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弥生時代の硯が出土した主な遺跡
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佐賀県唐津市の中原遺跡で出土した石鋸(上)、研ぎ石の未完成品(中段の右)、石製硯の未完成品(中段の左と下)=柳田康雄さん提供
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北部九州の遺跡で確認された弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末〜前1世紀)の硯(すずり)の国産を示す遺物は、紀元前には既に国内で文字が普及していた可能性を強くうかがわせる。弥生時代の硯が近年相次いで確認されてきたが、中国の普及品をいち早く模倣し国産化するなど、弥生時代の「文明開化」の実態も見えてきた。
弥生時代の硯はこれまで、▽田和山遺跡(松江市)▽三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)▽中原遺跡(同県筑前町)▽薬師ノ上遺跡(同町)など――で出土してきた。最初に確認された田和山遺跡(2001年)の硯は権力者の威信財とされたが、2例目の三雲・井原遺跡(16年)の硯は文字使用の点から注目された。
同遺跡は「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する「伊都国」の中枢遺跡。当時の外交施設があったとされる。このため、古代中国・前漢が朝鮮半島に設けた出先機関・楽浪郡の人々が外交文書を書くため硯を使ったとも考えられ、倭人(当時の日本人)使用の可能性は低いと考えられていた。
■倭人の可能性示す、内陸部での出土
だが、17年には内陸部の中原、薬師ノ上両遺跡でも確認。出土したのは大規模集落遺跡で、▽内陸でも先進地なら普及していた▽日常的な交易で取引の記録を書いた――などの説が唱えられ、倭人の可能性が浮上していた。
調査した柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)によると弥生・古墳時代の硯は、現在国内で北部九州を中心に山陰、近畿など計25遺跡47点が確認されており、文字使用の広がりが見えてくる。柳田客員教授は「当時は中国製の銅鏡も国内に流入している。中国との交流の中で、文字も中国の文物として一括して入ってきたのでは。交流にも文字が必要だった」と想像する。
ただ、硯はあくまで筆記用具。文字使用の可能性は高くても、確実な証拠とするには異論もある。文字が書かれた土器などの資料は3世紀以降からで、点数もごくわずか。筆記用具と文字そのものの遺物のギャップを埋めることが、今後の課題となる。【大森顕浩】
毎日新聞 2019年2月19日 21時09分(最終更新 2月19日 22時18分)
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