『後漢書』倭人伝 卑彌呼
女人は淫ではなく嫉妬もしない。また、風俗は盜みをせず、争訟は少ない。
一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。
ここにおいて(卑彌呼を)王に共立した。

『梁書』倭国伝 邪馬臺国
「邪馬臺国」に至る。すなわち倭王が居する所である。

『梁書』倭国伝 征東大将軍
土地は温暖、風俗は淫ではない。
魏の景初三年(239年)、卑彌呼は初めて遣使を以て朝貢し、魏は親魏王と為し、仮の金印紫綬を授けた。
 正始中(240−249年)、卑彌呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあった
ので、再び卑彌呼の宗女「臺與」を王として立てた。倭王讃がいた。讃が死に、弟の彌が立った。彌が死に、
子の済が立った。済が死に、子の興が立った。興が死に、弟の武が立った。
斉の建元中(315−316年)、武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に除した。
高祖が即位すると、武の号を征東大将軍に進めた。

『北史』倭国伝 「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」
 人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜賊も少ない。
大業三年(607年)、その王の多利思比孤が(使者を)遣わして朝貢。
使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。
国書に曰く「日出ずる所の天子、書を日沒する所の天子に致す。つつがなきや」云々。
帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ。」

『隋書』倭国伝 
そこの俗では殺人、強盜および姦通はいずれも死罪、盜者は盗品の価値を計り、財物で弁償させ、財産のない者は身を没収して
奴隷となす。人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜賊も少ない。。婦人は淫行や嫉妬をしない。
新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。

『唐会要』倭国・日本国伝
 咸享元年(670年)三月。遣使が高句麗平定を祝賀。以後は続いて朝貢に来る。
則天武后の時、自ら言うには、「その国は日の出る所に近い。故に日本国と号する。」
思うに、その名が雅でないことを憎み、これを改名したのであろう。