東奥日報 2019年2月10日更新
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 明治維新当時、弘前藩が箱館戦争で新政府側について反政府軍と戦った際、
その援軍に船で向かった熊本藩兵ら200人以上が現在の千葉県勝浦市川津沖で遭難、犠牲となった1869(明治2)年の「ハーマン号事件」から、13日で150年となる。
これまで、青森県で事件に光が当てられる機会は少なかったが、藩兵らの救助に当たった地元勝浦市では、
今でも動乱の時代が生んだ悲劇の一幕として語り継がれており、事件があった13日には恒例の慰霊祭が行われる。

 箱館戦争の際、明治政府は弘前藩主津軽承昭(つぐあきら)(1840〜1916年)に反政府軍の討伐を下命。
だが弘前などの新政府勢は、五稜郭に立てこもった榎本武揚らの抵抗に苦戦した。

 熊本藩出身の承昭は、実兄の熊本藩主細川韶邦(よしくに)に支援を要請。
旧暦1月2日(新暦2月12日)、援軍の熊本藩兵約350人と米国人船員80人を乗せた米国船籍の
蒸気外輪船ハーマン号が江戸の品川を出港したが、翌3日(同13日)、勝浦沖で暴風雨に遭い座礁、大破した。

 遭難を知った地元川津村の村民が、決死で救助に当たったが、藩兵ら約210人、米国人約20人の計230人余りが犠牲となった。

 弘前藩は当時、戊辰戦争の長期化による負担増に苦しんでいた。
弘前大学國史研究会員で弘前市文化財審議委員長の福井敏隆さん(67)は
「弘前藩に限らず、当時はどの藩も兵力の限界であっぷあっぷの状況。頼れるものなら何でも頼りたい、
という弘前藩主承昭の要請と、実績を上げて新政府にアピールしたいという熊本藩側の思惑とがかみあっての援軍が、
ハーマン号事件という残念な結末となった」と指摘する。

 犠牲者を供養する「官軍塚」は、1963年に千葉県指定史跡となっている。
地元では2011年、史実を後世に伝えようと、猿田寿男勝浦市長を会長とした有志による「黒船『ハーマン号』を世に出す会」が発足。
12年からは毎年2月13日、日米合同による慰霊祭を開催している。

 1998年には、日本水中考古学会(井上たかひこ会長)が海底に眠っていたハーマン号を発見。
昨年8月に5回目の潜水調査が行われており、これまで船内で使われていた陶磁器類などの遺物が引き揚げられている。

 熊本では2010年、生還した藩士の証言を基に記録された、全幅6メートルの事件の絵巻物が、この藩士の子孫宅で発見され話題となった。
ことしは150周年を記念して4日から13日まで、この絵巻の複製や、遺物などの展示が勝浦で行われている。

 弘前では2010年、弘前青年会議所が開いた「全国城下町シンポジウム津軽弘前大会」の記念事業で、熊本との縁としてハーマン号事件が紹介される機会があった。

 当時事業を担当した卸売会社社長の黒部能史さん(42)は「熊本まで調査に赴いた。
勝浦との交流の機運も生まれたが、直後の東日本大震災で立ち消えになってしまった」と振り返り、今後に期待を寄せる。

 慰霊祭は13日午後2時から、米国大使館領事部の関係者や遺族、地元関係者など約50人が参列し、勝浦市の官軍塚公園慰霊碑前で行われる。

◇ 2010年に熊本市内で見つかった、ハーマン号事件を記録した絵巻物の一部。座礁直後、甲板で慌てる人々や信号弾が打ち上げられる様子がリアルに描かれている(提供・里美裕子氏)
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