富田朝彦は中曽根康弘と同じく東京帝国大学卒業の海軍主計大尉であり、戦場を経験しないまま終戦を迎え、戦後は警察官僚を経て宮内庁長官まで登り詰め、経歴無傷のエリート官僚の地位を全うした

富田宮内庁次官就任の前年、昭和48年に増原惠吉防衛庁長官が当面の防衛問題を内奏した際、昭和天皇が「近隣諸国に比べ自衛力が大きいとは思えない。国の守りは大事なのでしっかりやってほしい」と仰せられた。

これを天皇政治利用として朝日新聞、毎日新聞、社会党などの反日勢力が猛攻撃し、増原防衛庁長官は辞任に追い込まれた

これに味を占めた朝日や毎日、社会党などの反日勢力が、靖國神社は政教分離の憲法違反などと騒ぎ立て、保身政治家の権化である三木武夫が私的参拝などとの給ったせいで、その年の昭和50年から昭和天皇が靖國神社に行幸出来なくなってしまったのである
 
宮内庁現場トップの富田朝彦が己を省みず、皇室の藩屏として断固反日勢力と戦っていれば、靖國神社に対する反日勢力の意味不明な因縁など粉砕する事が出来たのである

そもそも、A級戦犯合祀が判明したのは、昭和天皇が行幸されなくなった3年後の昭和53年であり、靖國神社への行幸中断とA級戦犯合祀は全く関係ない

富田メモなるものにA級戦犯合祀のせいで参拝しないなどの記述があるとされるが、そもそも前述の様に時系列が出鱈目である。
このメモが本物であるとの根拠としているのは、属国憲法賛美の左翼半藤一利と百人切り競争を喧伝し、東京裁判史観肯定派の秦郁彦の直感となっている
科学的証拠実証は何らなされていない

このメモを富田朝彦の親族が流出させたが、息子は中東研究の新左翼系学者で孫は中核派の極左活動家である

富田朝彦は完全無欠のエリート官僚経歴を守るため、昭和天皇の行幸中断時に宮内庁現場トップであった自身の責任回避のために、行幸中断の原因をA級戦犯に押しつけるアリバイ工作として崩御直前の昭和天皇のお言葉を抜き出しし、事実を捏造したのである

昭和天皇を守る為、天皇陛下に一切の責任はなく開戦の全責任は自分にあると宣言し、敵国にA級戦犯なる汚名を着せられ見せしめとして死んでいった東條英機大将ら昭和殉難者を貶めることなど断じて許されるはずがない