1987年、大阪大学経済学部教授を務めていた本間正明の誘いで、
歴代大蔵省キャリアの天下りポストである大阪大学経済学部助教授に迎えられる。
以降研究者としての道を歩む。竹中は、この縁で後に、本間教授を経済財政諮問会議の
民間議員に推薦することになる。  

 この時代に、母校の一橋大学に前述の論文に加筆したものを提出し、経済学博士の
取得を試みたものの「あまりに初歩的すぎる」などとの意見が出て教授会の審査で
不合格となる。これにより一橋大学での博士号取得を断念する。但し、竹中の指導教官
であった山澤逸平(一橋大学名誉教授)は後年、この時の教授会の決定について
一橋大の失態であると述べている。

 この時代の竹中の評判は宜しくない。休講ばかりで授業を真面目にやらなかったうえ、
生来の女好きが災いして教え子の女子学生にセクハラを働いたため、本間教授の逆鱗に
触れて大学にいられなくなってしまう。トラブルを表沙汰にせず円満に大学を去る形にして
貰い、ハーバード大学に留学することになる。