いまは「建国記念の日」である2月11日は戦前、「紀元節」と呼ばれていた。

由来は『日本書紀』に基づく初代天皇・神武天皇の即位日だ。これを太陽暦に換算すると、紀元前660年2月11日にあたる。明治政府はこの日を「紀元」(建国の日)として、祝日にすると定めた。

戦後、紀元節は姿を消す。天皇の神格化に関係する祝日としてGHQ(連合国軍総司令部)の意向で廃止された。

1950年代に入ると紀元節を「建国記念日」として復活を目指す動きが高まった。

だが、紀元節の根拠となった『日本書紀』の内容が、史実であるという確証はない。

神武天皇が即位したとされる時代、日本は縄文時代の末期?弥生時代の初期にあたる。即位日を裏付ける史料はない。なお同書では、神武天皇は127歳まで生存したことになっている。

■三笠宮さま「紀元節」復活に反対

皇族(昭和天皇の弟)で歴史学者でもあった三笠宮さまは、「紀元節」に反対の論陣を張った。

1957年11月13日付の毎日新聞は、三笠宮さまが「この問題は純粋科学に属することであり、右翼、左翼のイデオロギーとは別である」と発言したことを報じた。

また、デイリー新潮によると、三笠宮さまは「紀元節についての私の信念(「文藝春秋」59年1月号)」の中で、以下のように記している。

「日本人である限り、正しい日本の歴史を知ることを喜ばない人はないであろう。紀元節の問題は、すなわち日本の古代史の問題である」

「昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史――それは華やかではあるが――を信じた人たちは、また勝算なき戦争――大義名分はりっぱであったが――を始めた人たちでもあったのである」

「もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人としてこれらのことには大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている」

■「2月11日」以外にも候補があった?

「建国記念日」を定める法案は、1957年から何度も提案され、激しい論争となった。

当時の自民党が提案した2月11日以外にも、4月28日(サンフランシスコ講和条約発効日)や5月3日(憲法記念日)、4月3日(「十七条憲法」制定日とされる日)なども候補にあがった。

■「建国記念日」ではなく「建国記念の日」

最終的には1966年、佐藤栄作内閣が2月11日を「建国記念の日」と制定した。「建国記念日」ではなく「建国記念の日」だ。

2月11日を「建国記念の日」とするにあたって、当時の総理府総務長官・安井謙氏は国会で以下のように答弁している。

「建国をしのび、国を愛し、国の発展を期するという、国民がひとしく抱いておる感情を尊重して、国民の祝日にすることといたした」

「明治初年以来七十有余年にわたり祝日として国民に親しまれてきた伝統を尊重した」

(1966年4月15日・衆院本会議)安井氏は続く答弁で「日本書紀の史実についてこれは正しくないのだ、事実に間違っておるのだという学説は多々ございます」とした上で、神武天皇の即位日を「民族の伝承」とした。

安井氏は続く答弁で「日本書紀の史実についてこれは正しくないのだ、事実に間違っておるのだという学説は多々ございます」とした上で、神武天皇の即位日を「民族の伝承」とした。

その上で「これを象徴的に建国をしのぶ日とすることは、すなおな国民感情に一番これは触れてくる問題であろうという確信を持っておる次第でございます」と述べた。

佐藤首相も「建国をしのび、国を愛し、国の発展を期するという、国民ひとしく抱いているその感情を率直に認めて、そしてこの日を定めようとするものであります」と、「愛国心の涵養」に資するという姿勢から答弁した。

保守派から紀元節の復活を求める声が出る中、当時の政府は2月11日を歴史的事実として「建国の日」と位置づけることは避けた。あくまで「建国というできごと」そのものを象徴し、祝う日とするという姿勢を取った。

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2019/02/11 17:12
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