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【安倍首相】旧宮家の皇籍復帰に言及=安定的な皇位継承めぐり ★5
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0001ばーど ★垢版2019/03/21(木) 17:48:24.56ID:2wOw9wjP9
安倍晋三首相は20日の参院財政金融委員会で、安定的な皇位継承を実現する方策について「旧宮家の皇籍復帰も含めたさまざまな議論があることは承知している」と述べ、戦後に皇籍離脱した旧宮家の復帰に言及した。ただ、「国民のコンセンサスを得ることも必要だ」と述べ、他の選択肢も含めて慎重に検討を進める考えを示した。

旧宮家は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)による皇室財産の国庫帰属の指令を踏まえて皇籍を離れた経緯がある。首相は「皇籍を離脱した方々は、今は民間人としての生活を営んでいる。私自身がGHQの決定を覆すことは全く考えていない」とも語った。
 
旧宮家の皇籍復帰は保守派の間で支持する声が強い。政府は5月1日の皇太子さまの新天皇即位後、間を置かずに皇位継承に関する議論を始める方針を示している。

2019年03月20日18時27分
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019032001065&;g=pol
https://www.jiji.com/news2/kiji_photos/20190320at49S_p.jpg

★1が立った時間 2019/03/21(木) 10:35:37.58
前スレ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1553148572/
0002名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:49:06.05ID:280NNZZD0
安倍は離婚しろ
0003名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:49:39.01ID:Gnv1tob80
移民を入れるような人間に皇室を語る資格はないだろ
0005名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:50:24.38ID:9QdkLWwP0
賛成!!今すぐにでもやろう!
0006名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:50:28.22ID:iuPpZPhE0
戻すのなら、その時点で小学生以下で、現皇族の養子に入れろ。
0007名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:50:53.57ID:r/jmHVXr0
生い立ちが良くわからない人間が天皇即位しても国民は支持しない。

そんな簡単なことが解らないのか。

さすが四流大出だな。
0008名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:50:53.72ID:jlZx0lJB0
安倍よりは小室を総理大臣にしたほーがまだマシだな
0009名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:51:04.37ID:2Cheo/wD0
反対する理由がない
反対するやつは何が気に入らないの?
0011名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:51:28.57ID:WGWQ53n30
>>1
安倍晋三と安倍昭恵、彼らには生産性がないのです。

杉田水脈
0013名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:51:55.88ID:TMfFvLWv0
復帰前に生まれていた男子は、継承権無し
復帰後に生まれた子供のみ親王・内親王になる
っていうなら、まぁ良いと思う
0014名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:52:10.75ID:LJTd2ChN0
ロリコン盗撮魔の竹田恒泰天皇こそが日本の象徴として相応しい
0016名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:53:00.21ID:Oojv2ndt0
安倍が今これ言い出したってことは
旧宮家の背乗りが完了してるってことだよw
0018名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:53:08.33ID:AkirYTBR0
旧宮家の復活なんて必要ないわ❗
旧宮家から養子をとれば済む話
養子をとるのに現状で法的に何の問題もない
0019名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:53:18.69ID:T/pOMfQX0
旧宮家復帰絶対反対だ・・・。
GHQが旧宮家を外した意味。それをまるでここの住人は分っていない。
0020名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:53:35.44ID:eMs/+b390
  
やっとまともな皇室改革案が出て来たね。
女性宮家とかじゃ何の解決も成らんし、
古からの遣り方を踏襲するのが一番だわ。
アメの悪意の方針に、従う謂れ何ぞない。
0021名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:53:51.38ID:ew0qO4450
竹田も今上も大した違いはないでしょ
正直ろくな奴いないんだから、もっと幅広く候補の対象にして
その中から一番マシな人にしたほうがいいね
0022名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:54:05.50ID:2Cheo/wD0
>>19
GHQのせいで日本めちゃくちゃ
0023名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:54:22.27ID:/eNetrZk0
>>9
俗人になってるから今更敬えないということらしい
さらに、前スレに出てたけど今現在敬うに値しない家格に
落ちてる模様
0024名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:54:30.00ID:lNdPoe1S0
>>18
皇室典範に養子は禁止と明確に規定されている。
0025名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:54:34.04ID:r4Tpb0H/0
悠仁に男児が出来なければ
復帰組から天皇か

悠仁はボコボコ子供産むドキュンと結婚するしかないな
ま、義兄があれだからちょうどいいか。
0026名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:54:54.96ID:2Cheo/wD0
>>23
敬いたくないなら敬わなくてもいい
1500年以上の伝統の方が大事
0027名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:55:33.37ID:eMs/+b390
>>18

それじゃ駄目だよ。
皇族として意識して生活したり、ある程度帝王学とか学んでないとね。
0028名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:56:04.67ID:T/pOMfQX0
>>22
GHQのおかげで日本は少しはまともな国になれた。
それを安倍が再び壊そうとしている。
0029名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:56:33.42ID:ruA19qGQ0
>>1
お眞ん子様サマが連れて来た、詐欺師母子・小室某なんかより
旧皇族の方がよほどマシ

つか皇統が絶えたら旧皇族復籍するのが当たり前
自分の血族だけで独占したいという美智子・今上の我がまま勝手に呆れる

さっさと旧皇族を復籍させろ!
0030名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:56:35.19ID:pRKkquGS0
待ち望んだ旧宮家の皇籍復帰。
0031名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:56:35.29ID:vi5TZBbL0
>>1 >>2 >>3 >>4 >>5 >>6 >>7

男尊女卑・家父長制は古代文明に共通している

ユダヤ教や初期キリスト教では、平民の性差別については比較的緩やかだったが(男も女も神のイメージから作られたという創世神話のため、ただしキリスト教・パウロは創世記をファンタジーとしているため寓話的解釈)、
古代文明の標準モデルとなる古代ギリシャは男性優位であり、そのギリシャから模倣したローマと一体化するためにローマの習俗に合わせた結果として、現代に引き継がれた面がある

バチカンの教皇(この教皇という翻訳もラテン語・ギリシャ語ではパパに過ぎないので明らかな誤訳であり教父がよりまともな意訳)は世襲制ではなく選挙制であるため、男であれば生まれに関係なく誰でもなれる
女が教皇になれないのは、宗教的というより(男尊女卑が標準だった)ローマ市民だったパウロに起因する(男女平等を掲げればここまで成長する宗教にはなっていない)ところが大
きいので他のキリスト教宗派では男しか司祭・牧師になれないという縛りは絶対ではない

また初期キリスト教では女性指導者が多いという逆転現象がおきており、神の下における男女平等を支持する派閥(主流派)と、男女差別(伝統的な男女の役割維持、主に福音派)を支持する派閥の2つが
罵倒しあう状況が長く続いてきた。バチカンはこの2つのうちでは宗教的伝統となる聖職者の生涯独身・妻帯禁止、男性司祭を支持するが、人権については主流派のスタンスであるため
政治的なスタンスが誤解されやすい傾向がある

古代ギリシャでは女性はおおむね男尊女卑下にあり奴隷か女かというぐらい劣ったイメージがあったとされる
その中でも巫女や宗教系の職業や王族・門閥貴族だけに確保される役職は例外だったが、それが平民の女性のステータスにまで波及することは皆無であり、中近東の古代において男女平等を目指した
文化はシュメール文明だけとされている

卑弥呼を代表とする日本の巫女も同じであろうと考えるが、古代では巫女は国王の子女や貴族・有力者の娘がなることが多かったため、国王や貴族が神の生まれ変わりとして
超能力を持っていたと信じられている古代ではあたりまえであり、巫女・女性聖職者のステータスが底辺にまで波及するのは近代になるまでは無かったと考えて良い
0032名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:56:48.03ID:Oojv2ndt0
旧宮家の男どもで大威震八連制覇でもやったらどうだw
それかバトルロワイヤルをさw
0034名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:57:03.58ID:lNdPoe1S0
そう、少なくともいま生きている日本人の意見だけで変えていい問題ではない。
過去と未来の日本人に対して顔向けのできないような結果にはできない。
0035名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:57:18.31ID:8qD8RYKP0
旧宮家でも竹田家は駄目だろ
汚職野郎とかネトウヨ学者とか碌なのいない
0036幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 垢版2019/03/21(木) 17:57:21.06ID:MCQ4swVd0
万世一系が真実だと言い張る馬鹿どもが歴代天皇陵を掘り返してDNA鑑定するのを拒否している件w
0038名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:58:00.26ID:Q0qldD5F0
だからあ

旧宮家は問題大有りなんだが
0039名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:58:08.96ID:vi5TZBbL0
>>2 >>3 >>4 >>5 >>6 >>7 >>1

https://ja.wikipedia.org/wiki/一霊四魂

一霊四魂(いちれいしこん)とは、人の霊魂は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂から成り立つ、という、
幕末の神道家の本田親徳によって成立した本田霊学の特殊な霊魂観である。

各魂の名称は記紀などによるもので、『日本書紀』の「神功皇后摂政前紀」には新羅征討の際に神功皇后に
「和魂は王身(みついで)に服(したが)ひて寿命(みいのち)を守らむ。荒魂は先鋒(さき)として師船
(みいくさのふね)を導かむ」という神託があったとある[1]。また、神代には、大国主命のもとに「吾(あ)
は是汝(これいまし)が幸魂奇魂なり」という神が現れ、三輪山に祀られたとある[1]。『古事記』では、
神宮皇后が、「墨江大神(すみのえのおおかみ)の荒御魂」を国守神(くにもりのかみ)として新羅に祀ったとある[1]。

だが、それらの記述には、神には四魂があるとはどこにも書いていない。ゆえに、それらは別個に活動すること
があるとまではいえるが、四魂があるとは言えない。一霊四魂説は、本田親徳とその後継者たちの神学的な解釈
から生み出されたとみることもできる。 なお本居宣長は、「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)」
に、三輪山の神は大国主命の和魂だとあることなどを根拠に、魂には大きく荒魂と和魂の2種があり、和魂にはさら
に幸魂と奇魂の働きがあるとしており、四魂としてまとめてみるようなことはしていない

近世になって、一霊四魂は本田霊学系の後継者によって、古神道の霊魂観として重視され、本田親徳や大本教の
出口王仁三郎、また出口王に三郎の弟子らによって、構造や機能が詳述されていくこととなる。
0040名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:58:19.39ID:vi5TZBbL0
>>2 >>3 >>4 >>5 >>6 >>7 >>1

https://ja.wikipedia.org/wiki/川面凡児
川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年4月1日) - 1929年(昭和4年)2月23日)は、日本の宗教家、神道家。
禊の行法を体系化し、組織的に行なった[1]。現在の神社神道における禊作法は、戦前に川面が行っていたものに基づいている。

思想
川面の思想は、古神道の宇宙観、霊魂観と神人合一法を西洋論理を用いて解き明かそうと試みた点に特色がある。例えば、
荒身魂は肉体、和身魂は意識、直霊は最高意識ととらえ、人間は最高意識が受肉した存在であるから、すべての人間はその意味で
「現人神(あらひとがみ)」であると主張した。(天皇だけが現人神ではない、という主張は注目すべきである) また、
天御中主(あまのみなかぬし)を中心力、高御産霊(たかみむすひ)を遠心力、神御産霊(かむみむすひ)を求心力ととらえ、
この三者のはたらきによって原宇宙が生成されたと説いた。 川面は、古神道の神は、創造神ではなく、生成神であると考えている。
創造神は、創造がある以上終末が訪れることを前提とした限定的な神であるが、生成神には、終末と見える現象はあったとしても、
実際に終末はなく、永遠の生成発展があると考え、古事記の「天壌無窮」説を近代論理を用いて説明しようとした。 川面の主張
する日本民族の神は、一神にして多神、多神にして汎神であり、一神の躍動するはたらきの現れが、多神であり、汎神であるとし、
この構造をもった神を「全神」となづけ、自らの教えを一神教でも多神教でもなく、「全神教」と名付けた。この神のダイナミックな
構造は、およそ二百年後には、西洋にも理解されるようになり、西洋は、多神と祖霊も祀るようになるだろうと予測している。
ただし、神は、知性で論理的に把握しただけでは足りず、体感、体認、体験しなければならないと説き、そのために禊、鳥船、雄
叫び、おころび、祝詞などの一連の身体作法を体系的に行う必要があるとしている。(彼が提唱した禊は、その一連の身体作法の一
部にすぎない。) なお、天皇が宮中でおこなう祭祀と行法が、本来の魂しずめと魂ふりであり、川面の祭祀と行法は、それから派生
した傍流であると位置づけている。(『宇宙の大道を歩む』より抜粋)
0041名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:58:22.08ID:4OUaAOdo0
■号の由来と天皇
孫文は日本亡命時代には東京府の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。

公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、自身を孫中山と号すようになった。

日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。なお、その邸宅の主は貴族院議員の中山孝麿侯爵で、孝麿の叔母中山慶子(中山一位局)は明治天皇生母である。

中華民国の国立中山大学および中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学、南極大陸の中山基地、

そして現在台湾や中国にある「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。
0042名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:58:35.91ID:vi5TZBbL0
>>3 >>4 >>5 >>6 >>7 >>1 >>2

https://ja.wikipedia.org/wiki/平田篤胤
平田 篤胤(ひらた あつたね、安永5年8月24日(1776年10月6日) - 天保14年閏9月11日(1843年11月2日))
は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)出身。

復古神道の成立
その霊の安定を神道に求めたのであり、それゆえ、神道は従来以上に宗教色を強めたのである[6]。ここで篤胤は、
天主教(キリスト教)的天地創造神話と『旧約聖書』的な歴史展開を強く意識しながら、天御中主神を創造主とする、
きわめて首尾一貫した、かつ儒教的・仏教的色彩を完全に排除した復古神道神学を樹立したのであった[3]。篤胤によれ
ば、天・地・泉の3つの世界の形成の事実、そしてそれについての神の功徳、それは「御国(みくに)」すなわち日本が
四海の中心であり、天皇は万国の君主であるということを、国学を奉ずる学徒の大倭心の鎮として打ち立てた柱、それ
が「霊の真柱」なのであった[2]。

出定笑語
平田は『出定後語』の理論を借用して『出定笑語』を書き、文章が平易通俗的であったこともあり、幕末以前、
1820年代、1830年代、1840年代の多くの人に読まれ、明治維新に至る王政復古運動、さらには廃仏毀釈の思想原理になった[16]。

民族宗教の体系化
復古神道においては、日本の「国産み」においてこそ天地創造がおこなわれる。日本は「よろずの国の本つ御柱(みはしら)た
る御国(みくに)にして、万の物、万の事の万の国にすぐれたるものといわれ、また掛(かけ)まくも畏(かしこ)き我が
天皇命(すめらみこと)は万の国の大君(おおきみ)にましますこと」が自明のこととして主張される[3]。

篤胤は、村落の氏神社への信仰や祖先崇拝といった、従来、人びとが日常レベルで慣れ親しんできた信仰に、記紀神話の再編に
もとづくスケールの大きい宇宙論を結びつけ、さらに幽冥界での死後安心の世界を提示した[10]。

幽冥論
また、現世は仮の世であり、死後の世界こそ本当の世界であるとした。これはキリスト教の影響である。篤胤は、キリスト教の
教典も、『古事記』や仏典などと同じように古の教えを伝える古伝のひとつとして見ていたのである。

「御国の御民」論と「みよさし」の論理
一方、現実には神孫たる天皇と将軍を頂点とする支配体制とをいかに整合していくかが求められるが、これについては、
「みよさし(委任)」の論理が用いられた[3][10]。
0043名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:58:47.01ID:vi5TZBbL0
>>1 >>2 >>3 >>4 >>5 >>6 >>7

https://ja.wikipedia.org/wiki/平田篤胤

平田国学・復古神道が立論の根拠にしたのは古伝であったが、『古事記』などの古典に収載された古伝説に
は齟齬や矛盾、非合理がふくまれているため、篤胤は古伝説を主観的に再構成した自作の文章を注解すると
いう手法を用いて論を展開した[9]。また、古伝の空白箇所を埋めるために、天地開闢は万国共通であるはず
だという理由から諸外国の古伝説にも視野を広げた[9]。古伝説によって宇宙の生成という事実を解明し、幽冥界
の事実を明らかにしていくのが彼の関心であるかぎり、これは自然なことであったが、漢意の排除と
文献学的・考証学的手法の徹底を旨としてきた本居派からすれば、かれの手法は邪道であり、逸脱にほかな
らない[9][11]。しかし、篤胤はそもそも古代研究を自己目的にしていたのではなかった[3]。彼は、自身も含め
た近世後期を生きる当時の日本人にとって神のあるべき姿と魂の行方を模索したのであり、そこで必要な神学
を構築するためにこそ『古事記』『日本書紀』その他の古典および各社にのこる祝詞を利用したのである[3]。
『霊能真柱』は篤胤にとって分岐点ともいえる重要な書物だったが、本居派の門人達は、この著作の幽冥観に
ついての論考が亡き宣長を冒涜するものとして憤慨し、篤胤を「山師」と非難したため、篤胤は伊勢松阪の鈴
屋とはしだいに疎遠になっていった。
0044名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:59:12.10ID:vi5TZBbL0
>>1

https ://ja.wikipedia.org/wiki/一霊四魂
一霊四魂(いちれいしこん)とは、人の霊魂は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂から成り立つ、という、
幕末の神道家の本田親徳によって成立した本田霊学の特殊な霊魂観である。

「一霊四魂」という概念は本田以前には一切文献にはなく、本田独自の霊魂観であるが、
これには西洋のスピリチュアリズムの影響が伺える。 また、本田の弟子の長沢雄楯(ながさわ かつたて)
の弟子であった出口王仁三郎は、人間の霊魂だけではなく森羅万象がこの一霊四魂から成り立っていると説いている。
0045名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:59:19.47ID:Q0qldD5F0
丹波国に養子に出された後、寛永20年から21年(1643〜44年)ごろに山城国西陣の鍛冶・埋忠の徒弟となり、慶安2年(1649年)まで長九郎と名乗っていた。
承応3年(1654年)に貞清親王、邦尚親王、邦道親王が立て続けに薨去すると伏見宮家は断絶の危機に直面したが、安藤家の働きかけにより京都所司代が吟味したところ伏見宮の落胤であると認められ、久我広通の後見のもとに伏見宮を継いだ。万治3年(1660年)に親王宣下、元服。

ここから天皇が出るのか?
0046名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:59:21.06ID:AVojToMA0
>>22
当時のGHQは極左だったからなー
0047名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:59:25.59ID:T/pOMfQX0
荒らしをだれかが雇ったな・・・。
このスレは終わった。
0048名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:59:30.46ID:G8NTvzhM0
なんで男系なんだろう
女系にすればいいのに
だれのタネであっても子供は女が生むんだから
0049名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:59:32.30ID:vi5TZBbL0
>>39 >>40 >>42 >>43 >>44

https://ja.wikipedia.org/wiki/復古神道

平田篤胤は本居宣長の書に啓発され、古代史を明らかにし、皇道の正当性を天下に示すなど、
復古神道の形成に大きな役割を果たした。また、幽冥界・霊魂など、霊界に関わる研究で著名
な成果をあげ、法華宗や密教、キリスト教、道教などの他宗教を参照した「平田派国学」を大成さ
せた[8]。この平田派国学の流れから後に、本田親徳、川面凡児その他の、「古神道系」宗教家が多く誕生してくる。

その後、明治になると、明治政府に入った平田派国学者らは、神仏分離と神道国教化を推進した[9]。
また、同じ明治の本田親徳や、本田の弟子の長沢雄楯、またその系譜に連なる出口王仁三郎らは、人間の
心は根源神の分霊である「直霊」(なおひ)が「荒魂」、「和魂」、「奇魂」、「幸魂」の4つの魂を統御
するという日本古来の「一霊四魂」説を体系化した。[10]
0050名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:59:45.00ID:4OUaAOdo0
■人民服(じんみんふく、中国語: 中山装)とは、上下揃いの上着の一種。かつての中華人民共和国では、制服や標準服とも言うべき物であった


この服装の原形は、孫文(孫中山)が日本留学中に日本の学生服や日本陸軍の軍服をモデルにデザインした中山服であるとする説があるが、実際には孫文の軍事顧問だった日本陸軍軍人佐々木到一が考案したものである

中山服は中華民国で男子正装として用いられ、戦後の台湾にも引き継がれたが、1950年代末頃には蒋介石ら一部の首脳を除いて背広にとってかわられた。

一方、中国大陸(中華人民共和国)では、1980年代初めまで成人男性の全てが人民服を着用しており、女性にも多く着られていたが、ケ小平による改革開放路線が定着して以降は、ケ小平自身は引退まで人民服を着用したが、

胡耀邦ら新しい世代からは政治家も背広を一般的に着用している。現在ではほとんど過去のものとなっており、現在の中国で人民服を手に入れることは難しいといわれる。

礼装としてホワイト・タイ扱いされる主に絹製で濃紺か黒の物が「中山装」、主に木綿製で緑系の労働着タイプが「人民服」という形で中華人民共和国では分けて考える事が多く、

「中山装」の方は今も北京や上海の百貨店等で入手可能であるが、「人民服」はすっかり廃れてしまっている。

また、上下で色の揃っていない「青年装」という物も一時存在した。灰色の物も存在し、これはニクソン大統領の中国訪問でも知られるように、毛沢東が緑系の人民服とともによく着用し、

天安門に掲げられている毛沢東の肖像画の物も灰色となっている。

1992年(平成4年)に中国共産党中央委員会総書記の江沢民が日本を訪問した際に天皇主催の宮中晩餐会において黒い人民服を着用して出席したことがあった。
0051名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:59:53.35ID:vi5TZBbL0
>>200 >>201 >>202 >>203 >>204 >>205 >>206

https ://ja.wikipedia.org/wiki/本田親徳
その霊魂教義は30代半ばに体系化されたとされ神道における霊的側面を理論化し明らかにした。
その内容を大別すると、

神や霊を人に降ろす方法である「帰神法」。
帰神を実現するための精神統一の修行法である「鎮魂法」。
鎮魂で得た力の応用としての「禁厭」からなっていた。
神懸かりには三十六法があること明らかにしお告げであっても、それを鵜呑みにするのではなく、懸かった神霊の階級
や種類やを判別する「審神」(さにわ)を重視した。
0052幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 垢版2019/03/21(木) 17:59:56.98ID:MCQ4swVd0
新天皇のご即位にあたり読んでおきたい一冊! 皇后の役割や影響力、象徴天皇のあり方も問う―『皇后四代の歴史: 昭憲皇太后から美智子皇后まで』入江 曜子による書評
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190321-00002942-allreview-life

↓幸ちゃんのコメント

幸ちゃん2|たった今 削除

何で昭憲「皇太后」なのか?

それは睦仁皇太子が岩倉具視に暗殺され、田布施の大室寅之祐というあばた面の百貫デブの満州人にすり替えられたから。それゆえ、すり替わった後は夫婦関係は一切なく、
「皇后」の称号は貰えなかった。ちなみに大正天皇の本当の父親は土佐の田中光顕であり、明治王朝は一代限りだった。そして、ブスの節子皇太子妃と政略結婚させられた
嘉仁皇太子だったが、ヒロヒトの父親は、孝明天皇を暗殺した伊藤博文だ。伊藤博文がブスの処女を食いまくっていたのは有名な話。日露戦争後のポーツマス条約締結後の
日比谷暴動の際には伊藤博文の妾の家にも暴徒が押し入っている。

孝明天皇暗殺の下手人の伊藤博文が言い始めた「万世一系」など笑止千万な嘘っぱちだ。
0053名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 17:59:59.49ID:ruA19qGQ0
>>38
お眞ん子が咥えこんだ小室よりよほどマシ

このまま行く小室のガキが天皇に、なんてことになるぞ
0054名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:00:14.80ID:vi5TZBbL0
>>39 >>40 >>42 >>43 >>44

(本居宣長の弟子からカルト扱いされた)平田神学・国学はキリスト教やユダヤ教から一部借用し(内容を全く理解しないでパクリ)、
それに影響を受けた会沢正志斎の仲間の藤田東湖は神州不滅を唱え水戸藩は集団パニックを起こし内ゲバで殺し合って壊滅し
会沢正志斎の弟子の本田親徳はアメリカ新興カルトのスピリチャリズムに共通する点を多く持つ

同じく平田派に影響を受け明治維新後に育った川面凡児は「全神教趣大日本世界教」を設立したが、(本居宣長の弟子からカルト扱いされた)平田神学・国学をベースにした
川面凡児は明治に既に上陸していたキリスト教ユニテリアン・理神論・ドイツ観念論・汎理神論、道教、ヒンドゥー教の儒教劣化版カルトと言える世界観を発表するようになる
明治維新後に育った川面凡児は(既に存在した)西洋カルト宗派をコピーしたか偶然に発明したかは定かではないが、カルト宗教の世界において時代の最先端を走り続けた
0055名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:00:16.81ID:QMHfvSHP0
つか、戻りたいって人居るんかね?
今どき皇室ブランドなんか欲しがるのは
小室家みたいなのしか居ないんじゃねーの?w
0056名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:00:20.16ID:IU58qM5X0
戦前の宮様に敬意が払われたのは、
軍司令官や参謀として命懸けで帝國を護り抜いてきたから

民間でのほほんと暮らしてきた旧宮家を皇籍復帰させるつもりなら、
「それは違う」という話になる
0057名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:00:25.24ID:5cIjKypN0
各都道府県で宮家を復活させるらしい
都道府県の宮家代表を集めてバトルロワイヤルを実施
最期まで生き残ったのが次期天皇
0058名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:00:35.21ID:vi5TZBbL0
>>210 >>211 >>212 >>213 >>214 >>215 >>216

明治天皇は儒教的専制君主となるよう積極的に動いていた時期があった(大久保の暗殺後に政治空白が生まれ宮中での天皇親政運動が強まる)
明治天皇とその側近である侍補グループの天皇親政運動は五箇条の御誓文や維新革命後の政治体制に反する存在となった為に伊藤博文が介入した。最終的に軍の支持を受けた伊藤
の封殺案に抵抗する術はなく、侍補は廃された。宮中グループはその後も教学聖旨によって儒教君主化を企んだが伊藤博文はこれも頓挫させた

「〔明治13年〕11月3日(東京)天皇誕生日。この国の人民がその君主に寄せる関心の程度が低い有様をみることは情けない。
警察の力で,家々に国旗を立てさせねばならないのだ。自発的にやるものは、ごく少数だろう」(エルヴィン・フォン・ベルツの日記より)

憲法の制定後は明治天皇の権力はさらに制限され、親政の希望は失われたが、伊藤博文は傀儡となった天皇の権威を最大限利用すべく動き
最終的には西欧におけるキリスト教の役割となることを期待し、操り人形の前提で天皇崇拝を強化した
明治天皇の信任が厚かった宮中グループも、朝鮮朱子学による天皇儒教権威の強化、儒教的・絶対的な天皇中心主義が教育勅語に組み入れられたことで満足(侍補達の権威アップ)し、その後はおとなしくなった

https ://ja.wikipedia.org/wiki/明治天皇
若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者・元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。

教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命されたことには不快感を抱いていた。特に明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省
の顧問として御用掛に任命されることを知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2か月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/機務六条
宮中側は明治天皇が儒教に基づいた東洋的な専制君主として「天皇親政」を行うべきであると主張し、明治天皇への帝王教育もその路線で行ってきた。これは将来的には天皇を西洋的な立憲君主として近代国家の中枢に据えようとす
る太政官の方針と矛盾したものであった。このため、岩倉や伊藤らは侍補を廃止して親政路線を停止しようと図ったが、明治天皇自身が元田永孚・佐々木高行ら侍補に心を寄せて彼らを私的なブレーンとして遇し、彼らが期待する君主像を実現させようと試みた。

1879年(明治12年)3月10日、明治天皇が「勤倹の聖旨」を公布して政府の財政路線を批判し、続いて元田に「教学聖旨」を執筆させて教育政策を批判した。伊藤らは天皇と宮中側の関係を改めさせようとしたが、急速に立憲制が確立することで
公家出身の門地に依存してきた自分の地位が危うくなることを危惧した三条や岩倉は、元田や佐々木らの宮中側勢力を完全に抑えることには消極的で、大隈財政末期の外債発行問題などでは宮中側と連携して太政官側を動かそうとする動きも見せたのである。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤博文
お雇い外国人であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、伊藤が会議の席上、半ば有栖川宮威仁親王の方を向き、「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。
生まれるが早いか、到るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたことを紹介している。
0059名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:00:37.30ID:ew0qO4450
天皇なんて国事行為する国家公務員程度の感覚でいいんだよ
皇居なんて10分の1くらいに縮小して、誰もなりたがらないくらいがちょうどいい

そうでないと、この先も紀子さんや小室のような輩に狙われるだけ
0061名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:00:56.66ID:T/pOMfQX0
>>46
GHQはフリーメーソンだよ。
0062名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:00:57.69ID:vi5TZBbL0
>>220 >>221 >>222 >>223 >>224 >>225 >>226

伊藤博文は百姓、山県有朋は奉公人の出身と記憶しているが、明治維新の長州閥に限定すれば大規模な身分変動があったことになる
足利尊氏のように賊軍・朝敵になってから政権を奪取したりする例はあるが、百姓・奉公人の血筋からの出世では豊臣秀吉以来と言えるだろう

王政復古・明治維新後には公家や宮家が権勢を振るう可能性があったが、権力を得たのは伊藤博文と山県有朋を筆頭にテロリスト兼反乱軍(元賊軍)・一揆軍部隊長のような指折りの危険人物
ぞろいであったため明治天皇や側近・皇族・公家を差し置いて実権を握ったのは長州・薩摩の勢力となった。伊藤博文と山県有朋は天皇親政運動を封殺して天皇から実権を剥奪したが
元田永孚や公家からの圧力を受け教育勅語において妥協をしている

伊藤や山県の死後、薩長では天皇や側近に薄気味悪さを感じさせる(怯えさせる)ような人材を輩出しておらず、教育勅語で元田永孚(熊本藩の上級武士出身)がしかけた時限爆弾に
よって国論の儒教化・朝鮮朱子学化の圧力が急速に強まっていくことになる。朝鮮朱子学の暴走の歯止めとなっていた明治の元勲が消えたことで、止め金が失われたわけだ

儒教・朱子学は短期的に社会を安定させる効果と、長期的に停滞をおこし社会を過激な動乱に導く滅びの笛であり、定期的に動乱の渦に国が呑まれていくことになる

https://ja.wikipedia.org/wiki/元田永孚
朱子学的な大義名分論を日本の現実社会に徹底化して、修身と治国の一体化を図ると共に皇室への崇敬を一種の「国教」として確立することを
目指した元田の「政教一致」路線は、教育勅語を通じた天皇制国家の確立によって実現されていく。
0063名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:01:17.33ID:vi5TZBbL0
>>230 >>231 >>232 >>233 >>234 >>235 >>236

明治維新の前哨戦において薩摩藩は勅令と軍を使い幕府老中の(殺害)脅迫・強要をして要求をのませたという(文久の変)
さらに小御所会議では優勢な論を展開した山内容堂に対して殺害をほのめかして黙らせた。この当時、勅令・勅書はヤクザ顔負けの強引で理不尽な要求を
押し通すための恐喝・脅迫に使用された小道具だったが、長州は平気で朝敵・賊軍となり戦争を継続し薩摩も裏で強力をしているため勅書など全く意にかいしないものが多くいたということだ

今なら勅書など発行しても銃弾・爆発物で消し飛ぶ、頑張って劣化楠正成を探そうとしても勅書程度に自らの人生を振り回され、生命の危険のリスクをとるのは相当な知恵遅れだけだろう
科学的軍事理論を学んだ連中に勅書などは到底通用する理屈ではなく、血統世襲理論で印象は最悪になるので効果はむしろマイナスとなる

山内容堂や老中の例でも分かる通り武家の名門・門閥一族は自らの命が危機に瀕すると見るや下級武士の脅迫に対してあっけなく屈する腰抜ばかりで、名門の誇りもあったものではない
薩摩藩と長州藩の強さは青白い顔の名門では思いつきさえしない、下級武士ならではの脅迫や暗殺、テロを平気でやってみせる決断力と実行力にあった
つまり薩長の物理的脅迫は現代でも十分に通じる表現方法だということだ

だが薩長の下級武士も道徳面では特権に安住して腐敗しきった公家よりはおそらくマシだった
そして没落する上級武士を横目に下級テロリスト武士が栄達し実権を握ることになる
武士どころか下民出身の伊藤博文と山県有朋が最高指導者に栄達する

https://ja.wikipedia.org/wiki/猪熊事件
公家衆乱行の発覚
左近衛権少将・花山院忠長は、ある時後陽成天皇の寵愛深い広橋局(武家伝奏・大納言広橋兼勝の娘)に懸想した。
そこで宮中深くまで出入りを許されていた歯科医の兼安備後(妹の命婦讃岐も宮中に仕えていた)に仲介を頼んで文通を始め、
それをきっかけとして二人で逢瀬を重ねていた。その話を漏れ聞いた猪熊は、俄然興味を持ち、かねてから懇意の飛鳥井雅賢
をはじめ、言葉巧みに他の公卿・女官をも誘い出し、様々な場所で乱交を重ねることとなった。
しかし、このように大人数の乱行が発覚しないわけはない。飛鳥井には恨みを含む女性がいた
0064名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:01:41.30ID:vi5TZBbL0
>>240 >>241 >>242 >>243 >>244 >>245 >>246

天皇親政運動を明治天皇の意向を受けて主導した元田永孚による朝鮮朱子学から生まれた国学を用いた天皇儒教権威の強化によって、
戦前は神風神話・神明に加護された神州不滅思想のような神話が生まれた

結果として無様な敗戦をきっする前までは天皇になにか超人的な力(超能力や霊力)があると期待していた宗教的風潮があったと見られるが、戦後に神国神話は
敗戦という現実によって粉砕されごく一部の狂人しか信じるものはいない

https://ja.wikipedia.org/wiki/神州不滅
江戸時代
江戸時代末期、藤田東湖は「神州誰君臨、万古仰天皇」と述べ、「支那」は革命を主体とする国家で王朝交代があるので「正気観念」にも変動があるが、
日本は万世一系の皇室を頂いて永遠に変わらないので「正気観念」にも変動が無く、そこに日本民族の特徴があるとした[1]。藤田東湖は「正気」とは
一般的には道義、特殊的には忠義であるし、更に「正気」の粋を集めた「神国日本」のその皇風が世界に広がり、皇室の御聖徳は太陽にも等しい、とした[1]。
藤田東湖の「正気歌」は吉田松陰や、明治の広瀬武夫にも影響を与えた[1]。平田篤胤の思想と、この水戸学の勤皇思想が混ざり、幕末に「神州不滅」の思想
が巻き起こった[2]。

明治以降
大日本帝国憲法では、日本は万世一系の天皇が統治し、天皇は神聖と明記された。

昭和および太平洋戦争終結時迄は、軍部によって「神国日本」「神州不滅」など、民族主義、精神主義、宗教などの傾向を持つスローガンが広く使用された。
また「神州不滅」の理由として、日本は神国であるから国家の危機の場合には元寇と同様に神風が吹く、とも説明され、神風特別攻撃隊も組織された。
0067名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:02:04.57ID:vi5TZBbL0
>>250 >>251 >>252 >>253 >>254 >>255 >>256

伊藤博文・山県有朋が明治天皇の親政の希望を断った。プロイセン・ドイツ流の国家主義はカルテル経済のハリボテであったので
両名に対する批判はもっともであるが、伊藤博文が傀儡として天皇を利用しなかったならば国体が廃止されていた可能性は否定できない

明治維新が天皇親政に向かおうとした場合は、薩長や雄藩の軍人による武力行使によって国体(天皇を中心とする国家体制)が消滅していた可能性もゼロではない

https://ja.wikipedia.org/wiki/孝明天皇
その後、幕府・一会桑・薩摩藩・長州藩等の諸藩・公家・志士達の権力を巡る争奪戦に巻き込まれていくと、孝明天皇自身
の権威は低下していくことになった。

1865年(慶応元年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は、艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を
天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出すこととした。だが、この年には実際には宮中のみに留
まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は崩さなかった[注 2]。

このような状況の中で、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出するよう
になる。第二次長州征伐の勅命が下されると、大久保利通は西郷隆盛に宛てた書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言[5]し、
岩倉具視は「国内諸派の対立の根幹は天皇にある」と暗に示唆して、「孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果た
し、政治の刷新を行って朝廷の求心力を回復せよ」と記している[6]。こうした中で1866年10月8日(慶応2年8月30日)には、
天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、その後薩摩藩の要請を受けた内大臣・近衛忠房
が天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは
誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている[7]。
0068名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:02:04.85ID:lNdPoe1S0
生まれる前から「お前皇族なっ」てなる子も大変ではある。
0069名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:02:27.77ID:vi5TZBbL0
>>260 >>261 >>262 >>263 >>264 >>265 >>266

国学・神道の融合による朱子学化を推進した結果として尊王攘夷運動という時限爆弾が荒れ狂い自滅することになった水戸藩は、
弱小国の分際で世界最強国アメリカに無謀な戦争をしかけた戦前日本に重なる

http s://ja.wikipedia.org/wiki/諸生党
戊辰戦争以後
慶応4年1月(1868年2月)、戊辰戦争が始まると、諸生党に対する追討命令が朝廷から出された。これにより水戸藩に戻った本圀寺党を
はじめとする天狗党の残党と諸生党の間で再度抗争が起こり、今度は賊軍となった諸生党はたちまち勢力を失い、市川らは水戸を脱して
会津へ向かった。武田金次郎ら天狗党が藩内での権力を掌握すると、諸生党やその家族に対して激しい報復が行われ、各地で多くの
諸生党士民が処刑されたり投獄されたりした。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/松山戦争
背景
元治元年12月(1865年1月)に関東を劫掠していた水戸藩天狗党の乱が鎮圧された後、水戸藩の藩政は市川弘美ら
中心とする諸生党が掌握し、水戸に居た天狗党の関係者は諸生党によって次々と処刑された。

ところが翌年将軍徳川家茂が死去すると、翌年には天狗党本隊のうち武田金次郎ら遠島に処される予定であった者共
が赦免され、さらに孝明天皇崩御の後、天狗党と共謀関係にあった長州藩が鳥羽・伏見の戦いで勝利すると、天狗党・本圀寺党
の訴えにより諸生党が一転して朝敵に指定された。

経過
天狗党は翌7日から9日にかけて八日市場近隣の村々に押入って金品を強奪し、各村の名主・組頭を縛り上げて拉致し
身代金550両を奪取した上、銚子など周辺の町を次々と襲撃して略奪を繰り返した後、水戸へと戻っていった。飯高寺
の『向城庵記憶帳』は、この時の有様を「辰年十月中旬、水戸藩士天狗共国元にて戦争の上〜八日市・佐原・銚子・東金
などの町家へ乱荒し必死難渋の沙汰」と記している。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/武田金次郎
1864年の天狗党の乱には、祖父や父と共に参加する。のちに乱が鎮圧されて祖父など376人が死罪に処せられたが、若年を理由に遠島処分となる。
1866年、金次郎ら110名は小浜藩に預けられ、佐柿(福井県美浜町)の屋敷に収容されて謹慎したものの、准藩士格として厚遇される。1868年、
王政復古によって朝廷から罪を許され、水戸への帰藩を命ぜられた。

帰藩した金次郎らは、朝廷の威光により藩の実権を掌握。通称「さいみ党」と呼ばれた金次郎らは、仇敵であった諸生党残党に復讐をすべく、
白昼堂々に襲撃・暗殺し、藩内を極度の混乱状態に陥れた。

香川が栃木県の塩原温泉を訪れたとき、物乞い同然のみすぼらしい小屋で暮らす、体の不自由な金次郎と出会った。驚き哀れに思い、香川が金銭を渡すと、
金次郎は喜び、ひれ伏したという。このあと、金次郎は水戸に戻され、3か月後に亡くなった。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/武田耕雲斎
家系
武田耕雲斎の家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の傍系である跡部氏の一族であるという。
0070名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:02:31.43ID:mYwhjJuF0
>>13
こうなると思う
もし実現するならだけど
0071名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:02:51.76ID:vi5TZBbL0
>>270 >>271 >>272 >>273 >>274 >>275 >>276

朱子学を教育勅語に編み込んで日本人を朝鮮朱子学で洗脳した元田永孚に先駆けて日本国内に李氏朝鮮の朱子学を復元した壮大な社会実験は、神州不滅を唱えた藤田東湖の水戸藩で行われた
朝鮮人的思考形態を持つ陸軍統制派によってさらに拡大運用された結果として集団パニック症候群が大量に発生した。現代の愛国烈士の姿は天狗党に被る

https://ja.wikipedia.org/wiki/天狗党の乱

天狗党の発生
こうして権力を得た一派は、反対派から「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ということ
で、天狗党と呼ばれるようになった。これに対して斉昭は、弘化2年(1845年)10月に老中阿部正弘に対し、江戸では高慢な者を「天狗」と
言うが、水戸では義気があり、国家に忠誠心のある有志を「天狗」と言うのだと主張している[3]。とはいえ、天狗党という集団はその内部
においても盛んに党争と集合離散を繰り返しており、それぞれの時期においてその編成に大きな差異が見られる。まず天狗党は後述する
「勅書」返納問題において鎮派・激派に分裂したうえ、さらに激派内でも根拠地別に筑波勢・潮来勢などの集団があってそれぞれ独自に動
き回っていたことから、『水戸市史 中巻(五)』においては、一味の総称である天狗党の呼称を、最終的に京へ向かって西上した集団に
限定して使用している[2]。

大発勢の出陣と那珂湊の戦い
江戸の水戸藩邸を掌握した諸生党に対し、激派・鎮派は領内の尊攘派士民を下総小金(千葉県松戸市)に大量動員し、藩主慶篤に圧力をかけ
交代したばかりの諸生党の重役の排斥を認めさせ[15]、水戸藩邸を再び掌握した。しかし、市川らによる水戸城占拠の報に接し、国元の奪還
を図ることとなった[16]。そこで、在府の慶篤の名代として支藩・宍戸藩主の松平頼徳が内乱鎮静の名目で水戸へ下向することとなり、執政
・榊原新左衛門(鎮派)らとともに8月4日に江戸を出発した。これを大発勢という[17][18]。これに諸生党により失脚させられていた武田耕
雲斎、山国兵部らの一行が加わり、下総小金などに屯集していた多数の尊攘派士民が加入して1000人から3000人にも膨れ上がった。

投降
関東において天狗党がもたらした惨禍を目の当たりにしていた意尊らはこの光景に激怒し、加賀藩から引渡しを受けるとただちに天狗党員
を鰊倉(鰊粕の貯蔵施設)の中に放り込んで厳重に監禁し、小四郎ら一部の幹部達を除く者共には手枷足枷をはめ、衣服は下帯一本に限り、
一日あたり握飯一つと湯水一杯のみを与えることとした。腐敗した魚と用便用の桶が発する異臭が籠る狭い鰊倉の中に大人数が押し込められ
たために衛生状態は最悪であり、また折からの厳寒も相まって病に倒れる者が続出し20名以上が死亡した。

この時捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑された。1865年3月1日(元治2年2月4日)、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内に
おいて斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日(旧暦2月23日)までに斬首を終え、他
は遠島・追放などの処分を科された。

乱後
天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では市川三左衛門ら諸生党が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑した。

水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩であったが、藩内抗争は他藩にも例を見ないほどの凄惨な殲滅戦となって人材のことご
とくを失ったため、藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることは無かった。
0072名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:02:58.36ID:yYli5E5q0
Y染色体も知らずに語るバカの多いこと多いこと
0073名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:03:12.08ID:gKAEq2Av0
天皇の精子保存しとけばいいだけ
税金食いを増やすな
0074名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:03:15.25ID:vi5TZBbL0
>>280 >>281 >>282 >>283 >>284 >>285 >>286

(明治維新の序章となった尊王攘夷の)水戸朝鮮朱子学が巻き起こした狂騒は宮家や公家、門閥一族・宗族にとっては最初で最後の復権チャンスだった
葵の御紋の権威は維新戦争での敗戦で失われたが、菊の御紋や血筋で全ての欲望が満たすことができる時代は無様で悲惨な敗戦と共に終わった

門閥貴族の特権意識で戦後資本主義を生きるのは大変な困難だったろうが、それでも縁故資本主義の日本では何のバックもいない貧乏人に比べれば遥かに生きやすかったことだろう
しかしその門閥のアドバンテージも日本の豊かさの源泉であった技術競争力の低下によって経済が崩壊する見込みのある現在では無効となる見込みであり、従来の利権を守ろうとすればするほど
あらがいようのない運命・対流によって深い沼に引きずり込まれ徐々に落ちて、もがき苦しんで死ぬことになる

https://ja.wikipedia.org/wiki/水戸黄門
この講談話の始まりについては、一橋慶喜を将軍職に就けるため、父である水戸斉昭が裏で動いて、水戸徳川家は「天下の副将軍」であるという話を世間に広めようとしたのだという説がある。
しかしながら光圀が正すのは局所々における役人の不正であり、時には身分制度の掟で結ばれない恋人同士に粋なはからいを示すことなどはあるが、身分制度の矛盾を根本的に正す社会改革にまで踏み込んだ対応を試みようとすることはない。

印籠で平伏するような人間は今の時代いないし、存在しない権威を振り回して暴れたり、洗脳やビジネスツールとして低能を信じさせるための詐欺に使う内質は幼児退行であり、現実逃避に過ぎない
悔しいなら門閥・貴族の一族が本気を見せて日本の経済や競争力を回復させれば良いだけだが、そんな実力がないのは本人達が重々承知しているだろう

なぜ安定して繁栄してきた日本が不運に見舞われ、失敗し続け、衰退中かということだが、それは国民を家畜にしてきたからだ。自由と正義を自ら放棄するような国民は自ら考えることをやめて家畜化され、
上位者である無能で下劣な品性しかない門閥や宮家の残りかすである愛国自慰廃棄物を模倣する。二言目に忠君や国体を連呼するような無能依存体質が下の重層的身分階層に下方伝播・伝染するという至極当然な道理に過ぎない
つまり底辺まで腐りきった儒教的衰退と言える

皮肉なのはアメリカは真剣に日本人が自由を持ち人間としての尊厳を取り戻せるよう願っていたことであり、それが実現すれば門閥一族は一定の権威を保つことも可能だったかもしれないことだ
しかし所詮は飼いならされた家畜しか望まない儒教政府では限界があり、自らの無能という印籠紐によって首がしまって窒息寸前という実に同情が不可能な醜態をさらしているのが現在の状況だ

国難時の力の源泉は皇室や国体の失われた権威ではなく、優れた武器と金となる。それを誰よりも持っているのは言うまでもなくアメリカであり、日本がアカく染まって中国の属国となり日本の血の中国人化が進む前に
アメリカは介入するだろう
0075名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:03:23.90ID:5SQlTO1a0
単純に途絶えそうだもんなぁ
0076名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:03:32.78ID:ruA19qGQ0
>>60

角田(小室)圭ごときが天皇の兄になるなど、予想するのも汚らわしい
0077名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:03:34.95ID:vi5TZBbL0
>>290 >>291 >>292 >>293 >>294 >>295 >>296

民度マックスの水戸藩士達は些細な差で内ゲバを起こし、フランス革命に匹敵する凄惨な同士討ちをした(3歳の幼児を処刑)
内紛・内ゲバの経緯を見ると、水戸藩士は見事なまでに朝鮮人の特徴である中庸徳を会得しており、まさに日本国に現出した朝鮮・中華が水戸藩だったと言える

徳川光国の主導による「大日本史」の編纂の過程において国学が生まれ、水戸藩は神道・国学・朱子学研究の中心地となり、
明治維新に先んじて廃仏毀釈を行うことになる

会沢安あたりは神道からの大義名分論を導き出し、今日の(朝鮮朱子学に洗脳された)愛国烈士の教祖のような存在だろう
弘道館は他にも神道系の国学者を輩出しており、大政奉還・王政復古のプランは水戸藩の貢献が大きいが、同時に内紛による
熾烈な虐殺事件は儒教中庸の強さを証明している

藤田東湖の尊皇攘夷と、元田永孚・佐々木高行の天皇親政は、朱子学をルーツにする点において同祖と言え
国体(天皇を頂点とする国家体制)を作ったのも水戸藩や朱子学者であり、朝鮮朱子学をベースに儒学の官学化を推進し神道と儒学を融合した林羅山からの伝統と認めることができる
0079名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:03:53.66ID:dBRNDQWG0
>>6
継承権を名乗るなら、あの病気のカップルの子供?
かわいそうすぎてとてもできんわ。
そもそも跡取り養子は能力を見極める意味でも、成人で十分なんだよ。
0080名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:03:55.86ID:vi5TZBbL0
>>300 >>301 >>302 >>303 >>304 >>305 >>306

なぜ水戸藩だけが戦前日本の集団中庸パニック症候群に酷似した状況に陥ったかだが、幕府に近い大藩というだけでなく名門中の名門、
門閥の血筋の藩主と藩士達が主導する正統学問の中心という自負と特権意識による藩内序列、血統序列のマウンティング抗争が勃発したからだろう
その根本原因は朝鮮朱子学が(儒教的祖霊信仰・始祖信仰の)神道と結び合わさったのが原因と推定できる

伊藤博文、山県有朋は名門どころか社会の底辺出身であり朱子学の身分差別からは這い上がるべきでない下民であったし、さらに賊軍・朝敵になった後は初期の(上級武士による)朱子学色は払拭され陽明学ないし西洋的リアリズムで
軍事クーデターによって国体も含めて政権をひっくり返すという意識が芽生えたわけであり、尊皇攘夷もあっさり捨て、政権奪取後の天皇親政運動も封殺した

薩摩も逆賊・朝敵である長州と同盟をする点において大義名分からかけ離れ、幕府を滅ぼすことに熱中し、王政復古より幕府の滅亡を優先し政治的協議でなくリスクの高い内戦を選んだ

福沢諭吉「我が国の人民は,数百年の間,天子あるを知らず、唯これを口碑に伝ふるのみ。維新の一挙以て政治の体裁は数百年の古に復したりと称すと雖も、王室と人民との間に至密の交情あるに非ず」

維新以前は天子の認知度は低かったが、廃藩置県があっさり通った段階で五箇条の御誓文は忘れ去られており、明治天皇と宮中、側近の天皇親政運動(五箇条の御誓文とは全く正反対の儒教原理主義)はその流れを象徴した
現実は伊藤博文と山県有朋は、世襲カリスマである明治天皇の意向をいつでもひっくり返す軍事力を持つだけでなく、国民と皇室が疎遠な事を理解して、大義名分論の天皇親政を退けた現実主義者だったと言える

伊藤や山県の死後、薩長では天皇や側近に薄気味悪さを感じさせる(怯えさせる)ような人材を輩出しておらず、教育勅語で元田永孚(熊本藩の上級武士出身)がしかけた時限爆弾に
よって国論の儒教化・朝鮮朱子学化の圧力が急速に強まっていくことになる。朝鮮朱子学の暴走の歯止めとなっていた明治の元勲が消えたことで、止め金が失われたわけだ
0081名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:03:59.36ID:ZL/ZJ5Ko0
美智子さんが甘やかすからこんな事になった
旧皇族に復帰してもらって
お見合いでだけ結婚するようにするしかないだろう
恋愛結婚は無理なんだよ立場的に
0082名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:04:05.90ID:ahDXp8oe0
>>1
女系天皇を誕生させようという勢力が必死だよな
おそらくそいつらは朝鮮の勢力だと思う
0083名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:04:19.41ID:vi5TZBbL0
>>310 >>311 >>312 >>313 >>314 >>315 >>316

水戸藩の佐幕派は家格門閥で、尊皇攘夷派は下級武士という説があるが、家格門閥とはあくまでも血筋とは無関係の水戸藩における家柄のことであり
(儒者を除外した)正統な血筋による序列主義を重んじる朱子学的思想に、血統門閥が加わったことで、家柄vs血筋・血統マウンティング抗争が発生する余地は十分にあった

尊王攘夷派
https ://ja.wikipedia.org/wiki/田丸稲之衛門
田丸氏は村上源氏の名門北畠氏の庶流である。田丸氏は、戦国時代初期の伊勢守護・北畠政郷の四男・顕晴が度合郡田丸城に入り、田丸の苗字を称したことにはじまる。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/武田耕雲斎
武田耕雲斎の家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の傍系である跡部氏の一族であるという。
武田金吾 耕雲斎の七男。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。享年3。靖国神社合祀[4]。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/戸田忠太夫
清和源氏の一門にて河内源氏の棟梁・鎮守府将軍・源義家の七男・源義隆(陸奥七郎義隆)を祖とする。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/安島帯刀
本姓は藤原氏。家系は贈正二位鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする安島氏。
戸田三右衛門忠之の次男に生まれ、母方の叔父・安島彦之允信順の養子となった。三河譜代の名門戸田氏の嫡流・戸田松平家の分家の出自であるが、佐竹氏旧臣の血筋である母方・安島氏の家督を継いだ。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/里見四郎左衛門
四郎左衛門の祖は清和源氏新田氏流里見氏の一族の里見義成の四男・義直を初代とする家系である。

佐幕派
https ://ja.wikipedia.org/wiki/市川弘美
水戸藩士・市川弘教(1000石)の二男として生まれる。弘教の長男・弘業の死去後の1843年に家督を相続。

水戸藩名門
https ://ja.wikipedia.org/wiki/小田氏
小田氏は鎌倉時代、源頼朝に従って功績を挙げ、常陸守護に任じられた藤原道兼の玄孫、八田知家(八田太郎、宇都宮宗綱の子)を祖とする。

https ://ja.wikipedia.org/wiki/結城朝道
本姓は藤原氏。家系は鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする小山氏の同族・結城氏の血筋。
0085名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:04:43.57ID:vi5TZBbL0
>>320 >>321 >>322 >>323 >>324 >>325 >>326

生瀬騒動では400人程度を無差別に皆殺しにしたとの伝承が残る。つまりこの程度では公的記録に残らないというわけだが、これを「大日本史」・藩史に書けないところが
朱子学朝鮮坊侍達の限界と言える。不祥事を隠蔽したら、失敗を繰り返さないための分析と進歩もないわけで、これでは都合の良い情報だけを収集するいかさま考証と言われても反論できないだろう し
正史に対する信頼も完全に失われる

水戸藩はその他にも農民に対する秘密警察なみの監視をしており、徳川光国から想起される水戸藩のイメージからは乖離している

朝鮮朱子学による神道の改造によって作文された国学によって水戸藩は廃仏毀釈の先駆者となった。天狗党の乱以前から藩内は些細なことや家格の差で
内ゲバをしている。天狗党の由来は成り上がり者が生意気という意味らしいが、徳川斉昭を擁立した下士派となっている主なものは儒学者である藤田・会沢を除き血筋は上士以上の没落士族もいるため
藩内序列と血統序列による特権意識マウンティング合戦が起きていた可能性は多いにあるだろう

https://ja.wikipedia.org/wiki/水戸藩
1607年(1602年、1615年とも)の秋に、小生瀬村(現:大子町小生瀬)で、年貢を巡る農民と藩役人の行き違いにより、
藩が小生瀬村の住人を皆殺しにする事件が起こった(生瀬騒動)。藩の役人が年貢を取りに来て農民は納めたが、また
別の役人が年貢を取りに来たこと(年貢の二重取り)に対して怒った農民たちが、後から来た役人を偽物と判断してその一人
を殺害した。これに対し10月10日、蘆沢信重が藩兵を出兵させて生瀬村の農民を皆殺しにしたという。この事件に関しては、
藩の公式記録には一切触れられず、伝承と関連した地名が残るのみである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/結城朝道
かつて朝道によって失脚させられた斉昭や改革派の恨みは凄まじく、彼らがやがて復権を遂げると、嘉永6年(1853年)10月16日に
朝道は拘禁されることとなった。やがて朝道は水戸藩の支藩の筆頭・高松藩の藩主で、幕府内においては譜代大名の井伊直弼ら保守派
との関係が深い松平頼胤が宗家の家督を欲しているのを知り、慶篤を暗殺して頼胤を藩主に迎えようと画策した。しかし計画は露見し、
その3年後に死罪に処せられた。享年39。子・種徳も拘禁され、絶食のために獄死した。
0086名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:05:02.46ID:Q0qldD5F0
>>53
どっちもどっちだろよ
0087名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:05:09.26ID:vi5TZBbL0
>>330 >>331 >>332 >>333 >>334 >>335 >>336

吉田松陰が育てた陽明学徒の維新勢力は禁門の変で賊軍・朝敵となり、さらに天皇親政運動を封殺しており、陽明学徒はその時々の情勢に応じて天皇の利用を流動的に使い分ける傾向がある
陽明学は経典を軽視する傾向が顕著なため、これに驚きはない

そのため陽明学徒には経典も含めて外部から見た道徳的な制約は存在しないが、朱子学徒は事実・現実を無視した儒教序列妄想に強烈な執着を持つ
朱子学水戸藩は内紛と内部粛清でぼろぼろになり、儒教道理等には眼中にさえない陽明学徒テロリスト兼反乱軍(元賊軍)・一揆軍部隊長が政権を奪取したのは合理的必然であると言ってよい

https://ja.wikipedia.org/wiki/陽明学
経書の地位低下
心を外的な規範から解放した結果、六経などの経書を尊び学ぶ姿勢が減退していくことになる。王陽明自身は「吾が心に省みて非なれば、孔子の言といえども是とせず」
と言い切ってはいても、未だ経書への姿勢は謙虚さがあった。しかしその弟子、就中高弟と言われる者でも生涯に読んだ経書は四書だけといわれる人が陽明学派から出て
くるようになる。かくして経書はその聖性を減じていき、六経は単なる歴史に過ぎないという解釈が生まれた。これは清代考証学の一派である黄宗羲ら浙東史学から章学誠
を経て、章炳麟へ受け継がれていった。

元田永孚が宮中や教育を朝鮮朱子学で汚染したのに対して、反朱子学である陽明学を学んだ西郷隆盛の西南戦争(第二維新、第二革命と北一輝は名付ける)の例もある

陽明学を学んだ革命愛好家・趣味的革命研究家である北一輝は、明治維新革命の延長(長州は朝敵であったため明治維新と皇道派との整合性はないので延長ではない)
であると皇道派の将軍に売り込むためか、または朱子学的だった世相を考慮して天皇親政を掲げた

一方で窮乏していた貧民層を救うために、明らかに肥大しすぎた皇族資産の凍結・徴収といった皇室・皇族が嫌悪する政策(しかし否定すれば皇族に理は失われる)
を提案しているが、これは皇族サイドの欲やエゴにはマイナス要因としかならず、権力者・序列主義への忠誠が全てに優先される朱子学的思想から逸脱したことで、
信じがたい非礼、として皇族や宮中を激怒させたことは容易に想像できる

天皇親政という朱子学思想(建前)と、弱者救済や改革といった陽明学思想(本音)が混在する倒錯は、賊軍・朝敵となっても力と流血で全てをひっくり返して権力を奪取する(明治維新、足利尊氏等)
という軍事クーデターとの相性は最悪でありニ・二六事件は必然的に失敗した。また北一輝のような目立ちたがりやの革命愛好家・革命オタクが関わり表に出張ると情報が外部に漏れて時宜を見失うことで失敗しやすくなる
0088名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:05:14.49ID:gSp3f3fs0
      ∧_∧
     <`∀´ >皇室に入るニダ
    /)在/ノ  
  Λ∞Λ⌒⌒) )
⊂(`Д´;)⊃ Uヽ

   /)__∧    Λ_Λ    ∧__(\
   | |`∀´> ◯< `∀´ >◯ <`∀´| | 在日は日本人の金持ちの娘を狙うニダ!!
   |    〈)  \    /  (〉   ノ
0089名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:05:15.59ID:gKAEq2Av0
こんなの皇族じゃなくて、寄生してる宮内庁のためだろ
0090名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:05:21.07ID:dBRNDQWG0
>>24
摂関家の皇室乗っ取りはほぼ養子投入をやりまくった結果でもあるしね
かの秀吉が官位を授かったのも摂関家の養子扱いになったからだっけ
0091名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:05:32.80ID:35flYwPG0
>>27
子供の頃から養子にして教育すればいいじゃん?天皇家は昔からそうしてたでしょ。
0092名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:05:35.76ID:vi5TZBbL0
>>340 >>341 >>342 >>343 >>344 >>345 >>346
>北一輝は、日蓮主義者だったんでしょ。

北一輝は戦前の日蓮主義とは距離があるし、石原莞爾ほど低能ではない
印象としては日蓮宗というよりは日本版(劣化)マニ教の信者に見える

北一輝の著作を見ると(社会・共産主義を否定した上での)社会進化論、超人進歩史観に関する論考と、日本人の古代中世儒教土人社会と西洋の人権の対立をどう解消するかの論考が大半を占めるため、
仏・大宇宙・個人融合観、天理教蔑視といった点が日蓮宗要素となるぐらいで、石原莞爾のような霊感商法的なところはない
北のアメリカ(それと南京政府)と組んで、英国の植民地を解放するプランは、石原莞爾のような上位者の意向に合わせるだけの欧州出羽守には発想さえ難しい

そもそも北一輝は天皇機関説側の人間であり、天皇本仏論を信じているとは考え難い。ニ・二六事件の天皇親政はどう考えても明治天皇が乗り出したような親政とは真逆で
天皇に新憲法を入れさせた後は、天皇から権力・余剰財産を剥奪する道筋にしか見えない。これは青年将校にも大なり小なり共通した思想であった可能性はある

初期の北一輝の社会主義というのは、法の下の平等や、誰にでも国民の権利があるから社会主義というトンデモな定義なので、北の思想では明治維新初期も社会主義になる
だから純正社会主義は、どう考えても社会主義ではない。西郷隆盛は北一輝的には社会主義者となってしまう

証明なしで言葉の定義上から自己理論を導出していくのが北一輝に見られる特徴であり、北一輝の趣味である革命研究、それと西郷隆盛の第二革命は掘り下げるが
定量的な政治経済理論には関心があるとは言えず、ある意味日本人らしい儒教土人的理論軽視、エビデンス軽視は北一輝にも見られる

https://ja.wikipedia.org/wiki/磯部浅一
磯部、北らによると、日本は明治維新革命以来「天皇の独裁国家ではなく」「重臣の独裁国家でもなく」「天皇を中心とした近代的民主国」であったのだが、
「今の日本は重臣と財閥の独裁国家」としている。そしてその大義を理解しなかった昭和天皇を獄中から「御叱り申して」いた[5]。
磯部・村中・北・西田は、銃殺時に「天皇陛下万歳」は唱えなかった[6]。
0093名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:05:38.58ID:bEyKP4xt0
コピペ馬鹿が出て来たからこのスレも終了か
0094名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:05:51.31ID:CbgyblSC0
>>13
産まれながらの皇族、ロイヤルベイビーだったら皇位継承にも違和感なしだよな
0095名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:06:00.99ID:vi5TZBbL0
>>350 >>351 >>352 >>353 >>354 >>355 >>356

北一輝の問題点は日蓮宗であったことでなく、辛亥革命に参加したエキスパートを名刺代わりにしていたのに肝心の革命技術において名前倒れだったことだ
また日蓮宗がクーデターで今後用いられる可能性はほぼゼロに近い。なぜなら神風・神洲伝説は終わったのであり、日本は極東の弱小国に戻り、
確固とした説のないチャラい教義の島国カルトで有力国との関係を維持・構築するのは不可能だからだ

二・二六事件の将校のうち少数が北一輝との師弟関係的なもので、北一輝の思想は参考程度だったと考えるほうが現実的だろう

青年将校は窮乏する社会との関わりから得た義憤やルサンチマンは持っていたとしても指針がなかった
北一輝は革命オタクとして明治維新の第三革命(失敗した西郷隆盛の第二革命のやり直し)を提供したわけだが、青年将校側に必要なのは大まかな枠組みではな
く失われた明治維新のノーハウであり、それを埋められるのは、辛亥革命に参加した北一輝しかいない

しかし北一輝はあくまで辛亥革命のサポーターであり、外国人である北一輝は当事者・責任者とは言えないし、本物の革命家である孫文は
米国式の信奉者であるため、北一輝とは相容れない。孫文を批判しているが、孫文ほどの能力が北一輝にあったかは疑わしい

北一輝の過剰評価・過剰な名声が合わさったことで、二・二六事件はおかしな方向にいった
小手先的に天皇親政を掲げるのは、朝鮮朱子学土人の心を安心させる一時的効果しかない。明治維新の例でいえば最悪の状況では朝廷に射撃・砲撃をしたり、
長州や薩摩は裏で天皇を毒殺しかねないほどの危険人物を揃えていた (実際に実行したかは知らないが最後まで長州討伐にこだわった孝明天皇のヒ素暗殺説もある)、
足利尊氏や鎌倉幕府は島流しにして差し替えるぐらいの緊迫感があるのに、 北一輝の天皇親政論には合理主義が徹底されているとは言えない

名前の通り「一揆(一輝)」であれば徳政令や米の配給・分配、フランス革命であればパンという明確なゴールがあるため、分かりやすかったが、
大風呂敷をたたんで限定的な直訴でもなく、いまいち悪目立ちばかりして、青年将校の足を引っ張っていた感も拭えない

二・二六事件は今後軍事クーデターがおきる際の失敗例として研究対象となることは間違いないが、北一輝と青年将校が明治維新の事例を踏襲していたのならば
真っ先にやるべきことは余計な政治テロは一切せずに皇居への進軍と、堀によって囲まれ脱出しにくい旧江戸城・皇居の包囲と皇室の身柄確保、さらに皇居を人質にとって他軍の介入排除および統制派の殺処分だ
そして身の危険を感じても天皇が新憲法に同意しない場合は孝明天皇コースとなる
0096名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:06:10.80ID:jJQvIvcN0
>>79
成人まで民間人として生活してた人間が、いきなり皇族としての
窮屈な生活に馴染めるかね?
0097名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:06:16.60ID:iuPpZPhE0
>>79
当人の皇位継承を認めないのなら。
ただ、俗世での生活歴が長いのはマイナス要素だと思うぞ。
0098名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:06:17.78ID:Q18kE97H0
>>76
ホント小室は簀巻きにしてハドソン川に
浮いていればいいよ
0099名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:06:24.89ID:vi5TZBbL0
>>360 >>361 >>362 >>363 >>364 >>365 >>366

強気だった山内容堂や老中も身の危険を感じるや服従したため、孝明天皇コースの確率はほぼゼロと見て良い
ようは薩長のように覚悟を見せれるかがクーデターの鍵と言える

長州や薩摩ならこれぐらいは平気でやるだろう
つまり薩長・足利尊氏ほどリアリズムに徹しきれない時点で敗北は確定していたということだ

長州や過去の幕府の例でいえば朝敵・賊軍になった方がクーデター側が一致団結しやすいのだから、皇居に対しての攻撃を躊躇すべき合理的理由が見つからない
皇居の電気・電話を遮断し、水道さえも止めて外部から隔絶させれば、天皇が偶然に砲撃で死んでも外からは分からない
近衛兵や侍従が狂って天皇を殺したことにして、傀儡にできる若年の新天皇を即位させてもクーデターは成功する

明治維新の教訓を全く踏襲しなかったのが、二・二六事件だと言って良い
0100名無しさん@1周年垢版2019/03/21(木) 18:06:32.93ID:cmPYliZN0
種無しが言うこと(笑)
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