>>44
>>1の続き。

信長が「甲州征伐」に同行させるほどの信頼を置かれていた弥助だが、その運命は暗転する。
甲州征伐を終えて信長が安土城に帰還したのが1582年4月21日だった。その約1カ月後の6月2日、
主君である信長が「本能寺の変」で明智光秀に討たれたのだ。

弥助は信長の死んだ後も、息子の織田信忠が籠もる二条城に駆けつけて刀を振るって奮戦したが、
最終的に降伏したという。フロイスの報告を引こう。

<巡察師(ヴァリニャーノのこと)が信長に送った黒人奴隷が、信長の死後、息子の家に行き、相当長い間、
戦っていたところ、明智の家臣が近づいて「恐れることなくその刀を差し出せ」といったので、刀を渡した。
家臣は、この黒人奴隷をどのように処分すべきか明智に尋ねたところ、「黒人奴隷は動物で何も知らず、
また日本人でないため殺すのはやめて、インドのパードレ(司祭)の聖堂に置け」と言った>

明智の「黒人奴隷は動物で何も知らず」という説明は、あまりにも人種差別的だ。しかし東北大学の藤田みどり教授は
著書の中で、殺さないための方便だったのでは推測している。

「皮膚の色こそ異なるものの、若干言葉を解し、最後まで主人への忠誠を果たした従者を殺すのは忍びないと
光秀が思ったとしても不思議ではない」

弥助は解放直後、イエズス会の宣教師から治療を受けたらしいことまでは分かっている。しかし、その後の消息はぷっつりと途絶えている。