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日本書紀、古事記の考察で明らかになっている
斯摩宿禰(千熊長彦)=武内宿禰と子の葛城襲津彦が
命辛々日本に遣って来た秦の始皇帝の裔、融通王=弓月君が
応神天皇(八幡神)に馬韓(後の新羅)に捕まった一族郎党の救出を嘆願。
応神天皇の命を受けた斯摩宿禰が百済の晶肖王に密書を出し、新羅をだまし討ちする為
馬韓の脱解王(天日槍の子孫で日本から馬韓国王に即位に行った倭王)に使いを出し
脱解王の甥に斯摩王子と名乗る事を許し油断させ、葛城襲津彦が弓月君の一族郎党を救出。
後に、応神天皇の計らいで、太秦国を弓月君(惟宗と言う和名もいただいたが、平安時代までに島津氏で統一)に与え
一族郎党は島津国に居住し地名の島津氏を名乗る。
※この時に百済の晶肖王から送られたのが七支刀。
脱解王の甥の斯摩王子が即位する時に斯摩の斯の字を新に置き換え新国で新羅とした。
百済の25代武寧王も北九州出身で幼名を斯摩王としていた。