ、前漢末から王莽代)
> 漢鏡5期(一世紀中ごろから後半、後漢前期)
> 漢鏡6期(二世紀前半、後漢中期)
> 漢鏡7期(二世紀後半から三世紀はじめ、後漢後期)
>
> これに三世紀の三角縁神獣鏡をはじめとする魏鏡を加え、都合、漢・三国代の中国鏡を八期に大別することにする。」
> ここで、さきに、「わが国出土の『位至三公鏡』」をまとめた前の表を、今一度ご覧いただきたい。
> この前の表(わが国出土「位至三公鏡」)には、「漢鏡」の欄がある。そこに、「6期」とか「7期」とか、記されている。これは、右の岡村氏の規準により、
> 七期の区分の、どれにあたるかを示したものである。
> これによれば、わが国出土の「位至三公鏡」の年代は岡村氏の区分によるとき、つぎのようになっている。
> 「漢鏡6期」に属するもの………………………11例
> 「漢鏡7期」に属するもの…………………………7例
> (うち、「7期」とのみあるもの3例。「7−1期」とあるもの4例)
>
> これは、岡村氏のさきの区分の年代では、「後漢中期」から「後漢後期」までのものとなる。実年代で、「二世紀前半〜三世紀はじめ」のものとなる。
> つまり、「卑弥呼遣使前」の年代となる。
> ところが、これは、岡村秀典氏監訳の『洛陽銅鏡』に示されている十二面の「位至三公鏡」が、いずれも、「西晋」代のものとされているのと、あきらかに矛盾する。
> 「西晋」代は、すでにのべたように、「西暦265〜316年」であって、「卑弥呼没後」の年代であるからである。
>
> なぜ、そんなことになるのか。
> それは、岡村秀典氏が「景初四年鏡」をふくめ、「三角縁神獣鏡」の年代を、卑弥呼の時代のものと、きめてかかるからである。
> わが国において、(位至三公鏡)の年代は、その出土遺跡や、その遺跡から出土する土器の形式からみて、(岡村氏の鏡の編年によっても、)
> 「三角縁神獣鏡」の年代よりも、古く位置づけなければならない。
> 「三角縁神獣鏡」を、卑弥呼の時代のものと設定すれば、「位至三公鏡」を、それ以前の「後漢中期」から「後漢後期」のものと設定せざるをえないのである。
> しかし、「事実」は、「位至三公鏡」は、おもに、西晋時代(265〜316)のものである。「三角縁神獣鏡」は、そのあとの、主として、四世紀の、前方後円墳時代、
> 布留式土器の時代のものなのである。
>
> 岡村秀典氏の鏡の年代論は、みずからの著書で示す年代と、監訳本のなかで示されている年代とのあいだで、矛盾している。
> 監訳本のほうは、中国に原文がある。岡村氏も、大幅に内容を変更することができないのである。そのために、矛盾が生じている。 >>71
>>72を見れば、畿内説側が年代を100年以上ゴッドハンドしているのは明白
銅鏡の年代をずらしたことで、共伴する土器の年代も100年以上ずらしたからな
正しいのは関川説 で、結局卑弥呼の時代の銅鏡は北部九州が中心でしたとさw
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm
> 表に示されている鏡の年代からみて、わが国から出土する「位至三公鏡」も、そのほとんどは、西暦285年以後ごろ、埋納されたもので、
> 中国と日本との地域差、年代差を考えれば、西暦300年ごろ以後に埋納されたとみるのが穏当である。
> そして、その「位至三公鏡」が、わが国においては、北九州を中心に分布している。
> (1)中国で、おもに西晋時代に行なわれた「位至三公鏡」は、わが国では、福岡県・佐賀県を中心とする北九州から出土している。
> 奈良県からは、確実な出土例がない。 (下表参照)
> http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-13L.gif
> (2)「位至三公鏡」よりも、形式的にまえの時代の鏡(「長宜子孫」銘内行花文鏡など。そのなかに、魏代の鏡がふくまれているとみられる)も、
> 北九州を中心に分布する。
> (3)九州出土の「位至三公鏡」は、弥生時代の遺跡から出土しているものがあるが、九州以外の遺跡から出土した「位至三公鏡」は、まず、
> 古墳時代の遺跡から出土している。九州以外の地の「位至三公鏡」は、九州方面からもたらされた伝世鏡か、あるいは、踏みかえし鏡であるにしても、
> 九州よりもややのちの時代に埋納された傾向がみてとれる。
>
> (4)これらのことから、魏のあとをうけつぐ西晋の西暦300年ごろまで、鏡の出土分布の中心は一貫して北九州にあったといえる。 >>72
岡村編年と青銅鏡の原料組成は関係ないだろ
攪乱戦法は通用しない >>1
卑弥呼が死んで、壹與の晋への朝具して以降、忽然と消えた邪馬台国
三種の神器を包括的に有した糸島の平原遺跡以降、突然なくなる北部九州の弥生文化
そして、しばらく間隔をおいて突然始まる畿内の古墳時代
北部九州と畿内の地名の一致
記紀の記述
等々
これは・・・ >>66
卑弥呼と同時期の天皇が、10代目の崇神天皇。
邪馬台国と覇権を争っていた
狗奴(くな)国の男王が崇神天皇。
魏志倭人伝に邪馬台国との対立が描写される
「狗奴国」(熊本説などが有力)
この狗奴国の男王を
『魏志倭人伝』では【卑彌弓呼(ひみここ)】と記している。
初代「神武天皇」と第10代「崇神天皇」は、共に「ハツクニシラス天皇」。
第2代〜第9代までの天皇に関する記述は極端に少なく、「欠史8代」と呼ばれている。
古代史の定説では、初代〜第9代までの天皇はみな、架空だとされている。
つまり
実際には、初代(神武天皇 = 崇神天皇)という説が有力
「崇神天皇」258年没説を採った場合、
崇神の治世は中国の文献に記載されている
邪馬台国の時代の後半と重なることになる。
崇神天皇陵(行燈山古墳) 天理市
古墳は全長約242m
築造された年代は4世紀後半(古墳時代前期後半)
3世紀中頃に
全長278mの 纒向遺跡の『箸墓古墳』は、
当時どれだけの ”大物” が埋葬された事になるんだ?
つまり
初代(神武天皇 = 崇神天皇)よりも巨大な古墳だぞw >>75
アホ?
「成分分析の結果一致した中国鏡」の年代が100年ずれていたら自動的に三角縁神獣鏡も100年ずれるんだが
>古代中国の前漢後期〜三国時代(紀元前1世紀〜3世紀)の鏡の組成数値の分布エリアに収まることが判明。
この「前漢後期〜三国時代の鏡」とやらは岡村編年だろうがw
ということは実際はそれより100年以上後の鏡ってことになる デタラメな岡村編年と違って文字記録のある中国側の研究で、確実に邪馬台国時代のものと言える銅鏡がどんな形式だったかも既に研究されている
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm
> 中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
> 「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、夔鳳鏡(きほうきょう)・
> 盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
> 従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。
> とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・夔鳳鏡・獣首鏡・至位三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。
> 位至三公鏡は、魏の時代(220〜265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(365〜316)に大層流行しましたが、
> 呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
> 日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に
> 中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」
位至三公鏡は北部九州が中心w >>72
これ酷いな
こういうスレでよく双方の説を嘘つきだの言い合ってるのを見て
ネタだと思って楽しんでたが
畿内説の研究者はガチで嘘ついてるのか >>65
吉田説を確認してみたが、下記の部分が間違ってるな。
>中国を中心、倭国を周辺の野蛮人とみなして、
「日」の字ではなく「卑」の字をつかったのではないか。
当時の中国王朝は、周囲の蛮国を「2文字」の国名で読んだ。
1文字の国名は中国自身の王朝に限られていた。
したがって、「倭」と一文字名を付けたことで、当時の日本を自らと対等の存在と見なしていることになる。
「倭」を「矮(小さい)」とカン違いするアホが多いが (歴史家であっても)
古資料を調べると、「倭」の文字は、ただ当時の日本を表すためだけに作られた文字と分かる。
それ以外にこの文字が使われていない。
そして、中国王朝「魏」と日本の「倭」とは、文字の上でペアになってるのが確認できる。
つまり、「国政の大義を鬼(当時は祖先霊を表す)に委ねる」のが「魏」。「人(現在生きてる人間)に委ねる」のが「倭」となる。
また、九州に多いという「環濠集落」については、
現在の京都御所に見られるごとく、元々日本の縄文時代から続く狩猟採集民族では、住居地の周囲に「掘」を作ることはしない。
環濠(堀)がある住宅は、農耕主体の生活が始まってからで、古代から伝統を受け継いだ住宅に住んだであろう卑弥呼には相応しくない。 誰か頭の良い奴がタイムマシンを作って卑弥呼時代に戻って調べれば良い
妄想、憶測、推測ではいつまで経っても結論は出ない。 >>75
そもそも今更スプリング8など持ち出さなくても、青銅に含まれる鉛同位体の比率はとっくの昔に研究されている
その結果、三角縁神獣鏡に使われている銅は魏の敵国だった呉の鄂州市の銅であり、魏の鏡じゃないともう分かってるんだよw
呉の銅を中原勢力が使えるようになるのは西晋が呉を滅ぼした280年以降で、卑弥呼はもう死んでる
>>40にあるとおり、「畿内説に都合の良い測定値はマスコミに持ち込み、都合の悪いデータは報道されていないのです。」だなw
■「西晋鏡」の鉛同位体比
>つぎに、「位至三公鏡」「双頭竜鳳文鏡」「蝙蝠鈕座長宜子孫銘内行花文鏡」「夔鳳鏡」など、おもに西晋時代に行なわれたとみられる鏡の、
>鉛同位体比について考える。
>これらについては、もとのデータも、かかげておく(下の表参照)
>
>下のグラフをみれば、いわゆる西晋鏡の鉛同位体比は、あきらかに、それ以前のものと違っている。
>http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-15.gif
>これらの鏡は、おもに、北部九州に分布しているにもかかわらず、つぎの時代に主流となる、「三角縁神獣鏡」の鉛同位体比の分布領域と、
>そうとうていど重なりあう。「三角縁神獣鏡」は、近畿を中心に分布する。
>これらの鏡には、中国南方、長江(揚子江流域)などの「南中国」系の銅が用いられていると判断される。
(中略)
>この江都、儀徴には、古く銅鉱があった。
>三国時代には、「江都」「儀徴」などの地域は、呉の領域内にあった。
>西暦280年に、その呉を滅ぼした西晋の時代には、この地域は、とうぜん、西晋の領域内にあった。
>
>したがって、この地域の銅は、北の洛陽にもってくることができた。「位至三公鏡」などの、いわゆる「西晋鏡」を、製造することができた。
>そして、前のグラフ(「西晋鏡」の鉛同位体比の分布)、をみれば、いわゆる「西晋鏡」の銅原料は、中国の長江下流域の浙江省の
>黄岩五部鉱山の鉛鉱石のものに近いことがわかる。五部鉱山の鉛の測定値を中心とするような形で、「西晋鏡」の鉛同位体比の測定値が分布している。
>ところが、「三角縁神獣鏡」になると、長江の長江中流域の、鄂州市に近い、湖南省桃林鉱山の鉛鉱石の測定値に近づくものが多くなっている(下図参照)。
>http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-18.gif
>
>この鄂州市(鄂城)ふきんのことについては王仲殊氏は、つぎのように記す。
>「江夏郡の武昌県は今の湖北省鄂城(地図参照)にあった。黄初二年(221年)に孫権が公安より都を鄂にうつして、武昌と改名し、
>同時に江夏、豫章、盧陵三郡の地をもって武昌郡とし、武昌県をその郡治としたが、まもなく、武昌郡を江夏郡と改称し、武昌県をやはり郡治としていた。
>黄龍元年(229年)、孫権はまた建業[南京]を都としたが、江夏郡の武昌を長江中流域の重要地として、上大将軍陸遜が太子孫登を輔けて
>武昌留守の事をつかさどったことは、この武昌の地の重要なことを示している。甘露元年(265年)、呉王孫皓はまた建業より都を武昌にうつしたが、
>臣民が反対したので、宝鼎元年(267年)にまたまた建業に帰らざるを得なかった。
>解放以来、鄂城及びその付近で、大量の三国時代の呉墓が発見され、多くの銅鏡が出土した。
>このことによって、人々は武昌がまた呉の銅鏡鋳造業の中心の一つであることを確信した。」(『三角縁神獣鏡』[学生社刊])
>
>わが国で、「三角縁神獣鏡」が盛行したのは、おもに四世紀である。中国の王朝でいえば、東晋(317〜420)の王朝にあたるころとみられる。
>そのころ、中国の長江中流域の鄂州市ふきんの銅がわが国にもたらされている。
>かつての呉や西晋、さらに東晋の人々が、大量の銅をもつて、わが国に渡ってきたものとみられる。 >>80
俺も最初に知った時は愕然としたわ
いくらなんでもそこまでやるか、ってね
正直、ゴッドハンド藤村がかわいく思えるレベルの話だと思う
でもそういう事情を知ってしまうと、ニュースの見方も変わらざるを得ないんだよ
>>69なんかも「スプリング8で分析した」という話題性を利用して誤った認識を世間に広めて
議論を優位に導こうというゲスの考えが見え透いて吐き気がしてくるわ はっきり言って悪いけど近畿の考古学者は泥棒なんよね
平原遺跡に借りた土器も返さないの >>40
安本美典って昔の天皇は一代約10年とかで計算すれば天照大神と卑弥呼が重なるって言う人でしょ。
記紀に出てくる初期の天皇の実在を仮定しながら親子関係は全体的に否定しちゃうんだよね。
そこが変だよな。 >>86
ダラダラ書くな、頭の悪い証拠だ
10行でまとめろ >>60
> それらの出土状況をビッグデータ解析した結果
邪馬台国にPHSやスマホが有ったのか
オマエの編年も狂ってるなw >>90
それは右翼団体からの抗議を避けるための知恵だろう
九州説の人たちはそれで苦労してるらしい
畿内説の人はどんな説を発表しても最後に大和朝廷との繋がりだけ
言及しとけば大丈夫だから楽らしい >>16
もう少し考えろよ
邪馬台国スレだから遠慮しなくちゃと思ったがコピペ
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) 沖縄にもアマテラスいるからな
あの島にアマテラスが降りたって沖縄の人言ってたし 水行二十日と水行十日陸行一月の記述以外は九州説に有利というか九州以外考えられない
倭を遠くというか大きく見せたい何らかの理由で付け足した様にも見える 水銀でコーティングされた銅鏡が大量に
見つかった墓が場所って言われていたけど
今は違うのね >>72,86
近年科学系の研究でデータの捏造とかがどんどんバレてるけど考古学もか
>>80
インターネットが普及してなかったらこんなのが世間に知られることもなかったろうな
今の年寄りの学者は、学者の権威でデタラメやっても咎められなかったかつての時代を引きずってるんだろう >>97
>倭を遠くというか大きく見せたい何らかの理由で付け足した様にも見える
この投馬国、邪馬台国の部分は明らかに後で挿入された文ですね
元々は里数だけの行程文しかなかったのに、新たに日数による行程の報告が追加された。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています