2018 10/25 10:00
黒装束を着て屋敷に忍び込み、手裏剣を放ってドロンと退散−。江戸時代に幕府や大名の下で諜報活動を担った伊賀・甲賀の忍者が元になったイメージだが、「彼らは忍者の歴史の不本意な最終形態」とする論文が、国際忍者学会の会誌「忍者研究」創刊号に掲載された。著者は戦国時代の歴史研究で知られる三重大学の藤田達生教授。忍者の実像を、かたくなに地域の自治を守った中世の足軽隊に見いだす。

 ■「悪党」の流れ

 国際忍者学会は、これまで学術研究の対象にされてこなかった「忍者」の実態解明を目的に、三重大国際忍者研究センター(伊賀市)などが今年2月に設立。「忍者研究」創刊号は9月に第2回総会が佐賀県で開催されたのに合わせて刊行された。

忍者とは何者か。諸説あるが、一般的に、南北朝から室町時代に活躍した「悪党」の流れが色濃いとされる。悪党とは荘園領主などの禁圧の対象となった、権威や秩序にとらわれない武装集団。こうした「悪党」の流れに、戦国大名を支えた最下層の兵士「足軽」もいるとされる。

 ■「伊賀の城取」

 論文では、永禄12(1569)年の「伊賀惣国一揆掟書(いがそうこくいっきおきてがき)」を取り上げ、この「足軽」に注目した。入洛を果たし、天下統一に突き進む織田信長が、伊賀に接する伊勢国を平定し、緊張が一気に高まった直後に制定された掟書だ。

 「惣国一揆」とは代官や守護などの圧政に抵抗する百姓一揆ではなく、土豪や地侍による一国規模の統治共同体のこと。掟書には主に攻められた際の行動規範が11条あるが、藤田教授が注目するのは次の条文だ。

 〈国境に他国の勢力が陣城を築城した場合、足軽として城を取るという忠節を尽くした百姓がいたならば、惣国一揆から多くの褒美をつかわし、本人は侍に取り立てられるだろう〉

 「郷土防衛のため、惣国一揆が足軽衆を徴発する体制が成立している。足軽衆は独自に強力な軍事力を発揮し、他国にまで出陣して攻城戦をおこない、地域を制圧することさえあった」と藤田教授。こうした兵農未分離の足軽隊に、他国で戦働きをすることを得意とする「忍者」が存在したという。

 「城を取る」とあるのは、「伊賀の城取」を指す。畿内一円に大勢力を築いた三好氏の家臣、内藤宗勝が、永禄4(1561)年に発した指令にもこう登場する。〈伊賀の城取の者どもが、摂津国、丹波国、播磨国にやってくるので油断するな…〉

 藤田氏は「攻城戦における彼らの働きはとりわけ目覚ましく、大名や天下人にも恐れられる存在だった」と話す。

 ■高度な自治能力

 「自治」を守る存在だったか否か−。中世の「本来的な忍者」と江戸時代の忍者の決定的な違いはそこにあるという。

 藤田氏が注目するもう一つの中世文書が、天正元(1573)年の「甲賀郡奉行惣・伊賀奉行惣連署起請文」。平成28年12月、郷土資料収集家でもある岡本栄・伊賀市長が京都の古書店から送られてきた目録から発見。市費で購入し、今年3月に市文化財に指定された。伊賀衆と甲賀衆の自治組織である「伊賀惣国一揆」と「甲賀郡中惣(こうがぐんちゅうそう)」の代表者が各10人集まり、入会地(いりあいち)の利用権を共同裁定した際の誓約書だ。

 「中世の伊賀や甲賀は、一揆による自治がうまく機能した国内の代表事例ですが、起請文はその証左となる誇るべき史料。高い自治能力が、忍者が他国で働くことを可能とし、その働きは集団安全保障の役割を果たしたと考えられる。地域自治と忍者は実は深い関係にあったのです」

 ■“衆”から“者”へ

 起請文が書かれた翌年の天正2(1574)年、近江国で最後の反信長勢力となった甲賀衆が信長に臣従する。伊賀衆も同9年の天正伊賀の乱で信長に制圧された。同10年の本能寺の変で信長が明智光秀に殺されるが、その後天下人となる豊臣秀吉は同13年を画期として兵農分離政策を断行する。

 「伊賀衆・甲賀衆は、兵として他国で仕官するか、農として在国するかの選択を強く迫られ、『〜衆』と呼ばれる兵農未分離の戦闘集団が解体された」

 こうして他国で仕官した伊賀者・甲賀者には、幕府に諜報能力を評価されて重用された服部半蔵正成のような人物もでてくるが、自分たちの手で自治を守る本来の忍者ではなくなった、というわけだ。藤田教授は、「忍者はキワモノ扱いされがちだが、住民自治の歴史を考える時、重要な存在として位置づけねばならない」と話している。

https://www.sankei.com/smp/premium/news/181025/prm1810250009-s1.html