安田純平さん会見詳報(5)「私はアラブの名前で『ニダール』と呼ばれていた」

 《内戦下のシリアで2015年6月に拘束され、約3年4カ月ぶりに解放されたジャーナリストの安田純平さん(44)が2日、日本記者クラブで開いた記者会見での説明は、武装勢力に求められてメッセージを書いた経緯に及んだ》

 安田さん「16年5月23日、オレンジ色のTシャツを着て、『助けてください これが最後のチャンスです』という手書きのメッセージを持って(写真を)撮影しました。『日本語で書け』との指示でした。(書いた内容を把握できるように)ある程度、日本語を勉強してから指示したようでした。23日に撮影があり、29日に公開されました。部屋にテレビがあったので、30日に見て、(写真が)流れたのだなと思いました」

 「その後、彼らが話している声が聞こえたのですが、私は『ニダール』と呼ばれていました。アラブの名前で、私をそういう風に呼んでいました。『ニダールはどうするんだ』と言っているのが聞こえて、施設の代表者が『それがね』みたいに言っていたのも聞こえました。(写真の)公開から1カ月後くらいに、(私を施設から)ほうり出すことを考えているのではないかと思っていましたが、一緒に(拘束されて)いる外国人をどうするかが問題で、彼らが喜んでいるような声、皆でお祝いをしている声が聞こえました。彼(外国人)に対する交渉がまとまったのではないかという印象を受けていました」

 《この外国人と同時期に、安田さんも車に乗せられたという》

 安田さん「(自分も)解放されると期待しましたが、別の方向へ向かいました。中継地点まで向かう車の中で『どこに行くのか』と聞くと、トルコだと。しかし、別の車に乗せられて別の場所に行きました」

 《会見場で配布された資料には、詳細な日付とともに、安田さんの拘束生活の経緯が記載されている》

 安田さん「(記憶している)日付が、どうしてここまではっきりしているのかというと、荷物を奪われた後に、衣類と本、ノートを返され、『日記を書いても良い』と言われました。『(施設の)ボスは英語で書けと言っていたが、日本語で書くことを認めさせてやった』と通訳に言われました。『われわれは紳士的な組織であった』と伝えられるため、そのアピールのために渡された、ということでした」

 「私に関する報道は逐次、チェックしていました。7月10日、別の施設に移動してからは、テレビが無くなりました。テレビがあるということは、ゲスト扱いだと思っていたので、いろいろと(文句を)言いましたが、(テレビを設置するための)線を引くのが難しいというようなことを言われました。私に食事を1日2回運んできた人物からは英語で毎回、『何が欲しいか』と聞かれて、『本をくれ』と言いました。英語の辞書は彼が持ってきたもの。果物であるとかスイーツとかも持ってきてくれました」

 「監禁が続くうちに、私の横にいた他の囚人に、(武装勢力が)『もう帰すぞ』ということを言いました。10月の後半ですね。私のあとから来た人です。そのやりとりをドアの隙間から見たところ、パキスタン人だと分かりました。アラビア語が全然できない、英語もできない夫婦でした。40代くらいの夫婦。10月後半に帰すと言っていましたが、伝えてきた人物は『じゃあ明日だ』といって去っていきました。交渉が成立したのであれば、明日解放というのはおかしい。これは対価なしで帰すのかな、という印象を受けていました」

 「私と一緒に帰すのではないか、と期待をしていました。『日本側が反応しなくなったら帰す』ということをずっと言われていたので、期待していました。11月22日の1週間後は11月29日、私の写真の公開から半年後で。日程的なものからも期待しました」

 《施設ではさまざまな人々が拘束されていた》

 「話してはいけないと言われていましたが、囚人と話してみたくなりました。パキスタン人とシリア人の親子もいました。親子も人質だったようです。近くに住んでいるバングラデシュ人が求婚してきて断ったら、襲撃されてさらわれたと話していました。それが1年以上前のことだと。これは人身売買されたんだろうと、なんとなく分かりました。

以下ソース先で

2018.11.2 14:06
https://www.sankei.com/affairs/news/181102/afr1811020021-n1.html

★1が立った時間 2018/11/02(金) 13:51:04.13
前スレ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1541134264/