【滋賀】邪馬台国近江説って? 東西交流拠点、伊勢遺跡から推定 可能性低いが、町おこしに活用
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大型建物の復元CGを描いた看板が建つ伊勢遺跡=滋賀県守山市伊勢町で、礒野健一撮影
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守山商工会議所青年部が制作した「邪馬台国近江説 伊勢遺跡からはじまる物語」の一部
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なるほドリ 守山市で「邪馬台国(やまたいこく)近江説」というのを聞いたんだけど、どういう説なの?
記者 邪馬台国は2〜3世紀頃に日本に存在し、女王・卑弥呼(ひみこ)が統治していたとされる古代国家です。中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に統治体制や習俗についての記述があり、その場所については古くから「九州説」と「畿内説」とで論争が続いています。そんな中、「近江説」は弥生時代の集落跡が発見された伊勢遺跡(守山市伊勢町)が、邪馬台国だったというものです。
Q 近江は畿内に隣接するから、畿内説と同じということなのかな?
A 邪馬台国畿内説の有力な候補地は、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡と考えられています。近江説は残念ながら全国に数多くある異説の一つです。
Q そもそも伊勢遺跡とは?
A 1980年に発見された弥生時代後期の遺跡で、92年に大型建物の柱跡が見つかり、全国的に注目を集めました。その後の調査で、楼観(ろうかん)と呼ばれる2階建ての建物や、祭殿と考えられる建物など、計13棟の大型建物跡が発見されました。2012年には、日本で「国」が形成される過程を知る上で重要な遺跡として、国史跡の指定も受けました。
Q 大きな遺跡なんだね。邪馬台国だと考える理由は?
A 大型建物跡が多く見つかったことに加え、伊勢遺跡から北東約6キロの大岩山(野洲市辻町)で、多くの銅鐸(どうたく)が見つかっていることが挙げられます。祭祀(さいし)に用いられたとされる銅鐸は、近畿地方を中心に出土する「近畿式」と、東海地方を中心に出土する「三遠式(さんえんしき)」がありますが、大岩山からはその両方が見つかっています。このことから、当時の伊勢遺跡周辺が東西交流の重要拠点であり、邪馬台国のような大国の存在が推定できるというのです。
Q それだけの理由で邪馬台国が守山にあったと言っていいの?
A 守山市教委文化財保護課によると、伊勢遺跡で新発見が相次いだ1990年代当時、地元ではその可能性を大いに期待したそうです。しかし、その後の研究で、伊勢遺跡は魏志倭人伝が邪馬台国のことを記述した時期より古いことがわかり、今ではその可能性は低いと考えられています。
Q 残念だなあ。地元の人もがっかりしてるんじゃない?
A 学術的には劣勢な近江説ですが、地元自治会や市商工会議所は、歴史ロマンを絡めて町おこしをしています。毎年秋には、弥生時代の食べ物や生活を体験する「遺跡まつり」を開くほか、今月27日にある「もりやま夏まつり」では、恒例の「卑弥呼コンテスト」も開かれます。
Q まだまだ盛り上がっているね。
A 市商議所青年部は今春、近江説をマンガで紹介する冊子「邪馬台国近江説 伊勢遺跡からはじまる物語」(A4判カラー8ページ)を発行しました。担当者は「邪馬台国が守山にあったかもしれないという話を知って郷土に誇りを持ち、地域の活力に変えていければ」と話します。商議所に問い合わせれば、冊子は無料でもらえます。
Q 伊勢遺跡の現状はどんな様子なの?
A 現在は全て埋め戻され、幾つかの説明看板が立つだけです。詳細は決まっていませんが、市は遺跡周辺の用地を買収するなど、本格的な史跡公園の整備を考えています。大型建物群が復元される日が来るかもしれません。<回答・礒野健一(草津駐在)>
毎日新聞 2019年7月17日
https://mainichi.jp/articles/20190717/ddl/k25/070/453000c?inb=ra 人は記憶型と思考型に大別できる
誰かが書いてたのをパクらせていただく
帯方郡(平壌)
│
│7000里
│
狗邪韓国(釜山)
│
│5000里
│
女王國 ?? 「正直どこでもいいんだけど町おこしに使えるなら」 邪馬台国じゃなくて「高天原か?」とかにすればいいのに 奈良は色々とあるんだから佐賀と滋賀で半分こでいいよもう 古代史は門外漢であるが,一応学問の徒ではある.邪馬台国〇〇説が流行っているが,
お国自慢に結び付けたいことは分かってもこれを応援する気には全くなれない.学説
というのも怪しげな成り立ちだったりするからつけ込むすきはあろうが,やはり学問
の話である.町おこしとはどこかで一線を引いて貰わないといかんだろう. >>8 の続き
平壌と釜山までの直線距離は520km
7000里を短里80mで計算すると660km
ちょうど合う
てことは釜山から女王国まで5000里だから400kmとなる
釜山から400kmの地点にあるのが邪馬台国 俵藤太の三上山のムカデ退治とされた豪族(?)の拠点が近いから
関係するものかなと思いきや弥生と平安中期か
けど目と鼻の先やからなんかしら繋がりはありそうず 交流や政治のための施設っぽいから天安河で良いじゃん こういうのって、歴史学者から怒られそう。
ほんと遊び半分はやめてほしい。 邪馬台国って支部がたくさんあったと理解すればいいんじゃね?
あとは”本部”がどこにあったかの論争で。 邪馬台国なんて数ある和国の1つで大した価値はないよ >>16 の続き
おっと倭人伝の原文を忘れてた
平壌と釜山の距離。厳密には平壌辺りだけどな
從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
平壌から女王国までの距離
自郡至女王國、萬二千餘里。 1世紀〜2世紀の遺跡やな
巨大な銅鐸が見つかっている 現実には、畿内説が圧倒的に優勢だからな
あとはマイナーな諸説がいろいろあるだけ
ただし、エンタメ路線では、九州説がダントツの一番人気 近江は京とか称したり、捏造が激しいよな。
条里制じゃないと、京とはいえんのよ、大津君。 >>16
>釜山から400kmの地点にあるのが邪馬台国
絵図で確認すると、直線距離で中国地方だと鳥取県の大山や、広島の福山市あたり、
四国だと石鎚山、九州だと霧島あたりだな
霧島は天孫降臨伝説もあるし、日本の初期王朝があっても不思議ではないな 伊勢遺跡の時代は地域色が強まってた時代だし、広域連合の拠点とみなすのは厳しいと思うけどな >>35
何れにしろ畿内までは届かない
やはり九州が濃厚だよね 中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
かなり広域やな >>25
本部は四国
あの不自然な島の形はあれは船だ
四国って元々移動出来る島なんだ 伊勢遺跡ほどセンセーショナルな遺跡もめずらしいよ。 大岩山の銅鐸は、出雲、神岡(神戸)と並ぶ大量埋納。
古式から三遠式、近畿式と満遍なく揃っている。日本最大の銅鐸もここのもの。
銅鐸の埋納と伊勢遺跡の建設との関連が言われている。
十分に広域だよ。 その名も伊勢遺跡というところもミソ。
伊勢神宮の唯一神明造とほぼ同じ建物がここに立っていたわけだ。
こういう遺跡が突如出現してくるんだよ。 魏志倭人伝の解釈からなら日本中のどこだってありだろうな
神奈川県の大和だって
博多あたりから水行10日、陸行1月なら古代でも関東まで行けるだろ 伊勢遺跡と言えば孝霊厨が推してたところだな
あえて指摘しないが、もう書き込みしてるっぽいw 観光誘致はさておいて、日本海ってのが古代世界の主要航路なんだよ
東北や北海道から沖縄まで、対馬暖流は安全なハイウェーだった
ベトナムから琵琶湖まで、米で魚を発酵させる『寿司』の分布をみてみよう
海洋民がもたらした食文化が、江戸の寿司として発展したのだ 日本海側の寿司の分布だが、琵琶湖が北限でいいかな?
京都で繁栄した寿司文化が、二次的に拡散したってのもあるが・・・ 町おこしって
近江に邪馬台国とか言っても全然気分が上がらん 月夜見の祭祀場跡
神無月に首長たちが集っていたんだろう >>46
近江は3世紀以前に北部九州の海人族の入植を受けてるからね
周辺地域より先進性がある文化が突然現れるのは頷ける
https://biwako-genryu.shiga.jp/?page_id=603
> 安曇川周辺には、このアドやアマに関連する地名が数多く見られる。 安曇川町上古賀の「天川」や中央1丁目の「雨ヶ森」、新旭町安井川の「安曇」や
> 太田の「安曇連(あづみむらじ)」に関する社寺と「阿曇比羅夫(あづみひら ふ)」の墓、今津町南浜の「天川」などである。
> そして、これらに福井県若狭町の「海士坂(あまさか)」や県境の「天増川(あますがわ)」をつなぐと、若狭湾方面から饗庭野を経由して安曇川流域付近に
> 住みついた安曇海人の軌跡を示しているとみられている。
> また、移住の時期は弥生時代から始まって、3世紀以前に安曇川のデルタ一帯に定住したが、6世紀には当地域から姿を消したものと推測されている。
>
> しかし、この軌跡は安曇川の中流域から上流域まで延長できるようである。 朽木地域では荒川に「雨乞いの淵」が、支流の北川には、野尻の上野に「天ノ阪」が、
> 下市に「あまんさか」が川に面してある。 また、京都市左京区百井の集落東方には天ヶ森(標高812m)があり、百井峠の南南東には天ヶ岳(標高788m)が
> 安曇川の源流を見下ろすようにそびえている。 >>49
俺だけどね。
簡単にいうと伊勢遺跡は女王を輩出した国々が
集まる場所と言っていい場所だね。 百襲姫の父親である孝霊が本州の大部分に影響力を持っていたんだよ。それが二世紀の話。
その証拠に山陰から東海辺りまで孝霊の伝承が残っている。
出雲ではハッキリと月支国の船団と戦ったという伝承があるからな。 >>16
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km) 1里=75m @阿波 >>41
>こないだの阿波氏はずいぶんと攻撃的になってた
それは、トンデモ説だから攻撃的に聞こえるんだよ。 @阿波 邪馬台国自体が出鱈目だから何処でも存在を主張できる。
永遠に歴史家と小説家の飯の種だね。
絶対に答えは出てこない。 邪馬台国は銅鐸文化圏じゃないのにバカ過ぎて泣きそう まあ近江も大和朝廷に縁が深いのは確かだけど、邪馬台国はないな。 町おこしのためなら
何やってもいい、という風潮が腹立たしい
長い目で見るとマイナスだぞ
紛い物アピールしてんだから
普通に伊勢遺跡の良さを掘り下げろよ
地元民は反対すべきだ 日本民法の父、穂積陳重の『法窓夜話』を現代語に完全改訳。
法律エッセイとして異例のベストセールスを続けた名著を
手軽に読みやすく。短編×100話なので気軽に読めます。
法窓夜話 私家版
続法窓夜話 私家版
https://twitter.com/FpgfZckfxhhgFVf/status/1152695634828201984
(直リンNGのためtwitterが開きます)afn
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>67
>絶対に答えは出てこない。
とっくに答えはでているよ。 「其山有丹」で確定済み! @阿波 >>67
>絶対に答えは出てこない。
践祚大嘗祭の麁布調進で、確定済み! @阿波 魏志倭人伝に邪馬台国は帯方郡から一万二千里と書いてあるから九州以外は有り得ないのに
自分達の利益の為に歴史を勝手に書き換えて平気な畿内人は日本人ではない >>77
万二千里をそのまま当てはめたら赤道付近まで行ってしまうから
魏志倭人伝の里は正しくないと判明してるのに、それを九州だと言い張るやつ何なの?
しかも畿内説を歴史を書き換えるだの、日本人でないなどと中傷までするし >>77
>魏志倭人伝に邪馬台国は帯方郡から一万二千里と書いてあるから九州以外は有り得ないのに
行程記述とは別に、「自郡至女王國萬二千餘里」がポツンと書かれているのは、行程記述とは別項目だから。
帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で一万二千余里を記述したもの。
だからなおさら、各行程記述とは切り離した。 直線距離を言いたかったから。 @阿波 これが日本の好古楽の現実
真実なんてどうでもいいのさ
ゴッドハンドも復権させればいいのに >>79
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>79
近畿パーってガチチョンじゃね?
レーダー照射問題のバカチョンとそっくりww とりあえず、邪馬台国は近畿かそれ以東には無い。
これはすでに証明が完了している事実。 邪馬台国は当然畿内の河内から奈良盆地周辺一択だね、女王国は瀬戸内海周辺で。
この伊勢遺跡は倭国30国が集まる場所。
その後卑弥呼が都をヤマトとする事になる。 畿内説=学問
九州説=ファンタジー小説
実際、九州説を支持してる専門の学者はいない
短里や遺跡を無視しての行程パズルがファンタジー小説の典型例 近江が開けてた事自体はその通りだと思うが、邪馬台国っぽいものが無いのと
流石に近江だと魏志倭人伝に琵琶湖(淡海)について記述があってもいいんじゃないか? 支那の史書の傾向から言って内容の信憑性は薄いよ
邪馬台国はどこかなんてムー大陸やアトランティス大陸はどこかレベル
偽史倭人伝 >>90
逆だろ
畿内説=ファンタジー小説
九州説=学問
魏志倭人伝を素直に読めば九州説以外はありえない。畿内には刺青(鯨面文身)の習慣も
海洋民族を思わせる海にもぐって魚貝類を採り、大魚や鳥よけに刺青する習慣もない。
畿内=邪馬台国→大和王権に無理やり結びつけるための珍説の類 >>93
倭人伝だよ、邪馬台国伝ではないから記述に何の問題もない。
それに弥生時代の丹山が紀伊半島にある時点で倭は紀伊半島を含むのは確定済み。 北九州に至るまでの旅程は詳しく記述してあり、特に伊都国は重要であったらしくてかなり多くの事を書いてあるからその近くにあったとしか思えないな
北九州から近畿に至るまでにあったであろう国を軒並み端折ってしまうとは考えられないから >可能性低いが、町おこしに活用
ウソも100回語れば 事実ニダ 投馬国や邪馬台国は戸数や日数距離から相当遠方なのは記述あるからな。
伊都はその為半島に近いあの場所にある。
当初、丹波から畿内にかけてがメインルートだが孝霊や百襲姫が活躍する二世紀には瀬戸内海が使えるようになった。
その当時九州中部から四国は狗奴国だろう。 >>93
九州説を支持する専門の学者がいないのに、九州説は学問です(キリッ
ド素人のみが言い張ってるだけでも、九州説は学問です(キリッ
おもしれー
考古学的事実を無視して、倭人伝を曲解してるけど、素直に読めば九州www >>94
>それに弥生時代の丹山が紀伊半島にある時点で倭は紀伊半島を含むのは確定済み。
その言い草は、九州説と同じだよ。 わははははは @阿波 >>95
魏使が伊都国まで、もしくは伊都国周辺までしか行ってないからでは? >>79
帯方郡から半島南端の狗奴韓国まで7千里。
狗奴韓国と対馬と壱岐と九州北端の末盧国の間がそれぞれ千里と書いてある。
九州北端から残り2千里だと九州以外は不可能なのに畿内人は日本語も中国語も分からないキチガイしかいない。 邪馬台国は宇佐神宮周辺です
地下を掘れば判明するよ >>99
阿波にだけ極端に拘る君の書き込みのも、九州説の人と全く変わらないけどなw そのうち邪馬台国は青森にあったとか言い出すやつが出てくるぞ >可能性低いが、町おこしに活用
この素直さ
嫌いじゃない 滋賀は流石になあ
琵琶湖の描写があれば良かったのに 滋賀も候補としては充分あり得るが、肝心の伊勢遺跡は年代が1から2世紀だからね。邪馬台国の年代とは合わない。
その後で巻向遺跡が表れるから、邪馬台国は畿内が中心というのが最近の主流だよ。
伝承や考古学的にも近江から信貴山周辺への人の流れはあるからな。 近江は大和の邪馬台国にも東海の狗奴国にも大きな影響を与えている
邪馬台国説なんてバカ丸出しの論争に加わるよりも、その重要な立ち位置を追求した方が意義深い >>101
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。
子供みたいに延々と無意味な論争は時間の無駄。 @阿波 >>110
奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝によると、
卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。 邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
>>114
半分あってる
邪馬台国は畿内に中心があるが、いろんな国の連合なんで関東から九州に至る広範囲に邪馬台国的な痕跡が見つかる
これが「オラが村邪馬台国論」が出てくる混乱の元になってる >>113
卑弥呼は鬼道使いで戦闘をするような場所に
宮をもつなんて有り得ないんだよw
しかも殆ど女官で。
巻向なら背後は三輪山で周辺は水銀しゅ >>113
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。
子供みたいに延々と無意味な論争は時間の無駄。 @阿波 別のテヨン族と思いますよ
熊野の道はつながってない
てゆうか紀伊本線(単線だべ)沿いに小盆地あるのと
女の顔が美人とモンゴルと極端にあるんだよな
おまいらも 歩け ここはかなり大規模な何かがあった訳で無茶苦茶な話じゃない
吉野ヶ里みたいなしょぼいもんじゃない
僅かに時代がずれてるんじゃないかってだけだから >>103
そもそも一万二千里は実数ではないのよ?
一番わかり易いのは、後漢書東夷伝での倭国の位置
楽浪郡徼去其國萬二千里
帯方郡ではなく、楽浪郡からでも一万二千里で倭国なんだぜ?
他にも後漢書地理志なんかにも、一万二千里前後の国々が出てくるが、全部実数ではない。
ずっと遠くにある。を比喩的に表現するのが一万二千里の用法。 >>120
孝霊は瀬戸内海から中国、出雲まで成敗した伝承、皇子である百襲姫や吉備津彦の瀬戸内海での活躍したんだけどな。
しかもこれは皆ヤマトから西日本へ出発した話。畿内説で全然問題ないのだが。
阿波にはそういった伝承が皆無な点がまず苦しいね。 糞爺がいくらかけら見ても無理
このころは女系家族なんだから
女の顔 とおっぱいは大事だ 卑弥呼「みんな外れとるわ。正解は朝……おっと誰か来たようだ」 >>128
>阿波にはそういった伝承が皆無な点がまず苦しいね。
君も初心者のようだね。 ベテランのトンデモ諸氏は、そんなことは、もう聞かないよ。 @阿波
「倭迹迹日百襲姫命」は徳島市国府町(旧黒田村)の第七代孝霊天皇「黒田廬戸宮跡」で幼少期を過ごし、
阿波市市場町「箸供養」からほど近い「奈良坂」より阿讃山脈を越え、讃岐地方に移動した。
そして、その類い稀な能力を駆使して水を利用した農業の神として祭祀されている。
阿讃山脈を越えて留まった地域が「水主神社(香川県東かがわ市水主1418)」付近。
「水主神社」から北上すると倭迹迹日百襲姫命が海岸に舟を留めて休息したとき、
船人が舟の艪を海岸の松にたて掛けたとの伝承がある「鱸懸神社(東かがわ市馬篠440番443番)」。
「鱸懸神社」を少し北上すれば「袖掛神社(東かがわ市小磯)」。そして西へ移動して高松市内に鎮座する「船山神社(高松市仏生山町大字百相神宮寺)」。
船岡山は倭迹迹日百襲姫命が水主神社からこの周辺に移動して来て住んでいた地。
船岡山は古く百相(もまい)郷に属し船山と称し、地名の百相(ももそ)は倭迹迹日百襲姫命の名に由来すると伝わる。
当地は田村神社の別当寺であった神宮寺(百相廃寺)のあった場所である。
次は讃岐一宮の「田村神社(高松市一宮町286)」。倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(別名 吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命を祭神とし、
これを「田村大神」と総称する。 >>125
そりゃ紀伊半島沿岸は海人の集落だし。
古来色んな場所から美人をさらってきた歴史。
その海人集落と巻向遺跡の交流も、最近
活発だった事が土器の発掘で確認出来たしな。 >紀伊半島沿岸は海人の集落
そうじゃないんだ 潮岬で海流が東西に分かれていてまったく別の人たちと考えられ
伊勢神宮を作った人たちはそこから千葉まで分布している
千葉や東海に所どころ難読地名があるのはそのせい >>131
孝霊天皇の宮が田原本、鍵 唐古近くだと書いてあるじゃないかw
もっと詳しく教えてあげると百襲姫の母親が阿波か淡路島だという伝承もある。
恐らく母親が阿波の縁なんだよ。
だから箸墓に阿波や讃岐の痕跡があるのも
説明出来る訳だ。
そもそも日本史板の阿波スレは本来俺の隔離スレとして立てられたんだからなw >>134
少し勉強不足、元々伊勢方面へは琵琶湖経由で人が動いたからな。伊勢遺跡の名前の通り。
だから墨書土器が三重県松阪辺りに当初集中したんだよ。 船で大津に上陸した人たちが延々と熊野古道を南下してきて
最終的に海に出たのが伊勢神宮
はじめは山の上じゃなくて街の真ん中にあった
町の発展のため出てってくださいというわけ
今の天チョコリンの参拝は同民族だが別豪族でちぐはぐだ
馬鹿安部らの策謀 卑弥呼が近江はねえよw鬼門でおじゃる!魑魅魍魎が蠢いてるでおじゃる!つって嫌がるわw >>136
俺歩くのは断然得意だよw
それに紀伊半島の主要なら殆ど走破しているぞ。古道や山岳遺跡の調査でね。 邪馬台国が魏に借りていた巨額ODAの借用書が発見され、中国政府が邪馬台国の比定地を自称する自治体に支払いを要求
当時からの複利計算で時価数十兆円、なんてのを期待しているんだがなw >>103
だ・か・ら、それらは魏志倭人伝の里数が正しくないことを表してるだろが
何を言ってるんだ >>141
中華帝国が当時から落ちぶれてたと喧伝するだけだがw >>127
楽浪郡(平壌)と帯方郡(色々説があるが、鳳山郡からは帯方太守 張撫夷??とある墓が出てる)
の位置ってあんま変わらんしな。大体同じ距離になるんじゃないの >>134
>千葉や東海に所どころ難読地名があるのはそのせい
難読地名ってなにを指しているのか知らんが、いずれにせよ、もとは倭国(阿波)の地名だよ。 @阿波 >>135
>孝霊天皇の宮が田原本、鍵 唐古近くだと書いてあるじゃないかw
倭迹迹日百襲姫命の父にあたる第七代孝霊天皇の陵墓と黒田廬戸宮跡は、旧黒田村であった徳島市国府町芝原の蔵殊院あたり、
百襲姫の弟君にあたる日子刺肩別命は、蔵殊院から東に5km隔てた徳島市不動町の式内社「天佐自能和気神社」で祀られている。
王族らによる阿波(倭)から讃岐(山背・難波)への進出は、孝霊天皇の御子時代から盛んになり、
第十五代応神天皇の御宇に至って、ついに香川県さぬき市津田の「前期難波宮」に皇居を営むことになる。 @阿波 >>146
>ほら、また九州説と同じ事言ってるぞw
勘弁してよ。 千葉や東海は、阿波忌部の痕跡だらけを知らないのかね? それ、恥だよ。 @阿波 邪馬台国の起源は近江ニダ!
宇宙の起源も近江ニダ!
間違えないニダ!
金欲しさに起源を主張する朝鮮人たちw >>144
ソウル近郊にあったとされる帯方郡から狗邪韓国までが7000里としたら、平壌近郊の楽浪郡から狗邪韓国までは更にプラス4000里くらいになるかな? >>147
>倭迹迹日百襲姫命の父にあたる第七代孝霊天皇の陵墓と黒田廬戸宮跡は、旧黒田村であった徳島市国府町芝原の蔵殊院あたり、
弥生時代の遺跡で示さないとな。
田原本だと鍵 唐古遺跡近所の保津、都遺跡が孝霊や百襲の伝承地だしこの辺りは弥生時代の遺跡密集地帯だよ。勿論巻向や南の橿原遺跡群とも数キロしか離れていない。
まあ阿波が重要なのは間違いないが、邪馬台国ではない。それだけの話だねw 九州に大きな勢力がある=都会なら神武が急に
イケてる俺に相応しいイケてる土地に上京したいつって東征しない
筑紫瞬殺、瀬戸内二か国平定。畿内に入って大苦戦して、そこかしこに神社建てる程
最後は酒を飲ませて寝込みを襲ってまでしてる
その後九州は特に探題も府もなく放置され、白村江の後に対大陸で大宰府が出来るが
この時に九州で軍事衝突があった話すらない
そして後年大伴旅人と山上憶良は大宰府へ 左 遷 された都落ちの歌を唄う
まあ、九州はカチンとくるけん根切りの文化だから破壊し尽くしたつーなら知らんが ひょっとして、邪馬台国を主張している地域ってBがある所…?(;´・ω・) >>128
時代が全然違うだろ。キチガイなのかお前はww 邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
>>151
>田原本だと鍵 唐古遺跡近所の保津、都遺跡
そんなへぼい遺跡を持ち出して恥ずかしくないの? 孝霊厨さん。
徳島市国府町は、鮎喰川下流弥生集落遺跡群だよ。 矢野遺跡や名東遺跡、庄・蔵本遺跡など、保津、都遺跡などお呼びじゃないよ。 孝霊厨さんもその桁違いを当然知ってる筈。 わははははは @阿波 >>158
お前近畿パーの悪口そこまで言うか?
攻めるねえwww >>155
>卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
なにを勘違いをして、言ってんの?
「有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた」のは、「忌部はん」 が全国展開していただけのこと。 ごく簡単な事を小難しく言うもんだねw @阿波 まーだ言ってるのか
後漢時代に近畿にそんな大勢力があるわけないだろw 邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
>>165
>卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
なにを勘違いをして、言ってんの?
「有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた」のは、「忌部はん」 が全国展開していただけのこと。 ごく簡単な事を小難しく言うもんだねw @阿波 >>157
勿論遺跡内容は把握してるぞ、実際実務で
行ってもしてるからな。別に桁違いとは思いもしないが。
が、邪馬台国や百襲や孝霊天皇と結びつかないなら無意味だからな。
地名が似てるからとか、妄想だけで語るなら九州説と同じだぞw
その点伊勢遺跡ならその後の畿内や奈良盆地の人の流れを伝承と共に説明出来るからな。
今のところは阿波は百襲の母親に縁がある国、
それなら幼少で百襲が淡路島へ向かうという
伝承とも合致する。 阿波とか言ってる奴は古語拾遺よりも遡れない忌部氏のホラをそのまま信じてるんだろうな
名前だけの朝廷の品部として分布してる忌部を「忌部氏の勢力圏だ」とか思い込んでるタイプ
資料とかまともに読まないで珍説サイトだけしか見ていないと言う奴になるんだろうとよく分かる 大国主、スクナヒコナ=月夜見の祭祀場跡だろ
卑弥呼に滅ぼされた銅鐸と勾玉の国の祭祀場跡 >>168
>地名が似てるからとか、妄想だけで語るなら九州説と同じだぞw
ははははは、地名とか伝承は、昔から君の得意じゃないか? 自分を棚に上げちゃイカンぜよ。
>別に桁違いとは思いもしないが。
本当に実務していたとは思えない発言だね。 ほんとかね? わははははは @阿波 例えば孝霊の伝承では饑饉で東海や近江で作物が取れず西に移動したとかな。
孝霊五年に自然災害が発生、琵琶湖が出来た(増水した?)や富士山が出来た、噴火した等東国で災害があった伝承も多い。
倭人伝にある倭が乱れた伝承を裏付けるものだろう。 >>169
またまた、新人さんかな?
ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 >>172
地名が移転した事を根拠にした事なんて一度もないわw
地名で興味があるのは本来の意味を探る事と、
どこが一番古いかだけだね、それをもって邪馬台国説なんてする訳がない、アホかと。
本当に実務していたら阿波国説なんてとれる訳がないからなw
まず阿波が三世紀最大戸数の国なんてバカにされるから、石野館長に聞いてくれば? >>178
史書が間違ってるとか言い出したら何でも言えるわw
涙拭けよ 邪馬台国否定されたら九州は日本の歴史に関われなくなるから必死過ぎw 神武は東征したんだよ
ヤマトたちのクニは東へ遷ったんだよ ツクヨミは奴国。
イザナギの右目=ツクヨミ=夜の食国=奴国=勾玉(本来は違ったはずだが月のこと)
イザナギの左目=アマテラス=筑紫平野の邪馬台国=鏡=太陽
イザナギの鼻=スサノオ=出雲=剣
中国の盤古伝説と邪馬台国、奴国、出雲の地理的位置とから出来た神話。
試験には出ないけど、正しいから覚えておくように。
※因みに三種の神器の雛形である鏡、勾玉、剣の組み合わせは最古の王と言われる奴国の祖型の吉武高木遺跡の甕棺墓からすでに出土しており
本来はアマテラスとも邪馬台国とも関係ない。
アメノミナカヌシやタカミムスビなども元々は奴国の王のはずで、この吉武高木遺跡に葬られているはず。
日本の歴史が騙りの歴史であることが良く分かる。
徐福伝説も恐らくは狗奴国(球磨国)のことだろうし。
>>180
>まず阿波が三世紀最大戸数の国なんてバカにされるから
ははははは、それは畿内だよ。 だって碌な弥生後期集落遺跡が無いんだから。 そうでしょ? 遺跡発掘実務屋さん。
吉野川流域や鮎喰川流域の阿波の弥生後期集落遺跡群も当然知ってるでしょ、遺跡発掘実務屋さん。
畿内なんて阿波の足元にも及ばないよ。 わははははは @阿波 >>182
太宰府とか磐井の乱とかあるやん?
それに神武東征は日向国からスタートだし、九州が日本史に関われないなんてことはない。 >>181
このキチガイ野郎。お前が先に言い出したんだろが。
大体、魏志倭人伝も史書だろが。
近畿パーがいかにキチガイか良く分かるだろ?
まるで全然話しにならない。
日本の歴史は騙りの歴史。
近畿日本は邪馬台国を騙り、邪馬台国は奴国を騙り、奴国は狗奴国を騙り、、、
残念ながら、これが現実。
今まで掘り起こしたところの中から邪馬台国を決めよう
この発想がもうありえないわ >>186
歴史の動きにほぼ関わってないじゃん。都落ちの大宰府w 東へ勢力を拡大していったのが狗奴国だろう。
それがクニのルーツだろう、という説だね。
邪馬台国とはヤマト、ヤマイチ、ヤマイ、ヤマタイどれでもいいが、元々一番古い資料でも
ヤマ◯◯は畿内に集中しているからそこが
本来の場所。
これは移転なんて有り得ない。
そもそもヤマダイ、ヤマタェなら倭名抄の時点で畿内で確認出来る。 >>187
俺は間違いだなんて書いてないぜ?
萬二千里は実数ではなく遠方を表す比喩表現だと書いた。
実例として楽浪郡をあげたし、他にも後漢書地理志に同様の実数でない記述があると書いた。
比喩表現と誤記は全くの別物。 九州〜東海の大部分が邪馬台国だったことにすりゃ良いんじゃねえの?
中心地の場所も時代によって移動してたろうし
この説なら、比較的対立は少ないわ
いい加減、狗奴国に関しての調査も力入れてくれないかね?
こっちも南九州、日本海側、近畿、関東せ等色々せな説がある 日本のウソにウソを重ねたのが日本のウソの無い歴史。
ウソの歴史がありのままの歴史。
こういうとてもややこしい話し。
ウソにウソを重ねたのが日本のウソの無い歴史。
ウソの歴史が日本のありのままの歴史。
こういうとてもややこしい話し。
カチンとくるけん一帯はこうでもしないと歴史も文化もないんだよw >>79
長里ではないが、それを「正しくない」とは言えない
「九分九厘間違いない」に
「あとの9割1厘はどうしたんだよwww」と返す馬鹿 >>193
>いい加減、狗奴国に関しての調査も力入れてくれないかね?
だから、狗奴国は徳島県阿南市周辺の長国 だと、何度言えばw @阿波 >>185
吉野川流域の遺跡も当然知ってるよ?
勿論邪馬台国説なんて無関係で成立しないの
も判ってるw
最低でももう少しまとまった水田跡がないと
考古学的には候補としては弱い、弱すぎ。
まだ香川県や高知県の方が可能性あるよ。
畿内説でも三世紀末推定七万戸なら当然今の畿内エリアは必要だからな。
阿波なんて全然足りないよw >>197
間違いと誤記は同じに決まってるだろ。
間違いと比喩表現は別物だと言ってる。 近畿日本は邪馬台国の神話をかっぱらったwwww
とか言っても、その邪馬台国が奴国の神話をかっぱらってて、
さらに奴国もお前もかいっ状態。
とてもややこしく、とてもシンプル。
卑弥呼は魏に助けを求めてる、近畿からの広大な邪馬台国なら有り得ない。半島は当時混乱状態、馬韓、弁韓、辰韓、新羅王も逃げて来ている。近江は出雲からの勢力だろ。邪馬台国そのものは九州。 >>204
>>181
近畿パーガチでカタワwwwwww >>196
何のことかと思ったら、煽り運転のアイツかw で、そろそろ考えを改め無いと、
次はチョンが日本の歴史をかっぱらい
おっと誰も来ないぞ >>203
>吉野川流域の遺跡も当然知ってるよ?
畿内にはそんな稀有な遺跡ないでしょ?
>勿論邪馬台国説なんて無関係で成立しないのも判ってるw
そりゃ、畿内でしょ! 碌な集落遺跡もないんだからw 強弁いっても無駄。 ほんとに実務してたの? わはははは @阿波 >>98
権威主義の詭弁
>>105
どちらかと言えば纏向派に似ている >>190
そりゃ九州は地理的に日本の西の端だから、日本を統治しやすい場所ではないからね。
日本の歴史に関わるってのは、日本の統治機構でありたかったという意味なんか。
そりゃ無理があるよ。 >>204
↑
だからいい加減考え改め無いと結局こんなになるだろ?
こんなんでこれからもずっと行けると本気で思うのかお前らは?
わしはヤマト朝廷は、狗奴国が東進して作った説
邪馬壹国は連合が破綻して滅ぼされたとする >>198
九州はそうでも日本はそうじゃないんで巻き込まないでね?
と言いたいが、和気清麻呂がわざわざ宇佐八幡宮に行ったショボい事件の発端が大宰府だったなw
和気清麻呂自身は田舎の土人に大怪我させられて冗談ごとじゃ済まなかったが 近畿日本が九州邪馬台国を騙り、
九州邪馬台国が奴国を騙り、
奴国が狗奴国の徐福伝説を騙り、、、、
残念ながらチャンコロが一番正直。
orz >>207
文盲には比喩表現の意味がわからんのか。
ここまで来るとかわいそうになるな。 >>203
>最低でももう少しまとまった水田跡がないと
いまだに、水田、水田言ってんの? 西日本一帯の弥生の大洪水知ってるんでしょ? 遺跡発掘実務屋さん。 @阿波 100国だった倭国が倭国大乱で30国と70国に分裂し、たまたま卑弥呼のいた九州邪馬台国30国が記録に残っていただけ。
同じ時代に出雲にも滋賀にも奈良にもそれなりの国があった。
ただそれだけの事。 >>200
意味不明
文句があるなら他人に分かるように書け >>203
>畿内説でも三世紀末推定七万戸なら当然今の畿内エリアは必要だからな。
そりゃ、あれだけ集落遺跡がないんじゃ、畿内いっぱいにふろしきを広げざるを得ないわな。 わははははは @阿波 >>210
実際の実務は15年前位までかな、鏡や西日本の
遺跡関連は結構手伝ったぞ。
多分君の見ている資料も手掛けたかもしれないよw 魏志倭人伝読んだら、南国っぽかったから
たぶん沖縄だと思う
んでなんか一番ワルモノみたいな狗奴国が
一番正直で一番精強wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
orz >>223
それにしては、お粗末な認識だね。 あまり、自慢げに言わないほうが吉。 @阿波 >>225
>一番正直で一番精強wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
そりゃ、なんせ辰砂の山を持ってるからね。 @阿波 >>218
戸数維持するには水田は当然必要だけど?
少なくとも畿内や九州以上の痕跡なんて阿波からは未確認だよ、願望だけで論を組むから粗だらけになるんだよ。
弥生の大洪水?
そもそも弥生の何時の話だw
三世紀の邪馬台国と関係あるのかな? >>212
ワシントンもニューヨークも東の端だな
北京は北の端 >>230
宇陀や吉野の丹山プラス畿内の二上山は青玉も採れるけどな、しかも河内の豪族は河内青玉w (本命)畿内説
(対抗)九州説
(穴)四国説
(大穴)近江説 >>231
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水。
灌漑水田稲作は壊滅です。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。 徳島大学 >>1
今はGHQにいろいろ因縁と言うか屁理屈つけられている日本書紀だが
意外と日本書紀が一番正確だぞ
日本書紀には魏志倭人伝の貢物の記述も出ている
倭国大乱の時期も九州各地の反乱の景行天皇やヤマトタケルや神功皇后の夫の仲哀と合致する
しかも神功皇后の時代は魏志倭人伝の女王とも合致するし女寡婦で夫を失い一生独身そして弟の存在まで合致する
日本書紀を読んでいない現代の多くの日本人には理解できないだろうが
ついでに本居宣長の偽女王説を重ねれば日本書紀と魏志倭人伝は合致するぞ
ちなみにヤマトタケルは魏志倭人伝以前の歴史なので遺跡の時期とも合致する >>234
ちなみに神功皇后は三韓征伐までしている
だから皇居も近畿から山口そして福岡などに流転している
また夫の仲哀天皇の父(祖父)であるヤマトタケルノミコトは
九州から仙台あたりにまで遠征をしている >>236
数年前まではGHQの洗脳が進んでいて
魏志倭人伝のことは日本書紀には一切書かれていない事になっていた >>206
当時の風俗風習が記述されているけど馬を使っていないと書いてあるからな
当時の倭国は相当狭い範囲であったと想像できる >>226
文盲は涙拭け
楽浪郡徼去其國萬二千里
これを書き換えることは不可能。
萬二千里からの逆算式では邪馬台国の場所を特定できない。
仮に帯方郡の位置をソウル近郊から平壌付近にすると、今度は方四千里から算出する単里が77mよりもっと短くなる。
どちらにしても苦しいのぅ >>236
神功皇后であるオキナガタラシヒメは近江の豪族息長氏の出身という話があるな >>242
ヒミココという男性の記述もあるから姫の意味は無いのでは 何処にあるにしても
邪馬台国及びその従属地域の領土面積は、どの程度なんだろ?
九州北部だけ、近畿だけ等やそれ以下じゃ、
あまりに狭い気がしてなあ >>242
卑弥呼って書いてるのは魏の役人だよね?
彼らが耳にした音を漢字表記したのが卑弥呼。
卑弥呼をヒミコと読むのは日本人の漢字の読み方なので、当時彼らが耳にした音とは違うんよ。
当時の魏の役人がどんな漢字の読み方だったのか、詳細にはわからないが
べミフもしくはビミフと発音していただろうとは推測されてる。
現代の日本語読みにしてしまうと色々誤解してしまう。 >>240
それは魏志倭人伝の記述だからな
半分は間違いだと考えたほうがいいぞ 野洲より南は銅鐸文化圏だから邪馬台国そのものでは無くても同系の女王国くらいは在ったかも知れないな >>246
>邪馬台国及びその従属地域の領土面積は、どの程度なんだろ?
面積はつかんでいないが、支流も含まれるので、そうとう広いよ。
北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)は、粟国(旧吉野川流域北岸勢力・旧吉野川流域南岸勢力・鮎喰川下流域勢力)
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は、長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力・海部川流域勢力) @阿波 永遠に答えは出ないよね?
魏志倭人伝がデタラメ過ぎて。 >>253
答えはとっくに出ている。 「其山有丹」で決着済み だと、何度言えばw @阿波 >>241
それこそがGHQが考えた日本史
何も知らんから日本の歴史もいい加減なものになる
実際には弥生人とは中国の殷の子孫である
朝鮮の初めての国家も中国の箕子(殷人)が建国した国
つまり朝鮮半島の初めての国家を建国したのは中国人で
それが今の日本人に住む弥生人の祖先
殷の軍隊では騎馬どころか既に弓兵付きの戦車が存在しており
非常に強力な軍隊を保有していた
それが殷人=弥生人だからな
その頃から既に殷の人々=弥生人は日本人=縄文人と深いつながりがあった
それは古代から大陸に既に日本人が進出していたから
だから朝鮮半島南部には古代から任那日本府という日本の領地が存在していた >>235
だから邪馬台国は二世紀末から三世紀にかけての話だよw
遺跡や出土品を語るならこの時代の物を根拠にしないとな。
弥生時代の鉄が多いから邪馬台国は九州だ!と主張する九州説の連中と全く変わらない論法だよ、それ。
というより九州説の成り済ましでしょ、日本史板ではそう指摘されてたし。 >>8
(h)ttp://donnat.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2016/10/22/163_mini.jpg
魏の都洛陽から公孫淵の牙城の襄平まで四千里と魏志明帝紀に書いてある。
帯方郡が今の平壌に在ったのか漢城=京都=ソウルに在ったのか知らないが
地図を見ると洛陽から襄平まで四千里と
平壌から福岡まで万二千里と
大して変わらんわwwwwwwwwwww >>256
日本史板の池沼こと奥山くんこんにちはw 帯方郡から一万二千里で東側に海がある
その千里先に別の倭人が住んでいる国がいくつかある=四国
宇佐しかない
丹も青玉も豊富に取れた豊の国 >>244
日本書紀を読むといい
神功皇后は父が天皇の子孫で母方が朝鮮系 >>256
>遺跡や出土品を語るならこの時代の物を根拠にしないとな。
ははははは、だから、畿内なんて「遺跡や出土品を語るならこの時代の物」において、倭国(阿波)の足元のも及ばないのはよく承知してるでしょ? 遺跡発掘実務屋さん。 @阿波 「邪馬台」は単に日本語の漢字への音写にすぎない。
こんなものに振り回されて論争する馬鹿らしさ。
これに該当する日本の地名はヤマトしかない。
ヤマタイなどという地名や日本語は歴史的にも見た
ことも聞いたこともない。そういうことだ。 >>258
誰?俺の名前に掠りもしてないぞw
名字はひらがなでは三文字だからな、念のため。 >>255
少し訂正
朝鮮の初めての国家も中国の箕子(殷人)が建国した国
つまり朝鮮半島の初めての国家を建国したのは中国人で
それが今の日本に住む弥生人の祖先 >>256
>というより九州説の成り済ましでしょ、日本史板ではそう指摘されてたし。
九州説信者からも、よくそんなこと言われるよ。
畿内説も九州説も叩かれると、そう思うようだ。 わははははは @阿波 >>262
ヤマダイかヤマダエという古地名なら倭国ヤマトに倭名抄に複数ある。
特に大坂山近くは神功皇后の母親がいた場所でもあるよ。
また池上曽根遺跡とこの伊勢遺跡の近くにも
一応今も残ってるよ。 魏志倭人伝の頃から人魚やカッパのミイラを作ってたパチモン作りのいかがわしい輩が近江にはいたニダヨ。
呪われ忌み嫌われた末裔がいまだにいるニダヨ。 >>266
つまり君はただの煽りとしか思われてないんだよw すぐに渡来人に結び付けたがる人がいるが弥生の九州文化も畿内の邪馬台国の分かも日本独自色がかなり強くて渡来人の影響下になんてない >>262
伊都国のトは「都」だ。
当時本当にヤマトという名があったのなら、「邪馬都」と書かれていたはずだ。
他の史書でも語尾は「タイ」と読む文字が一貫して使われている。 >>269
>つまり君はただの煽りとしか思われてないんだよw
はははは、だろうね。 痛い所を突いてくるからね。 @阿波 補足すると奈良のヤマダエ、ヤマダイ郷は山直とかく。場所は大坂山近くで実はここが青玉が
採取出来たと言われて場所だよ。
今も小さいのなら採れるし後は金剛砂な。
今は故人の神社の宮司さんに聞いた話。
最古の倭名抄に一度だけ記述された地名だが、
少なくともヤマダイ、ヤマダエと呼ばれていた場所だよ。 九州だからみんな同じでどこでもいい
とか思い込んでるのも多いな
宇佐や宗像はいわゆる福岡の文化と別系統に属してる
どちらかと言うと山陰系
九州は弥生時代を通じて一度も統一されてない土地
全部バラバラ >>272
痛い奴だとしか思われてないんだよw
まあ俺も人の事は言えないのは自覚してるが、
少なくとも考古学や伝承に関する情報量だけは負けない自信はある。 >>211
九州説に学問と呼べる要素がどこにあるんだよ
短里とか月刊ムーの世界の話 >>252
(本命)畿内説
(対抗)九州説
(穴)出雲説
(大穴)四国説・近江説 >>271
「台」は北朝系隋唐音でタイと清音
北朝≒北狄系の北京官話でもタイと清音
「臺」は北朝系隋唐音でダイと濁る
「臺」は南朝系の流れを汲む広東語でトーィと読む。
唐代後期、五代にはほとんどの中国語方言で濁子音が清音化してる。 >>281
当時の魏は広東語ではなく、呉語だ。
よって「タイ」だよ。
他に「堆」もあるだろ。 >>243
萬二千里 を盲信してるからいつまで経っても
邪馬台(ヤマト)国の位置は不明のままだ。 「魏志倭人伝はデタラメ。国名もヤマトではない」
「だよね。アハかもしれないしね@」
「だよね。倭国のトップっていうのも丹が出るっていのもデタラメ」
「いやそこは間違わないだろ」 >>257
大陸は長里を使ってたんじゃなかったか
>>273
ヤマ+アタヘだろう
atapeかatafeであってataiになるのはだいぶ時代が下る 「3割3分3厘」
「いや3分3厘3毛だろ」
「野球では3割3分3厘って言うんだ」
「そんなはずないだろ。五分五分って言うし九分九厘って言うだろ」
「いやさ、お前は正しいよ。でも野球では3割3分3厘って言うんだ」
「そんな月刊ムーみたいなことあるわけないだろ」 近江の立ち位置は面白い
大和の邪馬台国とも、東海の狗奴国とも密接な関係が見える
邪馬台国が成立した時には近江そのものは邪馬台国に吸収されて、本体は東海に遷って狗奴国勢力を形成したんじゃないかと思う つか本当の考古学的意義なんて誰も興味ないからな
伊勢遺跡とか凄い大切な遺跡だけど、ヤマタイコクガーとか言うアホ話にしか乗ってこない
邪馬台国所在地ネタで興味引くとか苦肉の策だろうな >>277
>少なくとも考古学や伝承に関する情報量だけは負けない自信はある。
情報量だけは負けない自信があるかもしれないが、畿内に弥生後期集落遺跡が倭国(阿波)に比べて圧倒的に少ないことも知ってるよね? わははははは @阿波 >>289
>伊勢遺跡とか凄い大切な遺跡だけど
倭国(阿波)の遺跡の比じゃないよ。
「阿波の国の概説」
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf
↑
他説を凌駕する、倭国(阿波)の圧倒的考古資料 @阿波 >>247 >>250
江戸時代より前に無声声門摩擦音+母音の
ha hi hu he hoという発音は日本語に無かったから
三世紀の日本人が卑弥呼をべミフ、ビミフ、ヒミフ、ヒミホなどと
発音して帯方郡の使者或いは魏の都=洛陽の役人が
卑弥呼と書いた可能性は限りなくゼロ。 可能性低いって自覚してるなら
デマ振りまくのやめろよ土人ども 加茂宮ノ前遺跡(上)
阿南市加茂町にある加茂宮ノ前遺跡のは発掘調査では注目すべき成果がいくつもあった。
その一つに縄文時代後期(約4千〜3千年前)の集落跡の発見を挙げることが出来る。
集落跡からは、竪穴住居2軒のほか、屋外炉(火を燃やした跡)、土坑などが見つかった。
注目されるのは、県内で初めて確認された円形配石遺構16基だ。
1基の円形配石遺構は、直径が1〜3m。
人の頭よりやや大きい砂岩の河原石を円形に並べたもので、円の内部には小石や、白色の小円礫(砂利)が敷き詰められていた。
また、16基あるサークルが一部重なり合っていることや出土した地層に高低差があることから、全ての円形配石遺構同時期に作られたのではなく、長期間にわたって順に造られたと考えられる。
配石遺構は、主に祭祀施設として利用されたと考えられる。
縄文時代前期から中期(約7千〜4千年前)ごろ、中部地方を中心として直径が50mを超えるような環状列石(ストーンサークル)が造られるようになった。
後期に入ると、その分布は東北地方にまで広がる。
一方、西日本では、こうした大型の環状列石は造られることはなく、代わりに小型の円形配石遺構が造られた。
しかし、発見された遺構は極めて少ない。
円形配石遺構が竪穴住居に近接している加茂宮ノ前遺跡の場合、日常生活と祭祀をした場所が一体として発見された稀な例として、全国的に注目されている。(県埋蔵文化財センター事業課長・氏家敏行)
2019年(令和元年)6月30日 徳島新聞朝刊
↑
他説を凌駕する、倭国(阿波)の圧倒的考古資料 @阿波 >>282
中国語で「堆」も對馬の「對」も「トゥイ」>「ツイ」というふうに
声調=平仄=高低アクセントこそ違え、同じ音読み=中国語読みだから
ヤマトゥだ。
あと「對馬」を「對海」と書いた版本も有るから
魏晋時代の「馬」も「海」もほとんど同じ音だというのが
藤堂明保著学研版漢和大辞典の考え方だ。 3世紀の日本語の発音はわからんしょ
何でみんな見てきて聞いてきたようなこと言えるんだ >>300
そりゃ、トンデモが得意だからさ。 わははははは @阿波 >>298
藤堂説は異文の問題とは関係ない
ちなみに明の呉音はミヤウだが、漢音をメイじゃなく「ベイ」だ、というトンデモない主張をしてるのも藤堂漢和大辞典だ 加茂宮ノ前遺跡(下)
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡は、那賀川の右岸、標高24〜26mの自然堤防上に立地している。
発掘調査で弥生〜古墳時代集落の中心部を確認した。
それ以前の調査成果と合わせ、竪穴住居が約100軒発見されたことになる。
県内の他の弥生時代集落では、鉄器が製作されたとみられる竪穴住居は各集落の中で1,2軒程度しかない。
ところが、加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末〜後期初頭の竪穴住居の約半数では、鉄器を生産していたことを示す鍛冶炉が複数設けられていた。
生産に関わる道具類と鉄鏃などの製品も出土した。
背景には、水銀朱の生産との関連が考えられる。
これまでの発掘調査で、石臼や石杵といった水銀朱の生産に使った道具類のほか、原材料となる辰砂が大量に出土している。
その流通ネットワークを通じて、当時の最先端技術だった鉄器の製作法とその原料の鉄が持ち込まれたと推測できる。
加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末〜後期初頭の竪穴住居からは、稀少な装飾品も多数発見された。
この時期の県内の他の遺跡からは、ガラス小玉や凝灰岩製管玉などが数点しか出土していない。
加茂宮ノ前の集落が繁栄していた証といえる。
県内の弥生時代中期末の鍛冶炉の発見例は、県内では加茂宮ノ前遺跡が初めてだ。
それ以外は鳴門市大麻町の光勝院寺内遺跡、徳島市名東町の名東遺跡、徳島市国府町の矢野遺跡など、いずれも吉野川下流域の遺跡に限られていた。(県埋蔵文化財センター専門研究員・田川憲)
2019年(令和元年)7月 1日 徳島新聞朝刊
↑
他説を凌駕する、倭国(阿波)の圧倒的考古資料 @阿波 >>243
黙っとけカタワww
それはつまり史書が間違ってるってことだろカス 乃はナイ、ダイだが
これがノ乙類に宛てられた
能とかほかにも使える字があったにもかかわらず
訓読みではない >>306
仮目波目波もいいけど、
弥都波能売はこちら。
「弥都波能売神社」 祭神 「水の神・彌都波能売神」 比定 八大龍王神社 @阿波 >>127
ねえねえカタワwww
それじゃ魏志倭人伝の記述と後漢書の記述と
どっちが正しいんだろうねカタワ?
wwwwwwwwwwww カタワ曰く
後漢書では沢山一万二千里が出て来るけど
正しい距離では無いけど間違いでは無いニダ
後漢書の記載と魏志倭人伝の記載が矛盾してるけど
間違いでは無いニダ
史書に書いてある通りと考えなければならないが
史書に書いてある通りとは考えてはいけないニダ
だそうですwwwwwwww
カタワwwwwwwwwwwwwwwww
近江は面白いよな
丹波や東海、大和と言った多様な文化圏の交差点になってる
特に邪馬台国出現直前の段階になるとここに特別な中心地が出来上がった様子が見える
それが伊勢遺跡
この遺跡が纏向との類似性も指摘されるように邪馬台国成立に大きな影響を与えている
ヤマタイコクガーじゃなくて近江の勢力の動きとして見ていく事でより大きな弥生末期の変遷を追える
古代史は邪馬台国の所在地探しゴッコだけじゃない 魏史倭人伝での邪馬台国と卑弥呼の一強なのが、こんな無理矢理な話を持ち出す原因だな
この時代に対しても、戦国時代みたいに各地に有力勢力が活躍したとの記録資料があれば
もっとニュートラルにやれるだろうに まああの領域と神殿配置と倉庫を見れば他所から支配階級が来て年貢を納めさせてたのが分かるだろ。
つまり九州邪馬台の属領ということ。
そもそも伊勢は人が住んだ痕跡がないからな >>294
ハ行転呼は平安時代に起こったのではなかったかな? 卑弥呼の墓は半島にある。これは事実
邪馬台国日本説はとっくの昔に破たんしてる >>311
魏志倭人伝も後漢書東夷伝もどちらも正しい。
比喩表現を実数で比較するのがそもそもの間違い。
魏志倭人伝、後漢書東夷伝どちらも
帯方郡、楽浪郡からずっと向こうにあると書いてあるだけ。
それを萬二千里と比喩表現してるだけだ。 カタワ曰く
後漢書では沢山一万二千里が出て来るけど
正しい距離では無いけど間違いでは無いニダ
後漢書の記載と魏志倭人伝の記載が矛盾してるけど
間違いでは無いニダ
史書に書いてある通りと考えなければならないが
史書に書いてある通りとは考えてはいけないニダ
だそうですwwwwwwww
カタワwwwwwwwwwwwwwwww
>>326
全く苦しくないが?
文盲には比喩表現を理解できないんだろう。
かわいそうだな。 こんな風な低脳なカタワじゃいやでしょ?
え、いやじゃ無い?
wwwwwwwwwwwwwwww >>329
つまり魏志倭人伝の記載を全く否定出来て無いとww
はい、論破ww >>332
カタワ的には桃です。
決めてなんだそうですwww 「万二千里は間違いです
南も東南も間違いです
七万戸も間違いです
日数月数は合ってます」
「いや何で」
「邪馬台はヤマトです」
「いやそれは間違いじゃないのかよ」
「丹が出ます」
「いやそれも」 論理的に否定できなくなると、火病を発症する子がかわいそうでならない。
楽浪郡徼去其國萬二千里
楽浪郡から倭国までも萬二千里ですよ? >>329
ねえねえカタワさん。
ただの比喩だってことは記録としては正しく無い、間違いだってことでしょカタワ。
ただの比喩だと認めた上で、その記述を使って他の書物の記述を否定するのは不可能でしょカタワ。
全部説明しないといけないのカタワ?
wwwwwwwwwwwww 邪馬台国近江説は奈良説よりも数百倍現実的。奈良説は絶対にあり得ん。
ね?
近畿パーがどのくらい近畿パーか良く分かるでしょ?
え、分からないって?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
邪馬台国とは別に近江帝国が存在していたってことだな もしかしたら真の列島の文化の源泉は近江なのかもな
多分邪馬台国はそれを利用しただけかも >>343
それは言い過ぎ
邪馬台国連合はその領域全体から文化を摂取してる
だから邪馬台国要素が領域各地から大小の差はあるが検出される
それが「オラが村邪馬台国論」が出るもとになってる
その中で近江は纏向や古墳の原型と言える要素を持っているのでかなり重要なコアの部分に近い存在であると思う
ここが中心にならずに廃れ大和が中心となっていく姿は色々と想像を掻き立てて面白い >>336
帯方郡は後漢末期に楽浪郡を分割してできたもの
なので分割前の文献には楽浪から萬二千里と書いてあって何もおかしくない
単に後の帯方郡がかつては楽浪郡の一部だっただけ
君の主張はその記述が楽浪分割以後のものであるという証明ができなければ成立しない >>343
>>59を見れば分かるけど近江は北部九州勢の植民地だよ
北部九州の勢力がどのように近畿に版図を広げたかの研究には役立つだろう 近江は丹後丹波を経由して出雲や大陸文化を得て独自の文化を形成してる
古くからの付き合いの大和や東海とも繋がりが深い
この交通の要衝に大きな中心地が登場したのはある意味道理だな 帯方郡(の都)から邪馬台国(の都)まで万二千里
楽浪郡の境(帯方郡の西北界)から邪馬台国(の西北界)まで万二千里 >>347
>近江は丹後丹波を経由して出雲や大陸文化を得て独自の文化を形成してる
まさに北部九州の海人の足跡そのものだな
>>59のとおり近江が北部九州の海人の植民地であったことを証明している >>291
え、畿内の方が重要な遺跡は圧倒的に多いけどなw
伊勢遺跡は畿内とは言えないかも知れないが、兵庫から堺、摂津から京都、和泉から奈良だぞ?
もう少し他地区も勉強した方がいいぞ。 そもそも北部九州が、阿波がとか全くナンセンスだね。
邪馬台国論は三世紀の国の話だぞ。
考古学的にみても伝承や文献解釈でも畿内しか既に選択肢はない。
伊勢遺跡はヤマトを都と定める直前の、大陸へ使いを出す30国が集まる場所だよ。
その為30の建物が円になっている。 >>352
無い無い、まったく逆だよ
邪馬台国のころには近江尾張伊勢越前は全部北部九州の海人族の勢力下
海人族は弥生時代から日本海も瀬戸内海も制圧している
この状況下で奈良の土着勢力にはノーチャンス
https://pbs.twimg.com/media/DsWScScV4AEIsU0.jpg
http://4.bp.blogspot.com/-mYi5TCXdsF8/VDnqBtD4d9I/AAAAAAAAA2s/YwNSV2jEEZc/s1600/018E8B387E69699_R.jpg
西日本を席巻した北部九州の海人族に対して、最後に残って抵抗していたのが山に囲まれた奈良盆地
それがついに北部九州に屈服して、南部九州の熊襲を除き西日本がほぼ統一されたのが3世紀末〜4世紀初頭あたり
それを境に鉄貧乏だった畿内にも急速に鉄器が増えていく この図の伝阿曇居住地(水色の丸印)を見てごらん
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1559278/18/54429718/img_3
北部九州の海人によって畿内は完全包囲されていたんだよ
独立を最後まで保ったのは山に囲まれた奈良盆地だけで、盆地の外の河内とかはもう北部九州勢に占領されていたわけ
だから製鉄遺構も盆地の外ばかりにしか存在しない
つまり近畿の製鉄遺構は進出してきた九州勢のものだったってこと
中心地のはずの奈良に鉄製品が僅少なのはそのせい
実際、畿内の目と鼻の先の淡路島の製鉄遺構からは九州系のカエシの付いたヤスが見つかっている
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml
>エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
>ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
>弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
>愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
>「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
>今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。 卑弥呼の墓が半島南部にあるのに
日本説は破たんしてるのよ 各地に分散させて日本全土を邪馬台国にしようという流れ
ヤマト政権=邪馬台国にしたいスレ主の強い意気込みを感じる >>353
話にもならないね。
まず邪馬台国に鉄が豊富なんて記述はない、
それに卑弥呼がおこなうのは鬼道、戦闘跡の
多い場所なんて逆に邪馬台国の候補とすれば
マイナス要因でしかないw
女ばかりの奥まった場所で、祀りをするんだよ。そうなると巻向なんて祭祀場として正に
ピッタリの場所だ。 >>347
>この交通の要衝に大きな中心地が登場したのはある意味道理だな
よくもまあ、そんなお粗末な遺跡で、中心地などと言えるね。 はずかしい。 @阿波 >>357
話にならないのは君だよ
魏志倭人伝の記述くらい確認したら?
「宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」(魏志倭人伝)
訳:宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している。
物々しい警備であったとさ 畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、巨大な銅鐸があった守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう
中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。
伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない
魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い
万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか? >>351
>え、畿内の方が重要な遺跡は圧倒的に多いけどなw
どこの遺跡だよ。 片腹痛い。 @阿波 >>357
>女ばかりの奥まった場所で、祀りをするんだよ。そうなると巻向なんて祭祀場として正にピッタリの場所だ。
その通りだな
祭祀遺跡と王の居城と言う大切な施設は今までなら村落の一番奥の柵の中に隠されているのが普通
ところが纏向は周りに何もない状態で単立して存在してる
これは単なる環濠集落なんて言うレベルを超えた広大な領域を安全な領土として確保しているとを意味している
また祭祀遺跡や古墳作成の為の大量の人員や物資をそこに動員できるだけの実力も持ち合わせている
纏向の邪馬台国が村落レベルのクニを脱却した大勢力の中心地であるとよく分かる
よく言われる吉野ケ里のようなそこだけで全てが終わってるような場所と比べる方がおかしい >>352
>伊勢遺跡はヤマトを都と定める直前の、大陸へ使いを出す30国が集まる場所だよ。
倭国(阿波)の足元にも及ばない。 恥ずかしくレベル。 @阿波 >>354
>北部九州の海人によって畿内は完全包囲されていたんだよ
北部九州に海人族はいないよ。 それは、筑紫忌部だ。 残念。 @阿波 >>359の通り、卑弥呼の宮殿は防衛設備が充実していたとされる
纏向(笑)には区画用の柵しかなく防衛設備は無い
ゆえに纏向は卑弥呼の宮殿などではない
畿内信者がどんなにウソを並べてもこれは覆せない現実 >>354
>弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
ちゃっかり、淡路を近畿に取り込んちゃってるよ。 わははははは 淡路は阿波の島。 残念だした。 @阿波 奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、
魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。 >>360
>政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
ああ、はずかしい。 @阿波 >>362
>祭祀遺跡と王の居城と言う大切な施設は今までなら村落の一番奥の柵の中に隠されているのが普通
>>359の通り、卑弥呼の宮殿もそうだったと魏志倭人伝に明記されていますが何か? これがまかり通りなら全国の温泉で「信玄の隠し湯」が出来るわ。
隠し湯なので文献等には一切残らないだろうから。 >>360
近江に出現した勢力は強大な王ではなく集落の長の連合のような性格だったと思う
伊勢遺跡が出来る前後くらいに王が現れたんじゃないかと思う
王権的な性格を示す文物がそれまで現れないのが証拠 >>359
大量の鉄製品なんて何処にも出てきてないよな。それに女王や女官しかいない場所なら警備なんて当然あるだろw
それに奈良盆地の入り口といえば亀の瀬越えだがここは弥生末期から製鉄民の集落でもあるぞ。だから金山姫、金山彦神社が存在するし、
周辺には鉄屎も沢山でる。
ここが後に大県の一大製鉄エリアになる。 >>360
>国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう
つまり狗奴国と戦争中で>>359のように物々しい警備がなされていた邪馬台国とは違う国だということだね 村落規模の『クニ』が、大和王権に統一されてゆく、その過程が面白いのだ
特に瀬戸内海の海賊国家による群雄割拠は、マジ面白くなりそう >>373
>大量の鉄製品なんて何処にも出てきてないよな。
出てきてなくても、あるのが邪馬台国だよ。 論外! @阿波 >>369
倭人伝に示されている女王の都は
女王の居城、祭祀の王、大きな墓、7万戸の人口、広大な連合の中心
と言う姿
そのすべてが存在している
むしろ他の地域にこれに該当する場所などないので何問題なく纏向=邪馬台国の都となる >>367
間違いだね、鬼道使いという見解が全く抜けている。
畿内や九州説問わず今までの研究者の弱点がここ。宗教学的な考察が全くなされてないから
間違うんだよ。
巻向の所在地は道教の考え方だと正にピッタリなんだからな。
東の背後に象徴的な山は必需品なんだぞ。 >>376
じゃ、別キャラ止めて九州説だけに戻りなよw >>373
>それに女王や女官しかいない場所なら警備なんて当然あるだろw
なに都合の悪い部分を見ないふりしてるんだ?
城柵や楼観があったと書いてあるだろ
どちらも纏向には存在しない、残念だったな
鉄は倭人が弁韓で鉄を採取していると魏志倭人伝に記述され、倭人が鉄の鏃を使用していることも魏志倭人伝に書かれている
鉄器を使ってなかったならなんで半島まで行って鉄を取っていたのか説明がつかない
半島まで人を派遣して鉄を採取していた以上、相応の鉄器が存在しなければ邪馬台国ではない >.106
邪馬台国が青森にあった説はないだろうけど、ワノナノクニとか当時の言い回しが津軽弁には今も残ってる、くらいは言いそう 卑弥呼の墓が半島南部にあるのに
国内に邪馬台国があるわけない >>377
纏向には人の居住跡がなく人口は存在しません
城柵も楼観も無いので纏向は邪馬台国ではありません
残念賞 おっと失礼、>>381の弁韓の記述は倭人伝ではなく韓伝のほうだな
訂正 >>379
奈良以外の古墳でも、場所の選定理由が『三輪山に似ている』ってのがあるね
山の風景は需要な要素だから、カシミールでぐるぐる眺めようぞ >>379
孝霊厨さん、 いくら言い張っても、集落遺跡のない所は無理! 伝承や地名では無理! もう諦め給え。 @阿波 当時の日本列島の大部分は殷文化の影響が強かったんだろう
獣の肩甲骨を使った卜占、動物や人の生贄、殉葬、酒を使ったトランス状態で神託をきく、太陽神の末裔、
邪馬台国の記述や纒向遺跡の祭祀遺構に合致する
殷では女性は巫女として政治に参加し、戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、飲酒は神事であった
桃の種は大量の酒を作った跡だろう
卑弥呼のいた邪馬台国、ヤマトは戦争の最前線
纒向遺跡は、対狗奴国の前線基地
河内、和泉の狗奴国と争っていたんだろう >>381
鉄は倭人が採取しに行っただけで邪馬台国とは関係ない部分だね。
北部九州は近いんだからそりゃ多い、それだけの話。
巻向に無くても数キロしか離れてない鍵唐古辺りにあれば別に問題はないしな、百襲の出生地は田原本辺りだ。鏡作神社もこの辺りだよ。
で、北部九州に鬼道を思わせるような弥生後期遺跡はあるのか? >>380
>じゃ、別キャラ止めて九州説だけに戻りなよw
別キャラってなに? 孝霊厨さん、頭は大丈夫? @阿波 >>388
平和で豊かな時代になったと言ったり戦争の最前線だと言ったり畿内説(笑)は忙しいな
最前線ならどうして環濠集落がなくなっていったのかね >>389
苦しすぎる言い訳だな
魏志倭人伝に描かれる倭人は邪馬台連合の人間だが?
邪馬台国に属さない倭人の国に魏の使いが行くわけないだろう
親魏倭王の属国だから通れたんだよ >>392
はははは、もう少し集落遺跡を発掘しないと君では無理だよw @阿波 対海国と一大国が邪馬台連合のうちに入ってるのかどうかがわからん
あと末盧国とか裸国黒歯国とかもか >>389
宇佐神宮の元宮の大元神社がある身許山の頂上には古神道の太陽による占いを行なった祭祀場跡がある >>386
伊勢遺跡でも東側に象徴的な三上山があるしな。周辺には大量に銅鐸も見つかったりね。
巻向の時代だと銅鐸の代わりに水銀朱の採れる
山々が背後にある三輪山が象徴になる。
東へ川を遡って山に至るのは神仙思想的なんだよ、桃も沢山出るのもね。 九「畿内は鉄器出ないじゃないか」
畿「はははは、もう少し鉄器を発掘しないと君では無理だよw」 >>398
>東へ川を遡って山に至るのは神仙思想的なんだよ
孝霊厨さん、 いくら言い張っても、集落遺跡のない所は無理! 神仙思想では無理! もう諦め給え。 @阿波 >>1
知識がないのかな?
高天原=近江
で推せばいいのに >>396
日本史板で常駐してる九州説の邪馬台国スレ荒らし。
書き込みの癖や文章の組み立て、色々クセが強いよ君、人の事は言えないが。 >>395
対馬国や一大国、末盧国は言うまでもなく入ってるよ
入ってなければ卑弥呼の使いが魏に行けないよ、通り道なんだから
倭国は大乱の後の時代なんだから余所者を素通りさせてくれるような国情ではない
裸国や黒歯国は入ってないだろうね >>393
魏志倭人伝の倭人は必ずしも邪馬台国の人とは限らないよ
魏志倭人伝の倭国というのは倭人がいる国という意味で使ってる
その中に女王国がありその都が邪馬台国にある >>400
そりゃ阿波には神仙思想的な遺跡物があまり無いからなw
でも三世紀に中国と関係する以上は抜きには考えられないぞ。
鏡に水銀朱とくればね、しかも時代は神獣鏡なんだしな。 >>402
>日本史板で常駐してる九州説の邪馬台国スレ荒らし。
それ、君じゃないの? 倭国(阿波)はスレ荒らしなどする必要は全くなし。 お門違いだよ。 ただ、九州説をやり込めたのは事実だが。 @阿波 まあ結局畿内信者がどう願望を垂れ流しても、>>359の通り城柵や高楼を備えていない時点で纏向はアウト >>384
上で示したように纏向は祭祀の場
さらにその「広大な祭祀だけの場所」を建設し維持するためには広大な領土と人口と経済力が必要
この「祭祀だけ」の場所と言う特異性こそがこの場所が強大な勢力の中心であることを示している
まさに7万戸と言う最大の人口を擁する邪馬台国の都と呼ぶにふさわしい
その全てを兼ねる場所は纏向意外に存在しない >>407
ほら、そういう勝利宣言するのもそっくりだよ。
大した内容もないならめんどくさいから以降スルーな。 >>405
妄想乙
倭国大乱の後なのに女王に属さない国が女王の使いを素通りさせてはくれないし、
そもそも確実に女王に属する奴国などで鉄器が大量に出ている時点で
弁韓で鉄を取っていたのが女王国の人間なのは確実 >>406
>鏡に水銀朱とくればね、しかも時代は神獣鏡なんだしな。
鏡も水銀朱も倭国(阿波)の専売特許だよ。 あっ、軽量薄型土器や勾玉もね。 わははははは 神仙思想? なにそれって言われるよ? @阿波 >>409
どんなに妄想を書き込まれても>>408で論破済
残念だったな >>411
妄想も何も書いてある通りのことを言ってるわけだが
倭国と女王国と邪馬台国をちゃんと使い分けないとぶれるよ >>409
すごいね。 その執念! ある意味、感心するよ。 いや、不気味だな。 @阿波 >>416
魏志倭人伝をもしかして読んだことないのか?
邪馬台国なんて出てくるのは1回だけだよ 嫌儲の過去のスレを見ると九州の遺跡は全て偽物だから破壊しろというのが多いよね。
あと鹿児島県民を虐殺しろと言うの。 >>413
3棟の大型建造物は柵で囲まれている
いわゆる建物Bは場所と構造から見張り台を兼ねた門だと思われる
柵と高楼があれば良いと言うならこれも特に問題ない事になる 邪馬台国なんて今の時点でわかるはずないし
町おこしの道具でしかない 邪馬台国よりずっと古い、縄文系の交易圏は日本海がメインだったよ
20人ぐらいで漕ぐ大型カヌーで、北海道から沖縄まで、産物が交換された
だから瀬戸内海が群雄割拠していた時代が終わるまで、
たとえ邪馬台国であっても、瀬戸内海を安全航行することはできなかった
(交易が成り立たないので商人も立ち寄らず、瀬戸内海より先は暗黒の海だった) >>417
どこにどう書いてあるのかは言えません、と
つまりお前の勝手な独自解釈ね
無価値 手種の発見から九州から畿内に至る広大な連合国と、畿内一円の7万戸の大人口を擁する地域を領域とする大和こそが邪馬台国の都であると言うのがハッキリする >>406
孝霊厨さん、とにかく畿内には、弥生後期の集落跡が無さすぎ。 これでは、邪馬台国を論じる資格はないよ。 九州説も同じなんだがw @阿波 >>422
解釈なんかしてないけど
書いてある通りのことしか言ってない >>419
大型建物を囲む柵は区画用であり防御用の城柵ではない
門は高楼ではない(魏の人間がそんなの間違うわけがない)
はい論破 >>425
だからどこにどう書いてあるのか言ってみろっての 纏向遺跡の出土物に『寿司』が発見されるのを願ってやまない
寿司はベトナムから伝来した食文化だ
米で魚を発酵させる、という点で、江戸前寿司とナンプラーは同族といえる
出土した魚の骨に発酵による空孔があれば、そこには寿司があったと断定していい >>421
いや、日本海も瀬戸内海も北部九州のの海人の支配下にあった
だから淡路島から九州の産物が出る(>>354) >>427
お前は人に突っかかる前に魏志倭人伝を読んでこいw
現代語訳でもいいわ
ただ古田学派はだめだぞ
都合のいいように解釈してるからw >>421
>たとえ邪馬台国であっても、瀬戸内海を安全航行することはできなかった
その通り。 太平洋ルートと日本海ルートだね。 もちろん、倭国(阿波)の海人族の管轄だが。 @阿波 >>421
九州から日本海経由は海流が後押しするから北上し易いんだよ。
だからルートとしては日本海から列島内陸へ入り
近江をポイントとして河内から瀬戸内海航路で九州へ戻ったんだろう。 >>424
軍隊のロジスティックで考えれば、奈良の軍隊が消費するコメは、背後の尾張で生産されたと考えられるよ
穀物生産が軍隊の数と行動日数を決める
そして、当時の稲田は平野ではなく、谷戸で生産された >>430
読んだ上で発言しているのは>>359などを見れば明らかだが
〇〇を読めしか言えないのは自分で説明できない負け犬の証 >>426
高い見張り台を高楼と呼ぶのだから特に問題とならない
むしろ居住の為の物ではなくかなり高さを取った構造で見張り台として機能しているのだから高楼と読んで差し支えない
柵については確かに区画程度の物だと言える
逆言うとその部分以外はすべて該当する >>432
若狭湾-琵琶湖-畿内 という陸路は古代から機能していたって事だよね
だからこれを裏付ける『寿司』の発見が待たれる >>435
>高い見張り台を高楼と呼ぶのだから特に問題とならない
そんなたわ言を言われましても
魏から来た中国人が門と高楼を見間違える訳もなく
お前の独自解釈は無意味で無価値なんだということをいい加減理解しましょうね
>柵については確かに区画程度の物だと言える
つまり城柵を備えた卑弥呼の宮殿ではないということだね
ようやく理解できたようで何より >>429
>だから淡路島から九州の産物が出る(>>354)
九州の産物ってなに? @阿波 >>173
江戸時代の川柳に、「孝霊五年 あれよあれよと いうばかり」
というのがあるそうな。
という話を聞いたとき「江戸っ子の教養レベルすげー!」と感動したのだが、
何のことはない、江戸時代のベストセラー本(菊岡米山「諸国里人談」)に
載っていたからみんな知ってたのだったw
ちなみに初出は南北朝期の北畠親房らしいが、どっから引っ張ってきたのかしら。 >>367
半島や朝鮮との交流?
半島の中の中国の出先都市の楽浪との交流ですからね
半島文化との交流ではありませんし、伽耶の弁韓地域は倭国の出先地域ですから どうせわからないんだから、滋賀が名乗って何が悪いってな。
みんな名乗れ。
九州と畿内なんかさんざん探しても確定できないんだから、違う可能性の方が高いだろ 纏向は大型の建造物以外は小型の掘立柱建築が大半となっている
これは何度も移築した様子が見受けられる
おそらく遺跡全体が祭祀場を作るための建設現場と、兵士が駐屯するための陣屋的な性格を持っていると言える
ココはいわゆる都市ではなく祭祀と居城の場で、祭祀場と古墳を作るための場所だったと思われる
倭人伝に示される広域の連合の中心として広大な領土を持つ女王の祭祀の為の都の姿を現している 冷蔵庫の無い時代、
なれ鮨はあらゆる地方にあった。 >>442
>纏向は大型の建造物以外は小型の掘立柱建築が大半となっている
この時点で都などではあり得ないと気づけよ 越前名物の『うに』も、塩蔵して半発酵させた「くっさい」珍味だよね
これが大阪湾のカルチャーだと、新鮮な刺身をユズで食べたりしてて、魚を発酵させない
九州の「くっさい」料理って、どんなのがある? >>443
そいや「延喜式」によると、諸国の名産品(調)の中に、
鮒ずしや鮎ずしなんかに混じって、猪ずしや鹿ずしもあるんだよな。
むちゃくちゃ臭そうな気もするが、ちょっと食べてみたいw >>443
そうでもないぞ? 塩と米が潤沢に出回ったのは、江戸時代から後だ
琵琶湖と京都の文化に寿司があり、これが江戸へ下って模倣されたわけで、
それまでは江戸に寿司など無かった
不自然に思うでしょうが、それは塩の価格を考えれば合点なはずです 高かったんですよ、塩が; >>444
書いている通り都市ではない
倭人伝でも都市があるなどとは書いてない
あるのは居城と大きな墓
さらに7万戸の大人口と、九州から畿内を含む広大な連合の中心
すべて該当する
違うと言うなら君が言う柵程度の物 >>448
城柵が無いなら卑弥呼の宮殿じゃないね
>>359の通り城柵があるって魏志倭人伝に明記されているのだから
>纏向は大型の建造物以外は小型の掘立柱建築が大半となっている
この時点で七万戸とかあり得ないと気づけよ >>439
江戸時代には富士山といえば孝霊五年がセットだから。そういう認識は明治に薄められて今に至るからね。
これは神武東征話を薩摩が殊更強調した結果だからな。だから神武話が肝心な瀬戸内海では詳細を描けない、不自然だし。
大体百襲なんて村上水軍の祖とされていた位だ。 >>450
上で書いた通り
「祭祀の為だけの巨大な建設物をつくる」
「祭祀と居城だけが単立している」
これは広大な領域と人員と物資の動員力が必要
こんなものをやる為にはそれまでの常識ではありえない規模の領土を持つ必要がある
7万戸の大人口を擁する邪馬台国の都以外ありえない >>451
言われてみれば各地に富士塚があって、富士講も盛んだったもんな。
江戸時代人は富士山大好きだったのか。 >>446
古代は貴族も生肉を食ってたからね
なますは本来生肉で作るもの >>451
荒くれ者の”ジンム” 大和で寿司を喰らい、仰天す なんてお話が出来そうw >>448
>さらに7万戸の大人口と、九州から畿内を含む広大な連合の中心
すごいね、その執念。 不気味だ。 @阿波 >>452
まあ君がどうしてもその妄想にしがみついていたいというなら別に引き止めないよ
でも畿内信者がどう願望を垂れ流しても、>>359の通り城柵や高楼を備えていない時点で纏向はアウトなんだな >>452 わからんよ?
ヤマトの軍事力を支えた尾張や美濃は、豊かな穀倉地帯でしたが、大きな都はありませんでした
なぜなら、谷戸における稲作は小規模な村落に分散して、独立性が高かったからです 言ってみれば「祭祀の場」「大型の墳墓」と言うのは「無駄な物」でしかない
こんな無駄な物を弥生時代を通じて比較にならない大規模に作れる
これ一つをとっても纏向と言う場所が他の地域など比較にもならない卓越した場所であることが理解できる
強大な勢力の中心地と考える以外に他はない 県民会の役員の娘が5ちゃんねらのキチガイでひたすら寝言ほざいてるだけだから
声優宮野の親戚で親が京大教授らしい
根拠がないことを妄想ではなく仮説と言い続けるキチガイ >>459
どこの文化でもそういうでかくて無駄なものは都の真ん中じゃなく郊外に作るものなんだがな >>457
>でも畿内信者がどう願望を垂れ流しても、>>359の通り城柵や高楼を備えていない時点で纏向はアウトなんだな
いや、それ以前に、碌な集落遺跡がないんだから、どうにも救いようがない。 @阿波 >>454
なるほど。チャレンジャーだなあw
どうせ腐るならコントロールして腐らせる(発酵させる)方が良い、
という思想は正しいとは思うが。 >>458
ちょうど下の459に書いたように
「祭祀の場」「墳墓」
と言うのは生活に全く関係のない無駄な物でしかない
この無駄な物を大規模に作れる存在がいると言う事
意図的な計画をもってこの「巨大な無駄な物」を作れるのは村落など超えた大勢力であるのが分かると思う また出雲の風土記や記紀には孝霊の功が皆無に等しいが、出雲や中国地方なんてヤマトからきた孝霊が賊退治した伝承なんて各地に点在している。
興味深いのはイザナミの墓に来ていたのは孝霊天皇、という事になっている。
つまり孝霊は東から西へ向かう話ばかりなんだよ。なので功績は記紀には載せられないという事。 >>459
広域国家が作られ始め、生産地じゃない場所に神殿が作られる、というのがターニングポイントでしたね
大和を支えた穀倉地帯の尾張では、川などの輸送ルート沿いに古墳を作って、権力を誇示しました
これが地方豪族と大和王権の違い >>464
>この無駄な物を大規模に作れる存在がいると言う事
スーパースターの「忌部はん」 だからだよ。 @阿波 >>461
倭人伝に記載されるように卑弥呼は「共立された」「祭祀の主催者」
さらには「経100歩の巨大な墓に埋葬」されている
その上、都市の様子ではなくいきなり宮城について描いている
纏向の状況がこれに該当しているのがよく分かる
これに加えて繰り返し書いているように「広大な領域と連合の中心」としての要素が加わる
最早疑いの持ちようもない 大阪湾の『仁徳天皇陵』は海に対する威圧でしたね
群雄割拠が終わりつつある瀬戸内海で、大和王権の力を、海から見えるようにアピールしたわけです
仁徳天皇陵の上からあがる狼煙やかがり火が、大阪湾の船からどう見えたか・・・・実に頼もしかったのでは? >>468
ああそうか、纏向には『都』が無いんだね そして穀倉地帯でもない
つまり、広域経済が成り立っていた 自分の住んでるところ=邪馬台国説は信用出来ない。
九州の学者で畿内説、関西の学者で九州説唱えてる人が信頼出来る。 >>466
その通り
纏向は縄文時代から殆ど人の住まない荒れ地だった
居住や農耕に適さない場所をあえて選んでいる
ここに祭祀と古墳の為の都が作られた意図がよく分かる
この計画性からも纏向を中止としていた勢力が今までの弥生集落レベルの国とは次元の違う存在であることが見て取れる >>453
当然北斎もな、富士絵に孝霊五年とデカデカと書いてるよ。ちなみに肥後一宮、阿蘇神社の創建が孝霊九年。何故あまり縁がない孝霊の御代なのかは考察の余地はある。 寺澤氏なども含めて「纏向は計画都市」「都城」等と称しているが実際の発掘状況から見てこれはおかしい
「邪馬台国の都なのだから壮麗な『都市』に違いない」と言う誤解と願望が実態を見えなくしていると思う
纏向は祭祀と古墳の為に作られた超巨大な祭祀と古墳築造の為の場所、とみるのが実態にふさわしい
何度も繰り返しになるがこのような『巨大な無駄な物』を作れるのは政治的経済的に超越的な存在でないと成しえない
この時代に突如現れた纏向は九州から畿内に至る広大な領域を連合に入れる都にまさにふさわしい場所だと言える >>471
自らの手で発掘した纒向遺跡を「ここは邪馬台国ではない」と喝破した関川尚功氏のことだな >>474
なるほど、>>353なんかと考え合わせると、瀬戸内海を東進して畿内を制した九州の勢力が
新たに墓地として接収したのが纒向なんだな 箸墓は石積みで槨がある前方後円墳=墳
卑弥呼の墓には槨が無く土を盛っただけの家=塚
箸墓は論外 >>471
九州の学者でも九州説を唱えてる人はほとんどいないのが現実 これも上で何度か書いているが女王国は「連合」
九州から畿内に至る範囲をその傘下に収めている
その殆どすべての領域の文化をまとめて纏向に形としてあらわしている
当然、九州的な要素もそこに含まれる
が、そこは起源でも征服元でもない
傘下の一地方にすぎない
むしろ史書、考古学的な扱いを見ると属領に近い
連合で核となっているのは吉備、近江、摂津、讃岐の東瀬戸内海のクニグニ
邪馬台国の主体となるのはこの地域 >>473
なるほど。
その「富士と言えば孝霊五年」が、なぜ江戸時代の人々の基礎知識だったのか、
については、やはり>>439に書いたように当時のベストセラーの影響なんだろうね。
「諸国里人談」(1743)もそうだけど、「和漢三才図会」(1712)に載っていたのが
大きいのかも知れんなと。 >>476
当時の墓地は慎ましいものではなく、大勢にアピールするものだったけどね
特に穀倉地帯の尾張や美濃の連中に、三輪山の信仰をアピールする必要があった
そういう意味で、大和王権は途中から地方出身者に乗っ取られているよね
九州のジンムってやつかなw 邪馬台国は南に接している狗奴国に攻められて魏に助けを求めていたヘタレ国
卑弥呼の死後は戦乱になり日本最大級の古墳を作れるような状態ではない
土を盛っただけで槨が無く棺のみの墓と魏志倭人伝に書いてある
箸墓は論外 日本史の3大馬鹿論議
邪馬台国はどこか
写楽は誰か
坂本龍馬を殺したのは誰か 箸墓は平和な5世紀に何もないド田舎に馬を使って作られた
だから鐙が地中に埋まっていた 邪馬台国が、九州のジンムに乗っ取られる前のヤマトだとして、
当時の瀬戸内海は通行不能なんだよね
その当時の『寿司ルート』は、畿内から琵琶湖へ出て、日本海をカヌーだった
大陸の商人は瀬戸内海の奥に経済大国ヤマトがあるとは、知らなかったと思うよ もうね、可能性も低いのここがそうだと言うのやめて欲しい
ただただ恥ずかしい結果になるだけw 奈良は銅鐸勢力が古墳勢力に乗っ取られ、大和朝廷でも物部神道派が蘇我仏教派に乗っ取られ、さらに藤原のクーデターで入れ替わっている。
万世一系と程遠いことは記紀が証明している。 朝貢のネタが奴隷というのも、
単にヤマタイが奴隷の産地だったという以上に、
帆船じゃなく、カヌーで朝貢したとは考えられないだろうか?
そして、漕ぎ手が奴隷として貢納された;
邪馬台国の光景から、帆船という思い込みを除いてはどうだろう?
つまり、朝貢は日本海を通じて行われたと・・・・ >>488
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里
帯方郡から九州北端までで一万里だから諦めなさい >>489
日本海交易ルートで解釈すると、どの辺にあったことになるだろう?
むろん、畿内に都があったと仮定する必要は無いぞ 九州から畿内への文物の移動は弥生時代を通じて希薄
特に大和に至っては須玖式の土器の欠片が見つかる程度で皆無に近い状況
逆に畿内からの影響は弥生時代後期後半から急激に高まり、九州の文化を塗りつぶして消してしまうほどになる
この事から神武東征のような「九州から畿内への遠征」等という物は全く存在しない >>491
千葉県の海沿いには『伊勢』さんが多いよ。漁師の交流があったからです
そして江戸にも『伊勢屋』が多かったw これは起業する商人が出身地を名乗ったせい >>490
対馬壱岐ルートは邪馬台国を含む女王国勢力圏のルート
沖ノ島から宗像は、宗像出雲勢力のルート
日本海ルートを牛耳ったのは宗像出雲 >>492
逆にいえば、九州のはぐれ者集団が、突発的に奈良まで走ったとも・・・・
あれは神話にあるような、立派な正規軍じゃありません 山賊、野盗・・・せいぜい軍閥
しかし、豊かな穀倉地帯こそあれど、ヤマトは軍事的に弱体でしたから、ジンムの一党を戴くのは悪くない選択だった 女王国勢力は日田から宇佐に出て瀬戸内海
つまり日本海ルートは使えなかったから畿内とは繋がっていなかった
魏志倭人伝に東側に海を千里渡った倭人の国として四国は出てくるのに出雲から東は全く出てこない 天安河原は滋賀の野洲川
辺りにこの伊勢遺跡がある
天の八衢は堺
仁徳天皇陵のあるところ
辺りに方違神社がある
高天原は押し照るなにわ
上町台地、うえさま、上様、かみさまが住むところ >>491
風土記によると伊勢津彦と言う神がいたかららしい
この神が追い出されて地名だけが残ったと
タケミナカタの事だととも言われている
風神扱いなので共通点がある
出雲系の神話と関係が多いのが面白い
土着の太陽信仰のような物のあったらしい
まぁなんで伊勢なのかと言う疑問の答えになってないかもしれないが >>495 >>496 ありがとん
瀬戸内海のグループが沖縄とつながってて、
九州西岸のグループが日本海とつながってるのか・・・
孤立した関東東北グループが八丈島へ行ってたとか、面白いね 良い地域を抑えて、道や町のインフラが整った
中央を抑えている勢力が簡単に出ていくはずもない。
神武一行が出て行ったのは
北部九州勢力のなかで
主流派になれなかったとか
政争に負けたからだろ。 甲賀市とか日野町とか奈良とは違った歴史を感じるけどね
近江から以南にかけてはチョンの住み着いた町も多数あるし >>492
>この事から神武東征のような「九州から畿内への遠征」等という物は全く存在しない
その通り。 卑弥呼の時代に、西日本一帯にかけて、遠征などぜったい不可能。 あまりにも兵站を考慮していない。 全くの素人の思考。 @阿波 隼人に追い出された自称神武は日向から最初に宇佐に向かっている
そこにあった邪馬台国を乗っ取り、その威を借りて瀬戸内海を時間をかけて制圧していき淡路島を起点に畿内を攻撃
しかし苦戦して紀伊半島を逆まで回って熊野から北上し沼地で何も無かった奈良を拠点にする
新興宗教の巨大な神殿が多数存在する伊豆を見れば当時の状況が理解できる >>493
千葉県は、「忌部はん」 が興したところ。 この事実は、どうにも覆しようがない。 @阿波 >>489
しつこいぞ
論破されたデタラメ繰り返すな >>496
>対馬壱岐ルートは邪馬台国を含む女王国勢力圏のルート
倭国(阿波)ルートだね。 @阿波 >>507
魏志倭人伝通りだと九州以外は不可能
涙拭けよ >>493
ここは内陸だよ。伊勢勢力の大きいのがあったんだろうなあとは思うけどわからんね
>>500
その神様は諏訪の神様?なんか糞古いって言われているのだよね
なにしろ八百万いるものだから神様すら行方知れずになったり、他の神様と同一になったりわけわからんw
この遺跡はけっこう魅力たっぷりなんだなあって思った。これから盛り上がると良いねえ
お二方ありがとうございました >>508
魏志倭人伝と合わないし、考古資料に矛盾してるから
嘘の歴史を創作することはできないってだけ >>510
ぐうの音も出なくなって、言い張るだけかよwww 宇佐と伊勢はどちらも半島の付け根にあり地形も似ている
畿内近くで、故郷の宇佐のような場所に辿り着いたのがド田舎の奈良を逃げ出した自称アマテラス 宇佐と伊勢の違いは東に海を千里渡った先に倭人の国があるか否か
千里先に四国がある宇佐が邪馬台国である 征服王ジンムの歴史を描いてみたいですね
国を失った軍隊なんて山賊と大差なく、彼らに補給はありません
しかしジンムは戦略で不利をひっくり返します
・初手で大宰府を奇襲攻略(占領せず)
・瀬戸内海へ出て海陸合同作戦で電撃侵攻(占領せず)
・大阪湾で大国『ヤマト』と遭遇して敗北(この間、足掛け2年)
・熊野路からヤマト本国を攻略
・ヤマト兵を率いて吉備を攻略
神武天皇だなんて神格化せず、一代の快男児ジンムを描ければいいと思いますよ >>514
アマテラスという『男』は富士宮の出身という伝説もあってだな・・・・
いろんな神話が混交していると思われ >>480
何故富士山といえば孝霊五年、とセットになったきっかけまでは特定はできないよ。
ただいわゆる古文書の類いでも大半が孝霊五年に天変地異があったとされているので、
何らかの記憶に残る出来事があったと伝わって来たんだろう。
忘れてはいけないのが富士山は琵琶湖が陥没して同時に出来たという事。
勿論有り得ない話だが、その余った土で出来たのが伊勢遺跡の横にある三上山だからな。
つまり江戸時代では富士山や琵琶湖、三上山に至るまで孝霊五年に出来たという認識。
三上山を何らかの目安にしている伊勢遺跡も孝霊の世に出来た可能性はある。 >>516
初手は宇佐
その後に筑紫に行って瀬戸内海へ
この順番に深い意味がある
続きはまた来週 >>518
なるほどね、江戸時代の神話解釈って面白いかも! >>511
内陸部であっても琵琶湖は海で認識された例は多いよ。伊勢はイソ。まあ海や水に面した場所という認識だね。
実際船が出土するんだしな。ちなみに琵琶湖は弥生時代の集落が湖中に沈んでいるのは有名な話。
この辺りも琵琶湖が出来た伝承の一旦なんだろう。 >>521
琵琶湖は地盤が沈み込む湖だから、堆積物で埋まって陸地にならない
だから湖として長年にわたって安定し、その結果、いろんな固有種が進化したと聞く 滋賀の歴史は古く興味深い
伊吹山もヤマタノオロチの神霊が住むと言われているしな >>520
多分江戸時代の文献資料に詳しい人か今の資料みて欠史の孝霊の項を見たら相当驚くよ。
功績や出来事が何も書かれてないなんて、そんなアホなとw
息子の吉備津彦は桃太郎で今もメジャーな存在だが、父親だって超有名人だったのは覚えていて損はない。 >>522
琵琶湖自体は今も北へ移動中だからな、元々は
伊賀山中だったのは有名な話。 自分の国の名前に邪なんて字使うか?
朝鮮は貧国って意味らしいけど 「矢野遺跡」
徳島南環状道路建設に伴い1992〜98年に行われた発掘調査で、縄文時代後期初頭(約4千年前)の遺構面から見つかった。
このうち、土面は縦15.8センチ、横16.7センチ、厚さ1センチのほぼ円形で、粘土で作られている。穴を開けて目や口を作り、鼻や眉も付けている。
用途は定かではないが、祭祀で使われた可能性がある。土面としては国内最古で、最も西の地域の出土例となっている。
土器は煮炊き用の深鉢や盛り付けに使われた鉢、つぼなど。関東の土器に見られる文様だけでなく、近畿から九州北部の広範囲で確認された文様が混じっている。
祭祀で使われた赤色顔料「水銀朱」が付着しているものもあり、国内最古の水銀朱の使用例として注目されている。
石器にはやじりなどの狩猟道具や食物加工用具がある。最も多いのは石の重りの石錘で、網にくくりつけて漁労に使ったほか、編む際の重りなどに使われたとみられる。
文化審議会は「縄文時代最古級の土面や、水銀朱の使用例が含まれ、西日本における縄文時代中期末から後期の生活の様子を示す資料として貴重だ」としている。
2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊
↑
他説を凌駕する、倭国(阿波)の圧倒的考古資料 @阿波 >>267
大坂山って奈良県にも有るのか
大坂山は福岡県に有る
てっきり福岡県の話だと思った
しかし、なぜ福岡県の地名と奈良県には同じ地名が多いんだろうな
とても偶然では片付けられんだろ
地名を研究してる専門家はここにはおらんか >>532
一応文献上で最古の大坂山は箸墓伝承に出てくる二上山横の大坂山だよ。
また大坂山自体は各地に沢山ある。
奈良の大坂山は崇神天皇の世、百襲姫の逸話の舞台となる話で二回出てくるしな。 >>532
当然、倭国(阿波)には、大阪峠、奈良山がある。 奈良も福岡も千葉も、「忌部はん」 による倭国(阿波)の地名だよ。 @阿波 >>530
決定的な事を教えてあげると邪馬なんて字があてらのは、鬼道とも関係があると思う。
当時の宗教感では道教思想も決定的なものはないからな。
恐らくインドのヤマ教辺りの影響があるんだよ。そうなるとヤマは黄泉の事だからね。
意味は天に近い場所だからな。
だから後に山とは高い場所の意味に転じる。
山地でもない奈良盆地がヤマトになる意味も
説明はつくし、邪馬なんて漢字が当初宛てられたのも納得だろう。 「交流を示す出土品」
縄文時代を研究する県埋蔵文化財センター・湯浅利彦専務理事の話
矢野遺跡の出土品は、関東や九州から伝わった文化と県内で育まれた文化が混ざり合っており、地域交流の結節点だったことを示している。
西日本を代表する出土品で、徳島の歴史を県民に知ってもらいたい。
2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊 古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や、水銀朱の原料の辰砂原石などが大量に出土した阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡。
辰砂原石などの発見で、水銀朱の生産、利用時期が1500年以上さかのぼることが明らかになった。
また、水銀朱の生産拠点だったとされる竪穴住居跡や、祭祀に使っていたとみられている円形配石遺構など、縄文社会の解明に大きな役割を果たす。 @阿波 縄文の「朱」生産拠点
阿南・加茂宮ノ前遺跡
国内最大、最古級
祭祀と居住一体出土
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や石きね300点以上や、
水銀朱の原料の辰砂原石が大量に出土した。
水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多。生産拠点として国内最大、最古級だったことが明らかになった。
県教委と県埋蔵文化財センターが18日、発表した。
石臼の大きいものは直径30センチ。石きねは同約10センチ。生産した水銀朱を貯める土器、表面に水銀朱を塗った土器の破片や耳飾りが多く見つかり、
関連した遺物の出土数は1000点以上に上った。
水銀朱生産の一大拠点とされる三重県度会町の森添遺跡などでも縄文後期の石臼や石きねが見つかっているが、数十点にとどまる。
調査面積は約1万平方メートル。祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構14基や住居跡2基も見つかった。
縄文後期の居住域と祭祀の遺構がまとまって確認できたのは西日本で初めて。
センターによると、辰砂原石は約5キロ離れた若杉山周辺から採取された可能性が高いとみられる。土器の模様には九州の土器に類似した特徴があり、
「当時から地域交流をしていたことがうかがえる」としている。
県教委などは2016年度から加茂宮ノ前遺跡を調査しており、弥生時代中期末〜後期初頭(約2千年前)の層から、鉄器や水銀朱の生産拠点とみられる集落跡を確認。
今回の発見で水銀朱の生産、利用時期は約1500年以上さかのぼることが明らかになった。
県教委教育文化課は「調査研究を進めて広く展示公開し、徳島の歴史や文化財に興味を持ってもらえるような取り組みを進めたい」としている。
2019年(平成31年)2月19日 徳島新聞朝刊 極めて重要な発見
同志社大学文学部・水ノ江和堂(かずとも)教授(考古学)の話
縄文時代の遺跡が東日本や九州に比べてかなり少ない中四国の状況を示す極めて重要な発見。当時の水銀朱の生産、利用状況や集落構造を総合的に確認できる遺跡は他に例がなく、
今後の研究につながる。遺構を切り取って復元などしてもらいたい。 >>255
横だが殷は水稲じゃないだろ。
倭人は水稲であり、大阪の遺跡と長江文明から同じ稲のDNAが出ている。
この稲は半島からは出ていない。 上でも書いたが渡来人とやらは日本の主流になってない
日本の文化は大陸から摂取された物が沢山あるものの、その形は大陸のどこにも見られないほどに日本的に変容している
稲作伝来のあった九州からして既に大陸と全く異質な文化になってる
そしてその文化が更に独自性の高い物に変わっていく流れ
渡来人による日本の支配などという物は存在しない 弥生文化は瞬く間に日本全国に広まった後にすぐさま在地化する
この動きは文化的なリレーで渡来人の移動は伴ってない
在地化した文化は他地域と違う独自性をドンドン強めて別物に変化していく
そのような流れの中で日本独自の文化が形成され後にも連続的に引き継がれ断続が無い
古墳時代になってもそれは変わらない
むしろ更に日本の個性が強まる
騎馬民族説とやらが既に笑い話レベルになっているのもそういう事実があるから
何でもかんでも渡来人由来、渡来人の支配とか言いたがる人が何故か沢山いるが、
現実はむしろ日本の独自性が特異なものでそれが安定して続くことが分かるだけ >
ミナカヌシ 近江
クニサツチ 八方八下りの御子 8人 近江、富士、他
キノトコタチ (タカミムスビ初代) (日高見) - 天鏡(筑紫)- アメヨロヅ(四国)- アワナギ(北陸、山陰?)- イザナギ
オモダル カシコネ 安曇(近江)
八方を巡って民を治める(九州-東北)
イザナギ(二種(瓊、矛))
ヒルコ 筑波イサ宮生まれ 船に乗せ捨てられる、ヒヨルコ(流産)(近江) 船に乗せ流される、天照 ハラミの宮(富士)生まれ、
月読 筑紫(月隅)ヲトタチバナノアワキ宮 生まれ 、ソサノヲ(スサノオ) ソサ(紀伊)熊野生まれ
158-166 スサノオ、オロチ(モチコ(天穂日の母)、ハヤコ(三女神の母))、ハタレの乱(九州-東北)
158 伊勢→宇佐 三女神、モチコ(天穂日の母)、ハヤコ(三女神の母)、(トヨ姫アヤコ(ムナカタの娘、クマノクスヒの母))
158 天岩戸 7月13日 皆既日食 日没直前 琵琶湖 京都 大津 津
天照(男)、瀬織津姫(妻)、イサワ宮 伊勢(伊雑宮 志摩)
ヒルコ(天照の姉)、思兼(夫)、ヤス川宮(野洲川宮)近江 ネ(北陸)とサホコ国(山陰?)を兼ね治める
オシホミミ
伊勢→多賀、野洲川(近江)→日高見(東北)多賀
クシタマホノアカリ(テルヒコ)(櫛玉火明(照彦)) (アスカヲキミ)
日高見(東北)→葦原国(ナカ国) (大和、近畿辺り)
(多賀→イカルガ→アスカ)
5組の物部25、伴人総勢864人
イカルガ ウテナから四方を望む
アスカ川をクルワに掘ってミソギをする
アマノコヤネ ヤマト川を掘ってトブヒノ丘にミカサ山をつくる
ハセ川を掘ってアスカ川のフチを田と成す
ニニギ (ハラ(富士)ヲキミ)
日高見(東北)多賀 生まれ
伊勢 天照がいる
関東(筑波、新治、二荒)
ハラアサマ宮(富士) タマウテナ コノハナサクヤ姫
ミヅホ宮(近江)→九州
大津シノ宮(近江)→ソヲ 高千穂 タカギ(タカミムスビ7代)イマ宮(野洲川)
クシヒコ(コトシロヌシ、大物主) ヨロギ
コモリ(大物主)ヨロギ
アサ姫(コモリの娘、ツエの妻)多賀
コモリが桑が良いのを見て、アサ姫に蚕飼い、絹織、裁縫を教える
大国魂の神を祭る
ニニギ(ハラ(富士)ヲキミ)ミヅホ宮(野洲川?)、大津シノ宮
ホノアカリ(ムメヒト)(火明(梅仁))(ハラ(富士)ヲキミ)
ハラアサマ宮(富士)→ミヅホ宮(近江)→ハラアサマ宮(富士)
ホノススミ 海幸彦 ウカワ宮
ホホデミ 山幸彦(筑紫ヲ君) 大津シノ宮、ミヅホ宮
ウガヤ ミヅホ宮、多賀
五瀬 (多賀ヲキミ) 多賀
神武 多賀
クシミカタマ(大物主)(筑紫ヲシカ) 多賀、大国宮をつくりかえる(多賀?)
(近江のみ)
(ホツマツタエ、ミカサフミ) 米はジャポニカだろ、九州からも出てる、邪馬台が近畿なんてこじつけ、あり得んよ、瀬戸内海通りゃあ、倭人伝に川を通るとか、描いてある。一大率は、交易等の最前線であり迎賓館、都の近くにあるもの。攻められるのを恐れた大宰府とは用途が違う。 あらゆる意味って皇国史観だろ、近畿説は倭人伝の伊都国までは普通に説明すんだが最終的にとんで近畿なんだよ。 だって邪馬台国は遠方の国と書いてあるからな。余程曲解しない限りは畿内へ至る。 伊勢といえば伊勢どうたい遺跡
近くには八幡平もある
八幡平=邪馬台w 漢倭奴国、帥升、卑弥呼、それに半島3韓、と半島南倭国、の話しか載ってないよ。神武東征は卑弥呼から後の話だろ。出雲は南下するのは、近江等を抑えてからだろ?魏志等も人種は、越か、呉かを語っていて、南方系が出雲に住み着かない。別ルートだと思うね 国が巨大化すれば、アメリカに解体されたように財閥、豪族が現れ、そいつらが主導権、利権争いに入るんだよ、邪馬台国はまだそれ以前の段階だろ?日向一族が狗奴国なら、まだ九州全土を掌握仕切れてない状況さ、共立がそもそもそうだろ。奈良なんて後さ。 既に墨書文字が2世紀に三重まで来てる時点で九州なんて単なる中継所にすぎんなw 邪馬台国に男の王が移住して70-80年、倭国大乱が起きたと書かれているが、何処から移住してきたのか 邪馬台国の東には海があると書いているから邪馬台国は横浜に決まっている もはや邪馬台国は金を引っ張るためのツールと化してるから
まともな研究が消えそれぞれの利権者がポジショントークするだけの状態になってるのは草生える >>541
徳島県阿南市水井町 「若杉山遺跡」・「丹波坑口」・「長生町奥ノ谷遺跡」
出土遺物
@石器(石臼・石杵)
A土器
甕・広口壺・二重口縁壺、小型丸底鉢、鉢、高杯、器台=生活用具のほとんどがそろっている
小型丸底坩(弥生X様式後半〜布留式まで)庄内式並行期がほとんど
土器胎土(結晶片岩・石英・雲母)
B玉類
蛇紋岩製勾玉
C鉄製品
刀子・不明鉄製品(やりかんな?)
D自然遺物
貝片・獣魚骨・人骨片
想定される生産形態
・土器以外の生活用具が少ないが、生活用具のほとんどが揃っている
・籾痕の付いた土器や鹿・猪・貝類=一定期間生活
・岩盤直上に営まれる→近くの集落の人間が農閑期に行う特産的生産レベルのものではなく、
分業化された専門工人集団の生産
・ハマグリ・オキアサリの成長線分析→採取時期は夏期後半から秋期後半
若杉山遺跡の採掘作業は、夏季後半から秋季後半に行われていた可能性 (徳島県立博物館1997・岡山1998) 鳴門・板野古墳群について 「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳 池谷宝幢寺古墳(県史跡) 天河別神社古墳群(6基・県史跡) 萩原1号墓(消滅)・2号墓 大代古墳(県史跡) 板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津
・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。
板野・鳴門古墳群
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm 「カネガ谷遺跡」
徳島県鳴門市大麻町萩原字カネガ谷
出土した弥生土器・石器から、弥生時代後期初頭の集落であることが分かった。
特に、注目される遺物として朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧が出土した。
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023019/ あほらし、そりゃ本州北から、半島から、南から人は集まって来てるよ、古きゃそいつらが支配してることにつながらんよ、土器に書かれた田が何処から来てんだよ?中国か?半島か?北か?まさか近畿に始めからいた原住民が発明したんじゃあるまいな 当時の都市が作られる条件と記述考えれば
内陸の水運ができる場所だろ
そんなに間違ってるわけでもないと思うが >>566
湿地帯の奈良盆地は絶対、無い。 以上。 @阿波 二千年前の琵琶湖を今の琵琶湖と同じ思ってはいけない
常に当時の地形や地理を前提に話をするべき 3〜4世紀は墨書土器などで文字の痕跡がある。
一文字だけ書かれていることが多い。田の字が多い。
5世紀は金石文の痕跡が残る。鉄刀などに彫られた文字である。
文字の形をみると、彫りの職人は書き順やとめ、はらえなどを
意識していないでたらめな彫り方になっており、
彫り職人は文字を使い慣れていないことがわかる。
6世紀は木簡が出始める。手習いの細片が多く、文字を習うという習慣が
始まっており、文字が下級役人に浸透し始めてきている。
7世紀には戸籍が出始める。文字を文化行政に実用的に
使用し始めていることが推測できる。
8世紀には万葉仮名など日本独自の使用法に、
魔改造が始まる。 邪馬台国が関西の訳ないやん
考古学やってる人ってアホなん? まず史書には福岡から南へ南へと書いてあるのに、確かな根拠もなく東を有力視する学者は頭おかしい。
ヤマト王権に関連付けるべく意図的にそうしてるのは、学会の捏造癖が治っていない証拠である。 可能性が高い所を調べても出てこないよ
出雲大社の元が邪馬台国なんだから >>573
まだこんな難癖付けてるやつがいるのかよ
真正面から議論したら負けるから意図的にやってるんだろうけど 中国の日本についての記述を見ると九州説など全く存在していないのが分かる
簡単に書くとこうなる
邪馬台国は台与の後にも滅んで等おらず男性王が立ち継続して晋、宋、斉、梁、隋と使節を送り続けている(梁書、北史)
↓
隋の時に使節を送ってきたアメノタリシヒコ=用明天皇と断定(新唐書)
↓
アメノタリシヒコは筑紫城から大和州に都を移したと記載される神武天皇の後なので都は大和(新唐書)
↓
アメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じなので邪馬台国は大和(隋書、新唐書)
↓
アメノタリシヒコは一大卒を各地に派遣して地方を支配している(魏志、旧唐書)
一大卒のいる場所=邪馬台国の被支配地
↓
アメノタリシヒコ(用明天皇)はその後の桓武天皇などにも系譜が連続していると認識されている(旧唐書、新唐書)
白村江の戦いの当事者である唐の記録でこう記載されている
このため、王朝交代など起こってないと確定
倭から日本への変化は定説通り壬申の乱であることが確定
↓
宋の太宗が「日本は小国だが王も貴族も古代から同じ系統が維持されていて素晴らしい」と称賛(宋史)
中国は邪馬台国は大和でそれが継続していると当然のことのように了解している >>575
おや?
捏造癖の治らないエセ学者さんですか? >>567
本当に何も知らないんだな。
奈良盆地の川合町から田原本辺りに広瀬衆という水運専門の一族から古くから存在してる。
そこは縄末期からの遺跡も存在してるよ。 >>572
考古学やってる人からすると、弥生末期に
権力者の集まるような場所は関西しか
該当する場所がないからだよ。
大体の中心に存在するのが信貴山辺り。 >>578
そんなヘボい遺跡がどうかしたのかね? 孝霊厨さん。 わははははは @阿波 考古学やってるような人は、ゴッドハンドを見抜け(か)なかったからなあ 水走氏とか交流が進めば利権豪族がうまれんだが、それは後の時代だろ、素直に遷都してからだよ、先に大分に生まれてんだろ。先だろ?九州、出雲、北陸等が合わさって6氏だか8氏だかで奈良だろ。なんで手漕ぎしか無い時代にそんな遠くの国にコントロールされんだよ。 >>120
邪馬台国が宗教施設だった場合は?
宗教なら各国に支部を置いてても不思議ではないだろ 中国が方角間違えることはないよ、間違ってたらその後訂正される。水行20日は、遣史が会うことのない卑弥呼のこてを官史にきいた返答だろ、投馬が薩摩で生まれが日向でなんの問題もないよ。ウガヤは大分に遷都もしてるし。ただ13の台与は半島に忖度してるよな。 >>583
邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
距離についての矛盾は孫栄健って人の著作を読んで納得した
魏志倭人伝の記述を重視する人は皆北九州説だね
遺跡を重視する人は近畿説になりやすい >>586
修正なのか、逆に誤ったのかは、定かでないけどな >>581
正しくは、見抜いてた人はたくさん居たが
ウソつきが勝ってただけ。
近畿パーみたいな感じ。 >>590
違う。ウソつきが近畿パーになる。
遺跡重視したら畿内説は消えざるを得ない。
魏志倭人伝の記述とまるで合わないと言う事実しか見えてこないんだから。 >>329
ねえねえカタワさん。
ただの比喩だってことは記録としては正しく無い、間違いだってことでしょカタワ。
ただの比喩だと認めた上で、その記述を使って他の書物の記述を否定するのは不可能でしょカタワ。
全部説明しないといけないのカタワ?
wwwwwwwwwwwww
ね?
近畿パーがどのくらい近畿パーか良く分かるでしょ?
え、分からないって?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>596
そうだね
桃の種が大量に出てきたから纒向とかは流石にやめて頂きたいね >>590
距離についての矛盾は東南アジア説が好き 邪馬台国が九州だろうが近畿だろうが出雲だろうがどこでもいいが
その当時手づかみでもの食ってた文化のない関東人が
対立煽りで争わせようとしてんのだけは留意すべき 行程を言うのであれば
1万2千里で女王国
↓
そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国
と書かれている
今風に言うと女王国=日本、邪馬台国=東京という書き方
日本に来て、東京に来ると言う形
この事から考えると九州は女王国にさえ含まれない
倭人伝、旧唐書の記載を見ても分かる通り、中央から地方支配の為に派遣される一大卒が配置される『属国』
行程は九州は女王国にさえ含まれない属国であると言うことがハッキリ明記されている部分 近畿パーは遺跡重視とか、〜〜主義とかでは無くて
ただのウソつき野郎w
近畿パーにとって実は畿内説自体、本当はどうでもいい。
連中の本当の目的は議論を誤魔化しケムに巻くこと。
だから学会で「近畿では鉄が溶けやすいんですキリ」とか
平気な顔してやるし、
サハフタソみたいに根拠無しでただ勝ち誇るし、
いよいよ議論で負けが明らかになると「邪馬台国なんてどうでもいい」とキチガイみたいなことをほざくww
九州だろうが近畿だろうがどうでも良くは無い。
近畿は無いことが証明されてんのに。
隋代でも百済から済州島まで3ヶ月かかってるっていうから、三国時代に連続説で水行陸行合わせても畿内まで辿り着けない 邪馬台国は、少なくとも近畿またはそれ以東には無い。
証明済み。 『隋書』
>倭國、・・・・・都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>倭国は、・・・・・都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
『唐会要』
>倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
>北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
>倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼(ヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の三国がある。いずれも倭に従属している。
>北は大海が限界、西北は百済と接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相接する。
>北は大海が限界
>正北は新羅と抵触
この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
なぜなら、近畿から見て、日本海が「北」で新羅が「正北」なわけが無いから。
これは明らかに九州+任那を倭国とした表記である。
またそのほうが耶古、波耶、多尼が倭国の従属国であるという記述とも合致する。
>>606
神話のこじつけはナンセンスだけど倭姫が歩き回った地域は近江や東海と言った狗奴国関係の土地なのが面白いな
服属した地域を安定させるために神を奉じて巡幸して回ってるようにも見えるな
また唐会要に事実上邪馬台国は九州と書いてあることを
みんなして知らん顔していた事実にも注目すること。
学者総出でウソをついている。
こんな現状。
豊鍬入姫が吉備や丹波に回って、倭姫が近江や東海を回ってる
ちょうど大規模な遠征をし終わった崇神天皇の時代と言うのが興味深いな
服属させた地域を回って慰撫してる活動にも見える 紀伊半島がものすごい勢いで隆起してるから
近畿の地形って何千年レベルではかなり変わってる
大阪奈良京都も相当変わってる
琵琶湖も元は伊賀上野の辺りにあったそうだ
それって人間が住める地域も移動してるってことだ
同然繁栄も
そういう地質学的な変遷を見ないと語れないことは多いぞ >>610
日本海は近畿からみて北だろw
そもそも当時の中国側の方位記述なんて間違い例多数だよ。
朝鮮半島の西に国がある、としたりいい加減だよ。 >>590
>魏志倭人伝の記述を重視する人は皆北九州説だね
正しくは、魏志倭人伝の記述を「曲解」する人は皆北九州説だってことだろ
魏志倭人伝を勝手に魏志邪馬台国伝に読み替える
あるいは魏志倭人伝を邪馬台国旅行記に読み替える 帯方郡から水行で行ける場所となれば、当時倭国だった半島南部のどこかしかないだろ。
日本のボンクラ考古学者どもがバカで非常識だから、いつまで経っても見つからないんだよ。
特に畿内説は飯を食うために意図的やっていると思われ、悪質な公費横領事件だと言える。 徳島県民だけど
邪馬台国は徳島県だと思うよ
授業で教わるからね 『隋書』
>倭國、・・・・・都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>倭国は、・・・・・都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
『唐会要』
>倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
>北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
>倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼(ヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の三国がある。いずれも倭に従属している。
>北は大海が限界、西北は百済と接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相接する。
>北は大海が限界
>正北は新羅と抵触
この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
なぜなら、近畿から見て、日本海が「北」で新羅が「正北」なわけが無いから。
これは明らかに九州+任那を倭国とした表記である。
またそのほうが耶古、波耶、多尼が倭国の従属国であるという記述とも合致する。
また唐会要に事実上邪馬台国は九州と書いてあることを
みんなして知らん顔していた事実にも注目すること。
学者総出でウソをついている。
こんな現状。
「西長峰遺跡:弥生時代中期の大形掘立柱建物 分銅形土製品」 徳島県阿波市阿波町
竪穴住居跡が26棟、掘立柱建物跡(14棟大型のものを含む)。
西長峰遺跡は、中心の建物を取り巻くように中小建物を放射状に計画配置しているもので、纏向の大型建物群が軸線をそろえて並行に配置されているのとは、異なる。
西長峰遺跡の建物は、弥生中期後半から後期初頭にかけての遺跡。
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023030/ ラーメン屋行くとき、[伊勢遺跡→]って看板をよく見かける
行った事はないw >>619
曲解ってのがよくわからんけど、当時の習俗風習を記述した部分を素直に読むと九州を連想させられるな >>629
九州を連想するのは先入観だよ、朱丹を普段生活に使える状況でもないし。
海人で冬温暖という状況を踏まえると、一番合致してるのは四国の東南部か紀伊半島の南側だよ。
弥生時代に水銀朱を採取したり精製した跡はこの辺りなんだからな。 >>629
倭人の習俗風習が書かれている部分を邪馬台国のものだと曲解してるんだよ
例を挙げると、持衰や漁労民の記述から北部九州を連想する
だが、そこにあるのは伊都国であって、邪馬台国ではない >>632
伊都も奴国も全て邪馬台国、とするのが北部九州説だからな、曲解にも程がある。
そんなの無理に決まってるw
畿内説の矛盾は方角だけなんだからな。
その方角も当時から結構最近まで
間違い例が沢山ある時点で文献解釈上でも
畿内説でも確実に有利なのに。
そもそも当時は地球が丸いという認識すらない。 >>631
いや線が薄いどころかブッツリ切れてる。 まあ九州説にも伊都国が邪馬台国だとかほざくクルクルパーいるけどね。
近畿パー体質のキチガイばっかw ウソつき過ぎて、自分が何でウソついてるのかも分からなくなってるくらいのウソつき野郎ww 辰韓、弁韓をみても政務する場所と統治者の出身国は確かに違う。奈良に国があっても不思議じゃないが共立して卑弥呼を擁立するには遠すぎの部外者。半島南部と九州で共立しているとするほうが、漢倭奴国、帥升からも自然なんだよ。13台与擁立は韓に便宜を図ったもの。 やっぱり図星みたいだなw
九州説は一様にルーツを九州にしないと気に済まないのが半島の国そっくりなんだよな。
畿内説は三世紀以降、権力が広く及び集中した場所なら奈良辺りが一番可能性が高い、というのが前提だし。 神武東征時の航路事情を考えてみよう
・瀬戸内海は群雄割拠が続き、経済大国ヤマトでも、大型船の航行は無理
・畿内と大陸の往来は、琵琶湖から日本海へ陸路で出て大型カヌーだった(帆船ではない)
・出雲勢力は北九州を拠点に沖縄まで交易していた
・関東の航路は孤立していた (紀伊半島沖は難所で、船では通過できなかった)
ヒミコが朝貢に奴隷を送ったのは、帆船じゃなくカヌーだったせい?
だとすると、日本海航路の方が重要になってくる >>643
>畿内説は三世紀以降、権力が広く及び集中した場所なら奈良辺りが一番可能性が高い、というのが前提だし。
兎にも角にも、畿内は弥生時代後期の集落遺跡が少なすぎ。 お話にならない。 @阿波 別に九州じゃなきゃ許されないなんて思ってやしないよ、中国の古代史記から、人類、文化の発展を考えていくと自然に九州だろって話。なんで突然、山奥の奈良なんだよ。奈良なんて北から来たエミシか、半島、出雲、北陸、南下が自然だろが。 >>66
いや顔文字つけてた頃のアンタはもう少し謙虚さがあったよ 魏から貰った金印は何故見つからない?
一体どこにあるんだ。 >>645
畿内の穀倉地帯は、奈良よりも尾張や美濃だよ
理由は『谷戸』の稲作
古墳時代には大人数の動員による土木作業が未発達で、洪水のある平野部は未開だったんだ
だから畿内は広域経済に移行しており、奈良の稲作は少なかった
ここが九州との決定的な違い 圧倒的に豊かで、兵糧にも兵士にも困らなかった >>649
後継の政府が残らねば、そういう物品は略奪されて終わりだよ
日本は政治的に超安定だから『有って当然』だけど、乱世ではそうもいかん >>650
奈良盆地南部の水田跡の痕跡は、弥生中期の時点で既に西日本最大級と言われてるよ。
葛城山の麓、秋津辺りで近年確認されてる。
しかも実は地形上現在の高田市辺りまで
連続してるだろうと推定されてるからな。
発掘していないだけで。
ちなみに紀元前、弥生中期に銅鐸と鏡が一緒に埋められていたのも日本でここだけ。
秋津といえばどういう場所かは当然知ってるよな? >>634
倭人が男は大人も子供も刺青を入れているという記述(畿内に刺青の風習はない)
倭人は海に潜って魚貝を採っていた海洋民族だという記述
倭国は温暖で冬も生野菜を食っているという記述(畿内は冬は漬物ばっか食ってるじゃん)
矛盾だらけの畿内説 >>632
北九州の伊都国から、いきなり畿内の邪馬台国に飛んじゃうというwww
その間はどうしたんだ?出雲王権に邪魔されて畿内と九州に倭国は分断かよ。
そして畿内の風俗風土は一切魏志倭人伝に書かれていないのはどう説明するよ? >>644
帆船ではないと断言できる理由を聞いておこうか そもそもの話、大和は最強だからとか、文化の最先端だから中心になったんじゃない
邪馬台国連合と言う九州から近畿、一部関東に至る広大な集団の位置的、利害的な意味で中心地として設定された形
弥生時代の大和と邪馬台国時代の大和文化の劇的な変容は単純な直線状に無いのは明らか
そしてこれは九州も同じ
弥生時代の九州の文化は邪馬台国の時代になると消滅に近い形で変容する
この事から大和も九州も邪馬台国の主体でも発生源でもなく、むしろ邪馬台国に上書きされた地域であると言える
実は大和と九州と言う論争の中心とされる2地域ともに主体ではないと言うのは興味深いところだろう >>652
>奈良盆地南部の水田跡の痕跡は、弥生中期の時点で既に西日本最大級と言われてるよ。
兎にも角にも、畿内は弥生時代後期の集落遺跡が少なすぎ。 お話にならない。 @阿波 >>653
3世紀当時、畿内で刺青を入れる習慣とか漬け物なんて何の証拠もないだろw
刺青は神武伝承での話なら論外だぞ、一応反論しておくが刺青に驚くのは神の子として探された娘だからな。
大物主の血縁者であって倭の海人じゃないぞw >>652
>奈良盆地南部の水田跡の痕跡は、弥生中期の時点で既に西日本最大級と言われてるよ。
兎にも角にも、畿内は弥生時代後期の集落遺跡が少なすぎ。 お話にならない。 大和も九州も「邪馬台国連合に上書きされた場所」
連合の本体は東瀬戸内海のクニグニ 『隋書』
>倭國、・・・・・都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>倭国は、・・・・・都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
『唐会要』
>倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
>北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
>倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼(ヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の三国がある。いずれも倭に従属している。
>北は大海が限界、西北は百済と接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相接する。
>北は大海が限界
>正北は新羅と抵触
この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
なぜなら、近畿から見て、日本海が「北」で新羅が「正北」なわけが無いから。
これは明らかに九州+任那を倭国とした表記である。
またそのほうが耶古、波耶、多尼が倭国の従属国であるという記述とも合致する。
また唐会要に事実上邪馬台国は九州と書いてあることを
みんなして知らん顔していた事実にも注目すること。
学者総出でウソをついている。
こんな現状。
>>648
>阿波よりもあるんじゃないの?
たとえば、なに遺跡かな? @阿波 >>632
邪馬台国も倭国でしょ
倭国の風習を説明しているのに邪馬台国じゃなくて伊都国の風習なんて説明は無茶過ぎる 邪馬台国は広域の連合国
だからその要素は連合のあちこちに散見される
この一部を持ち出して「オラが村こそ邪馬台国」とか言い出す奴がいるからおかしなことになる
中心地なのは大和
主体となるコアの部分は吉備、近江、摂津、讃岐にある 倭人伝では伊都国より先は行ってないよ、倭人の伝聞、奈良以上の広大な大国なら中国はもっと驚き脅威さえ感じるよ。瀬戸内海を通ったなら、長江より幅の狭い海を行くとか俺なら書くよ。 鉄器が出ない
九州の土器が出ない
大和は倭国の盟主たりえない
瀬戸内の高地性集落の形成と消滅
畿内の高地性集落の形成と消滅
畿内の弥生集落の消滅と銅鐸の埋納
これらから考えると九州倭国とその軍門に下った吉備の勢力が本州経営のために纏向に拠点を作った
租税として物品は東から西へ流れるから纏向には東海の土器が多い
これが一番整合性が取れるわな >>654>>673
伊都国に頻繁に往来していたと書かれているんだから倭人の習俗風習も伊都国中心に書かれるのは当たり前のことだろ
葬式の場面なんて長期間滞在してないとわからないことだよ
ただし伊都国のことだけは説明できない情報もある
丹は九州にはなく、四国か紀伊半島
入れ墨は九州では確認できず、入れ墨があったのは吉備や尾張
また、南国風の記述も九州島では合わない
沖縄なら記述に合うが、さすがに沖縄はありえない
これは倭国が南方にあったという地理観からくる誇張であろう
邪馬台国まで行ったと解釈できるのは梯儁と張政だけだから情報は薄いが別途記述があるだろ
戸数7万戸だとか
従者1000人が仕える宮殿に住み、宮室、楼観、城柵があるとか
卑弥呼の墓が径百歩だとか
倭人や倭国一般の記述からは邪馬台国の場所を特定するのは不可能
邪馬台国について書かれた部分から判断しなければならない 『アメノタリシヒコ(用明天皇)の都(大和州)=邪馬台国と同じ』
謎も何もない
中国史はずっと大和だと書いてる
中国は前の代の資料を基に歴史を書く
これが歴代の史書を踏まえて示した中国から見た日本
むしろ何を謎だ何だと言うのか理解に苦しむ 阿波説を信じてるのは
日本に1人(このスレの阿波説の人)しかいないが
近江説を信じてるのは何人くらいあるんだろう
正直、町おこしと言ってるくらいだからゼロ人かもね 邪馬台国は琵琶湖にあったが、ある日湖の中に沈んだんだよ 半島南部に卑弥呼の墓があるのに、国内に
邪馬台国とか可笑しいでしょ?
邪馬台国は倭人国家だったが、日本ではない。 >>354
安曇族が全国に広がったのは5世紀じゃねーかよ
何あほなこと言ってんだよ >>576
出た!飛躍三段論法ジイさんw
ちょっとスタイル変えても我田引水、牽強付会のなんちゃって論法は変わらないのね 少なくても畿内辺りが邪馬台国ならその周辺で栄えた大和政権やら大和王朝の
記録にまったく卑弥呼関連のくだりが出てこないのはおかしいだろ? >>683
阿波ネタと同じで後世の後付け伝承をそのまま信じ込む系の典型だな
特に安曇氏については朝廷の意図が強く働いた移動や伝承が元になってる
だけどその辺を考えずに「全国にいる安曇氏は日本の支配者」とか言い出す
秦氏とかの渡来人系でもこの系のトンチンカン事を言い出す人が多い 少なくても冬でも温暖で生野菜が手に入るみたいな気候なの?近江は? 半島南部に卑弥呼の墓があるのに、国内に
邪馬台国とか可笑しいでしょ?
邪馬台国は半島国家であって、日本ではない。 イタリア半島から地中海に出て沿岸一帯を征服していった古代ローマみたいに、
邪馬台国だか倭だかも瀬戸内海沿岸のどこかから始まって一帯を征服していったんじゃないの >>674
>邪馬台国は広域の連合国
卑弥呼の時代に、西日本にかけての広域連合など、出来る訳がない。 おつむの軽い人の発想。 @阿波 >>686
>阿波ネタと同じで後世の後付け伝承をそのまま信じ込む
碌な遺跡も無いくせに、よく言うよ。
遺跡は正直。 決して裏切らない! @阿波 >>687
>少なくても
「少なくとも」 と書き給え。 >>687
>少なくても
「少なくとも」 と書き給え。 日本人なら。 @阿波 >>689
>邪馬台国だか倭だかも瀬戸内海沿岸のどこかから始まって一帯を征服していったんじゃないの
それは、徳島県南部の海人族だよ。 ちゃんと現在まで、全国にその痕跡を残している。 厳然たる真実。 遺跡は正直。 トンデモ説は嘘つき。 ワハハハハは @阿波 >>1
ショボい遺跡なんか公開した所で町おこしになんかならないのに
まだアニメ作品とのコラボで聖地化 奈良が都なら不作で半島に押し寄せたりしないで奈良に向かうだろ普通。卑弥呼共立事態が半島含んで新羅まで含んでたりするような状態なんだから、なんで奈良が中心みたいなおかしな事言ってんだよ、記紀でさえ、ナガスエヒコとか土雲の親分の話してんのに。土着民の集落 一般人が漠然と九州だと思うのは仕方ないけど、こういう掲示板で九州だと言い張るやつって
自分は学者より詳しいと自惚れてるの?
その割にペラペラな知識しかないやつばっかりなんだがw >>698
ネット掲示板なんだから個人の主張を言うのは自由だろうが
それともなにか?専門家じゃないとダメなのか? じゃあペラペラな知識を覆す説明をしろよ。何処から近畿なんだよ、漢倭奴国は近畿か?帥升わ?何故13歳の台与なら納得されたんだ?共立された場所わ?3世紀魏も半島も糞荒れてるときにデカイ古墳なんて作ってる余裕がどうしてあったんだ? >>698
その一般人を敵に回して首を絞めてるのに気づかないの?自惚れ畿内説はこんなレスばっか まず近畿なんて言ってる奴は九州説の一部の連中だな、元々畿内説。 >>694
滋賀作にそんな力はない
甲子園すら優勝できねーのにw そりゃあ邪馬台国より前にも人は住んでるよ、銅鐸?と祭祀場?雅楽だって現代楽譜が無いんだぜ、解らないで弾いてんだよ。おかしいだろ?続いているなら、切れてるから解らないんだよ。倭人伝には銅鐸なんて出てこないし、その後も消えた話、滅んだ種族の話だろ ああそうか
伊都国=邪馬台国論者も、
纏向論者も、
阿波論者も、
その説が成り立たないことを百も承知
だからこそ、声高に言い募ることができるわけだな 青銅器が廃れるのは、鉄が現れたからだろ、半島の鉄は重要なんだよ、近畿から銅鐸でんのは、土雲が商売してたか、させてたかだね、山にこもるなんて狩猟民か逃げて来た連中の考えること。 >>709
とっくに、「其山有丹」で倭国(阿波)に決着済み。 以上。 @阿波 どこも矛盾があるから、どうもならんてw
西日本全体が邪馬台国や >>710
>半島の鉄は重要なんだよ、
そうだね。 倭国(阿波)では半島の鉄がざっくざく。 @阿波 >>713
とっくに、「其山有丹」で倭国(阿波)に決着済み。
阿波説は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 反論ある人は、はい、どうぞ。 @阿波 不滅の伊寸心によると、朝鮮に製鉄は無く、全量中国からの輸入に頼っていたらしいが。 阿波説は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 反論ある人は、はい、どうぞ。 @阿波 >>717
丹しかねーじゃん?
丹なら佐賀でも大分でも出るで
大分の方は風土記自体に昔から丹がで出るか、て記載される程
丹の採掘跡だけで、絹も花弁式縦穴式住居も無い徳島は黙っときんしゃい >>720
丹の採掘跡もねーじゃん?
丹の採掘跡も無い九州は黙っときんしゃい 。 ワハハハハは @阿波 とっくに、「其山有丹」で倭国(阿波)に決着済み。
阿波説は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 反論ある人は、はい、どうぞ。 @阿波 まあ畿内は水銀朱とサファイア、青玉も出るけどね。
和泉から南河内の豪族、河内青玉は百襲姫の
予知伝承にも登場する人物だからな。
他の説と違うのは考古学と文献資料の解釈が一致する部分が多い事だね。
想像や妄想に頼る九州説とは根本的に違う点だな。 滋賀県民だがさすがに邪馬台国論争に参戦はどうかと思う
ひこにゃんで手を打つべき >>725
>まあ畿内は水銀朱とサファイア、青玉も出るけどね。
その水銀朱とサファイア、青玉も「忌部はん」 が倭国(阿波)から持ち込んだものだがね。 @阿波 >>722
絹が全く出ねえ癖に何言ってんのw
倭人伝なら山に丹が有るってだけやん
それなら九州にも有るってだけだ
絹は養蚕の記述まであるのに、飼ってた形跡も、それを収めさせた形跡も徳島にはない
住居なら親子兄弟で別々に寝起きする記述に合うのは
ほぼ九州にしかない花弁型縦穴式住居しかない 瀬戸内海が『通行不能』だった群雄割拠の時代だよ
大陸の商人が来るのは北九州までで、治安の確立しない瀬戸内海は、闇の領域だった
とうぜん、奥の奥の大阪湾に接する、ヤマトなんて経済大国を知るはずも無かった
畿内の連中は、縄文時代から続く日本海航路を使っており、
それは帆船じゃなく、大型のカヌーによる手漕ぎだった
とうぜん、大陸との交流は限定されたものだったのだが、
突如、ヤマトが変質し、極めて好戦的な大和王権が誕生したんだよ
大阪湾という安全装置が消滅したら、軍事大国となった大和が突出してきて、
あろうことか、朝鮮半島南部にまで植民地網を構築してしまった
その激変を生んだのが、九州からヤマトに移った、ジンムという男だったんだよ >>728
>ほぼ九州にしかない花弁型縦穴式住居しかない
それは、九州が蚊帳の外ってことだよ。 ワハハハハは @阿波 絹、絹、絹
バカじゃねーの
当時の絹が残ってるのは甕棺みたいな風習があったことが大きい
そんなもんだけで判断しようってのは偏りすぎ >>729
>青玉は二上山のサファイアだよw
「丹」は若杉山産だよw @阿波 >>730
太平洋ルートで、倭国(阿波)に鉄材料も漢鏡も、ちゃんと来ているよ。 @阿波 琵琶湖まで邪馬台国に含める必要は無いが、
畿内への物流ルートは日本海航路であり、陸路と琵琶湖を利用するものだったので、
琵琶湖周辺の勢力は、ヤマトの属国ないし協力部族だったとみなせる
対馬暖流に乗って日本海を行き来した海洋民がもたらした食文化が『寿司』
米を発酵させて魚を保存するカルチャーは瀬戸内海には無く、
遠いベトナムから日本海にもたらされたもの
もし、纏向遺跡から発酵の痕跡が残る骨が出土したら、寿司仮説は検証されたことになりますw
探すのは、発酵で小さな穴の開いた魚骨です >>735
太平洋ルートで、倭国(阿波)に鉄材料も漢鏡も、ちゃんと来ているよ。 @阿波 >>734
瀬戸内海に群雄割拠する豪族たちは、互いにけん制し合って統一国家を作らなかったが、
間接的な交易はやってたようです
瀬戸内勢は大宰府にも来ましたが、沖縄との直接交易だったのかな?
それで、大陸南部の物品が瀬戸内にもたらされたわけです 畿内はどうやっても
丹が出ないからな。
近いところでも、三重か徳島まで
いかなくちゃならん。 >>733
当然紀伊半島沿岸は精製跡だらけで宇陀は産地なのを知らない訳ないよな?
丹生神社の大元は吉野だし
弥生時代前期の水田跡だって現時点で御所中西遺跡で三万平方メートルの物が確認済み、
勿論これでも一部だからな。
伊勢遺跡近くの服部遺跡で約二万平方メートルの水田跡が確認済み。
阿波徳島は約一万平方メートルとかなり差が大きい。
畿内はまだ河内平野に、最近は奈良市内にも水田跡が確認されたりしてるからな。
思ってた以上に早くから拓けていた可能性が指摘されてるよ。 >>713
西日本全体が邪馬台国とかふざけた事を言うんじゃ無いぞ、邪馬台国とは北海道以外の
日本全土の事を言うんだよ敵対した狗奴国が北海道だぞ。 >>732
畿内だって古墳時代からは出て来てるんだぞ
まさか弥生時代のは全部腐ってなくなったのかw まあ、田んぼ自体は弥生中期には
関東くらいまでは広がっていたからね。
それより北は厳しいけど。 ヒミコの時代は、神武東征による『大和王権』が誕生する前の世代だよね
瀬戸内海の地理的な隔絶によって、日本には大規模な古代国家が誕生せず、
しかし、広域経済は徐々に成熟しつつあった、そんな時代です
この『広域経済』というのが曲者で、
経済が広域化した結果、行政の広域化=国境の拡張が起きるわけです
ヤマトが大和王権に脱皮した結果、畿内の旧王朝は力を失ったのですね
ただ、既に経済が広域化し始めた時代ですから、ヤマタイ国が瀬戸内周辺のどこにあったか、
これは分からないと思います (首都に近いのが便利だが、宗教もまた広域化した) >>739
>当然紀伊半島沿岸は精製跡だらけで
若杉山産の辰砂を「忌部はん」 が精製していたのさ。 吉備と同様にね。 ワハハハハは @阿波 >>738
宇陀のあたりに有ったんじゃないの?
大和水銀鉱山が >>738
宇陀や吉野は奈良だぞw
元々三輪山の周辺がそうだと言われている。
だから桜井茶臼山古墳なんて大量の水銀朱が使われていたんだろう。 >>745
鉱脈があっても、卑弥呼時代に採掘していなきゃ意味ないんだよ。 @阿波 >>731
九州圏の邪馬台国連合と、畿内勢力の連合があったって事だな >>744
それは無知すぎるな。
鉱山のすぐ側でわざわざ阿波から運ぶバカはいないそw 畿内が水銀の消費地として、三重県の水銀鉱の輸送は陸路かな?
潮岬は海の難所で、当時の海運では通行困難だった
(だから関東勢は九州沖縄に来ておらず、木曽三川-伊勢湾-志摩の国がある種の安全地帯だった) >>746
>だから桜井茶臼山古墳なんて大量の水銀朱が使われていたんだろう。
「桜井茶臼山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw @阿波 ぶっちゃけ「邪馬台」国=「ヤマト」国なんだろ?
当時の邪馬台国は西日本の大部分を治める連合王国だったのだから、九州説も畿内説も「どちらも正しい」というのが正解。 >>746
畿内では桜井茶臼山古墳とあと一箇所くらいしか
水銀でなかったんじゃなかったかな?
福岡は33ヶ所の遺跡に水銀があるんだよね。
そして他の畿内の古墳と違って
桜井茶臼山古墳も副葬品が
北部九州の様式に近いんだよね。 >>752 たぶんそう
ヤマト(ヤマタイ)が土着の古代王権で、
九州のジンムがヤマトを掌握した後、大和王権と呼べる軍事国家が成立した
大陸からしたら災難でしかない
小規模国家しかない日本に、突如、見たことのない軍事大国が成立し、半島南部まで征服したのだから >>751
それは間違いなく願望だろw
それに力関係がヤマトが阿波より上というしょう >>748
>ほぼ九州にしかない花弁型縦穴式住居しかない
それは、九州が蚊帳の外ってことだよ。 ワハハハハは @阿波 時期的には三世紀後半から四世紀にかけては、景行天皇の九州征服な気はする
この時期に、九州のあちこちで一斉に前方後円墳が出来てる
畿内のヤマト政権に飲み込まれたのでは、て感じに見えるんだよな
記紀の記述にある程度の信憑性があるという前提だが 大和や倭をヤマトと読むのは
訓読みができた平安時代中期より
さらにあとの時代だよ。
それ以前は音読みだからヤマトとは読まないし
訓読みにもなってないわけだから。
普通にワ、ダイワ、オオワでしょう。 >>753
根本的に勘違いしてるな。
まず水銀ではなく水銀朱。それに桜井茶臼山古墳以外でも使用されているが、
ダントツに多いのが茶臼山古墳。
黒塚も多いが何より水銀朱だけ納められた古墳がある位だよ。 >>749
>鉱山のすぐ側でわざわざ阿波から運ぶバカはいないそw
なに言ってんの? 若杉山へ畿内から辰砂を求めて来ているよ。 わははははは @阿波 >>756
つまりは九州は阿波や畿内とは別扱いだったて事だな
そして、倭人伝は少なくとも途中までは九州を記述してる
つまりは阿波にハブられた九州に邪馬台国ありって事やな
有り難うw >>757
九州の前方後円墳で
箸墓古墳に代表される定形式前方後円墳は
5世紀以降ですね。
古いタイプの不定形前方後円墳は
三世紀初頭くらいからあるようですが。 >>759
そうそう、水銀朱だけ入れるって変なんだよね。
塗料として使う文化が遺失して
形だけ真似したような古墳ですね。 >>757
言う通り記紀の記載と実際の考古学的な発見の合致する点は多い
指摘の通りの景行天皇の遠征は大和朝廷による九州支配の実態の動きに合致する
この九州に対する記載で注目点は
〇筑前、日向は遠征対象ではなく最初から領土扱い
と言う事
この両地域は邪馬台国成立のごく初期段階から畿内の強い影響下にある場所
大和朝廷=邪馬台国は筑前と日向を拠点として九州に勢力を拡大したと言う考古学的な見地に合致する 泣く子「誰にも負けない!」
地頭「泣く子には負ける」
バカ「逆立ちしても誰にも負けない!」 弥生時代の九州の墓から出る水銀朱に九州産はなく中国産でした
九州説は詰み >>767
九州の最初期の前方後円墳だと
福岡なら
那珂八幡(福岡市で、三世紀半ばから後半。昔は四世紀頭だったが)
博多1号墳(今は無くなった。恐らく三世紀後半)
光正寺古墳(宇美にあり。三世紀後半か)
石塚山古墳(行橋あたり。三世紀末から四世紀?)
大分なら
赤塚古墳(宇佐にあり。三世紀末?)
小熊山古墳(三世紀後半〜四世紀)
宮崎だと
西都原81号墳(西都原古墳群の中の一つ。土器から三世紀半ばになったが、さて実際は?)
生目古墳群(宮崎市。三世紀末〜四世紀?)
辺りになるだろか。まだあったと思う あ、考古学好きのダメなところは、実証主義ってとこだな
そりゃ好きなところ際限なく何時でも何処でも掘れるんなら話は別だが >>764
当時はそれだけ貴重品だっただけの話。
まあだから中国人が奈良を目指したんだよ、
九州ではなくてねw
赤珊瑚を狙ってはるばるやってくるのと変わらないよ。 九州の水銀朱の使用量は多いから
四国や三重の水銀朱も取りに来てたんじゃないかな。
朝鮮半島まで鉄を取りに行くような人たちなので
四国や三重まで取りに行くのは
なんの問題もないでしょう。
阿波に鉄を持って来て、水銀朱を
買ってた可能性もありますね。 九州の朱はぜんぶ中国産だから
九州で朱が取れたとは思えない。 瀬戸内海が政治的理由で通行不能なら、何かかんかの史書に書いてありそうなもんだな >>768
前方後円墳も、古いタイプのものなら
九州に限らず
ほぼ全国にありますからね。
もう全国に広まり終わってたと
判断すべきでしょう。 >>732
木簡とかは溝とかに捨ててあったから残った
洪水で埋まってそのまま地下水に水浸しだと残る >>757
>この時期に、九州のあちこちで一斉に前方後円墳が出来てる
それは、この時期に、九州のあちこちで一斉に「忌部はん」 が進出した証拠だよ。 @阿波 >>775
その通り
「古墳は畿内が最古でなければならない」
と言う思い込みが前提にあるからおかしなことになっている
出現期の古墳は畿内、九州ともにほぼ同時
纏向型と那珂八幡が大体庄内2式の頃の物だと考えられている
九州と言う土地がかなり早い段階から邪馬台国連合の一部に組み込まれている様子が見える
その以前の文化波及の動きから主体は畿内にある
上で書いたように筑前と日向はこの畿内発の動きに最初期から連動している事から畿内勢力の九州進出の足場になっていたことが伺える
これも記紀の景行天皇記の記載に合致しているのが興味深い >>759
その水銀朱はとうぜん、若杉山産。 畿内の古墳出土の水銀朱は、とうぜん若杉山産となる。 @阿波 「古墳は畿内が最古で周りはそこから伝播する」
と言う従来の考え方の結果、年代観に齟齬が出ていた
しかし、実際の共伴する土器の年代と併せて考えれば「畿内と九州の出現はほぼ同時」と考えるのが正しい
その上で弥生時代後期後半から終末期の文化の動きを踏まえて考えると
畿内の勢力が次第に筑前、日向に進出した結果、古墳と言う共通のモニュメントを建設する連合が成立した
と言うのが実態だろう >>778
那珂八幡は庄内式は出ず、布留式の早い時期のが出てる
ただ今は布留式の出現がだいぶ早くなったとされてるので
それに合わせて繰り上がった(だから那珂八幡の説明板は、昔のまま四世紀初頭) >>781
畿内が最古なのは前方後円墳だよ
吉備や出雲の方が古いよ 吉野が畿内なら山科も京都どすえ
熊野も白川郷も東海圏だがや 中国の史書では九州は一大卒と言う中央から地方を支配するための官僚が派遣されている属領であると言う
記紀では九州は神武、景行記ともに筑前、日向を安定した領土として描いている
最初期古墳が福岡に作られていると言う考古学的な発見もこの記載を補強するものとなっている
この事から福岡周辺、そして宮崎周辺は最初期の邪馬台国の時代から畿内の九州進出の足掛かりとして存在していたことが明らかになる >>772
九州の使用量なんて本当にごくごく僅かだよ。
合計しても奈良の古墳で使用される量に及ばない。
面白い逸話が桜井市出雲にある野見宿禰の墓とされていた五輪塔事件というのがある。
明治16年に土地所有者が勝手に破壊してしまうのだが、大量の水銀朱が出たそうだ。
処理に困った所有者がバケツで横の初瀬川に捨てるのだが、三日間川が真っ赤なので新聞沙汰になってたんだよ。 >>785
ただ、一大率が置かれていたとされる伊都国からは
ほぼ同時代の畿内の影響が見られない(庄内式がほぼ出ず、甕棺も独自形式だが細々やってた)
一番古いとされる前方後円墳も三世紀末から四世紀で
微妙に隣の福岡に比べて遅い
記紀だと糸島半島が畿内に服属したのは13代仲哀天皇の時なので
畿内の進出が若干遅れたように見える >>762
>そして、倭人伝は少なくとも途中までは九州を記述してる
倭国(阿波)への途中記述だからね。
「花弁型縦穴式住居」地域は倭国(阿波)へのルート外。 わははははは @阿波 水銀朱の神みたいなものを想像できない
被葬者ありきで考えないと >>768
九州の前方後円墳の水銀朱も「忌部はん」 が持ち込んだ若杉山産。 @阿波 >>774
>瀬戸内海が政治的理由で通行不能なら、何かかんかの史書に書いてありそうなもんだな
政治的理由じゃないよ。
瀬戸内海の潮流と海賊で通交不能な訳だから。 @阿波 >>781
>畿内の勢力が次第に筑前、日向に進出した結果・・・・・
それは、倭国(阿波)の「忌部はん」 勢力だよ。 @阿波 >>774
瀬戸内海の勢力のうち、どれか一つでも服従してなかったら交通不可になるのが瀬戸内海。
しかも潮の流れを知ってるかどうかだから、
小さな勢力が生き残りやすい。
倭国大乱の後であれば通行はかなり難しいと思う。 瀬戸へは普通に鬼退治の伝承で語り継がれているだろう。モデルは吉備津彦で百襲の弟だしな。
まあモモタロウの名前も本来モモソから来たのは充分考えられる話。
そうなると巻向から多量の桃の種が出る意味も
真面目に考えないとな。
ちなみに鍵唐古にかけて初瀬川、大和川周辺でも桃の種は沢山出土してるからな。 漢倭奴国が誰なのか?帥升、卑弥呼すら誰だとも書いていない記紀に、景行の征伐した三匹の土蜘蛛の名だけは書いてある、しかも猿麿とかなんとか、で鏡を奪っている。土蜘蛛が鏡もって何してんだか?九州王朝を滅ぼし、ヤタ鏡を奪っただろ? >>795
吉備の遺跡から、纏向よりも沢山の桃の種でてるからなあ >>798
吉備も纏向も「忌部はん」の入植だからなあ @阿波 九州説って日本の古代史を否定した上でないと成り立たないけど、
こいつらテストで出題されたらどうすんだろうなw
ヤマト王権なんて存在しませんでしたって答えるの?
遣隋使は九州王朝が送ったと答えるの?
ヤマト王権を認める立場の人でも、古墳時代の始まりは4世紀だと答えるの? バカじゃないの、それが天皇制に包まれてるってことだよ。それは仕方ない現実。要はホントはどうだったか?という話。畿内説は仕方ないんだよ、それはよくわかる。辻褄を合わせてるとこ。 >>800
大和王権もあれば
出雲王朝や九州王朝も
あったということですよ。
アメタリシヒコさんが隋に使者を
送ったのは隋書に書かれていますが
それが畿内の厩戸御子さんかは
現状ではわかっていませんね。 奈良盆地のヤマトが日本国のルーツで、
九州のタカマガハラが天皇家のルーツなんだよ
ヤマトをタカマガハラが乗っ取った、と解釈してもいいが、軍閥の政治的婿入りだなw
この事件を機に、瀬戸内海の群雄割拠が一掃され、
既に広域経済が成熟しつつあった西日本は、海外に植民地を持つ軍事国家に脱皮した
それが大和王権だよ 経済の広域化が政治の広域化を後押しした結果だ
そういうわけなので、ヤマトは想像以上に広域化した政体だったと考えられます
宗教的な首都と、政治の首都、そして穀倉地帯 これらは分離していたと考えた方がいい
ですから、邪馬台国が奈良盆地にある必然性は無いのです もっといえば、
ヤマト王権として政治の諸機能が分離する以前は、
奈良の土着勢力のヤマトとして、政治と宗教と産業が集約された、小さな首都があったはずです そう、それなら辻褄があってくるんですよ、土着勢力が奈良にあったというなら、畿内説はそれは言わない。 >>801
このバカいつもいるが何を言いたいかさっぱりわからん
日本語がおかしいから日本人なのか、外国人なのかも不明 >>806
ただ、否定もできんのですよね・・・・・素直に奈良にあったかもしれん; 正直、わからん
だから纏向遺跡は重要なんですよ
あの神殿は、政治と宗教が分離した時代の施設ですよね
なればこそ、寿司の遺物が出ないか、大いに期待するんです
琵琶湖を経由した日本海ルートが、ヤマトが大陸へ朝貢するルートだとすれば、
対馬暖流の食文化である、寿司の痕跡があるはずです
こういう地道な検証が、古代世界の広域経済を立証するはずです
ところで!
大阪名物の『たこやき』の遺物は、遺跡から出るでしょうか?
骨が無い? いやいや、炭化した足先とか、丁寧に調べてみれば、どっかから出るはず!! タコやでぇ?! >>808
古墳時代の「古墳造営前線基地」だよ。 @阿波 九州説ってカルト宗教の信者と同じだよな
学者はバカ、考古学は捏造、教科書はデタラメ
畿内説を裏付ける遺跡や物証は検証もせず一切認めない(あるいは九州説が作った嘘デマを鵜呑み)
魏志倭人伝に不一致だらけで、物証もないが、九州説が正しい
こういうのがこのスレにいるほとんどの九州説のやつらが主張してることだろ >>811
畿内説もドッコイどっこいだよ。 ワハハハハは @阿波 >>800
よくわからんが、学問の世界ではたまにしばしば、既存のパラダイムを全否定することで初めて進歩したってことがあるよな >>811
畿内説を裏付ける物証って何だよwww
桃の種か?桃の種が発見されました!!!で喜ぶのは小学生まで。 まあ奈良盆地に河内南部は今まで思ってた以上に古くから拓けていた可能性が高いんだよ。
それが水田跡からもわかってきたし、橿原の藤原京下にも遺跡や古墳があるのも判ってきたからな。
箸墓のルーツは讃岐や阿波だけじゃなく奈良南部にもあったという事でね。
何より銅鐸と鏡が一緒に埋められていたのは葛城山麓だけなんだからな。鏡も北部九州とそう大差ない時期の物だ。
ここが古くから何らかの権力集中の場所だったのは既に証明されてるだろ。 >>814
要するに畿内説について何も知らないが否定してるってことだな
ただの難癖野郎だと白状してるわけだ 畿内説は、大和朝廷=で物言うだろ、そこに行くまでには、俺はバカだから時間がかかるんだよ、ひとつひとつ辻褄を合わせてくわけ。 >>814
卑弥呼が鬼道使いなら桃の種は重要だろw
道教、もしくはゾロアスター、景教なんでもいいが鬼道に鉄なんて全く必要ないからな。 >>787
伊都国周辺についてはむしろかなり不自然な形で小さな畿内の影響の空白地が作られている
ちょうどこの小さい空白地を取り囲むように色濃く畿内の影響が広まり出現期の前方後円墳が現れる状況から観て、
一大卒に監視されてたったの千戸の領域に押し込められている伊都国王の描写に合致する
この小さい空白以外は福岡周辺は畿内のかなりハッキリした影響下にある様子から伊都国の存在はただの名目としての物でしかなかったと思われる
イトデの物語は形だけ生かされた伊都国が仲哀天皇の頃に完全に併呑されたと言う歴史を示しているのではないかと想像する 卑弥呼の鬼道知ってんの?神道だよ。人には教えないよ。 >>815
まあ奈良盆地に河内南部は弥生後期集落遺跡が無さすぎ。 これでは救いようがないよ、孝霊厨さん。
そして、藤原京下の遺跡は倭国(阿波)が保護した半島人の居留地街だよ。 @阿波 >>820
>卑弥呼の鬼道知ってんの?神道だよ。人には教えないよ。
「忌部はん」 の専売特許だよ。 @阿波 卑弥呼の鬼道が神道なら尚更宮は三輪しかないw
酒のルーツで巫女といえば三輪山周辺なんだからな。
神武がなぜ三輪山に来たかというと神の血をひく娘を嫁にするためなんだからな。 >>821
全く無知にも程があるな、というより奈良に来た事すらないだろw
まあ阿波が重要な場所なのは以前から言ってる話だが100%邪馬台国ではないね、断言していいよ。 >>823
相変わらず、伝承頼りなんだよね、孝霊厨さんは。 軽薄。 畿内説を推すのは最早、無駄。 @阿波 >>824
まあ奈良盆地に河内南部は弥生後期集落遺跡が無さすぎ。 これでは救いようがないよ、孝霊厨さん。 >>821
多いか少ないかで言えば数は多くないだろうな。
その代わりデッカイのが一つと超巨大なのが一つあるやろ?
後、奈良盆地にはマイナーな遺跡がいくつもあるんだが、奈良市内、大和郡山市内の弥生集落の大半が
空想奈良湖によって水没させられてる始末なので、数がないと誤解しやすい。
他人の説には簡単に引っかかってはいけない。 >>827
>その代わりデッカイのが一つと超巨大なのが一つあるやろ?
そこ、笑うとこ? @阿波 >>815
ところが、現代の水田が多い地域には、古代の水田が少ないんだ
理由は、当時の水田が谷戸だったから ヤマト王権の対外的な宗教センターが、邪馬台国だったかもね
大阪湾から上陸した外国使節団が、唐招提寺に宿泊するようなもん
そして、大和王権の外港は大阪湾ではなく、たぶん敦賀あたり
そういうわけで、琵琶湖にヤマト王権の施設があっても、おかしくはないんだよ 広域行政だね >>825
君のコピペしている資料にも私は関わってたぞw
先月も阿波池田から吉野川流域にかけて色々仕事で調査中でね、君の好きな鉱山に忌部についても。
少ない知識と偏った妄想しかしないから矛盾だらけになるんだよ。
まず阿波は弥生前期の時点で葛城地方の半分にも満たない水田跡しか確認出来ない時点で、倭の最大戸数の国という資格がないんだからな。
この点は近江の方が遥かに相応しい位だ。 ぶっちゃけ、奈良の穀物生産量では、大和王権の軍隊を養えない
山を越えた尾張と美濃に多くの谷戸が存在し、兵糧と兵士を供給した
広域経済が拡充する絶妙な時期に、九州の武装集団を率いるジンムは奈良に入り込んだ
国家が機能別に分離するタイミングだったから、九州人の軍事専門家には大きな需要があったのだ
(逆に宗教の専門家は、以後、長く辛酸をなめる;) >>823
九州の武装集団の頭であるジンムは旧ヤマトを破ったが、
いかんせん少数であり、国家を占領する能力は無かったと思う
だから旧ヤマトは、有益な軍事専門家としてジンムを祭り上げたのでしょう
(神輿は軽くてパーが良い)
ジンムが占領を実行したのは、ヤマト正規兵を率いて吉備を攻めた後の時期だと思う
それまでは、有能でこそあれ、野盗の集団でしかなかった まあ伝承はそれ自体を調べるのではなく、何処と共通点があり、何処を改変したか。
元々どの辺りにルーツがあるのかを調べるのが目的だからな。
でも面白いぞ、鏡や遺跡の発掘にヒントになるような事もある。 >>835 ああ、それあるねw
神話の中身は改変が当たり前だけど、誰にどんな食事を出したとかいった、
どうでもいい情報が、物流ルートを知るキーだったりする
(大阪湾では刺身をユズ汁で食べたとかw) 神武東征を史実視するのは不可能
九州→畿内の文化的移動の痕跡はかなり希薄
逆に畿内→九州と言う移動の痕跡はかなりハッキリと出ている
弥生時代後期から終末期にかけて、九州は畿内の影響を受けてそれまでの文化をほぼ消滅に近い形で変容させている
この事から神武東征を史実とみることは出来ず、九州勢力の遠征による邪馬台国の樹立と言う動きも考えられない
そもそも、弥生時代後期後半から九州は、
それまで福岡を中心に北部九州に展開していた勢力が一気に崩壊消滅する動きが出ている
この動きはちょうど倭国大乱の時期に合致する
とても他地域に進出するような状況に無いのが見て取れこれも東征などがなかった事の裏付けとなる >>837
畿内説はバカしかいない
倭国大乱がいつ起きたのかも捏造する 「九州は強大で先進的な地域だったから日本を征服してもおかしくない」
と言う勘違いをしてる人がとても多いが実際はそうではない
九州と言っても弥生時代を通じて一度も統合されず、大きく分けて5個ほどの文化圏に分かれたまま弥生時代を終えている
近い場所でありながら明確な違いを際立たせている状況から九州が勢力としてまとまる事はなかった事が明確に分かる
また九州東部は出雲、瀬戸内海の影響が強く、福岡の勢力は本州に全く進出することが出来ていない
弥生時代を通じても九州の影響力は四国西部にしか及んでいない
そして肝心の邪馬台国の時期には福岡を中心とした勢力は雲散霧消と言った形で崩壊している
とてもではないがはるばる畿内にまで遠征して邪馬台国を建国したなどと言う痕跡は皆無と言う他ない 魏志倭人伝に邪馬台国は帯方郡から一万二千里と書いてある
九州以外は不可能 畿内説は、勝手に広域経済が進んでるとか、飛ばすのよ、卑弥呼は奈良で神武がその後吸収したという話?デカイ祭祀場?卑弥呼は女王になってから姿見せんからデカイ祭祀場なんて必要ないんだよ。 >>841
実際に纏向から色んな地方との交流を物語るものが出てるんだが… >>839
それで九州王朝なんて言ってるんだから笑っちゃうよなぁ
鉄あっても兵力が無いから戦争に勝てないし
土地がないから人口も増やせない >>843
九州は嘘つきばっかよな。噴火で燃え尽きてるから人なんかいるわけないのに「上野原遺跡」なんて大捏造をしてみたり。 >>837
最後がずっこけてるな。
倭国大乱を鎮めたのが卑弥呼なのに。 >>842
奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。 >>683
アホはお前
安曇は>>59の通り弥生時代には既に近江まで到達している
5世紀は長野とかの話 >>854
次期は諸説あるにせよ、どちらにしても天皇の数ある家来の1つにすぎない。
しかもたいして優遇もされてない わあ忌部もおなじで、天皇の数ある家来の一つにすぎない。
忌部だけでも数ある忌部の一つに過ぎない。 たいして有力でもない一氏族をもってきて支配者だというのはいかがなものか?
物部とかだったら分からんでもないが 記録が有るだけでも物部やら蘇我やら藤原やら血統も何度も入れ替わってるからね
記録が無い、あるいは抹消された時代は頻繁に入れ替わっていたのは間違いない >>832
>まず阿波は弥生前期の時点で葛城地方の半分にも満たない水田跡しか確認出来ない時点で、倭の最大戸数の国という資格がないんだからな。
却下!
倭国(阿波)の弥生後期集落群により、「倭の最大戸数の国」が考古学的に証明されている。 畿内や九州などは、足元にも及ばない。 これはれっきとした考古学的事実である。
それで考古調査云々は笑止千万。 @阿波 >>837
>逆に畿内→九州と言う移動の痕跡はかなりハッキリと出ている
間違い!
倭国(阿波)→九州
倭国(阿波)→畿内 だよ。 @阿波 >>842
>実際に纏向から色んな地方との交流を物語るものが出てるんだが…
「忌部はん」 が持ち込んだもの! @阿波 >>857
>たいして有力でもない一氏族をもってきて支配者だというのはいかがなものか?
ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 四国は遺跡の数も少なければ、人口も大していなかった訳だが、それこそ近江よりもずっと僻地だぜ? >>865
初心者は、よく勉強してから投稿するように! @阿波 >>870
日本史板でも相手にされなくて、巣に帰れでスルーされてるけど、説はともかくキャラクターは好きだけどな >>869
>遺跡がたりなさすぎ
碌な遺跡もないのに、よく言うよ。 これ以上、倭国(阿波)の発掘が進んだら、トンデモ説の立場がいよいよなくなるだけ。 わははははは @阿波 >>855
>しかもたいして優遇もされてない
ほらほらまたそうやって嘘をつくw
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12184796813.html
>阿曇族、安曇族
>海神(ワタツミ)である綿津見命を祖とする地祇系氏族。
>安曇、阿曇、阿積、安積、安津見(あつみ、あづみ、あど)
>
>「日本書紀」の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」 邪馬台国前夜だな。
野洲川もあるし、古い縄文遺跡があるし、高天原かも知れない
息長氏という詳細不明の氏族の拠点らしいし、纏向の次に宮を立てたのが近江。 >>839
まるで「堺が天下を統一したはずだ!」みたいな言い分だもんな >>853
出てこなくても問題ないと思うわ。
倭人が初めて「統一国家もどき」を作って「みやこ」を作った。
そこは、いわば「御所」のようなものであり、鉄も剣も必要ない。
たとえば、平城京なり平安京の中の平城宮や平安宮の部分から、あるいは飛鳥板葺きの宮
から大量の武器が出てくるかといえば、そんなことはないだろう。 >>873
阿波はもう少しまともな遺跡の数が揃うまで諦めろ。
まぁ弥生時代の僻地の双璧、北陸と四国はどんだけ発掘が進んでも、数で追いつくことも、追い越すことも無理だけどな。 >>860
少なくとも蘇我や藤原では完全に入れ替わってるし、
もともと母系だったし。 >>829
それは弥生中期までだね。
奈良盆地では弥生中期の時期に広大な水田が見つかっている。
秋津。中西遺跡や奈良市の市役所前とか。
三条遺跡とかもあるが、発掘することは難しい。
水からすれば、盆地の南部のほうが多いだろう。
ある程度「クニ」としてまとまりができ、小規模な用水路など共同事業を率いる王が登場した
時代に水田が増えて人口が増える。
九州はその時点で満杯であり、筑紫平野は川が大きすぎて手が出せない。
淀川支流の中規模の河川の開拓が進む弥生後期は近畿勢がでかくなる時期。
大河の河口近くは仁徳さんの時代にならないと手が出せない。
阿波は、現在の下流の平野はもっと新しい。
アメが降らずに困るか、大洪水かの二択しかない地域では困難。
というか、邪馬台国は談合政権、連立政権であり、首都を置くのはどこでもいいわけだ、
豪族たちに便利な場所であれば良く、開拓が進む東国への交通が便利なほうがよい。
堺はあくまでも「貿易港」として栄えたが「都」だったことは一度もない。 灌漑が進んだ江戸時代でも陸稲が半分以上で弥生期は陸稲が大部分だったのに何言ってんだ? >>833
そんなことを気にする必要はない。
女王を共立した豪族が本貫地から運んでくればいいだけだ。
あくまでも「都」であって、「ヤマト」いうクニが支配したのではない。 >>46
近江は、建物や製鉄、穴太衆のような石垣積みの技術者集団が古くからいた模様。
巨大な銅鐸の生産センターだしな。
原料は?
不思議なことは、魏志が半島に鉄を取りにくる、と書いているが、それに相当する
遺跡は全く見つかっていないことだ。
「鉄を産する」と書かれた場所も、加工した工房あとも製鉄所も。
中国の史書のこの一節だけを根拠に、「すべての文化は朝鮮から」と言っているわけだ。
「鉄が最重要だったに違いない」という決めつけか。
現代の「世界の半導体の過半を握る韓国が世界の中心で先端」と似たような。 >>886
半年南部の鉄鉱石が取れたあたりは任那日本府で倭人が統治していた
魏志倭人伝にも半島南部の狗奴韓国は倭人の国の領土と書いてある 「邪馬台国って国が魏の皇帝から金印もらったらしいよ」
「ほぉ、邪馬台国って凄いんだな」
「「邪馬台国ってかっこよくね」
「邪馬台国って名乗ればハクがつきそうだよな」
こうして日本全国に元邪馬台国とか新邪馬台国とか戸越邪馬台国とか砂町邪馬台国とか溢れかえったのである >>839
結論のもってきかたが唐突
何でそうなる まあスレも進んだし伊勢遺跡に関するネタをひとつ。
日本史スレでも孝霊厨の名前で書いていたが、伊勢遺跡の位置に注目。
サークル状になっているのは有名だが、ちょうど元伊勢、籠神社と伊勢神宮を結ぶちょうど真ん中に存在しているんだよ。
しかも割りと正解に二等分される位置にね。
また南北に見てもなかなか興味深い神社が散見できる。
琵琶湖と富士山、三上山の話といいオカルトネタだけどなかなか面白い。 >>850
うぇやかごいめんおいを近畿っちゆたあいけなんこっけ?
ビンタのうっがれおっとだい。 >>880
>阿波はもう少しまともな遺跡の数が揃うまで諦めろ。
倭国(阿波)の遺跡に足元にも及ばないトンデモが、何をか言わんや。 ワハハハハは @阿波 邪馬台国って岩手県だよ
西限定で二択迫るデマは渡来系が流した 漢の人口が奴隷合わせりゃ既に1億、日本に逃れて来たものが過去どれくらいか?、九州にまず人がながれ、九州から弾きだされ、土着勢力も東に追いやられる、七万なんてちっちゃな範囲。千代田区中央区位ありゃ充分で何処にあってもおかしかない。 >>857
いやそりゃウソつき野郎が言うことだから。 明治維新を神格化したデマと同じ構造
それに引っ掛かったのが多くの日本人なんだけど(汗 >>886
>近江は、建物や製鉄、穴太衆のような石垣積みの技術者集団が古くからいた模様。
それも、忌部一族による、積み石の継承技術だよ。 @阿波 『隋書』
>倭國、・・・・・都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>倭国は、・・・・・都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
『唐会要』
>倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
>北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
>倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼(ヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の三国がある。いずれも倭に従属している。
>北は大海が限界、西北は百済と接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相接する。
>北は大海が限界
>正北は新羅と抵触
この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
なぜなら、近畿から見て、日本海が「北」で新羅が「正北」なわけが無いから。
これは明らかに九州+任那を倭国とした表記である。
またそのほうが耶古、波耶、多尼が倭国の従属国であるという記述とも合致する。
邪馬台国は、
九州。
>>887
>半年南部の鉄鉱石が取れたあたりは任那日本府で倭人が統治していた
そりゃそうだろう。 倭国(阿波)に鍛冶素材を供給していたんだから。 @阿波 九州説も九州パーいるからな。
伊都国が邪馬台国だとか。
筑紫平野以外あるわけが無いだろが荒らしども。
福岡平野は奴国が居るだろ。
邪馬台国は筑紫平野以外考えられるわけが無いだろが荒らしどもが。
>>890
>サークル状になっているのは有名だが、ちょうど元伊勢、籠神社と伊勢神宮を結ぶちょうど真ん中に存在しているんだよ。
>しかも割りと正解に二等分される位置にね。
出たぁ、得意のライン妄想。 @阿波 >>905
>筑紫平野以外あるわけが無いだろが荒らしども。
「其山有丹」で即アウト! ワハハハハは @阿波 魏志倭人伝は、
1. 伊都国基点の放射読みが正しい。
2. 陸行一月は陸行一日の単なる写し間違い。
よって、邪馬台国は伊都国から水行十日陸行一日で、これは筑紫平野のどこか。
>>910
「其山有丹」で即アウト! ワハハハハは @阿波 >>912
核心を突かれたら、荒らしかね? トンデモさん。 まともな反論も出来ないくせに。 @阿波 邪馬台国がどこにあったかの信頼度は
北部九州>>南部九州>>>>滋賀県>>>阿波>奈良
こう言う事だよ >>914
「其山有丹」で即アウト! ワハハハハは @阿波 >>916
よく似てるからじゃないの? 親子でもそう言うでしょ。 @阿波 多賀大社は元々淡路からきたという伝承だし、瀬戸内海勢力との関係は深そうだ
あと、近江は古来渡来系氏族が多い地域。北府九州から瀬戸内海を通ってこの辺りまで到達したのだろう 九州説はエンタメ路線で頑張ればいいと言いたいところだけど、それも難しくなってきた
井沢元彦は以前は九州説だったが畿内説に変えた
古代史にある程度詳しい人なら、邪馬台国論争が畿内説で実質的に決着したことを知ってるから
フィクションの世界であっても、九州説で押し通せる状況ではないことを認識したのだろう
歴史ネタで飯を食ってる作家が素人以下の見識であっては、他の本も売れなくなってしまう >>905
伊都国県主が神功皇后と同じ天日槍だと筑前風土記にはあったので、北部九州から畿内までの渡来系ネットワークが出来ていたのかもしれない >>919
>歴史ネタで飯を食ってる作家が素人以下の見識であっては、他の本も売れなくなってしまう
阿波を知らねば、早晩落ちぶれることだろう。 @阿波 武内宿禰の鎮守社に比定される「矢武八幡神社」は、徳島県板野郡矢武字鏡松に鎮座する。
当神社で注目すべきは、「往古、嵯峨御所から額(扁額か)が寄付された」とする伝承である。
「額は今存せざるも、ご寄付状は存在せり」(名勝案内)とみえ、その文書には「阿波国板野郡矢武村者上古武内大臣為縁由地云々」とあって、
武内宿禰の由縁の地が寄付の理由であったと理解される。
また、名勝案内の「船の本」条(矢武村に西接する大山村西分)には「此地武内宿禰の旧領なればその遺址存せるならむ」とあり、
船の本の聖地に斎田その他を設け、慶事や祭典の折には、村民挙げて奉祭したとされている。
つまり、現在の阿波国上板町大山から板野町矢武一帯は、武内宿禰の領地、または所縁の地であったとする伝承が存在している。 @阿波 >>919
九州説はリアルでは歴史作家にさえ見捨てられて
ネットの中だけで細々と生き残るしかない >>925
板野一帯もすごいところ。
鳴門・板野古墳群について 「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳 池谷宝幢寺古墳(県史跡) 天河別神社古墳群(6基・県史跡) 萩原1号墓(消滅)・2号墓 大代古墳(県史跡) 板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする
摂津・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。
板野・鳴門古墳群
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm 本命北部九州
対抗南部九州
穴奈良
大穴三重
注目滋賀
無印徳島 卑弥呼をアマテラスとし殺された奈良の女王巫女とするのは、じゃあちょっと前の漢倭奴国の王は、太陽神なのか?って話で卑弥呼がアマテラスとは後付けの話だろ、中国系に太陽信仰なんて無いだろうし信じたかねえ?そもそも共立も利益から生まれるもんだろ >>913
伊勢遺跡のスレでアワアワ言ってる君に言われる筋合いはないねw >>930
「東西交流拠点、伊勢遺跡から推定 可能性低いが、町おこしに活用」
このスレが伊勢遺跡のスレ? 馬鹿にされてるんじゃないの? ワハハハハは @阿波 >>929
そもそも太陽信仰というものがあったという記録は無いし、古墳の向きがバラバラなのがそんなもの無かった事を物語ってる。 >>928
それ根拠あんの?
九州説信者の願望で作った予想だろ わかってるのは東征はないことぐらいだな。
出雲も吉備もピンピンしてるから >>932
伊勢は明らかに太陽信仰だよ
二見が浦から夏至に富士山から太陽が昇るよ
あきらかに富士山と太陽を信仰してる。 >>929
天皇自体が北極星であり、太陽とは無関係
天皇を自称した時点で太陽信仰は無いと判る >>935
>二見が浦から夏至に富士山から太陽が昇るよ
孝霊厨さん、あたま、だいじょうぶ? @阿波 倭国30国連合の総称が邪馬台国
だからいくら探してもねんだわ >>937
すまんちょっと文章がおかしかった
二見が浦から見ると夏至の日の出位置がちょうど富士山から上るという意味 猿田彦は海と国を照らしてた
伊勢津彦も光り輝きながら東国にさっていった。
この辺太陽神格だよ >>939
いや、だから、孝霊厨さん、あたま、だいじょうぶ? @阿波 >>941
すまん
もうちょい素人にも分かりやすい言葉で説明してもらえないか? >>939
こういう人が遺跡発掘に関わってていいの? なんか、すごい偏見でものを見るから、客観的な判断できるのかね。 もう、現役でないことが幸い。 @阿波 >>942
太陽信仰がどうたらこうたら、それで邪馬台国と何の関係があるのかって話。 @阿波 >>946
スレの流れが太陽神の話題になったからレスしただけだよ >>916
畿内説ら憎いっつーか存在しないwwwwww むしろ太陽神じゃないのはオオヒルメだよ
オオヒルメは巫女だよ >>926
涙拭けよ否定証明済みの近畿パーwwww >>950
なんでだよ
内宮とか冬至に鳥居から太陽が昇るように設計されてんだぞ 弥生時代と飛鳥時代の宗教が同じかどうかもわからんし
太陽信仰云々はあんまり意味ないだろ >>924
武内だろ。あの応神の父親の。
おっと誰も来ないぞ。 >>955
まあもともとは外宮が太陽で、内宮が月みたいだけどな
昔の地図でいくと >>924
第73世の無茶苦茶ムッちゃんは九州から近畿へ遷都説派だよ >>933
畿内説は否定証明完了済みだよガンボー近畿パーwww 考えたら強い武将とかすごい商人とか、みんな近江辺りの出身だよな(´・ω・`)
卑弥呼がこのあたりの出身だとしても不思議はないわ >>952
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。
御祭神は大日?女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)です。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われています。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日?女命」=「天照大神」 @阿波
「八倉比賣神社」
https://bqspot.com/shikoku/tokushima/569
http://kamnavi.jp/en/awa/yakura.htm ここまでのまとめ
1. 畿内説は否定し尽くされた。可能性は無い。ゼロ。
小保方擁護みたいなキチガイが畿内説を言っているだけ。
2. 東征も東遷も無い。纒向で考古学的に否定された。
>>965
どっちにしてもあんまり強いってイメージないけど >>966
それはその通りだろうね
だから巨大遺構があったからと無理矢理邪馬台国に結び付けなければいいと思う >>968
そして、西日本一帯にかけての連合とか、共立とか、そんな壮大な妄想をいだかないことだね。 現実はちっちゃい話なんだよ。 @阿波 >>969
縄文時代から日本国中ものが流通してたのに、そんなちっちゃい話なわけないじゃん >>970
縄文時代から日本国中ものが流通してたのは事実だが、だからといって西日本一帯にかけての連合とか、共立とか、そんな壮大な妄想をいだかないことだね。
縄文時代から日本国中にものを流通させていたのが、「忌部はん」 だというだけの話。 @阿波 >>974
おまいだって仕事中に遊んでんじゃねーよ! 明治維新も東征みたいなもんか
歴史は繰り返す
そのうち元寇みたいなのも繰り返すかな 無職は無職でもそこらのニートと一緒にすんなよ
会社首になった立派な無職だわい >>977
全く関係ない
低レベルの畿内説の学者が竹と桃を勘違いしたことから畿内説では桃だけが魏志倭人伝との接点と妄想している 纏向が邪馬台国を主張する理由といえば桃の種とカエルの骨と馬の鐙が濠の地中から見つかったこととオンドル跡
全て邪馬台国と全く関係ない >>981
まじで纏向遺跡からオンドル跡でたの? @阿波 >>977
・桃を畿内説の根拠にしてる学者はいない
・桃を年代測定の試料として使っている
・桃が祭祀でどう使われたかを推測して述べている学者はいる
・九州説のやつらが勝手に勘違いして、畿内説が桃を根拠にしてると思い込み、頓珍漢なイチャモンをつけている >>982
出てないよ
オンドルが出たのは奈良盆地の別の場所
ちなみにオンドルは福岡でも出てる >>954
たまたまそうなったと考えるのが理系。
きっとそうに違いないと考えるのがラノベ系。 桃の種で終止符!!
↓
そんな学者はいない ←イマココ
↓
騙される方が悪い 常識的に考えろよ 桃の種は卑弥呼の年代!!
↓
関係ないだろ
↓
九州説のやつらが言い出したこと←イマココ >>977 >>987 >>988
こいつ救いようがないバカだろ >>980>>981
こいつも相変わらずデマ流してるな
宇佐厨だろう >>808
大阪じゃないけど、瀬戸内海東部(明石あたり)では、弥生時代から
蛸壺漁がおこなわれていたらしいぞ(土器製の蛸壺が出土する)。
蛸壺漁の発祥の地は日本とイタリアで、それぞれ独自に始まったらしい。
ちょっとイタリア人に親近感がわくよねw >>987
これは確かに言ってたからな
畿内説の人は反省してほしい 畿内説は土器による編年基準の決め方がおかしい。
そもそもその土器自体の制作時期は未計測なんだし。 >>986
理系は富士山から太陽が昇るのもたまたまなんだ
そんなことが重なる確率考えてみろよ 甘南備山というのは三角山で特定の日に太陽が登ったり沈んだりする山だと思うよ。
特定の日とは夏至、冬至、春分、秋分
それを観測する場所も特別となる。 >>995
その鳥居が日の出の方向に向いているのなら意図を想定しても
良い気がするけど、そうじゃないもんなあ。 このスレッドは1000を超えました。
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