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日本人が身分という単語で想起するのはカースト、奴隷、律令制となるが、身分はこうした狭義の例に限られるようなものではないし
カーストもイメージと異なり階層移動が例外的に認められることがあり、現代の成分法で考えるような法律として厳密なものでなく宗教的(江戸時代の場合は藤原惺窩、林羅山の朝鮮朱子学)なものだった

身分制度が無いとする側がミスリードをする際に多用するのは、身分制度がなければ身分はないという主張だが、その定義だとカーストも身分制度と言えるか微妙であり
さらに身分の定義は遥かに広く使われているため、上司と部下、主君と家臣、官位、社会的地位は身分制度と言えるが、人間が平等に生まれ、平等な権利を持ち、
その権利や自由を侵すことができないという宗教上の通念がない日本では、身分制度が常識的すぎて、マルクス唯物論史観の言う主人と奴隷の二元論的主客関係以外は身分制度ではないと誤った認識を持つ傾向がある

身分
身分(みぶん)とは、広義には特定の社会または集団において他の人が占めている他の地位との関連で捉えられる
同一社会または同一集団の内部で位置づけられるその人の地位[1]。

職分による身分、地位から来る身分、科挙から来る身分、社会的・経済的ステータス、性別による身分、年齢から来る身分は成分法的な制度ではないが、
ソフトな社会慣習法・不文律による身分制度と言える。成分法によるなら身分による慣習は立法によって廃止するまでは違法性が認識されない
そのため社会の隅々まで行き渡っている身分社会慣習は慣習法・不文法として認知されており禁止が明文化されていないのであれば身分制度と呼称する根拠は十分にある

特定のグループだけが不都合、不便、不快、不利益な思いをしても、それが法律的に否定されるまでは慣習が存在したことになるため、外部的に身分制度または身分が存在したと見なされることは十分にありえる

例えば平安貴族が暴行・強姦をしたとしても軽罰ですむとする。それが法律としてそれが合法であると名文化されているわけではない
平安貴族が平民に対して犯罪行為をして軽い謹慎程度の処分ですむとしたら、社会慣習上の身分制度があったと外部は見なすだろう

身分制度に関する外部からの主張に裏づけがあるのであればその主張を否定するのは困難となるだけでなく、内部からその指摘を認識するのは一層困難なものとなる

儒教圏の身分は重層的であるため、実数は10どころか100、1,000とあっても不思議はないため、日本人のイメージするカースト的な4つに分けた
身分の概念を聞いても違和感が先行するわけだ。そんな4つの分類しかない人工的な身分は存在するわけが無いというのが大半の反応となる
儒教に浸かってしまうと、重層的身分構造は呼吸をするぐらい自然なため、身分制度・身分差別を意識することはないから身分制度という表現に反発しているわけだが実体として身分はある

外部から見れば奇異な因習に見えても内部から認識する難易度は高いため、身分制度という表現を嫌うものが増えたわけだ